眉村卓『しょーもない、コキ』(出版芸術社 11)
斎藤さんから
ご報告がありましたとおり、俳句誌
「渦」と短歌誌
「あめつち」に、いまも連載中の短いエッセイのうち、2004年から今年締切り時点までの分116編を、掲載順に並べたもの。
その第1回
「コキ」(2004年掲載)は、はからずも本集の前説となっていまして、
「この間から、頼まれてもいないのに、折々の感慨や短い思い出話を書き溜めにかかっている。全体の仮題は、「ショーモナイ、コキ」である」(7p)とあります。システマティックな著者らしく、はなから全体の構図が定まっていたわけですね。
と、そのように方向性は定まっていたとはいえ、しかしその範囲内に於いて、
「ここに収めたのを見ると、自分でも苦笑したくなるほど、雑多である」(238pあとがき)として、亡妻がらみ話、老いの自覚からくる気持ち、子供の頃の思い出、さらには、(現在の)日常生活での不満や世の中へのイチャモン、と、その雑多性を強調するのだが、結局それが、収録作品の実に整然たる分類となっているところも、いかにもこの著者らしくて笑っちゃうのであります(^^;。
いまひとつ、本書の特徴は、表紙はもとより、すべての挿絵を著者が描いていることです。116本のエッセイすべてに、あの独特なオバQにも似たキャラクターのイラストといいますかカットが付されていて、ついほほ笑んでしまうのですが、またそれが当該エッセイの内容に見合ったポーズを示してどれ一つ同じものはないのであります。まことにプロはだしというべきではないでしょうか。
「変な絵(?)について」では、当のそのイラストを話題にしているのですが、そのなかに
「私は、少年時代、マンガを描いていた。本人としてはマンガ家になりたかったが、ちゃんとした修行をしたわけではない。当時の少年雑誌に投稿して掲載されたのを、物好きな方が最近見つけ出してコピーを送って下さったのを眺めると、よくまあこんなに下手なのに頑張っていたものだなあと思う」(230p)とあるのは、何を隠そう(隠しません)
このことでありましょう(^^;。有志Oさんのご好意が一本のエッセイを生む原動力となりました。まことにありがたい限り。
さて、収録116本の中で最も気に入っているのが、
「歩く速度」と
「Y通り」。前者は、上の分類にしたがえば「亡妻がらみ」と「老いの自覚」の合せ技。後者は「子供の頃の思い出」と現在が交錯する話となるのでしょうが、どちらもエッセイというよりは随想、いやむしろ掌篇(短話)といいたい逸品で、読後に強烈な印象を残します。スケッチなのですが、無駄な語は一語もありません。どちらも見開き2頁の紙幅に収まるものながら、その奥行きは限りなく広く深い。完璧な傑作といいたい。
とまれ、飄々とした軽みがとても味わい深いエッセイ集で楽しみました。現在連載中の分も、何年後になるのか分りませんが、楽しみに待ちたいと思います!
ところで本書、どうも誤植が、あまりに素人っぽくて気になった。まずは気がついたのを列挙――
2p目次、漂白→漂泊
10pタイトル、漂白→漂泊
同p6行目、漂白→漂泊
ここまで徹底(?)されると、ひょっとして漂白には漂泊の意味があったのかな、と自信がなくなってきます。でも、11p5行目は、漂泊となっているので、やはり誤植(誤変換)なのでしょう。
131p、こっちゃ→ごっちゃ
143p、藤沢周平代→藤沢周平氏
151p、僧越→僭越
158p、部分→部品
219p、エントリピー→エントロピー
228p、中編と後編→中編と短編
230p、見つけだしで→見つけだして
これらは変換ミスというようなものではないですね。眉村さんは、本書でも語られているように手書き派でありますから、ワープロ打ち込み作業が発生します。そのときに起こったケアレスミスのように思われます。それにしても「藤沢周平代」なんてのを見ると、完全に素人の手によるものであることがわかる。出版社から委託される業者ではちょっとあり得ないと思います。となれば、このミスは、雑誌掲載時のワープロ入力の際に起こったもので(両誌とも限りなく同人雑誌に近いのでしょう)、出版社はそのデータを流用したのではないかな。ともあれ、見苦しいので重版時に訂正していただきたいものです。
最後に
「記憶の圧力」で言及されている「倦怠の檻」は、著者の言うとおり、検索したら即判りました(私は未読)。リチャード・R・スミス作で
『宇宙の妖怪たち』所収(→
こちら)。