大勝に気を良くして、浮かれ気分で競馬場から帰宅したら、冷水をぶっ掛けられるような事件が起きていた。
以前にも書いたように、我々の生死を分かつのは運、それだけである。その分、余計に命を突然奪われた人たちのことを思うと悲しい。
この犯人のようなモンスターは、昔から姿を変えて一定の頻度で出現する。このテの事件があるとやれゲームがどうとか、ネットがどうとか、格差社会がどうとかいう分析で世間は落とし所を見つけた気になっているが、時代の背景が今はたまたまそうなっているだけで、そんなものを分析したところで何の意味もないと思う。ゲームやネットがない時代にだって、モンスターはいたのだから。
またこの犯人個人の人生における、さまざまな要素が複雑に関係しあって出来上がった人格なのだから、環境だけを取り上げたり、この犯人とは一切関係のない過去の犯罪例からパターン化して、何かのせいにすることにも違和感を感じる。
こうした犯罪が起きるたびに思うのは、更正や反省や酌量を論じる余地のない所業がこの世にはあるのだということ。同種のモンスターによって引き起こされた光市の事件の判決、先日の江東区の女性殺人事件などを見るにつけ、思っていたことである。
彼らを裁く場合に、過去の判例やら、家庭環境やら、精神鑑定やら、そんなことは問題ではない。個々の犯罪そのものがキチンと断ぜられることでしか、裁判は成立しないはずなのだ。
秋葉原の事件と話は少し逸れてしまうが、もう少し続けたい。
今書いたような意見は、とかく感情論と片付けられるけれども、客観や冷静さに振れすぎるからこそ物の本質を見誤ることもあると思うし、それでは何の進展にもならない。
死刑廃止論議も、果たして死刑が極刑かどうか、死刑よりも被告にとって苦痛な刑が終身刑ではないのか、という視点から為されるべきであり、決して人命尊重という立場から語られるべきものではないと思う。ヒューマニズムもまた一種の感情論だ。
その点で、例えば評論家の武田徹に代表される「人命を尊ぶ社会を作るために、権力が人命を奪うという死刑制度は矛盾している」という意見は、死刑が犯罪抑止のためのものか、その意義は何か、被害者家族の心情を慮ることの重要性、世論との折り合い・・・などといった課題を、安易に理想論で摩り替えて棚上げした、極めて悪質なものと言わざるをえない。ましてや安田好弘弁護士などは論外だ。
さらに話は横滑りしてしまうが、冤罪を防ぐための人権保護と、すでに犯罪を犯したことが確定している人間の量刑における人権保護とが、この国ではゴッチャにされているような気がしてならない。その点で、あくまで個人的には、人権という言葉が、被害者より加害者=被告のために使われる風潮には強い反感を覚えるものである。
他者の人権を安易に奪った者の人権をどう考えるか。その答えは、意外にもこれまで全く明らかにされていないと思うのであるが・・・。
なお先週の競馬については、次回にでも。

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