2009/10/28
マキアヴェリ -15 マキアヴェリ挫折 マキアヴェリ
「君主論」を執筆したマキアヴェリでしたが、運命の女神はマキアヴェリに微笑んだわけではありませんでした。 新教皇の後押しで、エミリア征服に乗り出すかに思えたジュリアーノの計画は、たんなるマキアヴェリの夢で終わってしまいます。
ジュリアーノは、その後、フランス王フランソワ1世から、ヌムール公の称号を得て、急逝してしまいました。 次にマキアヴェリが目をつけたのは、メディチ家の若い当主ロレンツォ2世(1492-1519)で、彼はフィレンツェの最高指揮官に任じられ、のちにウルビーノ公にも封じられます。
しかし、おそらく、この書物はロレンツェに献呈されたものの、相手が実際に目を通したかどうかは判然とせず、本そのものも、手稿の形で身近な人に読まれただけで、最初に刊行されたのは、ローマのブラード版(1532年1月4日)と、フィレンツェのジュンティ版(1532年5月8日)でありました。
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