2012/1/22
邪馬台国と卑弥呼-194 白村江の戦い 邪馬台国と卑弥呼

白村江の戦い
天智天皇の白村江の戦いでの惨敗は、日本の歴史の大きな転換点となり、もともとの皇祖神は三輪山のタケミムスヒでありましたが、その後の天武天皇の時代に伊勢神宮のアマテラス信仰がはじまります。
その白村江の戦いとはどういったものなのか、また勘違いされている人が多くいるようなので、日本人のルーツ、稲作のルーツ、日中朝の関係についてもDNAなどの科学的分析結果やそれぞれの国の正史に裏付けられた、正しい歴史を述べたいと思います。
------------------- 血液型から見た日本人のルーツ---------------------
ご存知のとおり、ユーラシア大陸の東端に位置する島国の日本には、北はロシアから、モンゴル、中国・朝鮮、そして南洋と様々な人々がやってきて、日本人はそれらの人々が混血し形成されています。
現在の科学で分かっている、日本人の起源と血液型についてお話したいと思います。 邪馬台国を考えるときにも、こういった科学に基づいたベースを押さえた上で、議論しなければなりません。
約2万年前頃から、黒潮に乗り、日本に漂流してきたのは、ポリネシア人の先祖と言っても良い、南方系でO型の血液をもった人々であることは確実視されており、縄文人の祖先であります。
次に、1万4000年前頃に、「インド・満州型」と呼ばれる血液型Bの多い人たちが、シベリアから樺太・北海道を経て日本にやってきました。
そして、今から5000年〜2000年前から、 「湖南型」と呼ばれる血液型Aの多い人たちが江南の地からやってきて、稲作を日本に伝えてくれました。 これが弥生人で、邪馬台国をつくったのもこの人たちであります。 特に、中国江南の長江文明をつくった人々は、気候の寒冷化と共に漢民族(黄河文明)の南下により、何度も台湾、沖縄、日本列島、朝鮮半島に海流に乗って逃れてきました。
この3度の大きな人々の移動により、日本人の原型が形成されています。 いうまでもなく朝鮮半島とは距離が近いので多くの交流があったと思われますが、むしろ倭(日本)から鉄を求めて朝鮮半島の南側に多く移住し、鉄を取り合っていた事が「三国志韓伝」にも書かれています。
-------------------- 中国江南から伝わった稲作 --------------------
人の流れのイメージとすれば、以下のようなもので、稲作も江南の海人族から日本に伝わった事が、DNA分析から明らかとなっています。

半島南部の韓人は基本的に海洋民ではなかったことと、黒潮の支流になる対馬海流の流れが速いこともあって、韓人が積極的に海船で出かけた様子はないようです。
稲作も、朝鮮半島から日本に伝わったと信じている人もいるようですが、今日の科学分析の結果、また長江文明の発掘・研究により否定されています。
稲作を最も古くから行っていたのは、長江文明の人々で、半農半漁の海人によって、この中国江南から日本に直接伝わっています。 日本では、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールが発見され、縄文中期には稲作(陸稲)が行われていた事が知られています。
ちなみに、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本よりさかのぼれないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の証拠から、日本に伝えられたのは中国江南である事が分かっています。
現在、炭素14による日本最古の水田稲作遺跡は2800〜3000年前と、日本での水田跡が紀元前まで遡るのに比べて、朝鮮半島では水田耕作の遺跡が1500年前くらいまでしか遡れない事実と、朝鮮の正史にも書かれているように4〜5世紀に、日本が朝鮮半島南部に侵攻し、百済・新羅を属国としていた事実からも、水田は日本から朝鮮半島に伝えられたものである事が明らかとなっています。
日本に稲作を伝えたのは、漢族におされて今日では少数民族になった長江文明をきづいた苗族で、稲作、味噌、醤油、納豆、餅、鵜飼、などもルーツは苗族で、稲作と漁労をなりわいとする海人族であります。 また、魏志倭人伝にも、「倭の風俗は儋耳・朱崖(=海南島の地名)の俗に似たり」とあります。
Wikipediaで長江文明を検索しても、「長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。」とあります。
倭族がつくった滇王国(雲南省)の歴史は、日本の稲作(水稲)のはじまりや、邪馬台国の歴史の時期と一致しており、特に滇王国の女帝シャーマンの存在は、卑弥呼を連想されるもので、大変興味深いと思います。 今後の、調査・研究に期待したいところであります。
滇王国は、魏・蜀・呉の三国時代、蜀の劉備玄徳の宰相、諸葛亮孔明が225年に軍を発向し、軍を三軍にわけ各地の地方豪族を討伐した後、建寧で合流して滇地区に入り、滇王国の都は陥落してしまい、長江文明の流れを汲む中国での最後の王国は幕を閉じましたが、
しっかりと長江文明は日本に伝えられ、稲作祭祀王である天皇を中心に、大事に受け継がれています。
苗家美
http://www.youtube.com/watch?v=_hLaJFjqjPQ&feature=related
阿幼朵 - Keaide Miao Xiang
http://www.youtube.com/watch?v=FM74XdWTXMo&feature=related
Legend of Xixi EVO (Miao Folk Song), Ayouduo
http://www.youtube.com/watch?v=Xgp86bg2mW8&feature=related
邪馬台国と卑弥呼-38 苗族の温家宝首相
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1285.html
邪馬台国と卑弥呼-45 滇(てん)王国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1292.html
知られざる文明、滇(てん)王国
http://www.youtube.com/watch?v=rtNaycM308U&feature=related
邪馬台国と卑弥呼-130 破格の扱いのムク金印
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1505.html
--------------------- 遺伝子YAP+と日本人のルーツ -----------------
また、男性は父からY遺伝子を受け継ぎますが、そのY遺伝子の中のYAP+の世界的分布をみると、日本人男性の約42%がYAP+の特殊な塩基配列を持っています。 このYAP+は、アフリカ、地中海沿いの中東からイタリア南部、アルタイ、チベット、インド洋のアンダマン諸島、エスキモー、アメリカのネイティブインディアンに特徴的に見られるもので、何と近くの中国、韓国の人々にはほとんど全く見られない遺伝情報です。 おそらく中国南部や長江の人々もYAP+をもっていたものの、漢民族の南下と長江文明の男性の虐殺により、今日ではいなくなっているものと推測されます。

Geographic map showing the Frequencies of the DYS199T(Blac),the DYS199C(open),and YAP+(grey)alleles in the 20 Asian and nine New world samples in the survey
日ユ同祖論とDNA
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1042.html
------------------- 世界最古級の定住革命と日本文明 -------------------
それと、多くの人々が勘違いしているのは、文明はメソポタミアが発祥で、その後、エジプト、ヨーロッパ、アジアに伝わったため(これは基本的には正しい)、日本の文明は必ず中国から朝鮮半島を通って伝わったと思い込んでいる事です。
現実、世界で発見された最古の土器は、青森県の大平山元遺跡から発見された1万6500年前のものであり、メソポタミア最古の土器は6500年前のものです。 また世界最古の塗装技術、漆塗りは福井県若狭町の鳥浜貝塚で発見された1万2600年前のものです。
日本文明
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1082.html
文明は、火や道具を使い、集団で住み社会生活をおくる事が基本となりますが、
1万4500年頃前に、氷河時代(ウルム氷期、最終氷期)が終わり、後氷期といわれる温暖な時代へとなりますが、この気候の激変は凄く、50年くらいで、気温は7度上昇しています。 そして、この気候変動により、大半のマンモスは絶滅してゆきます。
日本列島では、この1万4500年前から縄文文化が始まりますが、ここで世界の人類史的にも大きな変化は、「定住革命」であります。
日本列島は、1万4500年前の急激な温暖化のときに、世界に先駆けて温帯の落葉広葉樹の森が拡大します。 日本海には対馬暖流が流れ込み、この蒸発する大量の水が、冬には日本海側に大雪をもたらし、落葉広葉樹の生育に適した海洋的風土が世界に先駆けて、いち早く形成されるようになりました。
土器をつくるには柔らかい土、水、焼くための燃料となる樹木が必要で、森林土壌が必要となりますが、日本の東北地方で、そのような気候が形成され、また定住を始めたため、世界に先駆けて土器がつくられるようになったのです。
日本列島で、縄文人たちが土器を作り、森の中で定住革命をやり、家を作ったという事は、おそらく世界で最初に家族(制度)を成立させたと考えられており、日本の家社会の原点は縄文時代にあるわけです。
定住し、優れた都市機能があった証拠に、寄生虫の分析をしたところ、ベンチュウの卵が一ケ所から集中的に発見されており、排泄物を一ケ所で集中管理するということは、都市持続の重要な要件で、人類がもっとも苦労しきたのは、上下水道の分離であります。
死者の埋葬は他の動物には見られない人間だけの習慣ですが、世界最古級の古墳は、約2万年前の大阪府藤井寺市のはさみ山古墳。
世界最古の貝塚も昭和25年に、日本の三浦半島で発見された1万年近く前(縄文時代早期前半)のもので、自然への感謝の気持ちを込めて貝を埋葬したものであり、日本の文明の古さや日本人の精神文化の高さは、まさに世界に先駆けた定住生活がもたらしたものであるといっても過言ではありません。
前置きが少し長くなってしまいましたが、まずは事実関係を認識しておく事は重要です。
------------------------- 日本と朝鮮半島の関係 --------------------
日本と朝鮮半島の関わりですが、朝鮮半島の騎馬民族が日本を支配したというのは全くのデタラメです。 だいたいにして、肉食の騎馬民族が、肉食をやめて稲作と漁業を営むようになり、朝鮮語を捨てて日本語を喋るようになったというのもジョークを通り越しています。
日中韓の正史にも書かれているように、力をつけた大和朝廷が4〜5世紀に朝鮮半島に進出し、百済と新羅を属国にしたというのが事実です。

広開土王碑
「広開土王碑」には、「もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。」 と公開した碑に刻まれています。
また、朝鮮半島の正史である「三国史記」にも、「397年に百済は倭国に太子を質に出した、402年に新羅は倭国に王子を質に出した」と記述があり、
中国の「宋書倭国伝」には倭王を新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸を軍事的に支配する「安東大将軍」に任じたと記述してあり、
「日本書紀」にも日本が新羅・百済を支配していた記述があります。
全く違った系統の歴史書で話が一致しており、中国・韓国・日本のどの文献にも、日本が朝鮮に支配された記述はなく、日本側が支配していた事は疑いようがありません。
また、朝鮮半島南部にあった任那日本府の存在、さらに日本には朝鮮の行政機関がなかった事からも、日本側が支配していた事は明らかです。
一級資料見つかる 新羅は倭の属国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1496.html
日本の属国であった新羅と百済
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1044.html
邪馬台国と卑弥呼-176 日本への朝貢
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1554.html
額田王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/528.html
これまた、韓国の人は認めたくないでしょうが、朝鮮には朴、昔、金の三王朝がありますが、新羅の初代国王・赫居世(ヒョッキョセ)王は、倭人で海を渡って来たと、朝鮮の正史「三国史記」に書かれています。 また、後漢書、三国志によると、弁韓の南に漢族とは異なる分身の習俗を持つ倭人のいた事が記されており、その彼らの国は加羅(から)、または伽耶(かや)と称されています。
また昔王朝も倭人の脱解が開いた王朝である事が、朝鮮の正史「三国史記」に書かれています。 そして、唐書には新羅は苗族の子孫とあり、私も多くの投稿をしているように、倭(日本)も苗族がルーツであります。
邪馬台国と卑弥呼-158 天之日矛 と 都怒我阿羅斯等 そして 素戔嗚尊
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1535.html
邪馬台国と卑弥呼-23 日本人新羅王 脱解王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1270.html
邪馬台国と卑弥呼-43 苗族と素戔嗚尊
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1290.html
また、大和朝廷の力は凄く、仁徳天皇稜の前方後円墳は、エジプトのピラミッドや、中国の始皇帝稜より大きい事も知る人は少ないでしょう。


仁徳天皇稜 vs エジプトのギザのピラミッド vs 秦の始皇帝陵 の大きさ比較
[埴輪の数:仁徳天皇稜20,000基、秦の始皇帝陵8,700基(戦車100、陶馬600、武士俑8,000)]
---------------------------- 白村江の戦い --------------------------
話を白村江の戦いに戻しますと、百済最後の義慈王(在位:641年 - 660年)の王子、余豊璋は人質として日本に出されてた660年に唐・新羅によって百済が滅ぼされました。
宗主国の日本は天智天皇が百済復興支援のため、余豊璋を連れて百済に行き、唐・新羅と戦いましたが、これが白村江の戦い(663年)です。
しかしながら、余豊璋は戦いの途中で逃亡。 戦いの意味を失った日本軍は総崩れとなり、余豊璋は逃亡するも捕らえられ、唐に連行され、嶺南(中国南部)地方に流刑。
白村江の戦いで、百済は完全に滅亡し、貴族・職人・多くの奴隷階級の百済人が日本に逃れてきました。 これが、多くの百済人が日本に移住した原因であって、百済が日本を征服したのではありません。
天智天皇は百済人を暖かく迎えましたが、政治に関与する権限は与えておらず、事実として、天智十年に登用された天智朝の大臣等の人事にも百済人は含まれていません。
ちなみに三国史記は朝鮮の正史で、これは中国と朝鮮の正史に書かれた事実であります。
------------------- 額田王 熱田津の歌 万葉集 -----------------------
この白村江の戦いに出るとき、伊予の松山で額田王が詠んだ歌が、万葉集に残されています。
「熱田津(にぎたつ)に船乗りせんと月待てば 潮もかないぬ今は漕ぎいでな」
(意味)
熟田津で船出をしようと月の出を待っていると、いよいよ月も出て、潮も満ちて航海に都合よくなった。さあ、こぎだそう。
額田王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/528.html
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