SFJapan連載の
大橋博之「日本ジュヴナイルSF 出版史B 少年SFの系譜」を読む。
今回(2005winter号)は
「あかね書房と少年少女世界SF文学全集」。前回にもまして力作である。ページ数も増えたのではないだろうか。
今回最大のサプライズは、昭和28年の「学校図書館法の制定」のくだり。なんとこの法律が、かつて40年代から50年代にかけてわが国に、英米に勝るとも劣らないSFが開花した、その礎石となったというのだ!
つまり
「全ての学校は図書館を持たなければばらない」という学校図書館法の制定により、その時点でそこそこのヴォリュームがあったあかね書房のシリーズが新設の学校図書館に続々と入荷し、それらを学校図書館で読んだ昭和30年代生まれの(我々)子供たちが、それを読むことによって「SF」というものの「肝腎」を摑み「体得」することが出来たがゆえに、彼らは最初の
「プロパー」SFファンたりえた。
その下地があったればこそ、我々世代が中高生となった40年代、突如爆発的に日本SFは英米に匹敵するSF大国となりえたのだ!
なるほど、そうだったのか〜!!(註:そこまで過激なことは書かれていませんので為念)
つぎに、「完訳主義」がSFを滅ぼした問題。
本稿によれば、我々世代が熱狂的に支持したあかね書房に代表される少年SFの多くは、大人向きSFのリトールドやアブリッジやダイジェストだった。
それは日本の当時の少年読者の読みの水準が、英米のそれよりもはるかに高かったため、英米の少年SFでは薄すぎて満足できず、圧倒的に大人向きのアブリッジに人気が集まったからだそうだ。
ところが、リトールドやアブリッジやダイジェストは悪書である(全訳=完訳でなければならない)というのが当時の一般的な児童文学者の認識で、その無言の圧力でアブリッジ方式が下火になってしまった。
これに対して福島正実は
「全訳必ずしも完訳にあらず」として、たとえば外国の風習を克明に描いた部分を全訳しても吾国小国民にとって何ら益するところあらずとしてむしろアブリッジで読みやすいかたちにするほうが良心的だと反論する。
私もこの意見には全面的に賛成で、子供は想像力があるからアブリッジでも十分に(大人が)全訳で読んだのと同じ感動を抱くことが出来るのだ。これについては、私は自分の経験に照らしてそう断言できる。
また子供の頃読んだからといって、大人になって読み返して面白くないかといえば決してそんなことはなく、よい本は何度読み返しても面白いのだから、その意味でも全訳=完訳主義というのは木を見て森を見ない意見ではなかろうか。
とにかく、かかる「全訳=完訳主義」が少年SFシリーズを衰退させたことにより、上記の反対の現象が起ったことは明らか。即ち小中学生の「素養」の中から「SFの肝腎」が消滅し、SFファン予備軍が形成されなくなったのだ。(註:そこまで過激なことは書かれていませんので為念)
それが結局昨今のわが国における「SF冬の時代」の招来を結果したことは間違いないことと思われる。
暴論かもしれないが、私は、「SFを楽しむ」という
特殊な能力は、15歳までに完成するのではないだろうか、と考えている。それ以後にSFに出会っても、よほど感性的に適合しない限りなかなかその能力は身につかないような気がする。
その意味で、一見迂遠にみえるかも知れないが、日本SFジャンルの再構築のためにも、(名作アブリッジを積極的に行った)ジュヴナイルSFの復活がなされることを強く望みたい。まずは下位より始めよというではないか(>違う)。