2001/5/3
適
13・5・3
「適」は「かなう」という意味が当てはまる。これは、「啇」が帝の口を意味し、帝の口から出た言葉は実行に移されるからである。「帝」は『漢語林』によれば、甲骨文では木を組んで締めた形の、神を祭る台の象形であり、天の神の意味から天下を治める帝という意味を表す。金文では「啇」に「口」が加えられて「啻」となり「啻(シ)」は中心の一点に寄るという意味を持つ。篆文ではさらに「辶」が加えられて行為の伴う漢字となり、ある事柄が目的とする一点に寄っていく、かなうの意味を表す。とある。
現在は、民主主義の世の中になって、本来の意味での帝がいないため、ひとりの人間の言葉が直ちに実行に移されることはない。日本には天皇が存在するが、現在の天皇は直接政治に関わることはなく、儀礼的にのみ参加を認められている。
総理大臣でさえ、議会を通さなければ実行に移すことはできないので、想ったことを想った通りには進められないのである。では、世界中のどこに「帝(シ)」を行っている者がいるであろうか。おそらくは、何処にも居ないだろうと想われる。
カトリックのバチカンの教皇でも、神の声を聞いて行動しているとは想えないし、イギリスの王も、アメリカの大統領も、天の声を聞いて政治をするのではなく、人間の考えだけで政治を行っている。世界中で、天の儀に適っている者は誰も居ないのである。
日本では、神功皇后を最後に、神の声を聞いて政治(まつりごと)を行った天皇は居ないようだ。正式には、神武天皇が神の命を受け、政治を行っているので、このときが「啻+辶=適」が行われたと言えるだろう。其れから現在まで2661年が経過している。その間、660年のサイクルで、天が動いた形跡がある。
崇神天皇(1年)、天智天皇(667年)、後醍醐天皇(1333年)などである。崇神天皇と、天智天皇は自分の政治を行うことが適ったが、後醍醐天皇は足利尊氏の叛乱に遭い失脚したため、自分の想いが適ったとは言い難い。
その後、667年間、政治は天皇の手には返っていない。明治維新に因って攘夷が行われても、其れは官軍となった旧薩長連合が幕府に取って代わっただけであり、天皇直接の政治(まつりごと)とは言えない。
昭和天皇は、第二次世界戦争の出来事で苦しんだようで、平成元年1月7日の夜私の心臓に飛び込んで来た。そして2月24日大葬の日の未明姿を表し、「我が身すでに遠く、良き世を願い奉る」と私に告げた。昭和天皇も、自分の意が適っていなかったのであろう。やはり、天皇は天皇の霊である。
天皇の御霊は、自分の栄華を極めるためではなく、国民の幸福を願って日夜精進する霊の系統である。その役目が実行できないで、私にその役目を助けるように行って来たのだ。
私には、自分の願いが他に有ったはずなのだが、天皇の霊のせいか、今では日本の国のこと、世界の人類と地球環境のこと等それらの事しか頭にはない。私の願いは、天皇の国を思う願いにすり替わってしまったのである。
代々の天皇の願いが適うことが、私の願いも適うことになるのだ。
平成13年5月3日 憲法記念日
礒 邉 自 適

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