言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2015/2/5
釈迦如来の笑顔
27・2・5
今朝のメッセージは、先ず未明に、俳優の「西田敏行」らしき人物が、医者として有名に成って、テレビ番組に登場して、病気や健康などの事に付いて、話をしている様子が示されて来た。
次に、其の西田敏行の姿が、私の弟として登場し、飼っている和牛に餌を与えないで、昼寝をして居るので、私は、其の弟に「一日 餌を与えなければ 何万円分も痩せてしまう」と云って、怒っていた。
其の映像が、何を意味しているのかを考えていて、眠れなく成ったので、一度起きて電気を点け、其れが現実では無い事を確かめてから、再び眠りに入った。
すると明け方に、部屋の障子の隙間が開いている様子が、映し出されて来て、建具の立てつけをしっかりして、隙間が無い様にしなければ成らない理・ことが、示されて来た。
そして、「9月21日」の日付・数字が示されて来た。
其れから明け方に、照明器具の無い薄暗い長方形の長い部屋か、通路の様な空間が現れて、右側前方の壁を突き破る様にして、光に包まれた釈迦如来の上半身が現れた。
其の釈迦如来の顔の表情は、慢心の笑顔で私の方を視ていた。
私は、其の釈迦如来の笑顔を見て、全ての事が完成したのだと意っていた。
いまPCで「西田敏行」を検索すると、下記の様に載っており、年齢は私より9ヶ月下で、明治大学農学部中退と成っているので、農業と無縁ではないが、其れは関係なく、西田敏行の名前に関係が有り、其れは釈迦の世界と関係が有るのだろう。
仏教では、「西方浄土」との言葉が有るので、西田敏行とは「西に 敏(すばや)く 行く」との意味を、表しているのだろう。
そして、テレビ番組に医者として登場して居たのは、病気に成る事は人間の最大の悩みであり、職業としての医者が繁昌すると言う事は、人間社会のカルマ・業が激しい事を、示唆しているのであろう。
其れに、牛は釈迦が生きたインド国では、神様として大事に扱われている生き物である。
其の牛を、牛舎にロープで繋いで飼う事は、草原で自由に生きている牛を、小屋に閉じ込める事であり、其れは、牛の自由を奪うだけではなく、毎日餌を与えなければ成らない人間側にとっても、凄いカルマ・業であると言う事に成る。
西田 敏行1947年(昭和22年)11月4日 -日本の俳優、歌手、タレント、司会者。 福島県郡山市出身。オフィスコバック所属。明治大学付属中野高等学校卒業、明治大学農学部中退。身長166cm。体重80kg超。主演の映画『釣りバカ日誌』は1988年から2009年まで22作続いた代表作
ウィキペディア辞典 現在記載
今朝のメッセージの映像は、何を意味しているのか、全く解からなかったが、釈迦仏陀の姿が、満面の笑顔の如来として現れたので、今朝の映像の意味が一気に解かれて来た。
そして、「921」の日付・数字は、「921・国一」で、「国で一番・国で一人」の意味を示しているのではないだろうか。
今朝の映像での、釈迦の登場の仕方からすると、釈迦が謂ったとされている、「私は、衆生一切が救われて、悟りの門を潜るまでは、門の外に居て、最後の人が門を潜ったら、最後に自分が中に入って 扉を閉める。」との事が、今朝目的が果たされた事が、示されて来ているのではないだろうか。
其の様に考えると、今朝の映像で、笑顔の釈迦が、通路の様な壁を破って現れた事の意味も解かるし、其の長い通路には、人陰が一切無かったので、もう釈迦の謂う「門」を潜る必要は、無くなったと言う事であり、釈迦自身が自分の謂った言葉のカルマ・業から、解放されたと言う事にも成るのであろう。
いま漢語林で、西田敏行の「敏」を調べて見ると、次の様に載っている。
「敏・ビン・とし」は、形声。「攵(支)+毎」の組み合わせで、音符の毎・マイ=ビンは、晦・カイなどに通じ、くらいの意味。意識にははっきりとのぼらないうちに事がすすむさまから、すばやいの意味をあらわす。また、勉に通じて、つとめるの意味や拇・ボに通じて、親指の意味をも表す。
【字義】@とし。㋐すばしこい。すばやい。「機敏」㋑さとい。かしこい。「俊敏」「明敏」Aつとめる。「勉」Bつまびらか。C足の親指。
漢語林
此の敏の漢字が、「くらい・暗い」の意味を持つのなら、今朝の映像で釈迦が現れた通路は薄暗い部屋・通路の様な空間であり、「天のお臥す間」の障子・襖の隙間を無くす事も、部屋を暗くする事である。
其れに、釈迦の姿が壁を突き破って出て来た姿は、「親指・拇・ボ」の様な形でもあった。
其れを考えると、此の世界は明るい表の世界に出ない方が、敏活・敏行・敏捷・敏・敏腕・俊敏に出来ると言う事であり、「すめらのみこと」の「御稜威・みいつ」の在り方が、どの様なモノであるかが良く理解されて来る。
平成27年2月5日
礒邉自適
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