【半島邦(Peninsula State)】へ、ようこそ。半島への夢。それは故国を放逐された者たちの永遠の楽園への夢想にほかなりません。入りくんだ微妙な地形の変化。原色の花花、亜熱帯性の動植物。ひとびとは、両大洋越しに連なる混沌世界から、あらゆる障壁を越境して、6つの大陸の2つにまたがるこの半島へ流れ着きます。そして、ここで彼等を出迎えるのは、多人種が紡ぐ血と陰謀の不幸な歴史を乗り越えて世界世紀末の予兆を先取りし、楽園再構築を率先垂範すべく海を越え陸を渡った新たな開拓者精神たち、世界中を旅立って当半島邦に集結した親愛溢れる新精神入植者の先達でしょう。朝遅く目覚めては律儀な人生の背任者の先輩たちとデリで歓談し、昼は延べ150マイルの長さをもつ白砂のビーチ、夜は南の西インド・アフリカ諸島からの貿易風に載って流れてくるマデラ酒の香りに酔って隣人と踊る、安心立命の亡命者の故郷であるでしょう。・・・
パンフレットには、逆光の海に濃い輪郭をみせるパームツリーと木造の艀を映したやや粒子の粗い写真が、無造作にレイアウトされていた。おそらく【半島邦】の南部の何処かを写した写真だろう。
ぼくはこの数ヶ月、その写真を何度眺めては時間を忘れたことだろう。ぼくは顔の上に見開いたパンフレットを載せたまま、短い眠りにおちた。当時のぼくの1日のリズムは、つねにカスタネットで叩く2拍子のように単調だったし(それは今も特別変わらないが)、ぼくにはある出来事が、夜に起ったことなのか朝だったのか、次第に実感が希薄になっていた。朝・夜・朝・夜・朝・朝・夜・夜・・・ひとつの夜は延長されてなし崩しに次の朝に接続された。夜と朝の区切りは、近所の小学校から流れてくる校内放送のオルガン・コラール・プレリュード1番が告げ、訪れた朝は催眠症のきれぎれの睡眼に映る薄い橙色のカーテンが描く暖色の階調の推移につれて夜に継がれた。暦と時計と新聞と風景それに時を告げてくれるお節介な隣人がいなければ、誰にとっても時間や日付という約束事のはかなさが了解されるだろう。目線を切ればそれは消える。不眠で身体を苛み統覚が痺れるまで世界の眠りを飽かずみつめ耽る愉しみだけが、人生の確信だった。だが、その日が4月30日という日付だったことだけは、なんとなく記憶している。それは、翌日5月1日が、転入先の【半島邦】へ旅立つ予定だったためだろう。旅を翌日に控え、ぼくの手帳の【行動リスト一覧表】のほとんどには、すでにその用事が済まされたことを示す赤い打ち消し線が記されていた。
●大使館関連*パスポート*ビザ●役所、公共関連*国民年金*国民健康保険*公共料金電気、水道、ガス、電話*転出届●郵便局関連*船荷(郵便局)*転送依頼(測候所へ)*航空便(現地フェデラル指定)●運送会社関連*荷物保管依頼*荷物(測候所へ)●航空会社関連*チケット手配●その他*国際運転免許証*ゴミ処分(粗大→処理場へ)*銀行・クレジット解約通知*車の処分
ぼくは深い夜の目覚めの代償に昼を襲う催眠症のきれぎれの眠りを眠り、カーテンの色が熱帯果実のような濃い橙色に染まり始めた夕刻になると、すり鉢状の窪地の北東方角の上縁部にしがむように立つモルタルアパートの1階の西向きの窓を開け、窪地の対岸に逆光で没り陽にあらがう雑木林を眺めながら、人生の決定的な「事後」の光景の匂いを嗅ぎながら、放心に抗おうとするように手に握った太いマーカーで「測候所行」とマーキングされた段ボールのひとつに腰掛けていた。段ボールの中には、知人の結婚式の引出物でもらった水晶発信の置き時計や、テープレコーダー、カメラなどの壊れ物がダウンコートにくるまれていたので、ぼくは体重をやや浮かしぎみに腰掛けていた。確か、イタルゴ・ベッキオのギター独奏曲のカセットテープを聴いていたと思う。アルペジオ部分での誤奏に神経が苛ついたが、それは純粋にこの老演奏家の醜態を恥じただけで、埋めた女のこととは何の関わりもない。
その時にも躑躅は厚ぼったい夕景の中へ、緩慢なリズムで毒を吐いていた。
その日の夕方から翌朝にかけてのおよそ半日、およそ12時間をぼくはどんな風に世界を感じていたのか、ほとんどリアルな記憶がない。ただぼくは放心に抗い、【逃亡生活】という言葉で自分を昂らせ、甘美な哀楽に満ちるであろうデラシネ暮らしの細部を思い描く放擲の快楽と戦慄にうすく鳥肌をたてていた。そして、この国の多湿な季節や、躑躅の花の忌まわしい遍在性がもはや捨て去る過去の影絵でしかなくなることに安堵を覚えた。ぼくはここから逃亡するためなら、何度でも何人でも、同じように女を埋めたに違いない。あの女のことも、いまここにいることの耐え難さから逃亡するための口実だった。憎しみはなかった。
ぼくは誰かを埋めた。誰かがぼくを埋めたように。そしてまた、そのまた「誰かが誰かを忘却によって埋め続けていた」この国のあの頃を去るために、特別な感情は必要なかった。それは生存のための条件反射ですらなく、この国の心穏やかな普通のひとびとが日々行使している「他者を埋め自らを埋める」ことのささやかな真似事、毎晩反復される静かな団欒のひとときほどの、安心立命のためのセレモニーのようなものではなかったか。
埋めて忘れること。ぼくたちが祖先から受け継いだ大いなる埋葬と忘却の才能!
ぼくは夜半ちかくになって、遅い夕食に、キャンベルのクラムチャウダースープを1缶温めて生パンといっしょにほおばったことをなんとなく覚えている。ぼくはすこし発熱していた筈だ。それらは、病床時の常食だったから。(当時のぼくは隔月に1度ほどのペースで発熱する癖があった。だが、この食事メニューと「パブロン総合感冒顆粒薬」の併用で、いつも吃逆のように簡単に治った。)それから薬が効いてくるまで、【半島邦】観光案内パンフの記述へ、ふたたび熱っぽい視線をさまよわせた。