中国へ行くつもり。香港と中国の境を流れるシャム・チュン河に架かるルフ橋を徒歩で渡って。それから暫く中国にいて、中国と香港の境を流れるシャム・チュン河に架かるルフ橋を歩いて渡って。五つの変数。
ルフ橋
シャム・チュン河
香港
中国
布製の縁なし帽子他に可能な順列は?中国へはまだ行ったことがない。いつだって中国へ行きたかった。いつだって。*この旅行は憧れの熱を鎮めることになるかしら?
問/ [間] 中国へ行く熱い憧れ、って意味?
答/あらゆる憧れを、ってこと。そう。「憧憬」の考古学。だけどそれが私の人生のすべてなの!慌てないで。「告白は無なり。知識こそすべてなり。」・・・これは引用。でも誰の言葉かは言わないでおくわ。ヒント。
…作家
…賢者
…オーストリア人(あるいはウィーンのユダヤ人)
…亡命者
…没年一九五一年、アメリカに死す
告白こそ私、知識は他人のもの。
発想の考古学。
駄洒落は許してくれる?
この旅行を発想したのはずいぶん昔。
最初に思いついたのはいつかしら?記憶している限り遡ると・・・
…ニューヨーク生まれで(アメリカの)どこかで育った私だけど、中国で懐胎された可能性を調べてみてもいい。
…M.に手紙を書けば。
…電話でもいいかしら?出生以前からの中国との繋がり。
たぶん、なにかの食べ物。でもM.がじっさい中華料理を好きって言っていたのは覚えていない。
…彼女は総帥主催の宴会でナプキンに百年もののピータンをまるごと吐き出した、とか言ってなかったかしら?それは血まみれの薄膜から浸み出してくるようなものだったわ、どっちにしても。ミルナ・ロイ・チャイナ、トウーランドット・チャイナ。麗しの、ウェルズレー出身の百万長者スン姉妹と、彼女たちのメソジスト信者のご亭主。翡翠、チーク、竹、それに揚げソーセージのホットドッグ。宣教師たち、外国の軍隊の軍師たち。ゴビ砂漠の毛皮貿易商たち。彼らの中に混じって、若い日のパパの姿。記憶の中の大広間に散見される中国様式の装飾(私が6歳の時引っ越しでそこを離れた)。ふくよかな象牙と薔薇水晶製の象たちのパレード、金箔塗りの木製箱に入った上質紙の絵巻物、桃色の絹でぴんと張られた巨大なランプ傘のもとで凝固しているでっぷり太った仏陀。哀れみ深い仏陀
…白磁製のスリムな。
…中国芸術史家はガラス磁器と古代磁器を識別する。そして植民地主義者たちは収集する。持ち帰られた戦利品は、見たこともない本当の中国の家の他の居間を飾るために置き去りにされた。あまり目立たない、くすんだオブジェたち。疑わしい風合い(今の私には理解できるけれど)。人を戸惑わせる誘惑。緑の翡翠玉を五つほど数珠つなぎにした金の留め具付きブレスレットの誕生祝・・・私はけっして身につけようとはしなかった。
…翡翠の色。緑、満艦飾、くっきりしたエメラルド・グリーンと青緑色 白グレー黄色 茶色っぽい 赤みがかった他の数色
ある確信。中国が誘い水になって、初めて嘘をついたのだ。小学校に入学したばかりの頃、クラスメートに自分が中国生まれだと語って聞かせた。彼らは強烈な印象をうけたにちがいないわ。自分が中国生まれでないことは私自身が知っている。私が中国へ行きたい四つの理由。
物質性
形式性
効率性
究極性
世界最古の邦。中国語を学ぶには積年の根気強い学習が必要。サイエンス・フィクション的国家。そこでは万民が同じ声で話す。万民の毛沢東化。中国へ行きたがっている人の声は誰の声?ひとりの子供の声。六歳未満の。中国へ行くのって月へ行くみたいなもの?いつ戻ってくるかあなたに言っておくわ。中国へ行くのってもう一度誕生し直すみたいなもの?中国で懐胎されたことは忘れて。*私の父母だけでなく、リチャードとパット・ニクソンも私より前に中国へ行っている。マルコ・ポーロやマッテオ・リッチやリュミエール兄弟(それともどちらかひとり)、ティヤール・ド・シャルダン、パール・バック、ポール・クローデル、あるいはノーマン・ベチューンのことじゃなくって。ヘンリー・ルースは中国生まれ。彼らの誰もがそこからの帰還を夢見た。
…M.は中国に接近するためにカリフォルニアからハワイへ引っ越したのかしら?
一九三九年に彼女が幸せを求めて帰ってきた時、よく言っていた。「中国では子供たちは話さないの。」そして、こうも言っていた。中国では食卓でゲップをするのは食事への感謝を示す行儀だけれど、あなたがそれを真似ていいってわけじゃないの、って。
家の外では私が捏造した中国像はまことしやかに受け取られたわ。私が学校で自分が中国生まれだって言うとき自分が嘘をついているって自覚していたけど、嘘がどんどん大きく膨らんでいくにつれて、私の嘘は罪のないものになった。大きな嘘をついていくうちに、私の嘘はある種の真実になった。重要なことは、私の嘘によって、クラスメートたちが地球上のどこかに中国が実在するってことを確信するようになったこと。私が初めて嘘をついたのは、私が学校で自分が片親のいない孤児だって宣言したのよりも後、それとも前だったかしら?
…それは本当の事だったわ。私はいつも考えたものだ。中国って誰もが行ける距離にあるのだって。
…それも嘘じゃないわね。十歳の時、裏庭に穴をひとつ掘った。六フィート掘り下げるごとに手を休めた。「どうしようっていうの?」ってメイドが訊いたわ。「中国に着くまで掘り下げるつもり?」って。そうじゃないの。私はただ腰を下ろす場所が欲しかっただけ。私は穴の上に八フィートほどの厚板を差し架けた。砂漠の太陽がじりじり照りつけていた。当時私たちが棲んでいた家は、街はずれの埃っぽい道沿いに立った4部屋ばかりの白塗のバンガローだった。象牙と石英の象たちは競売にかけられて、もうそこにはなかった。
…私の隠れ家
…私の独房
…私の学習
…私の墓碑
そう、私は中国に届くまで掘り続けたかったの。そして地球のあちら側に飛び出て自分の頭の上に足を乗せて立ち、自分の手のひらの上を歩きたかった。ある日大家がジープで家の傍らを通りがけに、M.に向かって危険だから二四時間以内に穴を埋めるように命じたわ。夜中に庭を横切る誰かが落ちるかも知れないって。私は彼に穴の入り口を覆った厚い硬板を見せてその安全性を示そうとした。ただ私が辛うじて通れるか通れないかの北側の一角を除いては。
…でもだからって、誰が夜中に庭を横切るっていうの?コヨーテ?道に迷ったインディアン?結核と喘息病みの隣人?それとも怒った大家さんそのひと?穴の中の東側の壁を掻き削って隙間をこしらえ、そこに蝋燭を置いた。私は穴底に腰を下ろした。板の割れ目から土がこぼれおちて口に入った。中は読書をするには暗すぎた。
…穴に飛び降りる時、穴底に丸まった蛇や毒トカゲの上に着地するなんてことは少しも心配しなかった。私は穴を埋めた。メイドに手伝ってもらって。それから三か月して、もう一度穴を掘った。今度は楽に掘れた。土が軟らかくなっていたから。トム・ソーヤーが壁にのろを塗った伝を覚えていたので通りの向こうの男の子たちを三人ばかり動員して手伝ってもらった。私が穴を使っていない時には彼らにも坐らせてあげることを条件に。南西部。私の砂漠の中の少女期。不安定で、乾いていて、暑かった、少女期。私は次のような中国にまつわる等価物について想いを巡らせる。
東 南 中央 西 北
木 炎 土 金属 水
青緑色 赤 黄 白 黒
春 夏 晩夏 秋 冬
緑 赤 初秋 白 黒
龍 鳥 ×× 虎 亀
怒り 歓び 共感 悲嘆 怖れ
私は真ん中にいたい。中央は土、黄色であり、晩夏から初秋にかけて、それは持続される。そこには鳥も、動物もいない。共感だけがある。
中国政府に招待され、私は中国へ行く。どうして誰もが中国が好きなのか?誰もが、よ。中国製の物。
中華料理
中国風の洗濯屋
中国の亀甲
中国は外国人にとっては確かに巨大すぎて理解し難い。でも、場所というものはそういうものじゃないかしら。私は「革命」(文化大革命)について尋ねようとは思わないが、辛抱の意義は掴みたいと思う。そして残酷性について。それから西洋の際限のない臆測について。一八六〇年にアングロ=フレンチを北京征服に導いた士官たちはトランクいっぱいに中国風民芸品といつか文民あるいは目利きの鑑定家として中国に戻ってくる夢を満載してヨーロッパに凱旋帰国した。
…夏の宮殿、ヴィクトル・ユゴーの「アジアの大伽藍」、略奪され火をかけられた。
…中国のゴルディウス。
中国人の辛抱強さ。誰が誰を同化しているの?私のパパが初めて中国へ行ったのは、
十六歳の時。M. は24歳だったと思う。私は今でも、父親が長旅から家に帰ってくる映画のシーンを観るとどうしようもなく泣けてしまう。父親が子供を強く抱きしめる瞬間のシーンでは、特に。私が初めて自分で中国製の物を手に入れたのは一九六八年、ハノイでだった。
ゴム製の靴底に”Made in Chaina”と型押ししてある一足の緑と白のキャンバス・スニーカー。一九六八年四月にプノンペンで人力車に揺られている時、私は一九三一年に天津で撮られたパパの形見の写真のことを思い出していた。
彼は嬉しそうで、まだ少年の面影を宿し、恥ずかしがり屋さんに見えた。
彼はカメラをじっと覗き込んでいる。わが家族史への旅路。私が教えられたこと、それは中国人は欧米からの旅行者が戦前の中国と関わりがあったと知ると嬉しがる、ということだった。これには異議あり。私の両親は誤った側についていたのよ。愛想のよい、洗練された中国人なら、だけど当時中国在住の外国人たちは一人残らず誤った側についていた訳だし、と応えるでしょう。
La Condition Humaine( 人間的環境、人間の条件)というフランス語が、「人間の運命(Man's Fate)」と訳されてしまう英語。信用できない。私はいつだって百年モノの卵が好きだ。(それはガチョウの卵で、だいたい2年もの。微妙な緑色と半透明のチーズ状の黒に変色するのには時間が要る。…私はいつだって卵が百年モノだったらなあ、と空想してみる。どんな突然変異が卵に起こるか、想像してごらん。)ニューヨークやサンフランシスコのレストランでよく一人前注文してみる。給仕たちが不自由な英語で私が自分の注文したものがどんなものなのかをちゃんと理解しているかどうかを探ろうとする。私はちゃんと知っているわと彼らに合図する。給仕たちは立ち去る。注文したものが出てくると、会席している友人にどんなにそれが美味しいかを説明する。でも結局、切り分けた卵の残りすべては私のところへまわって来ることになる。皆この料理の見栄えが気色悪いと感じていることに私は気付くことになる。
問/デビッドは卵を試さなかったの、一度ならず?
答/試したわ。私をよろこばせるためにね。
聖地巡礼の旅。私は生地に帰ろうとしているのじゃない、私が懐胎された場所へ帰ろうとしているの。四歳の頃、パパのパートナーだった陳さんが箸の使い方を教えてくれた。陳さんの最初で最後のアメリカ旅行の時だった。陳さんは私が中国人に見えると言った。中華料理中国式拷問中国人の礼儀作法M.は頷くように私を眺めた。それから皆で汽船に乗って中国へ帰った。中国とは私にとって、目的、オブジェだった。そして、存在しないものだった。M.は未亡人の女帝の法廷で待機中の婦人が所有するローブを持っていると言っていた。カラシ金色の溶けてしまいそうな絹のローブ。修行と、寡黙。あの頃皆は中国で何をしていたのかしら?私の両親はイギリス租界地の中でグレート・ギャッビーとデイジーを演じていた。毛沢東は数千マイルを内陸に向かって行軍、行軍、行軍、行軍、また行軍中。都市部では、数百万人にのぼる栄養失調の苦力たちが阿片をふかし、人力車を引っ張り、歩道で立ち小便をし、外国人たちに押し退けられ、蠅に悩まされていた。私が五歳の時に想像していたのとそっくりに、住所不定の青白い「白系ロシア人」たちがサモワールを囲んで居眠りしていた。唸りをあげるクルップ砲の鉛の弾丸をよけようと重い革製のグローブを構えるボクサーたちの姿を私は想像した。彼らの惨敗はみえている。百科事典に収められた一枚の写真を視ている私。キャプションは、「一八九九年、香港。拷問されたボクサーたちの亡骸とともに写された西洋人の一団の記念写真」と読める。前景には斬首された中国人の遺体がいちれつに並べられ、それぞれの頭部は胴体から切り離されて少し離れた場所まで転がり、どの胴体と首が繋がるのかがわからない。七人の白人が遺体の向こう立ってカメラに向かってポーズをとっている。そのうち二人はサファリ帽を被り、三人目は右側に帽子を抱えもっている。彼らの背後には浅瀬が流れ、サンパンと呼ばれる木造の平底船が浮いている。写真の左手には村落のはずれが写っており、背景にはうっすらと雪をかぶった山々が連なっている。
…男たちは微笑んでいる。
…この写真を撮影したのは、もちろん八人目の西洋人、彼らの友人だろう。
上海、お香と、火薬と、馬糞の匂い。ある合衆国議員(ミズーリ州出身)の今世紀の折り返し年の頃の言葉。「神の御力をかりて、上海をカンザス・シティ並みに躍進させましょう。」一九三〇年代に、天津に侵攻した日本軍兵士が銃剣で野牛の内臓をえぐり、その呻き声が街に響いた。喧騒の街の外では、あちこちに青山の中腹にうずくまる賢者たち。優美な地形がひとりひとりの賢者を孤立させている。彼らはみな老いているが全員が白髭を蓄えられるほど毛深いわけではない。将軍たち、地主たち。清朝の官吏たち、内妻たち。旧中国の専門家たち。華僑たち。絵という言葉。影の劇場。アジアを吹き荒れる嵐。
私は英知に魅かれる。そして、壁にも。それらの両方で世界に冠たる、中国。
万物百科事典(一九六八年パリ刊、第四巻、三〇六頁)の「中国への入国」より。
「会話では、中国伝来の論理展開の方法によって、前の話し手の言葉によって喚起された短い決まり文句を必ず継承することがよしとされる。」
無数の引用によって生きられる人生。中国で、引用の芸術は頂点に達する。あらゆる職務におけるガイド。
中国にひとりの女性がいる。彼女は29歳。左脚の上に接がれた彼女の右足。彼女の名はツイ・ウェン・シー。一九七二年一月に起こった列車事故が彼女にこうした災厄をもたらした。この左脚と右足の接続という手術は北京で執行された。人民日報によれば、「毛主席のプロレタリア路線における健康問題に関するガイドラインのもと、また、進歩する外科医療技術のおかげで・・・」とある。
…新聞記事はなぜ外科医たちが彼女の左足を彼女の左脚部に接続しなかったのかについて説明する。彼女の左足は潰れ、右足は損傷していなかったから、と。
…読者は記事への信頼を求められてはいない。
これは外科医療の奇蹟なんかじゃない。私はツイ・ウェン・シーの写真を見つめている。白いクロスで覆われたテーブルの上で直立させられ、微笑みながら、両手で湾曲した左脚を握り締めている。彼女の右足はとてつもなく肥大している。蝿がまるでいなくなった。蝿掃討運動で20年前に抹殺されたのだ。自己批判の後に農村での再教育をうけた知識人たちが上海や北京、広東で復職している。英知はより単純で、実務的なものになった。より平板で現実的なものに。山の洞窟で白んでいく賢者たちの骨。都市は清潔になった。人々は口々に真理を語ることに熱をあげている。纏足から解放されて脚が長くなった女性たちは井戸端会議を開き、男どもについて「辛辣に語り」始める。子供たちは帝国主義者にまつわるお伽話を朗読し、兵士は選挙で士官たちを解雇する。少数民族が自分たちの民族性によって生きることは限定されている。周恩来は相変わらず凛として美しいが、毛沢東はいまやあのランプ傘の下の太った仏陀にそっくりだ。人々は皆おとなしくなった。
自分が死ぬ前に、二〇世紀中に自らに課した三つの事。
…マッターホルンへの登頂
…チェンバロの習得
…中国語の学習
マッターホルンへの登頂にはまだ遅くはない。(毛沢東だって賢老の教師ぶって揚子江を十一マイルも泳いだのだから?)興奮しやすい私の肺は十代の頃より丈夫になっているし。リチャード・マロリーは永遠に姿をくらました。分厚い群雲の彼方に、その頂点に近づくのが目撃されたのを最期に。私のパパは、結核にかかって、中国から二度と還ってこなかった。いつか自分が中国へ行くことを私は疑わない。アメリカ人がひとりで中国へ行くことが難しくなるか、あるいは不可能になっても。
…確信があるから、中国行きを私の三つのプロジェクトの中には入れない。
デビッドは私のパパの指輪をしている。その指輪は、黒い絹糸でパパのイニシャルが刺繍された白いシルクのスカーフや、内側に小さな金文字でパパの名前が刻印された豚皮の財布とともに、私が持っているパパの数少ない形見のひとつ。私は彼の筆跡やサインさえ知らない。指輪についた平印章にもパパのイニシャルがある。
…驚くことに、指輪はデビッドの指にお誂え。八つの変数。
人力車
私の息子
私のパパ
パパの指輪
死
中国
オプティミズム
藍色の布製人民服
ここでの順列の数は印象的だ。叙事詩的で悲痛、そして四声。他にも写真が数枚ある。ぜんぶ私の誕生前に撮られたもの。人力車の上や、駱駝の背中、船の甲板の上、立ち入り禁止の街の近くで。単独で。愛人といっしょに。M.といっしょのものや、陳さんと白ロシア人の二人のパートナーといっしょのもある。視えないパパの面影を抱えているのって憂鬱なことよ。
…デビッドには視えないお父さんはいないの?
…あるわ。
でもデビッドのパパは死んだままの少年じゃない。私のパパは若返り続けているの。(パパがどこに埋葬されているかも知らない。ママは忘れたって言ってる。)際限なく続く中国人の微笑みの中に迷いこむ終わることのない痛み。
世界でいちばん異国的な場所。中国は私が行くことのできる場所ではなく、行くことを決心した場所。両親は私を中国へ連れて行かないと決めた。私は政府に招かれるまで待たなければならなかった。
…もうひとつの政府。そうこうするうちに、私は待ち続け、お下げ髪の中国、蒋介石の中国、数えきれないほど多くの人々で溢れる中国は、オプティミズムや明るい未来の、数えきれないほど多くの人々の、藍色の布製人民服や人民帽の中国に接がれていた。発想=懐胎、発想=懐胎以前。この旅行について、事前にどんな発想を抱けるのか?政治への理解を深めるための旅?
…「文化大革命の定義に関する覚書」?そう。でも当て推量に基づき、誤解によって活気づけられた理解、ね。私には中国語がわからないから。私はすでにパパが亡くなった年齢より六歳も歳をとっているけど、まだマッターホルンにも登っていないし、ハープシコードの演奏も中国語もモノにできていない。個人的な悲しみを癒すための旅?だとすれば、片意地になってでも実現しなければね。私は悲しむことをやめたいのだから。死は待ってくれないし、妥協もしてくれない、そして同化もできない。誰が誰を同化する?「なにびとも死は免れない。だが死とは多義的である。古の中国人作家・司馬遷は『死は万人に平等に訪れ、死は泰山よりも重くひとすじの羽毛よりも軽い。』と言った。」
…これは【毛沢東主席引用集】からの引用のすべてじゃないけど、今の私に必要なすべて。
…毛沢東からの要約された引用の中にさえ引用が含まれていることに注意すべきよ。
…引用中の省略されている最終節は重い死の方が軽い死よりも望ましいってことをはっきりさせているわ。パパの死はあまりに遠い。パパの死地を訪れることで私はパパの死を壮重なものにするの。自分でパパを埋葬したいのよ。私は私自身以外のある場所を巡りたいわけ。未来に向かうか過去へ向かうかなんて、始めから決めてかからなくったっていいの。中国人が他と異なる点は、過去と未来の双方に生きていること。ある仮説。とってもめざましく独立した個人はどこか他の時代の住人のようにみえるってことがあるわ(過去のどの時代でも、あるいは未来でも)。どこか例外的なところのある人って、完全に同時代の人にはみえないものよ。同時代の人々なんてまるで眼には映らないもの。透明人間みたいに。モラリズムは過去の遺産なのに、それが未来という領域まで仕切っている。私たちにとっては迷惑な話。抜け目のなさ、皮肉、幻滅。現在という時間はまったく渡るのが困難な架け橋よね。空虚で不可視な存在に陥らないためには、なんてたくさんの旅が必要なのかしら。
「グレート・ギャツビー」の二頁目。「去年の秋に極東から帰ってきたばかりの時、世界中が単一な制服を着て、永遠にある種の道徳の虜になればいいのにと考えた。ぼくはもはや、人間の心の深奥を特権的なまなざしで覗き込む乱痴気騒ぎの遍歴など望まなかった。」
…もうひとつの「極東」。でも問題はない。この引用はぴったりね。
…フィッツジェラルドはニューヨークのことを言っていたのであって、中国のことじゃない。
…(いわば「引用の現代的機能についての発見」について。ハンナ・アーレントが『ウォルター・ベンヤミン』というエッセーで語ったような。
…事実ということ。
作家
聡明な人
ドイツ人(あるいはベルリンのユダヤ人)
亡命者
一九四〇年にフランス-スペイン国境に死す
…ベンヤミンに、毛沢東とゴダールを付け加えること。)「去年の秋に極東から帰ってきたばかりの時、ぼくは世界が・・・と感じた」どうして世界は道徳によって成立し得ないのかしら?みじめな、傷だらけの世界。アメリカで亡くなった匿名のオーストリア・ユダヤ人亡命賢者の言葉からの二つ目の引用の前半部分は、「このような人間とはわれわれの時代特有の問題だ。個人的な問題について論じることは彼方に消え去り、さらには禁じられてさえいる。道徳的な禁忌とされているのだ。」というもの。私は中国へ行くことによって単純になることを怖がっているわけではない。真理は単純なものだから。私は工場や学校、集団農場、病院、博物館、ダムへ連れて行かれるだろう。宴会やバレー見物。ひとりにはなれないだろう。私はしょっちゅう微笑むことになるだろう(中国語を解さないのに)。作者不明の引用の後半部分はこんな風に続く。「個人の私的な問題は神々の笑いという主題に変わった。哀れみの欠如という意味でそれは正当なのである。」「個人主義と闘争せよ」と毛主席は言った。道徳の大家。中国はいま、究極の洗練と同義になる。陶器、残酷性、占星学、行儀作法、食、エロティシズム、風景画、思想と表記法の関係等々における、洗練。今や、中国とは究極の単純化の別名となる。私から離れないことがある。中国への出発の前夜からそれについて思いを巡らせていた。それは善について物語るすべてのもののこと。私は知人たちの中に見い出される怖れ、あまりにも自分が善良すぎることに対する怖れには共感できない。
…まるで善良さが個人的なものごと同様エネルギーの損失をもたらすとでもいうように。
…男性は、自分の性的エネルギーを損なうことを怖れるように。「イカす奴は後でイク」アメリカ人はそんな風に言う。「ちょっといい行いをするのは難しいことじゃない。難しいのは一生いい行いを続けることで、絶対悪事を行わないことだ。・・・」(『毛沢東語録』からの引用、バンタム・ペーパーバック版、一四一ページ)抑圧された苦力と妾たち、残酷な地主たち、長い爪を袖口の広いローブに隠して腕組みをした傲慢な官吏たちで満ち溢れる世界。赤い星が中国の上に昇ると、誰もが平和裡に天国のボーイスカウトに変身する。どうして善良になりたがらないのか?善良な人間になることはもっと単純になること。起源への回帰のさなかにいるように。もっと、単純に。偉大な忘却のさなかにあるように。
昔、パパとM.は、アメリカにいる子供(または子供たち)に逢うために中国から帰国する途中、列車に乗った。シベリア横断鉄道に乗って、食堂車もないまま十日間も揺られ、二人は客車の中のストーブで料理をしたの。煙草を一服喫ったら、パパは喘息の発作に見舞われた。だから喫煙者のM.は随分長いこと、通路で時間を潰さななければならなかったことでしょう。
…私はそんな風に想像するわけ。M.がそんな風に私に語って聞かせたわけじゃない。彼女はこんな挿話を話したことがあるわ。スターリン統治下のロシアを通過した時、ビアリストックで列車が停まったのでM.は外に出たがった。そこは、M.が十四歳の時にロサンジェルスで亡くした母の生地だったから。だけど一九三〇年代には外国人専用客車の扉は密閉されていた。
…列車は数時間、駅で停車した。
…老女が数人窓枠をこつこつと叩いた。生温くなったクワスやオレンジを売りたかったのね。
…M.はすすり泣いた。
…彼女は母の遥かな生地の土を踏みしめてみたかったのね。一度きりでも。
…でもそれは許可されなかった。(もしもう一回でも、一分だけでも外に出たいなんて頼んだら逮捕するぞ、って、彼女は警告されたの。
…彼女はすすり泣いた。
…彼女は、泣いたことは私には言わなかったけど、想像がつくわ。共感。失うことの遺伝。女たちは辛辣に語り合うために集い合う。私は苦痛を覚える。どうして善良になりたくないのかしら?心変わり。(心。もっとも異国的な場所。)M.を赦せば私は自分を解放できる。でもM.は何年経っても結局、夭折した彼女の母親を赦そうとはしなかった。私はパパを赦そう。パパの早過ぎた死を。
…デビッドは彼の父親を赦すかしら?(まだ死んでいない父親を)それはデビッド次第。「個人的な問題は彼方に消え去っていく・・・」
どこか私の内部のある場所で、私はバラバラに切り離されている。私はいつだってバラバラに切り離されていた。いつだって。
…東洋的切断?
…自尊心?
…苦痛への虞れ?
苦痛を尊ぶあまり、私は器用になれない。一九三九年初めにM. 中国からアメリカへ帰ってきてから、彼女は私にパパがもう戻ってこないことを告げるのに数ヵ月かかった。私はその時一年生の終わり頃で、私のクラスメートは私が中国生まれだと信じきっていた。M. が私に話があるといってリビングルームに呼んだ時、それが厳粛な話だとわかった。
…私が錦織のソファの上で身悶えして振りかえると、いつもそこには仏陀たちが私の気を紛らわそうと待ち構えていた。
…M.の口調はそっけなく簡潔だった。
…私はいつまでも泣いてはいなかった。どんな風にクラスメートたちにこの新たな事実を語って聞かせようかと策を練っていたのだ。
…M.は外で遊んでおいで、と私を送り出した。
…私はまだパパが死んだことをなかば信じてはいなかった。
最愛のM. 。
私は電話がかけられない。まだ6歳だから。悲しみはあなたの冷淡な灼土の上に、粉雪のように降り注ぐ。あなたは自身の苦痛を胸奥に吸い込んでいるのね。悲しみが熟れる。私の肺があえぐ。意志が強くなる。私たちは砂漠へ向かった。コクトーの『ポトマック』から(一九一九年版、六六ページ)。
「彼は天津の街では、蝶であった。」
パパは天津に取り残されたのだ。それは自分が中国で懐胎されたことよりもっと重要なことになった。今中国へ行くことの重要さが増しているように思われる。歴史が個人的な理由を混乱させ、漂白し、取って代わり、滅ぼそうとしているの。ナポレオン以来の偉大な世界史的人物の偉業に感謝するわ。沈んでいないで。苦痛は避けられないのよ。マオ先生のゲイ理論を適用してみたら。「一体になれ、警戒せよ、熱意をもって、いきいきと」(毛語録、同版、八一ページ)「警戒せよ」ってどういう意味かしら?万民おのおのが警戒して自分の中に閉じこもり、集団的怠慢に陥らないようにしろ、ってこと?
…結構なことじゃない。真理ばかりが積もりに積もってしまうリスクを除いてはね。
…「一体になる」ってことのダメージについて考えてみて。警戒心の度合は、人がどの位怠惰かではなくて習慣との馴れ合いを避けているかに比例するのよ。油断しないで。真理は、単純なもの。とってもね。核心に至ったわね。でも人は真理をよそに、他の養分ばかり欲しがるもの。哲学や文学においては、それが特権。例えばね。私はその欲求を尊重するわ。そのおかげで忍耐を失うの。「文学とは知識のある部分における忍耐の欠如のこと」(三番目の、そして最後の引用。あの無名の、アメリカへ亡命して亡くなった、オーストリア・ユダヤ人賢者からの。)すでにビザも取れたし、中国へ旅立ちたくて我慢できない。知るために。文学との摩擦が私を止められるかしら?毛沢東の延安や他の場所での講話によれば、それは実際には存在しない摩擦。文学が人の役に立つならば。でも私たちは言葉によって規定されている。(文学は言葉にいま何が起っているのかを私たちに伝える)もっと適切に言うなら、私たちは引用によって規定されているのよ。中国ばかりじゃない。いたるところで。過ぎ去った時間は伝染してゆくものだから!文章をばらばらにしましょう。記憶を粉々にするの。
…記憶がスローガンになったら、それはすでに不要なもの。もう信じられない。
…もうひとつの嘘?
…不注意な真理?
「死」が死ぬことはない。そして文学の問題性は色褪せてなどいない。
香港と中国の境を流れるシャム・チュン河に架かるルフ橋を徒歩で渡った後で、私は広東行きの列車に乗る。そこから、私はこの旅行プロジェクトのホストである委員会の厄介になる。わがご丁寧なる官僚的ウェルギリウス殿。私の旅行日程を調整するのは彼ら。私に見せたい場所、訪問に適切な場所は先刻ご承知の彼ら。彼らと議論してみたって仕方ない。いくつか注文を出せるとしたら、「もっと北へ行きたい」と私は言うだろう。もっと近づくために。寒いのは嫌い。砂漠での少女時代が、猛暑や熱帯や砂漠へのどうしようもない偏愛の傾向を私のなかに残したようね。でも、この旅行では、必要とあればどんな寒さにも耐えるでしょう。
…中国には冷たい砂漠がある。ゴビ砂漠みたいに。神秘的な旅。不正と責任感がうるさく感じられる前に、神秘の旅は歴史の外へ向かう。例えば、堕地獄。死者の邦。今、こうした旅は歴史によって境界線が引かれている。現実の人々がつくる歴史によって、自分自身の個人史によって、聖められた場所への神秘の旅。そこに避けようもなく、文学がたち現われる。知識ではなく。蓄積としての旅。魂の植民地主義、あらゆる魂の、じゅうぶんに意識化された・・・。
…簡潔で、善を求める魂の。文学と知識の境界線で、魂のオーケストラが大音響の遁走曲フーガを奏でる。旅人はよろめき、震えおののき、そして口籠る。
慌てないで。この旅行を続けるのには、旅人であれ、現地人であれ、繊細な工夫が必要よ。謎解きの旅。心の重荷を降ろすための旅。私は小さなスーツケースをひろげる。でも、タイプライターもカメラもテープレコーダーも要らない。中国からどんな物にせよ持ち帰りたいという誘惑に負けたくないの。それがたとえどんなに美しい形をしていても、どんなに心をそそられる土産物でも。私はすでにそうした物たちを自分の頭の中にたくさんつめこんでいるから。中国に行きたくて我慢できない!でも出発するより先に、私の一部はすでに国境に至る長い旅路を辿りはじめ、邦じゅうを巡って、帰還している。中国と香港の境を流れるシャム・チュン河に架かるルフ橋を徒歩で渡った後で、私はホノルル行きの飛行機に乗る。
…そのどちらもが、私にとっては未知の場所。
…たった数日の滞在。私とM.の間を過ぎていった一行も書かれなかった 手紙やかけられなかった電話の数々が、存在しない文学となって私を疲れさせた三年間という歳月の後で。その後で、私は再び飛行機に乗る。独りになれる場所に向かって。そこは、少なくとも、集団的怠惰からは避難できる場所でなければならない。そして諸々の涙からも。そこは、救いか無関心に満ち、絶えまなく自らを憐れむ私ひとりの精神によって祝聖されている場所なの。
私はシャム・チュン河を両岸から渡るの。それからどうするの?誰も驚かないわ。その時、文学が現われるの。
…知ることの耐え難さ。
…自己制御
…自己制御の耐え難さ。
私は喜んで沈黙と和解するの。でもその時には・・・何も知ることができそうにない。文学と絶縁するためには、知ることに心から確信がもてなければね。私の無知を愚かしく証しだてるある確かさ。文学。その時こそ。前にも後にも、文学が存在するの・・・必要ならば、ね。如才ない機転や、謙遜を求める心から私を解放してくれない文学が、このあまりにも決定的な旅行のためには必要なの。私は数多くの矛盾する要求を裏切りたくない。唯一の解決法。知るため と 知らないため の。
文学と、非-文学の両方のために。それは同じ身ぶりで話すこと。前世紀のロマン主義者たちは、一期の旅で、いつだって一冊の書物を産み出した。ローマ、アテネ、エルサレムへの旅、そしてかの地を踏み越えてさらに遥かな場所へ。
一冊の書物を著すために。
私は私の中国への旅のことを書くつもり。
たぶん、中国へ行く前に。
(1985 試訳)