言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2008/5/2
軫念と旅の関係
20・5・2
今朝のメッセージの映像は、旅の場面であり、言葉のテーマは「しんねん」であった。
いま、PCで「しんねん」を検索すると「信念・心念・宸念・軫念・新年」と五つ有る。是を見て、「宸念・軫念」の言葉が有る事を、始めて知った。
其の言葉の意味は、漢語林に次の様に載っている。
「宸念」天子の考え。宸襟。
「軫念」は、天子が心を痛めること。また、天子の心。と説明されている。
是は、私も驚きである。
其れは、昨日「目が痛む」の意味の「督」の文字が伝えられて来た事と、今朝の「軫念」の「天子が心を痛めること」が、繋がっているからである。
此の現象は、平成元年1月24日に「昭和天皇霊」に告げられた、「吾が身 すでに遠く 良き代を 願い奉る」と、1985年1月10日に天智天皇霊に告げられた「神籬の 代よの乱を盃に 菊一輪と まわし飲み」の言葉に込めた、両天皇霊の念いが、今も生き続けている事を示している。
おまけに、明日は5月3日で「憲法記念日」である。
其の、憲法記念日を前にして、目が痛むの「督」と、天子が心を痛めるの「軫念」の文字に拠って、二日続けて伝えられて来た事は、非常に重要な意味を持っている。
其れは、私が24年前に、人類の未来を任された事と、確かに、連動している出来事であり、其の事が、いよいよ此の三次元世界に、現実化しようとしているのだろう。其の事に気が付けば、改めて、身が引き締まる想いがする。
しかし、其れに気付いても、未だ私には、真からの理解者も無いし、資金も無い。
有るのは、是まで旅を続けて来て、知り得た情報と人材ぐらいの物である。
此処まで書いて来たら、今朝のビジョンの意味が解けて来た。
今朝の映像は、私が一人旅を続けて居て、団体旅行をしている人達と合流する為に、同じ大型バスに乗る必要が出て来た場面であった。
しかし、私が、世話に成っている人の自宅二階の部屋に、荷物を取りに帰っても、未だ、干して有る洗濯物は畳まれていないし、押入れの物も、バックに詰められてもいないのである。
私の意識は、是では、出発の時間に間に合わないので、団体には先に行って貰うしかないと想った処で、其の映像は終わったのである。
そして、其の旅の様子が、何であるのかを考えていると、「しんねん」との言霊が脳裏に浮かんだのである。
今朝のメッセージの内容は、「天子・天皇・ミカド・帝・スメラミコト」に成る者は、若い時に一人旅をして、将来、自分が治める事に成る国土を、見て回る必要がある理・ことを示している。
そして、其の国の民が、幸福である事を、第一儀としなければ成らないのである。
其れは、自分が、王として贅沢をする為に、国民に、重税を掛ける事とは反対の世界である。
其の事を考えると、インドの釈迦族の「ゴータマ・シッダッタ王子」が、国民の貧困や病を視て、城を出た事の理由も頷けると言うものである。
そして、今朝のメッセージと、明日が憲法記念日である事の関係を考えると、政治の在り様を、是からどうするかを、考えなければ成らないとの事ではないだろうか。
其れは、今朝の場面が旅であったので、先ず、旅の意味を考えなければ成らない。
現在の、日本の歴史の基は「神武天皇」からと成っているが、其の神武も南九州を出発してから、奈良で政・まつりごとを始めるまで、16年半の間、旅を続けた事になっている。
其れに、神武より三代前に遡ると、「饒速日命・にぎはやひのみこと」や「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」も渡来人の旅人であり、其れより五代前の「素戔鳴尊」も大陸から遣って来た旅人である。
其の事を考えると、王・帝と成るべき者は、若い時に、旅を体験した者でなければ成らないと謂う事に成る。
其れも団体旅行ではなく、自由な一人旅でなければ成らないのである。
其の点で言えば、現在の天皇家の息子は、何処に行くのにも、護衛や世話役が付いて居るので、自分でキップの手配をしたり、自分で泊まる所や、食べる物を選ぶ事も出来ない。
其れは、人形の移動であって、人間の本来の旅と言えるものではないのである。
本来の、日本語の「たび」の意味は「家を離れる」であり、漢字の「旅・リョ」は、軍隊が旗を立てて移動するの意味だから、本当の「家離・たび(自由に成るの意)」ではない。
旗を立てて、集団で移動するのは、現在の日本人の遣っている団体旅行と同じであるから、其の意味では、団体旅行は旅の漢字と合っている事になる。
だから、今朝ビジョンに現れた、団体客が乗り込むバスは、旅用の物だったのであろう。
其れに、私は、個人住宅の二階に厄介に成って居たので、「たび」で一個人と親しく成っている事を意味している。一方団体客の「旅」は、ホテルか旅館に金を払って泊まっているのだから、私の個人的な「たび・タビ」とは、全く赴きが違っている事になる。
今朝、私が、旅の事で理解できて来た理・ことは、イエスや釈迦の様な精神的な聖者は、無一物のタビ人であり、松尾芭蕉や種田山頭火等の歌人も、其れに類する者だと言う事である。
其れに準じる者が、円空やレオナルド・ダ・ビンチやモーツアルト等の芸術家である。
彼等はタビ人ではあるが、技術者なので、物や道具が必要であるので、一定期間同じ所に留まる必要があるのだ。
其れに対して、素戔鳴尊や「饒速日命」「瓊瓊杵尊」、其れに「神武天皇」等の政治に関わった者は、タビは若い時の一時的なものであり、新転地に着けば、其処に定着して「政・まつりごと」を、始めなければ成らないのである。
其れが、「精神的な聖者」と「芸術家」と「政治家・王」の、三つの役割の違いであろう。
其の、三通りの男性のタビから考えれば、私の役割は、どれに当るのであろうか。
詩を書く事や、文章を書く事を考えれば、芸術家の分野に成るし、杖を付いて旅に出れば、イエスや釈迦の様な聖者のタビ人に成る。
そして、是から法律を制定して、政・まつりごとに手を染めれば、政治家と言う事に成ってしまうのだ。
其の、三様の選択の鍵が、昨日告げられて来た「木督」と、今朝示されて来た「軫念」の概念であろう。
しかし、何故この様な一番大事な言葉が、私が61歳に成るまで、耳に届かなかったのであろうか。
其れは、学校の教育や、マスコミの報道の中に、其の言葉が使用されず、又其の説明が為されないからである。
其れは、戦後から続いて来た教育が、天皇制に偏見を持つ、日教組の教師達の影響を受けたからであり、自民党政府も彼等に気を使って、其れ等の言葉が、教科書から消え去る事に、目を瞑って来たからであろう。
しかし、其れは、人間が人間として生きて行く為の、一番大事な尊厳を、失う事に繋がってしまったのである。
其れは、父性を失うどころか、「ゴッド・天父」の存在を忘れてしまう程の、効果を上げてしまっているのだ。
本来の「民主主義」の概念は、「天の父の下での 万民の主権」である。
其れは、天父の心が、痛まない社会を創出する事が、人間の正しい生き方である理・ことを意味している。
今朝のメッセージは、其の理を理解する為には、「たび・家離」が必要である事を、示して来たのであろう。
私は、一応、18年間日本国内をタビして、2002年4月24日に屋久島に還って来て、丸6年が経過した。
其の6年の間に、新たな人生が始まっているし、こうして毎日、天からのメッセージを受けて文章にしている。
だから、昨日と、今朝のメッセージで伝えられて来た、人民の暮らしを見詰める目は、養って来ている自信は有る。
其れが、是からどう生かせるのかは、また明日のメッセージで、知らされて来るのではないだろうか。
先程、神奈川の高橋智恵美さんより電話が有り、今朝のビジョンに「天照が継ぐ」との文字のメッセージと、茶色の服が出て来たとの事であった。
私にも、茶色の服を作る様に指示が来ている。
神界では、確実に、物語が出来つつあるのだろう。
此処まで書いたら、私の左後頭部が痺れて来た。何かの現象が、動き出している事は間違い無い様である。
明日5月3日は憲法記念日で、現憲法は私の生まれ年と同じ、1947年に発布され、私の在家得度の戒名も「護法」である。
そして、私の息子は、明日で20歳を迎えるが、其の息子が生まれた朝、告げられて来た名は「嵩靖・しゅうせい」で、意味は「高き所に立ち 国を靖かにする。」との意味である。段々と、現象は煮詰まって来ている様である。
「かんながら たまち はえませ」の言葉が、必要なトキを、向えたのかもしれない。其れは、日本国の国土を護る神が、発動するとの事であろう。
平成20年5月2日
礒邉自適
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