チャチャヤン気分

 

カレンダー

2017年
← December →
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カウンター

  • 本日のアクセス  
  • 昨日のアクセス  
  • 総アクセス数      

ブログサービス

Powered by

teacup.ブログ
RSS
この記事へのコメント一覧
※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。
投稿者
メール

 
コメント
URL
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。
投稿者:管理人
風野さん
>宮本忠雄『言語と妄想』
なんと所持していたのでした(^^;。
まずは取っ掛かりのよさそうな「怪異体験の構造」をざっと読んでみたのですが、分裂病特有のある傾向を「空間恐怖」に由来すると書かれていますね。この「空間恐怖」は精神病理学の手法である症例の記述の積み重ねによって帰納的に見出された説明原理であるといえましょう。
つまり、おっしゃるように
>病者の了解不能性を認識し、その異質な思考を哲学の知見を駆使して説明しようとするのが精神病理学です
の具体的な例だと思うのですが、同時にまた、
>そこには「論理」があるのであって、それに気づきさえすれば何らわれわれと異なるものではない
の例でもありえるように思うのです。
すなわち空間(空虚なすきま)が恐いから物体で埋め尽くしてしまうという「行為」そのものは、われわれにも十分了解できるものだからです。

とまあ、ちょっと読んだだけでもとても刺激的な本で、楽しみです(^^)
いま『マラキア・タペストリ』を読み中なので、その後にするか併読するか、至福のジレンマに悩んでおります(^^ゞ

加賀乙彦はいまや単なる長篇物語作家ですが、第1長篇「フランドルの冬」と第2長篇「荒地を旅する者たち」に限ってはアンチ物語です。第1の方が読みやすいのですが私は第2が好きです。パリ・サンタンヌ病院が舞台の壮大な精神病理学的ゴシック小説ですよ(^^;
投稿者:風野
木村敏については、忘れられているというよりは敬して遠ざけられているといった方が近いですね。かなり難解で、読み解くには哲学の素養が必要ですから。精神病理学自体は精神医学の基礎として大切なものだと思いますが、やはり直接治療に結びつかないこと、膨大な哲学知識を前提にしていることなど時代に合っていないところも多く、廃れてもやむを得ない面もあると思います(私も哲学は苦手なので木村敏を読むのには苦労しました)。

加賀乙彦は読んでいないのですが、自身が精神科医であり、世代的にドイツ精神病理学の影響を強く受けていると思われるので、当然影響はあるでしょう。
ただ、私としては精神病理学のロジックを小説にできる文学ジャンルはSF以外ないと以前から思っていました。だから、牧野修の登場は本当に嬉しかったですね。

http://psychodoc.eek.jp/diary/
投稿者:管理人
風野さん
懇切な返信ありがとうございます。
>私は生物学よりむしろ精神病理学よりのスタンスに立ってます。
というのは初読では分かりませんでした。本が手元にないので解説のニュアンスを確認できないのですが、そういうことでしたら私の読みが浅かったんでしょう。
「精神病理学が滅びに瀕している」という客観的前提自体は事実として存在するわけで、私には否定する由もありませんが、解説ではそれをアプリオリに肯定しているかのように読めて、ムッとしたのは、そう言う次第で誤解だったとはいえ事実です(^^;。

木村敏が、現在の精神医学界においてほぼ忘れられてしまっているというのは、本当に驚きました。
>精神病理学が滅びかけているという現状を、とても残念に思って
いらっしゃる風野さんにお聞きしますが、木村敏が忘れ去られてしまう状況というのはどこか間違っているのではないでしょうか。上記アプリオリに肯定すると誤読してムッとしたのと重なる問題です。

日独と英米の精神病理学の射程の差異は確かに認識していませんでした。
「精神病理学が文学に多大な影響を与えた」というのは加賀乙彦の「荒地を旅する者たち」や「フランドルの冬」が具体的に念頭にありました。この2作は間違いなく精神病理学小説といい得るものですが、とはいえ確かにここでも精神分析と病理学を混同していたようです。ただアメリカ精神分析派には現象学(実存哲学)が影響を与えていると思います。

>精神病理学的な思考を牧野修ほど見事に文学に応用している例を、私は知りません
というお言葉に安心しました。これは文学上では精神病理学的アプローチは有効であると「読んで」いいんでしょうね。もしそうであるならば私の牧野理解と同じになります。

>私の文章力の足りなさのためであり、深くお詫び致します
いえいえ、最初の数行でカッとしてしまい、あとを予断で読んでしまった可能性があります。申し訳ありませんでした。
投稿者:風野
やはりまだ誤解があるような気がします。

解説で読み取っていただけなかったのは残念ですが、私は生物学よりむしろ精神病理学よりのスタンスに立ってます。木村敏にしても、私は取るに足らないなどとはまったく思ってません。木村敏の業績は、精神医学にとって重要な洞察を含んでいると思います。私は、精神病理学が滅びかけているという現状を、とても残念に思っていますが、木村敏を含む精神病理学が現在の精神医学界においてはほぼ忘れられた学問となっているのは事実なのです。

もうひとつ、誤解の原因になっていそうなのは、英米圏でいう精神病理学と、日本やドイツの精神病理学は違うという点です。英米圏では、精神分析も含め広く精神病者の心理を取扱うことを精神病理学といいますが、日本やドイツで精神病理学といえばほぼ現象学的精神病理学と同義になります。私が使っている精神病理学は日本やドイツでの意味です。

さて、私の解説では、「精神病理学が滅びに瀕している」という部分は論の前提であり、別に「明らかにする」というようなつもりはなく書いたので、そこにそれほどムッとされるとは意外でした。

むしろ私が書きたかったのはその後の段で、現在精神医学界で隆盛を誇る生物学的アプローチから抜け落ちるもの、たとえば言語新作であるとか妄想の異様さの持つ抗しがたい魅力、病者の異質な論理といったものについて実例を挙げながら論じました。それはかつて精神病理学が関心を持ってきた題材であり、また牧野修が好んで取り上げるものでもあります。

また、「精神病理学が文学に多大な影響を与えた」という点は、果してそうでしょうか。文学的想像力を大いに刺激してきた精神分析とは違って、少なくとも狭義の精神病理学はあまり文学に影響を与えてはこなかったように思います。精神病理学的な思考を牧野修ほど見事に文学に応用している例を、私は知りません。

そして、もはや精神医学界内部でもあまり顧みる者がいなくなった精神病理学というアプローチを、SFとホラーという文脈の中で甦らせている牧野修を讃えているつもりだったのですが……そのように読むことができなかったのであれば、私の文章力の足りなさのためであり、深くお詫び致します。


http://psychodoc.eek.jp/diary/
投稿者:管理人
(承前)
端的にいって、解説文は
>滅び行く精神病理学への挽歌とそれを復活させた牧野修への頌歌
とは私には読めませんでした。
葬り去っていくものを復活させた(ことを納得させるにたる)論理が見当たらないからです。解説の精神科医的論旨からは牧野の作物を(嘲笑は出来ても)称揚することはできないと思います。
管見では、現実的治療には全く役立たなかったかもしれないが文学に多大な影響を与えた精神病理学の役割、というものを、認めてはじめて、牧野への頌歌は可能となるのではないでしょうか。

や、また論理がぐるぐる廻り始めてきたのでこの辺にしておきます(^^ゞ
ところで
>病者の了解不能性を認識し、その異質な思考を哲学の知見を駆使して説明しようとするのが精神病理学です
ということですが、「説明」できるためにはまず「理解」出来なければならないのではないのかな、と思ったのですが。それを私は「別の論理」といっているんではないかな、と。しかしまあ20年以上も前の記憶なので(^^ゞ
とりあえず宮本忠雄さん読んでみたいと思います。
木村敏さんはどうなのですか? 風野医師的にはやはり取るに足らないのでしょうか……。
投稿者:管理人
風野さん
わ、コメントに今気づきました。
返信が遅くなって申し訳ありませんm(__)m 上の文は、何の確認もせず記憶だけで一気に書いてしまったので、ちょっとやばいかなと思っていたのですが、やはり現実になってしまいました(汗)。

とはいえ、そういう勘違いや思い違いは(もとより勘違いや思い違いなんでしょう。ご指摘感謝します)とりあえず棚上げして書かせていただくならば(しかも本を友人に貸してしまったので手元になく、記憶で書くことになりますので、再び同じ間違いを起こすやもしれませんが……)、拙文の動機は、
――文学は所謂精神医学(や、同様に下火らしい精神分析学)から多大の恩恵を被ってきたのであり、牧野SFもその一端を担っている。その牧野作品の解説で精神病理学は滅んだといわれてもなあ、と一瞬ムッとしたことにあります(^^;。

もちろん私も、
>今の精神医学の主流が生物学と薬理学であるのはまぎれもない事実なのです。
ということは承知しているのですが、それを解説で明らかにして、牧野SFの成果に何をもたらすのでしょうか。
私自身は牧野の「一見了解不能な」人物の奥に一種共感できる何かを感じるのです。一般に牧野SFの読者はそうなのではないでしょうか。そしてそれはとりもなおさず「精神病理学」的なアプローチと軌を同じくする心的過程のように思われます。牧野自身は精神病理学的アプローチを、きっと否定していないはずです。牧野の内では精神病理学は滅びてないのでは?
(つづく)
投稿者:風野
風野です。

いろいろ誤解があるようですが、まず「精神病理学が滅びに瀕している」というのは日本も含む精神医学界の世界的流れであり、別に私が主張しているわけではありません。
英米圏でも単発的に精神病理学に関心を抱いた精神医学者や哲学者もいますが、学問としてはまったく定着しなかったのは事実です(精神病理学と、アメリカで発展した(といっても今はすっかり下火ですが)精神分析学は別ものです。また、セシュエーはイギリス人ではなくスイス人です)。

私も大学では精神病理学を専攻した者なので、この現状は残念なのですが、今の精神医学の主流が生物学と薬理学であるのはまぎれもない事実なのです。

また、「「言語新作」といえども、そこには「論理」があるのであって、それに気づきさえすれば何らわれわれと異なるものではない」というのは、精神病理学の立場ではありません。病者の了解不能性を認識し、その異質な思考を哲学の知見を駆使して説明しようとするのが精神病理学です。むろん、言語新作についての哲学的議論は元の論文には記してあるのですが、あまりに煩雑になるし牧野修から離れすぎるので解説という場では言及を避けました。宮本忠雄『言語と妄想』をお読み頂ければと思います。

私としては、あの解説を、滅び行く精神病理学への挽歌とそれを復活させた牧野修への頌歌として書いたつもりでおります。


http://psychodoc.eek.jp/diary/
teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ