言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2017/12/26
放送席どうぞ
29・12・26
今朝は一眠りすると、意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「0時54分」であったので、私は其の数字を「054・れいごし・霊語死」と記憶した。
其れから再び眠りに入ると、今度は、私が禊ぎ祓いを行って4311体の聖霊に満たされた、自宅前の安房川が映し出されて来た。
そして、河口に近い其の場所が、大潮なのか水位が下がっており、白い砂浜と成っていた。
其の砂浜で、私が様々な芸を演じて居り、其れに数名の詩人や演劇のプロフェッショナルである年配男性が加わって来た。
其れ等の人々が、交代で演じている芸事は、普通のモノではなく、一般人の考えと謂うか、概念を、全て破壊する様なモノであり、其の中でも私の破壊力にはパワーが籠もっていた。
特に、言葉の世界に関して著しいモノが有って、単語の使い方が、現代人のものとはかけ離れているので、一般人の頭が破壊されてしまう様な雰囲気であった。
其処で「放送席どうぞ」との言葉が一言告げられて来たので、其の意味を考えていると意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「6時1分」であった。
今朝のメッセージは、言葉の世界に関係が有り、現代人が使用している言葉は、言霊(ことだま)が死んでしまっており「語死・死語」に成ってしまっている理・ことが示されて来ている様である。
今朝は起こされた時間「6時1分」に関して、昨日文章を書き終えた時間が11時1分で、其の数字が気に成ったので11月1日を調べると「大掃除」であったので、今朝は先ず6月1日の文章に目を通すと、次の様に書いて有る。
2017/6/1・・今朝のメッセージの映像は、先ず、私が子供の頃から営んで来た農業を止めて、25歳頃から「不動産業」其れに、「化粧品店」と「宝石店」を始める切っ掛けと成った、東京の「河合養治」の存在が映し出されて来て、其の河合養治が大きな本を閉じる事で、私に関する物語が終わる事が示されてきた。
そして次に、永遠の世界がテーマで、書き出さなければ成らない、私の文章の存在が映し出されて来て、其の文章の下に記されている「年月日」と私の名前「礒邉自適」が消えて、其の部分が空白に成る場面が映し出されて来た。
そして、「自分の事を しっかりと考えろ」との言葉が告げられて来て、「ワーク」との言葉が示されて来た。
其れから、再び電気を消して眠ると、上部の枝葉は全く見えないのだが、白い木肌をした大きな木が一本、大地に真っ直ぐ立っている場面が映し出されて来て、其の大木の根本から、一本の蔓(孫生え・ひこばえ)の芽が出て、伸び始めており、其の蔓は二股に分かれて、天に向かって伸び上がって行く事が示されて来た。
其れから、其の高く天に伸び上がっている樹木は、「あめのときわのき・天の常盤の樹」との名前の存在である事が、理解されて来た。
そして、其の樹木の存在は、私自身の存在と関係が有り、私の精神構造の有り方・仕組みを示唆しているモノである事が、理解されて来た。・・
其の様に考えると、東方の守護神である「水」と「智慧」を司る「青龍・せいりゅう」よりも、太陽エネルギーの存在を意味する、南方の守護神である「朱雀・すざく」の方が、力を増して来ると言う事にも成りそうである。
其れを考えると、「智慧」とは、水に記憶される過去の叡智の記憶・記録を意味し、全く新しいアイデアを生み出す為には、過去の情報は邪魔な物であり、新しい発想を起す為には太陽の「エネルトーン」が必要であり、「月讀界・つきよみかい・冥府」をイメージする「瞑想・座禅」の世界は、役に立たないと言う理・ことなのかも知れない。
其の様に考えると、左眼から生まれる「月讀界・右脳」の働きから、右目から生まれる「天照界・左脳」の働きへ、意識の足軸を、変えなければ成らないと言う事に成る。
其れは、顕在意識で言葉や文字・数字を扱う事に成るので、精神世界の手法よりも、科学者の手法(思考体系)で、物事の理論を組み立てて行く事に成るのであろう。
其の様に考えると、今朝の映像に映し出されて来た、永遠性がテーマで書き興こさなければ成らない文章から、「年月日・時間」が削除され、礒邉自適の名前も消えてしまった事は、私の是までの文章表現や、メッセージ受信の有り方も、変革が迫られている事に成る。
其れは、私自身が、自分の頭脳の扱いを変えなければ成らないと言う事に成るので、先ずは、其れがどう言う事であるのか、自分自身で確認する必要が有るだろう。
其れを考えると、昨日映像で、文章の書き出しの部分が空白であり、「お世話に成りました」との言葉が告げられて来て、「ニュートン」との名前・言葉が示されて来たのは「新トーン」との意味であり、25日に示されて来た「エネルトーン」の「トーン(音調・色調)」は、「度合い」の意味が有って、新しい度合いで、物事を考える必要が有ると言う事ではないだろうか。・・
此の常盤・ときわの意味からすると、私が是まで、33年間で積み上げて来たと言うか、理解して来た物事の認識情報は、磐石な物として天に通じる「神籬・ひもろぎ」として、完成している事に成り、其の基礎・基盤は、地球上の「磐境・いわさか」に有ると言う事に成るのではないだろうか。・・
そして、其の事が、私の精神構造の有り方・仕組みに関係が有るとの事は、其の磐石な常盤の神籬(ひもろぎ)は、私の意識と共に立ち上がって、天に通じている物であり、其の完成した神籬(ひもろぎ)からは、新しい「孫生え・ひこばえ」が育っていると言う事で、其の蔓樹は二股の形態で、天界まで伸び上がって行くと言う事である。
其れは、「魂魄・コンパク」の両方の世界を示唆しており、是からも「魂・たましい」の情報系と、「魄・DNA・遺伝子」の情報系が、揃って成長して行くと言う事であり、其れは「天津日嗣・あまつひつぎ」の世界が、新しい「ビジョン(エネルトーン)」で示されて来た物であり、其れは「全系の嚴(みいつ)」と関係が有るのだろう。
其の様に考えると、今朝の映像で、トマトの畝に立って居た「潜在意識の主」の姿は「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎ くまのおおかみ くしみけぬのみこと」の姿だったのではないだろうか。
何れにしても、「6月1日7時1分」を持って、「常盤の神籬・ひもろぎ」が立ち上がったと言う事であり、「照世、照の富士」の「天津日嗣・あまつひつぎ」は、磐石な物として完成したと言う事に成るのであろう。
今朝の未明の映像で、河合養治の手で閉じられた物語の本は、昨日最後に男性の声で告げられて来た、「モノグラフィー」との言葉と関係が有り、其の声の主が今朝、畑のトマトの横に立って居たのではないだろうか。・・・
「総合無意識の主(あるじ)」http://green.ap.teacup.com/20060818/4258.html
今朝は、文章の題は「海馬の大掃除」としようかと意ったのだが、今朝聴こえて来た「放送席どうぞ」との言葉が気に成るので、其れを題とした。
何故、私が「海馬の大掃除」にしようかと考えたかと謂うと、海馬は人間の「記憶の貯蔵庫」だからである。
【海馬】(かいば、英: hippocampus)は、大脳辺縁系の一部である、海馬体の一部。特徴的な層構造を持ち、脳の記憶や空間学習能力に関わる脳の器官。
その他、虚血に対して非常に脆弱であることや、アルツハイマー病における最初の病変部位としても知られており、最も研究の進んだ脳部位である。心理的ストレスを長期間受け続けるとコルチゾールの分泌により、海馬の神経細胞が破壊され、海馬が萎縮する。心的外傷後ストレス障害(PTSD)・うつ病の患者にはその萎縮が確認される。βエンドルフィン(=脳内ホルモンの一つ)が分泌されたり、A10神経が活性化すると、海馬における長期記憶が増強する。
神経科学の分野では、海馬体の別の部位である歯状回と海馬をあわせて「海馬」と慣例的に呼ぶことが多い。本項では海馬のみならず、歯状回についてもあわせて言及する。・・・
ウィキペディアフリー百科辞典 2017/12/26現在
今朝のメッセージの内容から、私に考えられる事は、旧約聖書に記されている「蛇が勧める知識の林檎を食べる事」と、釈迦牟尼佛の「十二因縁起」の教訓との関係性である。
其れは、人間が海馬に詰め込んでいる「知識・情報」が、神に通じる行為の最大の邪魔に成る物であり、昨日のメッセージの「神官」と「斎宮」の世界にとって、一番の問題であると言う理・ことが示されて来ている事に成るからである。
旧約聖書では、其の蛇が勧める知識の林檎を食べたアダムとイブは、神の世界である「エデンの園」を追放されているし、釈迦牟尼佛も言葉の存在が「覚醒・成仏」の最大の邪魔物であると謂っている。
其れに、イエスキリストは「建物には神は住まない。同じ言葉を繰り返すな。人前で禱るな。」と謂っているので、現代社会の「教会・神宮・寺院」で儀式に明け暮れ、毎日・毎度、同じ文章・言葉を繰り返している者達は、神に通じている人々では無いと言う事に成るのである。
其の点に於いては、私は「祝詞」や「お経」を全く唱えられないので、問題が無いのであろう。
其れ等の事を考えると、「冬至」の日に告げられて来た「癒しの殿堂」との言葉が、どう意味合いが有るのかが、理解されて来る様な気がする。
其れは、禱りの儀式・作法を習ったり、禱りの言葉を覚えたりするモノではなく、海馬の大掃除をして、心身のリラックスを図り、体調と精神のバランスを整える事にあるのだろう。
「癒・ユ」【解字】形声。篆文は、「疒+兪」音符の兪・ユは、いえるの意味。病気がいえるの意味を表す。
【字義】@いえる。病気がなおる。また、いやす。なおす。「治癒」Aやむ(病)。病気にかかる。悩む。
「兪・ユ」【解字】会意。「?+舟」?は、木をくりぬくための工具の象形。『説文』では、「△+くく」とし、くくは、水の流れの象形という。丸木舟の意味を表す。転じて、すすむ・ますますの意味をも表す。兪を音符に含む形声文字に、喩・愉・揄・渝・癒・窬・覦・諭・踰・輸・逾などがあり、これらの漢字は「一部分を抜き取る」の意味を共有している。
【字義】(一)@しかり(然)。はい。承諾の返事。Aこたえる(答)。Bますます(益)いよいよ=逾。C安らか。おちつく。また、よろこぶさま。D丸木舟。(二)@顔かたちがやわらぐ。Aなおる。いえる=癒。
漢語林より
キー「癒し」
2002/4/18・・「癒・(いやし)」の漢字は、「疒+兪+心」の組み合わせで、「疒」は「人がベッド(寝台)に寄り掛かっている形」で、「刖 」は「丸木船を造る為に、中の一部分を抜き取る・削る」意味で、「一部分を抜き取る」の意味に使用されている。 漢語林
其の、癒の漢字の意味からすると、相手の「身体」や「精神・心」を悩ませている原因を取り除いて遣る理・ことが、癒しの意味である事に成る。
「癒・いやす」http://wave.ap.teacup.com/20060106/153.html?rev=1
2009/8/12・・今朝のビジョンの中で、私の意識は安らぎの中に在って、其の世界に的確な言葉を探して居た。
能く考えて見れば、安らぐの「やすらぎ」とは、あらゆる五感の情報の出入りが停止していて、感情の動きが、何も無い状態を意味している。
其れは、
* 恐れ・苦しみ・悩み・喜び等の心の作用や、
* 痛み・痒み・暑さ・寒さ等の皮膚感覚、
* 空腹感・咽喉の渇きや病気等の体内の状況、
* 宗教やイデオロギー等への執着、
* 政治的な束縛や暴力的な圧迫・戦争など、
* 家族関係や恋愛等の心の葛藤や煩わしさ、
* 自然災害や貧困や伝染病等の社会環境悪化、
其れ等の事が、一切何も無い状態で、意識が目覚めている状態である。
其処には、「悟った」との興奮や、宇宙への意識の飛翔もない。
其れこそが、老子の謂う「桃源郷」のイメージであり、「恍なり惚なり 惚なり恍なり」の意識の世界に通じている。・・・
「安らぎの中に」http://green.ap.teacup.com/20060818/1237.html
2009/7/5・・昨日のメッセージの最後には、昔の、黒いカセットデッキが映し出されて来て、其のデッキに電源を入れて音楽を流すと、新しい世界が消えてしまう映像が現れて来た。
其の映像の意味は、文字や言葉だけではなく、過去の音楽を流すと、其の音楽を聞いた人間は、其の音楽に関係の有る、自分の過去の情報が蘇ってしまい、癒し・禊ぎに成らないとの事であろう。
特に、自分の恋愛に関係が有る歌や音楽は、其の曲が流れた瞬間に、昔の思い出が一瞬にして浮かび上がって来る。
だから、禊ぎ祓いを目的とする「園・ステージ・グランド」内では、音楽を流しては成らないと言う事なのであろう。
其の様に考えると、禊ぎの村・邑の中では、誰も、過去の話しをしては成らないと言う理・ことに成る。
其れは、聞く側も、話す側も、昔の出来事を思い出してしまうからである。
日本の諺・ことわざに「他人の噂も75日」と有る。
其れは、75日経てば、人々の噂話は消えてしまう理・ことを意味している。
其の諺の意味を考えると、人間の脳は、絶えず新しい情報を求めているので、新しい話題に接触すれば、其の話題が上書きされるので、前の情報は下の方に隠れて行く理・ことを、意味していることになる。
其れに、PCと違って、人間の細胞は三ヶ月で入れ代わっているとの理・ことなので、当然、脳細胞も三ヶ月で入れ換わるから、過去の記憶も90日で消えてしまうのであろう。だから90日間、以前の話題・情報に触れなければ、過去の記憶は、脳から自動的に外れてしまうのである。
其れが、人間が、過去の出来事を忘れられる能力なのである。しかし、75日間内に、過去の話題が持ち上がって記憶が蘇ってしまうと、再び、脳に新しく記憶され、また消去が90日間延長される事に成るのである。
其の過去の情報は、言葉や、人間の相手だけではなく、音楽や写真、其れに、身に付ける装飾品や家財道具までが、過去・昨日までの情報を、伝える存在なのである。
其れに、夜、寝る事で忘れて居た自分の記憶は、朝、目覚めた部屋の有り様から復活し、歯磨きをする行為や、鏡で自分の顔を見る事で、自分の日常を確認し、昨日の続きを始める事に成るのである。
だから、人間は、朝起きた瞬間から、昨日の続きの人間を、創り上げて生きている事に成る。
だからこそ、インドの釈迦仏陀は「出家」を薦め、イエスキリストは仕事や親兄弟を捨てて、自分に付いて来る様に謂ったのである。
其れは、過去の情報・因縁を断ち切る為なのである。
其れと、同じ目的で、日本では古くから禊ぎ祓いの儀式や、山にお籠りする風習が、伝え続けられて来たのである。
其れは、人間が「一家」を形成する事を止め、「大家」からも離れ、「公家・くげ」や「国家」の権力からも離脱する事である。其れが、釈迦仏陀の下に参加する事であり、宇宙の「法・ダルマ・真理」を会得する手段であるのだ。
其れが、釈迦仏陀の下に参加する事であり、宇宙の「法・ダルマ・真理」を会得する手段であるのだ。其れが、仏教で云われている「小乗」であり、小乗でなければ悟る事が出来ないのである。
そして、悟ってから、一家や大家や国家を超えた世界で、事象に関わる事が大乗の世界である。だから、悟るまでが「大変・大事」で、悟ってからがまた大変・大事なのである。
其の理・ことが、現在の自称「仏教徒」の人達には、理解されていないのである。其れが、理解されていれば、一家・一宗を設けて、葬式商売などをしている分けが無いからである。
現在の葬式坊主の日常は、経典をすらすら読むのが、金儲けに必須の事だから、毎日、経典を忘れない様に読教を続けている。
其れは、小学生が国語の本を、毎日声を出して読む事と、目的が同じであり、教科書の文句を覚える為である。
若し学校で、釈迦仏陀の訓えや、老子の訓えを護れば、お経の文句は75日で忘れてしまうであろう。
釈迦仏陀は、「言葉を使う事を止めろ」と法華経の十二縁起で訓えているし、老子は「民に學問をさせると 賢しらが増えて 国が乱れる」と謂っている。・・・
「視覚と聴覚」http://green.ap.teacup.com/20071223/563.html
2008/9/10・・其の数霊と、関係が有るのかどうかは判らないが、今朝私の意識は、初めて「神の家」に辿り着いて、座って居た。
其れは、私の意識が「帰命・ナム・アーメン」した事に成るのだろう。
「宗教」の本質とは、「宗教」の単語が「宗(おおもと)の教え」との意味であり、其れは明治維新で西洋文化を導入した時に、英語の宗教の単語である「リリジョン・religion」の意味の「再び神と結ばれる」を、日本の神の概念と同じであると考え、「宗(おおもと)の教え」と訳した物である。
其の根拠は、日本の「神(目に直接見えない働きの意味)」は、人間は、自分の罪穢れを禊ぎ祓いすれば、「神・かみ・カム」其のモノに、成れると考えられていたからである。
だから「再び 神と結ばれる」との概念は、日本のおおもとの教えと、同じであるとされたのである。
其れを、其の様に訳した、明治の学者が誰であるのかは判らないが、其の人物は、仏教の「帰命・ナム」の概念にも影響されていたのかもしれない。
若しかしたら、其れよりも更に深く、根本原理を知っていたのであろうか。
日本語の「いのり」には、漢字の「祈・キ」を使用しているが、祈の「示+斤」の組み合わせは、祭壇の前で足を折り曲げて、祈りをして居る人の姿を、横から見た映像の象形文字である。
しかし、以前は「祷り」と書いていた様である。
「祈祷・キトウ」の祷は、「示+壽」の組み合わせで、「壽・ジュ」は「長く連なる。ひさしい。」の意味であるから、「祷」は「神を祭る祭壇の前で 永遠の時間・トキを想い願う」との、意味合いである。
そして、日本語の「いのり」の「いの」は「帰る」の意味である。
現在でも、地方の方言では、家に帰る事を「ぼつぼつ家にイノ」と云うので、「いのる」の日本語は「帰る・還る」の意味であり、「祷る」仕種は、神仏の懐に帰る為の、精神的な儀式を意味しているのである。
其れは、ミレーの「晩鐘」に描かれている、夫婦の祷る姿に、イメージが重なるモノであり、神に対する感謝の意味合いも、含まれている。
本来の「祈祷」とは、商売繁盛や、合格祈願等の、欲望を煽るものではなく、自分や家族の罪穢れを祓い、病気などの悩みを祓い取る事、詰まり精神的な癒しを意味しているのである。
「癒・ユ」の漢字は「病+舟+刃物+心」の組み合わせで、「丸木舟の中を 刃物で削り取る様に、相手の病を削り取って 心を安らかにする」の意味である。
だから、宗教とは、相手の悩みや不安を取り除いて、安らかにして遣るべき世界であるから、戦争などを起して、平和を乱す事ではないのである。
其れ等は、現在の宗教とは反対の所にあり、「聖戦」とかの概念は、本来の宗教には在り得ないのである。
其の様に考えると、私が今朝、到達した映像の世界は、「宗教・リリジョン・religion」の究極の世界だったのであろう。
今朝の私のビジョンは、私の意識が、様々な色彩をした植物の葉に包まれた世界に在り、静かに座って、其の感触を楽しんで居た。
其の世界は、老子の謂う「恍なり惚なり 惚なり恍のなり」の、薄紅色と言うか、桃色の光の粒子の中に包まれ、自分が「光」か、光が「自分」かの、区別が着かない恍惚感に浸っている世界ではなく、其の光のエネルギーが、あらゆる植物の葉の形と成り、美しく光彩を放っている世界である。
だから、老子の謂う恍惚世界から一歩、物の世界に踏み込んでいると謂えるだろう。
私は、其の余りの美しさと、気持ち良さに、此処は何処だろうと想って、周囲を見渡すと、其処は、神の家の中である事が解かった。
其の家は、壁や屋根は無く、ただ家の形に、木の枠が組まれているだけであった。
私が、其の家の形をしている木の枠組みを見て、「神の家の中に座っている」と理解したら、其の木の枠組みは消えてしまい、元の美しい木の葉だけの世界に成った。
次の映像は、里の水辺に、美しいピンク系の装いをした女神が立っており、山の上を見ると、青い色を基調とした装いをしている「観音菩薩」が立っており、右横を見ると、実が着いているバナナの木を背景にして、男性のブッダが最高の表情をして座っていた。・・・
「神の家に帰り着く」http://green.ap.teacup.com/20060818/876.html
今朝告げられて来た「放送席どうぞ」との言葉は、私の存在と言うか、私が謂っている事が、現実社会全体に拡がり始める事が、示されて来ているのかも知れない。
其れを考えると、今月18日の「新チーム」の文章に書いた、24日に屋久島に渡ると示されて来た10数名の男性の御霊が、屋久島で動き出しており、其の兆しが今朝のメッセージで示されて来ているのかも知れない。
2003/7/4・・今朝のメッセージは、神(姿の見えない)が現れて、私に「貴方は スピーカーの役割だから しっかりしなさい」と、強く迫って来た。
私が、神の言葉を伝える「スピーカー(speaker)、話し手、弁士、演説者」の役であるのなら、私は、個人的な事柄を全て忘れて、無心に成って居なければならない。
だとすれば、私は「ファーザ(Father)」の代理として、自分の口から発せられる言葉を、守らなければ成らない事になって来た。
私の口が、前に在って事が起きるのか、事が前に有って、私の口が付いて行くのかは分からないが、少なくとも、人々が驚く事でなければ、誰も、神の存在を信じないだろう。
全ての用意が整った時に、一気に、何かが起きるのではないだろうか。
私には、円が値上がりする事も、バブルが崩壊する事も三年前に知らされて来た。全てが、神の計画通りに進んでいるのであれば、私は、何の心配も無く、神のメッセージを受け取っていれば良いのだろう。
しかし、神のスピーカーを預かる身という認識を持たされた今、好い加減な気持ちで在ってはならない事を、自覚させられてしまった。・・・
「あわじ・スピーカー」http://star.ap.teacup.com/170606/170.html
2016/1/31・・今朝の映像に映し出されて来た「やまぼうし、山法師、山帽子」の木を何処かに植え直さなければ成らないとの事は、山岳の法を傳える師か、山の存在を帽子として被っている霊留・ひとを、復活させなければ成らないと言う理・ことではないだろうか。
「物の存在を洗い直す」http://wave.ap.teacup.com/20060106/635.html
平成29年12月26日
礒邉自適
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