柴崎友香『ドリーマーズ』(講談社09)
短篇集です。本書もなかなか面白かった。なかでも表題作が、書名に選ばれるだけあって一等よくできています。父親の一周忌で大阪に帰ってきた主人公は、(どこかで飲み会のあと)最終の地下鉄中央線で大阪港駅の妹夫婦のマンションに向かう。話は地下鉄が阿波座駅を出て地上に上がってくるところから始まります(ただし駅名等は明示されない。以下同じ)。車内の描写がすごくいい。いかにも最終電車らしく、酔っ払って少年隊の決めポーズのような格好で、反り返ったまま寝ている男。やはり酔っ払っているのだろう、吊革につかまって体を浮かしながら奇声を発している男。それらを眺めて笑っている、チアガールの衣装の上にウィンドブレーカーを羽織っている女……。ちょっと不思議な連中を乗せて最終列車は闇の中を走る。
何度も言及しておりますように、乗り物で(幻想世界に)到着するのが幻想小説の基本パターンであるわけですが、本篇も例に漏れません。この車内の奇妙奇天烈な連中の描写は、いかにも幻想小説(軽ファンタジー?)の開幕にふさわしい。というか、実は主人公が地下鉄に乗った段階で、すでに《幻想世界》は始まっているのです。それが証拠に、地上に出て最初に止まった駅(だから九条駅でしょう)で、若いカップルが降り、次の駅、弁天町駅で吊革男ともう一人が降りる。この駅が弁天町駅であるのは、その駅を出発した電車の
「窓の外の景色は、黒い闇の部分が増え、そこに見える白い光の点々は、低いところに、遠いところに、私たちから離れていった」という描写から明らか。となれば、その次の駅は朝潮橋駅のはず。なのですが、地下鉄は一気に、大阪港駅へと到着する。
どうやらこの世界に、朝潮橋駅の存在しないようなのです(笑)。単に省略しただけだろうって? 弁天町から大阪港まで、おそらく6分以上あるはず。ところがその間の会話といえば、
「今、好きな人いますか」/「うん」(即座)/「私も!」(155p)だけ。あとは停車のための減速で空き缶のようにゴロンと進行方向に転がった少年隊の描写があるだけ。やはり朝潮橋は存在しないんです!
これは何を意味するのでしょうか。本篇の《小説世界》が、以下にも述べますが、リアル世界とまったく同じ世界ではない(幻想世界である)ということを表わしているに違いありません。しかし、それについてはあとで述べます。
とまれ、電車は減速を始めた。主人公は降りるために立ち上がる。しかし、ふと見るとチアガールは座ったまま。あれ、と思ってすぐ気がついた。この地下鉄路線、
「長い間次の駅が終着駅だった」のだが
「何年か前にわたしがちょうどこの街を離れたころに路線が延伸した」(156p)ことを思い出したのでした。港町ですから、ここで行き止まりなのです。その先は海しかない。だから
「何十年も終わりだった」のです。ところが今やそれが
「途中になり」、線路はここから海へ潜って、埋立島へと至っているのです……。たしかにリアル世界ではそうなのですが、主人公は
「もしかしたら、線路は下降して海に潜るのではなくて、空に向かって昇っていくのでもよかったよかったかもしれない」(157p)と考える。ここでも、この世界が、リアル世界とは少しずれているかもしれないということが、ほのめかされていると看做せなくありません。
さて、大阪港駅で降りた主人公。(天保山の)大観覧車の照明も、はや消えていて、明るいのはローソンだけ。そんな時間。
「金曜日と土曜日の境目だった」(158p)。妹夫婦のマンションに辿りつきます。
この妹の造形がとてもよい。主人公も含めて、本篇の登場人物は概ね夢見がちな、だらりんとした人間ばかりなのだが、この妹・沙織だけは常に忙しく立ち働き、まるで潔癖症のように片付けまくっている。
「沙織はだいたい複数のことを並行してやっている」(166)。この沙織、古井由吉の描く女たちの同類なんですよね。沙織の夫のマサオはいたって暢気で、どうも年下っぽい雰囲気。なので釣り合いが取れているようですが、一歩間違えば
『聖』三部作の女です(笑)。そういう対蹠的な女を配置することで、一種対位法が効いて、小説世界を引き締めています。沙織がいう。
「夢? わたしは見いへん」/廊下からマサオの/「夢は見よう」/という声が聞こえた。(182p)
実は本篇の主たるモチーフは《夢》なのです。マンションに辿り着き、飲み会での酔いが今更のように襲ってきて、炬燵でうつらうつらした主人公は夢を見ます。この夢が、なんと、眠っているのだけれども耳から入って来たらしい、テレビの音声と室内の会話から合成されたものだったことが起きてから分かる。マサオも同じように炬燵でうたた寝していて夢をみるのだが、これまた右に同じで大笑いとなる。
「目は閉じれるけど、耳は閉じられへんねんなあ」(175p)
マサオの見た夢は、金本の偉業(安打に関する記録らしい)を称えるテレビの報道番組と、イラク戦争のドキュメンタリーから構成されたものだったんですね。金本の安打の記録といえば、これは二千本安打しか思いつきません。検索したら、金本の記録達成は2008年4月12日(ちなみにイラク戦争は2003年から)。ですから本篇で描かれるこの話の時間は、2008年4月12日もしくは13日未明のこと、ということになります。4月初旬ですから、当然部屋には炬燵がまだあるわけです。
でも――よくよく調べてみると、金本が2000本安打を達成した2008年4月12日は、土曜日なんですよね! ところが上記のように、小説世界の時間は、
「金曜日と土曜日の境目だった」(158)。だとすれば金本の偉業は翌日の試合で達成されるので、この時点では未達成のはず。やはりこの世界は、リアル世界そのままではない。朝潮橋では空間でしたが、ここでは時間も少しずれていることが、それとなく示されているのです。
更に細かいことをいいますが、大阪港駅がテクノポート駅とつながり、終着駅から通過駅になったのは1997年なのです。小説内の「今」の《時点》が2008年だとしたら、とても
「何年か前」どころではない。でも中央線に編入されたのは2005年なので、そこに着目すれば3年前となり、「何年か前」は妥当な表現となります(158pに
「二歳から三年前まで住んでいた部屋」という記述があり、これを裏付けます)。上記に従っていえば、本篇の世界では、OTSテクノポート線の歴史は存在せず、2005年に初めて中央線が延伸した、ということになる(笑)。
……と、もちろん考えてもいいのですが、むしろ著者において非常に強い印象があったに違いない、終着駅が途中の駅になってしまったという、一種のセンス・オブ・ワンダーをどうしても言い表したくて、97年に感じたそれを、小説内に摂り込むため05年に持ってきたというのが(小説作り上の)舞台裏なのではないかと私は推理しますが、これは余談でした(笑)。
以上だらだら書いてきたのは、結局何を言いたいかというと、著者はリアルな回想記を書いているのではないということの確認です。リアル世界とは少しずれた世界として、いわば幻想世界として、構築している(その意味では先回の
『ビリジアン』の読みは、初読で情報が少なすぎたせいもありますが、私小説的なリアルにひきずられすぎたかな、という気が今はしています)。
上述のとおり本篇では、(まさにタイトル通り)各人の夢がライトモチーフとして語られるのですが(但し妹の沙織以外)、その中で、主人公の見た夢には亡き父が現れる。夢の中で父は、自分が死んでしまっていることに気づいていないようなのです。もう一晩泊まった次の夜の(つまり土曜の夜の)夢にも父が現れて、やはり死んだことに気づいていないように、主人公には思われて仕方がない。夢の中で、事実を告げてあげるべきなのか、主人公は悩む。言ってあげなければ、一周忌も数日後に控えて、成仏できない(とは書かれてませんが)のではないかと気がかりな一方で、ずっといてほしいという気持ちも。
その気持を、主人公は携帯電話で、付き合い始めたばかりらしいボーイフレンドに語る(上記の
「うん」私は即答した。聞いてくれてうれしかった。(156p)の、彼ですね)。聞いてもらって、聞いてもらえただけで、主人公は何故か安心します。そもそも本篇は一周忌で帰ってきたことで始まる。その意味で、ここで主人公は、ボーイフレンドを受け手に、フロイトのいわゆる「喪の仕事」(モーニングワーク)を完結させたといえる(cf
『フロイト思想のキーワード』)。魂鎮めとは一義的には死者の魂(霊)がふらふらと迷い出さずにきちんと成仏させることですが、実はそういう儀式を行なうことで、むしろ自らの心を、死者への気持ちを断ち切って安定させるものなのです。だとすれば、まさに「喪の仕事」とはそのことを差します。
つまりここで主人公の心から、ずっと尾を引いていたものがいったんリセットされる。で、ラストの
「結婚祝いやな」(205p)が効いてくるのです。死の反対は生ですが、結婚は「生」に比定できる。上記の言葉は直接には友人の「結婚祝い」ですが、主人公のうちでは自身の「結婚」が含意されているわけです。一周忌を目前に「藻の仕事」で一定の決着をつけた主人公の新たな「生」の予感で、物語は終わります。
後は簡単に。
「寝ても覚めても」は、ラスト一行がめちゃくちゃ面白い。この1行のためにストーリーがある。
「束の間」は、大晦日という「カテゴリーの中間領域」に、つかの間開けた無時間地帯に、主人公が入り込む、一種トワイライトゾーン風。構造論的にいってカテゴリー間の隙間に魔が宿りやすいのは言うまでもありません。
「夢見がち」は焼肉を食べに、福島駅から環状線に乗った主人公たちの、鶴橋駅までの間の車内での会話が描かれるだけ。ところがそれが一種百物語になってしまう。オモロイなあ。究極の環状線小説(^^;。
「クラップ・ユア・ハンズ!」も一種の怪談で、これも怖いのか可笑しいのかよく判らん、変な小説でよかった(^^)
「ハイポジション」でも夢がラストのオチに効果的に利用されています。