「イスタンブール(ノット・コンスタンティノープル)」
読書
高野史緒「イスタンブール(ノット・コンスタンティノープル)」異形コレクション『魔地図』(05)所収
これは「映画」ではないのか。
本篇を読んでそう気づいた(そうと覚ってしまえば、著者のこれまでの作品も全てそうだったのかも)。読者は映画のシーンを観るように、本篇の各シーンを読まなければならない。映画としての本篇は、バックにギリシャ語の詠唱が低く流れるダークな実験的な映画といえよう。たとえば、
アラビア語の祈りの呼びかけ(アザーン)が歪み、回転数を落としたレコードのように重く、ゆっくりとなって、古いギリシャ聖歌の朗誦のように(82p)
なっていくシーンは、まさに不安を観客に喚起する映画の音響テクニックそのものだ。
本篇で話者の「私」は、たびたび睡魔に襲われ(そうして幻視す)るのだが、文字で読むと実は些か不自然の感を免れ得ない。ところが――
一瞬、目眩、あるいは睡魔が襲って来て、気を失いそうになったのだ。重苦しい詠唱。紫の大マントを翻して誰かが振り返る。(87p)
こう書かなければ小説として体をなさないのだけれど、これを映像で撮るならば、幻視の場面に一瞬に場面転換されるというかたちになるわけで、実際この場面、映像なら、これはばしっと決まるシーンであることは想像に難くない。本篇における「睡魔」は、そのような幻視の突然の挿入と理解し、映像を想起すべきだろう。
さて、本篇の主人公は誰か? 私が上に<話者の「私」>と書いたのは他でもない、「私」は主人公ではないからだ。そう見えるかもしれないが、真の主人公は「Y」なのである。本篇は「Y」の運命の物語というべきなのだ。
ビザンティン帝国の末裔エウゼビオスが「私」に言い寄ったことからこの物語は起動する。そしてY自身も、
「本当は君一人に呼びかけるつもりで僕も傍受しているだけかも知れないし(…)」(88p)などと言うものだから、したがって主人公は「私」と思いがちかも知れないが、さにあらず。本篇の登場人物たちは、基本的に下の
『批評理論入門』の所謂「信頼できない語り手」なのだ。言動をそのまま信用してはならない。
意識していたかどうかに関わらずエウゼビオスの目的は、「Y」との交信だったのである。したがって事故以後、「私」と「Y」では、常に「Y」の方が認識で先行している。つまり結局のところ、「私」は「ことば」をYに伝えるだけの存在、狂言回しに他ならないのだ。
細工箱の2枚めの羊皮紙も、Yは勿論読んでいた筈で、だからこそ、自分の「運命」に気づき(
「違うんだ。今度のは本当なんだ。運命に導かれているんだしね」85p)、「手順」を踏む。
手順の進行に従って、コンスタンティノープルの映像が二重写しに次第に浮かび上がってくるところはいかにも映画的。マクドナルドの看板を弓に見立てる図も、文字で読むと少々分かりづらいが、映画ならばおお、とどよめくこと請け合い。スクーターによる追跡劇もお約束ですね!
こうして地下の水路をわたって、私とYはコンスタンティノープルに到着する。この場面も映像で見たいなあ。ここに至って、「私」もようやく自分の役回りに気づく。
「Y」とは一体何者だったのか。
「徳川の埋蔵金は諦めたのだろうか?」(79p)なんて紛らわしい記述があるから日本人かと思わせられるが、Yが
「金髪」であることは、既に最初に明らかにされているのだ(82p)。ギリシャ語に堪能なこともはじめから描写されている。彼がギリシャ人の青年であることは、だから作者は少しも隠してなどいないのだ。ただ「Y」の本名が分かりません。エウゼビオスの頭文字は「E」なんだよね(ーー;
ともあれエキゾチックなすばらしい幻想映画を堪能しました。
追記
Yをギリシャ人と決めつけたのは早計だったかも知れない。
なぜならギリシャ人ならふつう黒髪ではないだろうか。
実は追突事故はイスタンブールで起ったものと思い込んでいたのだ。なぜなら
「イスタンブールにはまた行ってみたかった」(79p)という「私」の記述があったからだが、よく読めば、事故のときレスキュー隊員は
「モン・デュー!」と叫んでいるではないか。つまり事故はフランスで引き起こされたものだったのだ。そうすると、Yと「私」はフランスで知り合った?。彼らはフランス語で会話していたのではないだろうか。ていうかふたりともフランス人だったのかも。
――というわけで、Yをギリシャ人と決めつける根拠はない。せいぜいがヨーロッパ人種といえる程度。日本人でないのは間違いないとは思いますが。