言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2020/7/17
画・畫が異なる
今朝のビジョンは、私が稲作が出来ない外国の農村を視察して廻っている場面が映し出されて来て、其れ等の地域には、古代から畑作の農業が行われていた事を示す遺跡が有る事が判った。
次に、私が村人達と出会う場面が映し出されて来たが、日本語しか話せない私は、意思の疎通を図る事が全く出来ないのである。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「3時22分」であった。
其れから再び眠ると、今度は、是から行わなければ成らない事柄が様々に映し出されて来て、最後に「画が異なる」との男性の言葉が一言告げられて来たので、起きて時計を見ると時刻は7時1分に成る所であった。
其れからPCを立ち上げて、起こされた3時22分の数字から、今年の3月22日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2020/3/22今朝のビジョンには、先ず、私が何処かの山中を訪れると、疲れ果てた様子の老女が一人で暮らして居り、私は其の疲れ果てた老女の背中を、そっと左手で擦っていた。
そして、一緒に野外に出ると、麓の村に住む多数の男の子供達の元気な声が聞こえて来たので、未来の希望が有る地域だと意い、私は其の老女に「近くに私が住んでよい空き家がないか」と訊ねて居た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「4時43分から44分・5時17分前から16分前」に成る所であった。
其れから再び眠ると、今度は詩作教室(道場)の様な施設が映し出されて来て、私も其れに参加して居り、私は和歌や詩を作成しており、其の私が作成した詩文の中に「神(かれ)は何時も私と一緒」との文言が記されいる事が、示されて来た。
其れから「編集者を呼べ」との男性の声が聴こえて来たので、私は誰を呼べば良いのかを考え始めると、山川夫妻の存在が映し出されて来たので、英文への翻訳が必要である事が理解されて来た。
其処で起きて時計を見ると、時刻は8時14分であった。
其れから、PCを立ち上げると、「貴方は全てが」との言葉が聴こえて来たので、其れを打つと続きの言葉が告げられて来た。
「貴方は 全てが 意いの儘に成ります。
ですから 雑念を 一切捨てて
意識を 研ぎ澄まさなければ なりません。
其れは 貴方の意念が 其の儘
天幕に 反映される事に 成るからです。
其処には 一分の間違いが有れば
大きなエネルギーの無駄・ロスが 発生するからです。
此の様に伝えれば 貴方なら
「統尊・すめらのみこと」の「詔勅・みことのり」の
「御嚴・みいつ」「御稜威 ・みいつ」が
どの様なモノ・世界であるかが 能く理解できるでしょう。
何も恐れる事は有りませんが 貴方自身の魂しいの揺れが
最大の問題と成りますので くれぐれも
雑念が湧かない様に 注意をしなさいね。
其れだけが 此方から 貴方に申し上げる事です。
では 本番を宜しくお願い致します。 9時30分
「貴方は全てが」
今朝起こされた5時17分前・16分前の数字から、昨年の5月16日・17日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2019/5/16今朝のメッセージの映像は、先ず、日本国だけではなく、世界全体に向けて、人間の在り方と謂うか、基本的な生活方(価値観)を、拡げて行かなければ成らない場面が映し出されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると時刻は「2時15分」であった。
其れから再び眠ると、今度は、若い夫婦が数日間、小学生の息子二人(兄弟)を自然体験が出来る山村に連れて行く場面が映し出されて来た。
次に、観光地化されていない山村の中に有る、昔ながらの大きな建物施設が映し出されて来て、緑豊かな敷地の中にある母屋の裏に、客人用の宿泊棟が二つ建っている場面が映し出されて来た。
そして、其の建物施設は現在使用されていないので、私は其の建物を使って、何かを始めなければ成らないと想って居た。
其処で眼が覚めたので、起きて時計を見ると時刻は7時57分・8時3分前であった。
今朝はPCを立ち上げて先ず、起された時刻2時15分から、今年の2月15日の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。・・
此の文章の書き出しには「私が数人の人間に指示して、荒れている庭園の枯れ木や雑草を切り取って片付ける場面が映し出されて来た。」と書いて有るので、今朝のメッセージの映像に映し出されて来た、観光地化されていない山村に有る建物施設と関係が有りそうである。
其れに起きた時刻「8時3分前」の数字が「8月3日」の事であれば、私の両親が昭和21年8月3日に屋久島に上陸した日である。・・
此の「見えて来た道筋」の文章の内容こそ、私が、世界自然遺産に登録される様な自然豊かな屋久島で産まれ37歳まで暮らした事の、証明と成る物ではないだろうか。
其れに、2月15日の「天帝の降臨」の内容から考えると、今朝の映像に映し出されて来た山村の広い建物施設は、「天帝」の意思の受け皿と成る「皇帝・大君・ミカド」の住いを示唆しているのかも知れない。
今朝の由香のビジョンは、自分が他人が運転する左の後部座席に座って居て、何故か其の足元には、アクセルとブレーキペダルが装備されており、スピードを抑え様と意い、其のブレーキぺダルを踏むが効きが甘いので、スピードを落とす事が出来ないから、前の運転者に「席を替わって下さい」と云う場面が、映し出されて来たとの事である。
次に、大きな建物の一室で、無線操縦のボートを組み立てて、モーターを取り付けて完成した所で、水上で動かそうとしたが、タイミングがあるのか、何か部品が足りないのか、ボートを動かすのを待たなければ成らないという場面が映し出されて来たとの事である。
其の由香のビジョンから、私に考えられる事は、都会の人々が他人が運転する車で移動している理・ことを示唆しており、私は子供の時から裸足で自然の中で遊び、学校にも裸足で通学して居た事が、「人・ニン・ひと」の漢字が歩く人の象形である事と関係がり、人間の原点(DNA・遺伝子・本能)が、自分の足で歩きながら、五感を働かせる事に有る理・ことが、示されて来ているのではないだろうか。
其れに、無線操縦のボートを組み立てて居る場面は、男の子達の遊びが、人工的な玩具で遊ぶ事に偏っている理・ことが示されて来ており、私の子供の時の様に、自分で刃物を使って、木刀や釣竿や四輪車を作って遊んで居た事との違いが、示唆されて来ているのではないだろうか。
其れ等の事柄を考えると、今朝の最初の映像に、日本国だけではなく、世界全体に向けて、人間の在り方と謂うか、基本的な生活方(価値観)を、拡げて行かなければ成らない場面が映し出されて来た事には、次の様な事が考えられる。
日本人が生活する此の日本列島が、南北に連なる山岳列島である事と関係が有り、春夏秋冬の四季の変化で齎される「風景・情緒・歳時記・和歌」等の日本文化が、世界中のどの国とも違うモノ・世界である理・ことが関係が有る。
其の日本の自然環境の中で、長い年月を掛けて蓄えられて来た「文化・価値観」から、人類の未来生活の有り方に付いて、再検討して、新しい文化を立ち上げて、世界に示して行かなければ成らない。
其の事が、現在の「経済発展」の名の下に、自然環境を破壊しながら、人心を錯乱させて来た・無明の世界に落とし込んで来た、西洋の文化・価値観を改める、唯一の手段・方法であるとの理・ことなのではないだろうか。
そして、其の事の中心に稲作文化が有ると考えれば、三日前に江藤敬介氏の「稲種子播種の日」に出雲の安部忠弘氏が家族で参加した事と、私の霊夢に「鳥神」が登場した事が関係が有るのではないだろうか。
今朝のメッセージは、其れ等の事柄を含め、我々人類は基本的には類人猿の子孫である理・ことを踏まえ、胃腸の仕組み・細胞が6億年以前の次元の物である事から、衣食住の世界を、基本的な部分から、正しく立ち上げなければ「釈迦牟尼世尊」「老子」「イエスキリスト」の残した教訓の真髄は、理解できないと言う事に成りそうである。
其れに、明日5月17日が「世界電気通信記念日」である事が関係有り、今朝のメッセージは「通電・通傳」の中身が何であるかが、示されて来た事に成るのかも知れない。・・
試しに、昨年の5月17日の文章を視て見ると、題が「日の出の王」であり、「天帝の降臨」と関係が有る。・・
此の文章の内容から考えても、私の意識は、屋久島の自然環境が作り出したモノであると謂えるだろう。
「人間は自然の生き物」
2019/5/17本日5月17日は、私の娘「嬰・みどり」の26歳の誕生日でもあるが、「世界電気通信記念日」でもある。
今朝のメッセージは、昨日の「人間は自然の生き物」との課題の続きの様で、私が、他人の為に行動をして居る場面が映し出されて来て、其れ等が済んでしまうと、私は目的を失い何処に行けば良いのか、全く判らない状態に陥って居た。そして、知り合いの男性に実家に送って貰おうと意い、其の人の車の運転手席の横に行くと、其の車は「オート三輪車」であり、助手席が無いので、私は後ろの荷台に乗り込んで居た。
其れ等の映像に付いて考えて居ると、「人は何故歩くのか」との言葉が脳裏に浮かんで来たので、今朝のメッセージの課題は、私の35年間の「たび・家離」の最終章に付いてであると想われて来た。
今朝は起きて時計を見ると、時刻は7時27分であった。
其れから、7時27分の数字から、昨年の7月27日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。・・
此の文章の中には、「神道や仏教の世界には関係の無い、純粋な本能(DNA・遺伝子)に従った新しい国造りである。」「純粋に本能(DNA・遺伝子のプログラム)に則って生きて居る時には、迷いは無いし、神仏の事を考える事も無いからである。」との事が書いて有る。
其の文章の意味は、正に昨日の「人間は自然の生き物」との題と、今朝の「人は何故歩くのか」との言葉と関連しており、人間は何故歩き回る習性を持っているのかを、考えなければ成らない事に成る。
其れは、本日5月17日が「世界電気通信記念日」である事と関係が有り、日本では昔「飛脚」が手紙を運んで居た事や、西洋のマラソンが「連絡係り(勝利の知らせ)」から始まっている事に絡んでいるのであろう。
人類(アファール猿人)が、アフリカで森を抜け出し、草原・ブッシュを歩き出してから400万年が経過しているとの事である。
其の時点では、単なる「餌・食料」を捜しての事であったのだろう。
其れが、狩りの情報を伝える言葉を開発し、文字が開発されてから、手紙が出される様になり、電気通信技術が開発されてから、情報は空間を超える様に成った。
其れに、其の技術は地球内を越えて、宇宙空間でも行きかう様に成っている。
そして、近代社会では、世界中で食料を始めとする物品が航空機や船で運ばれており、人間は自分の足で狩りをしたり、物を運ぶ必要が無くなり、歩く距離も短く成ってしまった。
其れを考えると、アフリカの草原や南米のジャングル等で生活する人々や、一部のハンターなどを除いて、自然の中を歩き回る人間は少なく成ってしまっているので、原始時代の感覚を覚えている者は、希少価値の有る存在であると言う事に成るのであろう。
其れを考える、現代社会では必要では無く成って来ている、二足歩行の記憶と言うか感覚が、人間から失われてしまえば、我々は自分の躰のシステムや本能を知る機会を、失ってしまう事に成りかねないと謂う理・ことにも成る。
「人は何故歩くのか」
此の文章の内容に有る「世界電気通信記念日」の事を考えると、今朝のメッセージで「編集者を呼べ」と告げられて来て、翻訳者である山川夫妻の存在が映し出されて来た事に関係が有り、日本で是から始まる事を、世界に知らせる必要が有る事が示されて来ている事に成りそうである。
其れは、私が其の「山川夫妻」の自宅を1987年9月29日に石垣雅設氏と二人で訪問して、泊めて貰う事に成り、私が「貴方達の役割は 是から日本から始まる事を 世界に知らせる事に有り 今は其の修行期間である」との事を伝えた事と関係が有り、漸く33年目にして、其の本番が始まるとの事なのではないだろうか。
2016/10/2昨日10月1日が、とても大事な日であった事が判って来た。
其れは、昨日10月1日が、旧暦の9月1日であり、月齢は0・1である。
そして、其の日付に付いて3月29日のメッセージで告げられて来ており、其の日のテーマは「王の存在の秘密が 一部公示される」との事である。
其れに、1987年10月1日に私は群馬県の赤城山神社に参拝してから、スピリチュアルタイムの会合を11月21日に開催する事を決めて、其れが後に旧暦の10月1日である事が判明した。・・
私が、1987年10月1日に、「スピリチュアルタイム」の会合を11月21日に開催する事を意い付いてから、昨日で、丸29年が経過した事に成る。
「一世一代」の言葉に使用されている「世」は、「三十 三廿」の意味であり、人生50年の時代では、男の働き盛りは「三十年間」であると考えられていたのであろう。其れを考えると、「スピリチュアルタイム」の世界と言うか、動きは、其の一世を迎えている事に成る。
其の「スピリチュアルタイム」を決めた切っ掛けは、私達二人が29日には町田市の「山川拡矢・亜希子」夫妻の御自宅に泊めて貰い、30日は埼玉県熊谷市に泊り、1日は前橋の石垣氏の友人の家に止めて貰う事に成り、布団も敷いていたのだが、私に危機感が襲って来たので、石垣氏に「此処には泊まれない」と謂って、其の家を飛び出して赤城山に向かった時である。
其の危機感は、アメリカの大都市「ロサンゼルス(ロスアンジェルス・男の天使達)」で1987年10月1日に、16年ぶりに起きた大地震の波動に因るモノである事が判った。
其れを考えると、一昨日のメッセージの映像に映し出されて来た、地中に存在するマグマの存在が、とても重要な物である理・ことが示されて来た事と関係が有り、人間の精神・意識(スピリチュアル)と「時間・タイム」に、地球の「マグマ・核」が関係が有ると言う事になる。・・・
「酉の時・トリのトキ」
其れに、今朝の女神の言葉が告げられて来た時刻9時30分の数字から、昨年の9月30日の文章を視て見ると、次の様に書いて有るので「時間を司る神」も其の事を認識している事に成りそうである。
2019/9/30本日で9月が終わり、明日から10月である。
私は、32年前の1987年10月1日に群馬県の赤城山神社で、石垣雅設氏に「11月21日」に「スピリチュアル・タイム」の集いを行う事を提案して、其れが開催された11月21日は旧暦の10月1日であった。
そして、其れは今月12日に「全力で頑張って」と告げられて来て、「セットレバー」の歌が聞こえて来た事と関係が有りそうである。・・
此の文章には、「・・私に10月1日(旧暦9月1日)の0時から、其の時間の操縦士の役割が始まった・・」と書いて有るので、今朝「地球にアース」との言葉が告げられて来たので、起きてPCを立ち上げると時刻が9時1分であった事と関係が有りそうである。
其れに、PCを立ち上げると「6月13日」との日付が告げられて来たので、
今年の「9月1日」と「6月13日」の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。
2019/9/1昨夜は、床に就いて目を閉じて居ると「初めての事が始まる」との言葉が一言告げられて来た。
そして、眠ってからの映像には、彼方此方で長く冬眠していた熊が、起き出して来る様子が映し出されて来て、其の準備・対応を急いで行わなければ成らない事が示されて来た。
其れは、熊の姿は全く見えないのだが、人里に近い山中や、人間が飼っている熊や、動物園などの熊の事であり、腹が空いている熊が人間社会に一気に目覚めて出て来れば、危害・被害を人間社会に与えるので、早急に対策を計らなければ成らないとの事である。
だが、騒いでいる割には、熊の姿が一頭も見えないので、其れは動物の熊の事ではなく、人間が長い間意識が眠って居て、其れが全国(世界中)で一気に目覚めて来るので、其の混乱でパニックが起きる事を示唆しており、早急に対策を計らなければ成らない事を示唆している理・ことが理解されて来た。・・・
「素足で地球にアース」
此の文章には、9月1日に「初めての事が始まる」と告げられて来た事が書いて有る。
其れから、今朝起きた時刻8時14分の数字から、昨年の8月14日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2019/8/14今朝のメッセージの映像は、先ず私の意識が、街中を流れる川の大掃除をすると謂うか、汚染の原因と成っている堰・柵を全て取り払って、昔の美しい水が流れる河川の環境を、取り戻す作業を続けている場面が映し出されて来た。
次の映像は、私が誰だか判らない御仁を案内して、和歌の世界で有名に成って来ている山奥の百姓(民間人)の家を、訪ねる場面が映し出されて来た。
そして、其の家に到着すると、既に、十数人の人達が庭に集まって来ており、椅子の代わりに置かれている岩の上には、紺色の座布団が一枚敷かれており、其の座布団には、座布団の表に目一杯の白い丸が描かれていた。
そして、家の中から60歳代の男性が外に出て来て、其の座布団を見ると、他人に指摘された・準備された座には、座りたくないらしく、其の侭何処かに出掛けてしまった。
其れで私達は、山越えで引き返す事にして、山から下りて行くと、広い湖の辺に出て、湖畔の船着場か停留所の様な広場に着くと、先ほどの和歌詠みの男性が、奥さんと一緒に小船で遣って来た。
どうやら、其の和歌詠みの夫婦は、其の湖の反対側に住んで居るらしく、私達の存在が気に成って、会いに遣って来たらしいのである。
そして船内に座ったまま、私と一緒に居た男性を呼ぶ様に謂うので、私が後ろを振り向くと、其の男性は、山の下り口に有る岩の上に座って、此方の様子を伺っている事が判った。
其の男性は、白い服装をした70歳位の男性であり、私は其の男性は「土肥無庵」か「櫛玉饒速日命・くしたまにぎはやひのみこと」なのか、判断ができないで居た。
そして、其の男性が船着場に遣って来たので、和歌詠みの男性が、置かれている岩に座れと指示すると、私の横に居た男性は、先程の和歌詠みの男性の行動が気に成っていたらしく、其の指示に従わず立った侭で居た。
すると、其の和歌詠みの男性が「是は 孫が呼んだ和歌の頭の句なのだが、後ろを詠んでみろ」との事を謂って、船の壁を指差した。
そして、其の和歌の頭には「常盤の風」との言葉が有る事が判った。
其れで、私が左横に立っている男性の方を見ると、私に「後ろの岳の名前は何だったかな」と訊ねるので、私は自分が産まれ育った実家の裏山である「明星岳」の事を思った。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「4時49分・5時11前」であった。
其れから再び眠ると、今度は私が、其の明星岳の「岳参り」の行事に参加する場面が映し出されて来て、私は先に出発した仲間に追い付く為に、近道を通ると、作業道具を担いだ「森林管理所(旧営林署)」に勤務する数人の男性と遭遇した。
どうやら、其の人達も岳参りの行事に参加するらしく、私が何も手にしていない事を知ると、「良かったら 昼飯を一緒に食べないか」と謂うので、其の人達は心根の優しい人々である事が解かって、私は嬉しい気持ちに成って居た。
次の映像は、男の子達が数人、神社の境内で仲良く遊んで居る場面が映し出されて来て、其の神社の様子を調べると、古代から存在する神社であり、杜には大きな「御神木(神籬・ひもろぎ)」や「岩(磐座・いわくら)(磐境・いわさか)」が有る事が判ったので、人格霊を祭禱(さいき)する事は止めても、神社の「杜・もり」の存続は必要である理を理解していた。
次の映像には、雨が降らないので、畑に植えてある白菜の苗が、全て枯れ始めている場面が映し出されて来た。
其処で意識が目覚めたので、起きて時計を見ると、時刻は「7時44分・8時16分前」であった。
今朝は先ず、常盤の風の常盤を調べると、次の様に載っている。
【常盤・ときわ】[名・形動ナリ]《「とこいわ」の音変化》
1 常に変わらない岩。
「皆人の命も我もみ吉野の滝の―の常ならぬかも」〈万・九二二〉
2 永久に変わらないこと。また、そのさま。
「大君は―にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして」〈万・四〇六四〉
3 常緑樹の葉がいつもその色を変えないこと。また、そのさま。常緑。
「―なる松の緑も春来れば今ひとしほの色増さりけり」〈古今・春上〉
国語辞典より
次に、以前の文章から、「磐境・いわさか」「磐座・いわくら」と「神籬・ひもろぎ」を調べると、御神木を「常盤木・ときわぎ」と呼ぶ事が判った。
其れに、今朝起こされた「5時11分前」と「8時16分前」の数字から、今年の5月11日の文章と、昨年の「8月16日」の文章を視て見ると、次の様に書いて有り「8月16日」の文章は、「御神木と人間意識の関係」であり、正に本日のメッセージと其のまま連結しているので、丸一年となる明後日には何かが有る・起きるのかも知れない。・・
今朝は由香に「何かビジョンを見なかったか」と訊ねると、見たとの事であり、其れは次の様なビジョンである。
台所で向かい合わせに座って居た私が、丸い円を描くような感じで、エネルギーをつくり出して、其のエネルギーが目の前に見える形に現れ始めると、私の隣に75歳ぐらいの男性が現れて、「其のエネルギーに、ぶら下がりが集まってくる。」と謂って心配するので、由香は「其れは意識的に、そうならないようにして居るので大丈夫です。」と答えると、安心していたとの事である。
其の後、切り替えが行なわれて、新たな「久遠の道」が出来たと強く示され、もうひとつは、トライタルトファーに通じる道で、其れらは互いに連動しているらしく、空間に浮かぶ二つのトンネルのような映像が見えたとの事である。
其の由香のビジョンには、「私の周りに ぶら下がりが集まって来てはいけない」との事と、「久遠の道ができた」との事が示されて来ているので、今朝の私のメッセージに「他人が指示した椅子・座には座らない」との理・ことが示されて来ている事と関係が有り、「常盤の風(風流)」を守る為には、他人が寄り付いて来る御座には、絶対に着いては成らないとの理・ことが、示されて来ている様である。
其れは、昨日まで示されて来ていた「統尊・すめらのみこと」の立場・御座の世界と関係が有り、「統尊・すめらのみこと」の「詔勅・みことのり」「御嚴・みいつ」「御稜威 ・みいつ」は、他人の影響を絶対に受けては成らないと謂う理・ことであり、其の為に5日前に「鎧を着たもの」の意味である「アルマジロ」が、私の寝床に入って来るビジョンが映し出されて来たのであろう。・・
何故、そうなのかを考えると、此の大自然の法則である「道・タオ」「ダルマ・法」「永遠の命」に接触・チャンネルする手段が「真言・マントラ」にあり、其の道心が、日本の伝統である「和歌」の世界に有ると謂う理・ことなのであろう。
そして、其の事を基礎にして「詔勅・みことのり」の世界が有ると謂う事である。・・
此の「全てが言の葉風(ことのはかぜ)」との言葉から考えると、今朝示されて来た「常盤(ときわ)の風」とは、日本(やまと)の「言霊・ことだま」の世界の真髄と関係が有り、常盤の風の言葉が入った和歌の後句に、「岳」の名前を入れなければ成らないとの事は、山岳信仰の「岳参り」の行事と関係が有り、子供の頃から「山神(磐座・磐境・神籬)」に触れて育った男子でなければ、「統尊・すめらのみこと」の「詔勅・みことのり」「御嚴・みいつ」「御稜威 ・みいつ」の役割・勤めは不可能であるとの理・ことが、示されて来ているのであろう。
そして、其の事に最も重要であるのが「人間の罪穢れに 汚染されていない山岳から流れ下る川水」であるとの事であり、其の純粋な波動の水に拠る禊ぎ祓いの儀式こそが、「常盤の風」に成る極意であるとの理・ことなのであろう。・・
此処まで打って来ると、やはり、お盆の旧暦7月14日は、神道の「夏(秋)禊ぎの日」が、本来の行事日であると謂う事に成る。
「常盤の風」
此の文章には、「岳参り」の行事の事と「和歌」の世界の事が書いて有るので、今朝のビジョンで私が老女が暮らす山岳に空き家を探す場面と、和歌の道の世界が映し出されて来た事が関係が有るので、私が、是から何を考えれば良いのかの、指針が示されて来ている事に成る。
「・・山岳信仰の「岳参り」の行事と関係が有り、子供の頃から「山神(磐座・磐境・神籬)」に触れて育った男子でなければ、「統尊・すめらのみこと」の「詔勅・みことのり」「御嚴・みいつ」「御稜威 ・みいつ」の役割・勤めは不可能であるとの理・ことが、示されて来ているのであろう。・・」
其れを考えると、今朝のビジョンに登場した「疲れ果てた老女」は、祓い戸の神である「瀬織津姫・せおりひめ・瀬に居る女神」の存在と関係が有り、其の老女が疲れ果てて居た姿は、人類の目覚めがなかなか起きない理・ことを、示唆しているのであろう。
其れは、政(まつりごと)に関わる人間にとって、最も大事・重要な事が「言葉・真言・マントラ」に有り、其の正しい言葉を口にできる人間は、精神の禊ぎ祓いが完全に行われている者だけであると、言う理・ことなのであろう。
其れを考えると、現在の安倍晋三内閣は完全にアウトであり、其れを正す為の宗教界が全て役に立つ所か、悪性(悪政)が高まる為の手助けをしている事に成る。
其れ等の事を考えると、19日のメッセージで「妙義龍大繁盛」との言葉が告げられて来て、其れが「高砂・たかさご」に関係が有り、其の高砂の意味が「和歌の徳をたたえ、かつ常磐の松に象徴される国と民の繁栄を主題とする。」との意味を持つ事と関係が有り、男の子達が「和歌の道」に立ち返る環境を、早急に整えなければ成らない理・ことが、示されて来ている事に成る。
其れを考えると、昨日3月21日が弘法大師空海の命日であった事と関係が有り、其の空海が、京都の嵐山に在る「法輪寺」で、私に「わが弟子未だ我を越えず」と告げて来た事が関係が有り、其の法輪寺で毎年行われている13歳参りの祭事と、富士山の登山口に在る「富士山興法寺」の中学生の登山とが関係が有りそうである。
2017/11/20昨夜は、床に就いて目を閉じていると、目の前に、美しく澄んだ真丸い水玉の様な球体が映し出されて来て、其の球体が後ろに退いて、全体像が映し出されて来ると、其の球体は一本の青桐の様な樹形の木に、何十個も生っている物である事が示されて来た。
そして、眠ってからの映像には、一本の針葉樹の様な樹形が映し出されて来て、其の枝が拡大されて来ると、其の枝葉は「檜(ひのき)」の様な物である事が映し出されて来た。
次に、森林関係の研究所の様な施設が映し出されて来て、樹木の苗と成る「挿し木」が澤山栽培される作業が映し出されて来た。そして、其の苗が、何の木であるかを想うと「あすなろ」との言葉が告げられて来た。
次に、「和尚・ラジニーシ」の弟子らしき人々が数人登場して、其の中に、此方の動きに必要な男性が一人居る事が示されて来た。
其の男性は、是から未来社会を組み立てて行く事の為に必要な人材であり、其の男性が行う事は、未来社会創造の為に必要な人材を捜し出して、其の人物の役割りを世の中に紹介する為の、情報機関を運営する役割りを持っている事が示されて来た。
それで、其の男性が江藤敬介氏に関係がある事が判って来たので、江藤氏に其の人物の事を調べてくれる様に頼むと、其の人物は和尚・ラジニーシの弟子ではなく「まつもと」と言う名前の人物であるというものであった。
今朝は、「和尚・ラジニーシ」を調べると、「・・ラジニーシは、反逆的な少年時代と学生時代を送った後、大学で哲学を学ぶ。決定的な意識の目覚めもしくは悟り(enlightenment)に至ったのは1953年3月21日とされる。」と記されており、其の3月21日は「弘法大師空海」の命日である。
其れを考えると、江藤敬介氏が昨日、静岡県富士宮市村山字水神1151に存在する「村山浅間神社」及び「富士山興法寺」の宮司・住職である「六所幸雄氏」に、前田氏の依頼で、11月23日の「新嘗祭」用の奉納米を発送した事に関係が有り、興法寺の本尊が「大日如来」である事と関係が有りそうである。
何故かと言うと、前田氏が「六所幸雄氏」を訪ねる事に成った経緯は、私に弘法大師空海が「我が弟子未だ我を超えず」と告げて来た京都の嵐山に有る「法輪寺」の住職に面会した事の、続きの出来事だからである。
「あすなろの樹」
2017/6/30・・其れに、昨日は「饒速日命・にぎはやひのみこと」の御魂である「前田氏」が、京都市嵐山の麓に有る「法輪寺」に参詣し、住職と会って話をすると、古い物は奥に有るが、本堂に置かれている御本尊の「虚空蔵菩薩像」は、前田利家が奉納した物であり、其の前田利家は13歳の時に、其の法輪寺で行なわれる「13歳祭り」に参加しているとの事であり、「弘法大師空海」の話をすると、空海は、唐から宗像の「鎮国寺」を経由して京都に帰った後・高野山に上がる前に、法輪寺の横に有るお寺に住んで居たと、語ったとの事であった。
私は、其の前田氏の報告を聞いて、何故「弘法大師空海」が高野山ではなく、其の法輪寺の境内に居て、私に「我が弟子 いまだ我を超えず」と伝えて来たのかが、理解されて来た。
其れに、昨日前田氏が其の法輪寺の虚空蔵菩薩に手を合わせた事と、真言宗を興した「弘法大師空海」の「真言・マントラ」の存在を考えると、今朝の映像で神柱の空間の中を天空に向かって上り下りしていた「原始言葉・大和言葉」は、其の空海の世界と関係が有り、「虚空蔵求聞持法・こくうぞうぐもんじほう」の世界が映し出されて来た事にも成りそうである。
其れに、今朝は、其の言葉が天空に上下する神柱の映像の後に、夜の世界に、地面から大きな広葉樹木の幹が、二股に成って大きく伸び上がっている姿が、ライトで照らされている場面が映し出されて来た。・・・「高天原」
2013/8/22「我が弟子未だ我を超えず」
これ等の内容からすると、私が子供の頃から「世界自然遺産」に登録された屋久島の山岳を遊び場にして育った事と関係が有り、其の私の体験を男子の参考(精神発達の指針)にする為に、何らかの行動・活動を始める必要があると言う事であり、私が36年前に此の世界に飛び込んで、石塚山に登った夜、眠って居る時に「石塚の 四方の山に 訊ねても 答え返らじ 我が身に訊けよ」との和歌が告げられて来た事が関係が有り、其の和歌の世界の奥深さが、此処に来て明確化されて来た事に成りそうである。
きー「石塚の四方の山に訊ねても 答え返らじ我が身に訊けよ」
2008/8/3・・其の安房川の源流には、石塚山・花折岳・太忠岳の三峰が連なった山並みが在り、私は24年前、其の山岳に、禊ぎの後に導かれて登った事がある。
其の時に、途中で「アンジェルスの鐘を背負え」と告げられ、山の峰で瞑想をして、自宅に帰って来て寝て居ると、夜中に起されて「石塚の 四方の山に尋ねても 答えかえらじ わが身にきけよ」と、神に告げられた事が有った。
其れは、山の峰々には、本来の真の答えはなく、本当の答えは、自分の内側に有ると言う理を伝えて来ている。
其の、石塚山に祭られている神様は「一品宝珠大権現・いっぽんほうじゅだいごんげん」と言う名の神様である。「一品」とは「最とも優れた物」の意味で、「宝珠」とは如意宝珠の「宝珠」の事で「宝珠の球」の意味であり、「権現」とは「仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現われること」を意味している。
だから「一品宝珠大権現」とは「人類を救う為に 最も大きな働きの仏が 如意宝珠を持って現れる。」との意味になる。
其れだと、7月28日に現れて、私が右手でタッチをした美しい男性神が、其れに当るのかもしれない。7月28日に、私がバトンタッチをした男性神は、其の「一品宝珠大権現」で、私は其の権現とバトンタッチをした事に成るのだ。・・・「一品宝珠大権現1」
2019/6/17・・明け方には、現在の人間社会で悪事(道・法から外れている行為)を行っている者達を「ころせ」との事が、何度も強く示されて来た。・・
此の「殺」の漢字の意味からすると、今朝の「ころせ」との言葉は、(一)の「@ころす。いのちをたつ。死刑にする。」の意味ではなく、(二)の「@そぐ。減らす。けずる。省く。」の意味の様である。
それで、今朝の文章の題は、「勢いを殺す」とした。
其れは、現在の近代文明・近代社会が、政治・経済を始め、食生活・衣食住や教育・マスコミ・スポーツ・芸術・等々が、本来の人間の暮らしに必要な度合いを超えて、自然破壊・環境破壊・人間の精神破壊を起しながら、無駄なエネルギーを使って暴走している事を、直ぐに止める様にとの、天神(てんのはたらき)からの警告なのであろう。
其れを考えると、今朝のメッセージの映像が何を意味しているのかも、理解されて来る。
何故、其の理・ことが「葱坊主」で示されて来たかを考えると、神社の「鵲橋・かささぎばし」の欄干の頭に付いている「擬宝珠(ぎぼし)」や、仏教の「摩尼・マニ」「宝珠」と関係が有り、完成した御魂の人間を多く育てる・準備する事を急がなければ成らないとの理・ことが、示されて来ているのであろう。・・・
「勢いを殺す」
「神(かれ)は何時も私と一緒」https://green.ap.teacup.com/20060818/5310.html
此の文章の内容からすると、是から人間が行う必要がある事柄(学習・修練)が、纏められている様なので、「画が異なる」との言葉が告げられて来る迄、映し出されて来た事柄は、省略して良いであろう。
其れで、漢語林で「画」の漢字を調べると、次の様に載っている。
「画・畫・ガ・カク・カイ」【解字】甲骨文・金分、象形で、筆を手にして、交差する図形を描くさまにかたどる。篆文は、会意で、「聿+田+口」聿は、ふでの象形。口は、わく・しきりの意味。耕地のしきりを図形上にえがくの意味を表す。常用漢字の画は省略体による。
【字義】(一)@かぎる。くぎる。㋐分ける。㋑さかいする。限界をつける。Aしきり。さかい。「区画」Bはかる。「画策」Cはかりごと。「計画」D漢字の点や線を数えることば。(二)@えがく。絵をかく。Aえ。「絵画」
漢語林より
此の画の漢字の意味からすると、今朝のビジョンに古代社会の農業・耕作地の遺跡が映し出されて来た事が関係が有り、水田・稲作が行えない地域の人達に、日本人の伝統・価値観である「豊葦原瑞穂国・とよあしはらみずほのくに」の事を、話しても理解されないとの理・ことが示されて来ている様である。
其れに、「画が異なる」と告げられて来た「7時1分」の数字から、今年の7月1日の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。
2020/7/1今朝のビジョンは、先ず、私が何処かの山道で、木が茂って通れない様に成っているので、人々が通れる様に、切り払いを行って、通れる様に成った所で屋久島の知り合いである「日高順一氏」が夫婦で遣って来て、私が通れる様にした場所に、有刺鉄線を張って、誰も通れない様にしてから、奥の方に登って行った。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「1時23分」であった。
其れから再び眠ると、今度は、私の知らない・認知していない情報(現場や人の様子)が、次々に私の意識・脳内を流れ始め、私は、其の情報に振り回されて眠れなく成ってしまった。
其れが、長い時間続いた後、其れ等の映像場面が文字文章に替わり始めた。
すると、突然に画面が暗く成って、其の文字文章が見えなく成ったので、其の暗い画面を近付いて良く見ると、其の薄暗い画面の中には、マトリックスの映画の画面の様に、何かの記号が横に画面一杯流れている事が判った。
そして其れは、PCの文字や映像・写真が、テレビ画面の様に、全て電子信号に置き換わって流れている事と関係が有り、私が自分の体の五感「視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚」でキャッチされた情報が、全て磁気情報・電子信号に変換されて、脳に送られている事と関係有る事が理解されて来た。
そして、今朝長い間、私の意識に映し出されて来た場面・情報は、私が個人的にキャッチ・認識したモノではなく、私の中に棲み付いている「ワタシ」と名乗る「女神・万物の母」が、私の脳の仕組みをPCの様に使用しているモノであり、私は、其の流れ去る情報を、自分のモノとして視て居るだけである事が理解されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時14分」であった。
其れから再び眠り、起こされた・起きた時刻は「7時2分」である。
其れから台所に行き、由香に「何かビジョンを見なかった」と訊くと、見たとの事であり、其れは次の様な内容である。
住宅街に行くと、結婚式の様な雰囲気で100人程の人々が、着飾って自分の家の玄関先や道路に集まっており、きちんと姿勢を正して待ち構えて居る様子なので、気に成って、由香が其の場に足を踏み入れると、其処に居た全員の視線が一斉に此方に集まったので、自分が場違いな恰好でもしているのだろうかと、途惑った処で其の場面が終わったとの事である。
其の中には、「〇下美幸」との名前の知り合いが居るのが見えたとの事である。
私は、其の由香のビジョンの説明を受けながら、其れは、6月13日の私のビジョンに映し出されて来た、左右の空間に「紅白の球」が二個浮いていた事と、6月24日の「気の毒ですが 今回の事は 貴方達二人が辿り着いただけで 終わります。」との言葉と関係が有り、私と由香のペアが、陰陽の番いとして完成した事の知らせなのではないかと意った。
其れから、PCを立ち上げると、「貴方が一番」との言葉が告げられて来たので、ワードを立ち上げると、続きの言葉が告げられて来た。
「貴方が一番」
貴方が一番 気を付けなければ 成らない事は
他人の情報に 影響を受けない事です。
其の事が 守られなければ ワタシは
貴方のカラダの中に 宿る事が出来なく成るのです。
ですから 貴方が 自分の目や耳で
受け取る事は 必要ですが
一度 他人の脳を 通過した情報は
自分の脳に 取り込んでは 成らないのです。
其れが統尊の 第一条件なのです。
良いですか 此処から先は 一分のスキが有っても
許せない 事態・次元が 始まるのですよ。
其の事が 貴方の意識に しっかりと
納まらなければ 此方は 動き出せないのです。
ですから 何事も 此方の所為にしては 成りません。
紀(とき)のまつりは 既に始まっているのです。
後は 貴方の認識度 次第ですので
其の事を 能く考えなさいね。」
「貴方が一番」
其れから再び、今朝の文章を打つ為にワードを立ち上げると「レオ・パレス」との言葉が告げられて来たので、其れを調べると、次の様に載っている。
レオ【Leo】の解説
ラテン語でライオン。
パレス【palace】 の解説
1 宮殿。王宮。御殿。
2 娯楽・競技などのための大きな建物のこと。
此の意味からすると、「レオ・パレス」とは、日本語では「獅子の宮殿」と成るので、今朝の女神の言葉と符合しており、一年前の6月30日に「明日から始まる」と告げられて来た事が、本日から本番に入るとの事であり、其の為に由香のビジョンには、祝賀の場面が映し出されて来たのであろう。
其れに、今朝起こされた「1時23分」の数字は「123・ひふみ・霊文」と読めるし、6時14分の数字は、昨年「切り開く能力・ちから」と告げられて来た「6月13日」の次の日の日付であり、7時2分の数字は、本日7月1日の次の日の日付である。・・
此の文章には、昨年の6月30日に「明日から始まる」と告げられて来た事が書いて有り、本日は其れから丁度丸一年の日である。
昨年の7月1日・2日の文章の内容は、次の様な物である。
2019/7/1本日から7月であり、昨日告げられて来た「明日から始まる」との言葉は、「政治」の世界と「教育」の世界を、根本から立て直さなければ成らないとの事の様である。
今朝のメッセージの映像は、先ず、日本だけではなく、韓国を始めとする世界各国の政治が、本来の政(まつりごと)から大きく外れている事が示されて来て、其れは、政治家が本来の政(まつりごと)の理(ことわり)を理解していないと言うか、道を大きく踏み外している事を示唆していた。
其の場面が、うんざりする程しつこく映し出されて来て、其れが嫌で意識が目覚め、照明を点けて時計を見ると時刻は「4時6分」であった。
其れから再び眠ると、今度は現代の子供達の言動が変しいので、私は数人の老女が生活している所を訪ね、「お婆さん達の子供時代の学校教育は どの様なモノであったか聞かせてください。読み書き算盤の他に どの様な事を教わりましたか。」と質問していた。
そして起きて時計を見ると、時刻は「7時14分」であった。
今朝のメッセージの内容から、私が感じたのは、今朝のメッセージは昨日のメッセージの続きであり、現在の政治の世界や教育の世界に、手出しをしては成らないと言うか、口出しをしては成らないと言う事の様である。
何故かと謂うと、現在の殆どの政治家や教育者は、自分達が何を行なっているのかを、全く気にしていないと言うか、自分達が自信を持って行っているので、私が余計な事を謂うと、耳を傾ける所か反発されて、何を言われる・されるか判らないので、決して口出しをしては成らないと言う事の様である。
其れを考えると、昨日のメッセージの映像で、私が自分の苗字である「礒邉」の「邊」の牌を捨てていた事が関係有り、私は本来の「いそべ・いしべ・石部・石工」に還らなければ成らないと謂う事の様である。
其れは、石上神宮の「物部」が、天皇・みかど(カド族)に仕え、「兵糧」の管理や「儀式」を行っていた事よりも、前の状態である「石部・石工」の本来の立場に、還らなければ成らないと言う事なのであろう。
キー「石工の秘儀」・・
此の「自由な石工」の文章には、・・今朝のメッセージで、14日の日付を約束していたのが、来月の7月14日の事であれば、旧暦の7月14日は「夏禊ぎ」の日であるので、其の夏の禊ぎを行う事を約束していた事になる。・・と書いて有るので、今朝起きた・起こされた時刻が7時14分であった事と関係が有りそうである。
其れに「4時6分」に起こされて時刻は、西洋の読み方からすると「6月4日」に成るので、私が此の神の世界に飛び込んだ日が「4日6月1984年」であった事と関係が有るのかも知れない。
其れ等の事柄から、私に考えられる事は、「本日から始まる」との事は、私を捜し出して此の世界に送り込んだ「土肥無庵」や、伊勢神宮を創建した皇女・斎宮である「倭姫命・やまとひめのみこと」の言葉が、本日から本番を迎えるとの事なのかも知れない。・・
此の「邊・邉・部」の漢字の意味からすると、私は「礒邉」を止めて「石部」か「石工・石屋」に苗字を変える必要があるのかも知れない。
其れに、昨日と今朝のメッセージの内容から考えると、私は世間に出て物を謂う事は御法度の様なので、「風 麥東 陶・ふうれんとう」との言葉を告げて来た、白い服を着て、高山の峰の大きな木の枝の下に有る石の上に座って居た、男性の立場・座に、自分の身を置く必要が有るのかも知れない。・・
「政治と教育」https://green.ap.teacup.com/20060818/5039.html
此の一年前の二日分の文章の内容から考えると、矢張り私が屋久島で産まれ育った事と関係があり、其の私が是から考えなければ成らない事は、西洋で発達して来た「科学」の世界で明らかに成って来た情報・理論に合わせて、東洋の「精神性・神学・霊魂の世界」を、明らかにして行かなければ成らないと言う事である。
其れは「太陽」が「神様・天照大神」であると考えるのではなく、水素原子が集まってヘリウムと成り核融合を起こし、光と熱と電磁波を宇宙全体に放射している事が、此の地球生命や人間の意識に、どの様な影響を与えているのかを、詳(つまび)らかにする事である。
其の事に付いて、今朝のビジョンは関係が有り、人間が活動する様子や文章がPCの中を流れる場面は、人間の「目・視覚・顕在意識」の世界であるので、其れは太陽の光の世界・昼間の世界である事に成る。
だが、其の世界が消えて、暗い世界に電子信号・電子情報記号が、マトリックス(母体・基盤・数学的行列)として全体に流れていたのは、夜間の世界・眠りの世界であり、其れは「潜在意識・夢」の世界であるので、統尊(すめらのみこと)・神主・斎宮などが行う役割である「天の御臥す間(あめのおふすま)真床 襲衾(まとこおふすま)」の世界である事に成る。
其れに太陽光線は、暗黒宇宙を飛んでいる時には物ではなく、形が無く目に見えない「波動&粒子」であり、物体に衝突して初めて「光」や「熱」として働き、地球を暖め・植物の炭酸同化作用を助ける事で酸素が増え、人間を含む全動物(昆虫まで)が誕生して来ている。
だから、其処には神の存在は無く、水素原子から始まった物の世界が有るだけで、精神性などは欠片も無いのである。
我々人間が、謂って居る「精神性・こころ・魂しい」と言う物は、人間の脳細胞が産み出した言葉に拠って、サモ有るかの様な錯覚をしているが、其れは38億年前に誕生した微生物の進化に拠る、遺伝子・DNAが進化する上での環境整備から多面的に広がった「命・いのち」の複雑な情報の柵(色・rūpa・ルーパ・縁起・結び」から、発生して来た、生きる為(継続)の情報にしか過ぎないのである。
其の継続される情報で、人間の脳は巨大化してしまい、人間自身は子宮の中で受精してから「29・5日×9ヵ月=265・5日」の間は、其の遺伝子・DNAの儘の生命体であるが、此の三次元世界に産まれ落ちてから、5歳位の間迄に殆どの人が、両親や社会から情報を詰め込まれ、自分自身の「命の情報・魂しい」は失われてしまう。
其れを、取り戻す事に成功(覚醒・成仏)した人間が釈迦(ガウタマ・シッダールタ)であるが、其の事が文字化された事で、更に人間の脳は「真実(遺伝子・DNA)エホバ・ヤハウェ」から遠いてしまっているのである。
其れが、旧約聖書に記されている「蛇が勧める知恵の林檎」の例えの意味であるので、人間はエデンの園に還る為には、幼子の時点まで還る必要があるのである。
其の事を考えると、一年前に告げられて来た「政治と教育」のテーマの第一歩が、本日踏み出された事に成るのではないだろうか。
今朝のビジョンに最初に登場した「日高順一」氏は、昨年の12月23日に電話が掛かって来た存在であり、其の日は、奈良の矢追日聖法主の生誕祭の日及び元旦祭でもあった。・・
何故今朝のビジョンで、私が皆が通れる様に山道を整備して居る時に、日高順一氏が夫婦で遣って来て、其の道を他の人が通れない様に有刺鉄線を張って、奥に去って行ったのであろうか。
「順一」と、矢追日聖法主が夢に登場して私に見せた「順道」の掛け軸から、「順」の漢字を調べると、次の様に載っている。
*「順・ジュン」【解字】形声。「頁+川」音符の川は、かわの意味。川の流れるように事態の流れにまかせる顔になる、したがうの意味を表す。
【字義】@したがう。⇔逆。㋐よる。より従ってさからわない。「耳順」㋑そう。物によりそう。㋒ならう。まねる。㋓あとにつき従う。㋔帰服する。「帰順」Aすなお。おとなしい。「柔順」Bやわらぐ。「和順」Cやすんずる。また、よろこぶ。Dうける(承)。うけつぐ。E物事の次第。順序。Fかわいがる。愛する。Gおしえる。=訓。H正しい。また、よい。「順否」
漢語林より
此の順の漢字の意味からすると、私は人々を山に案内する様な行為は止めて、事の流れに準じて居さえすれば、其れだけで良いとの事であり、其れが昇る太陽に従う生き方であるとの理・ことなのかも知れない。
今朝「レオ・パレス」と一言告げられて来た事の意味は、私は神社の鳥居の入り口に在るのではなく、エジプトのスフインクスの様に、太陽が昇る東の空を、絶えず眺めていなければ成らないとの事なのかも知れない。
確かに、現在・いまは、毎日、其方に向いてPC前を続けている。
「レオ・パレス」https://green.ap.teacup.com/20060818/5411.html
本日は「画」の漢字の意味を辞典漢語林を見ながら、PCに打ち込んで居ると、【字義】の「Bはかる。「画策」C」まで打った所で「江藤氏に電話を掛けろ」と男性の聲で告げられて来たので、私が「是を打ち終わってからで良いだろう」と意うと、「今直ぐだ」と云って来るので、直ぐに電話を掛けると、「いま赤信号で止まっており 交番の前なので掛け直す」との事なので私は電話を切った。
すると折り返し掛かって来て、一時間程、状況を話し合って居ると、現況が理解出来て来て、今後の段取りが決まった。
其れから再びPCに向かい、其の漢語林の続きを見ると、Cは【はかりごと。「計画」】であり、正に、江藤敬介氏との話し合いは、其の「はかりごと・計画」との言葉通りと成った。
其れで不思議に思い、私が電話の発信記録を確認すると、10時23分であり、其の数字は、私の父親の命日10月23日であるので、江藤敬介氏に電話を掛けろと云って来た男性は、「礒邉勲・いさお」であった事に成る様である。
其れに、江藤敬介氏との会話の中で、江藤氏のトラックで「神凝石・かみこりいし」を屋久島に運んだ事の話が出て、其の日は2014年10月23日であり、其の日は父親の50回忌日で、途中で一緒に父親の墓にお参りしているので、父親が江藤敬介氏の事を知っている理由も分かる。
2014/10/23・・今は、鹿児島港のフェリー「屋久島2」の中に居る。
今朝は、田川市の自宅を3時5分に出発して、鹿児島港に7時15分に到着した。乗船手続も完了して、8時30の出港を待つのみである。
今朝は、睡眠時間が少なかったので、メッセージの映像も短いものであった。
今朝の映像は、私が、父親に関する物を、片端から壊すと言うか、破棄している場面が映し出されて来て、最後に、父親の存在が目の前に在る事が解かったが、其れは光の存在に成っており、姿を確認する事が出来なかった。
其れだけが、今朝の映像であるので、今朝のメッセージは、父親と私の関係が示されて来ているのであろう。
本日10月23日は、私の父親「礒邉 勲」の50回目の命日である。
そして、今年の12月15日は、其の父親の生誕100年と成る日でもある。
今朝の映像で、何故、父親の霊体が放散する光の存在として、映し出されて来たのかを考えると、今回、私が屋久島に「神憑り石」を搬入する事で、父親が自分の役割が完了する事に成るので、人間の御魂としての次元が解消されて、天の光の世界に、還る事に成ったとの事なのかも知れない。
其の様に考えると、仏教で死んだ者の供養が、50回忌が最終年忌である事も、根拠が有る事になり、私自身の気持ちとしても、其れが、納得出来そうな気がする。
今日は、フェリーが宮之浦港に到着したら、途中に在るスーパーで花束を買って、神憑り石を薬草園に降ろす前に、途中に在る墓地に立ち寄って、父親の墓前に捧げたいと考えている。
「光に還った父の御魂」http://green.ap.teacup.com/20060818/3239.html
此の内容からすると、今日、江藤敬介氏との会話中に自分の両目から、自然に涙が流れ始めた現象の意味が理解される。
其れは、悲しさや、嬉しさからのモノではなく、ただ他人事の様に流れて落ちて行く物であった。
其れを江藤敬介氏に云うと、江藤氏も涙が流れているとの事であった。
何だか能く判らないが、何等かの事が進行している様である。
今朝の江藤敬介氏のビジョンでは、自分のトラックや農機具を動かして他人を助けようとしても、其れが出来なない状況が迫って来ている様子が、映し出されて来たとの事である。
そして其れは、政府や他人を当てにして生活して居る人々が、行き詰まると言う事であり、他人を当てにしている者は生き延びる事が出来ないとの事の様であったとの事である。
其れに、今朝の由香のビジョンには「カンガルー」の子供達の面倒を看る為に、飼育係の様な雰囲気の2、3人の女性と乗り物に乗ると、浮上して行き、体育館の様な大きな建物の天井裏に上って行き、其処から下を見ると、カンガルーがたくさんいるので、どうやって降りて行こうか、一緒に遊ぼうかと考えて居ると、突然狭い室内空間に移動し、背後にある扉(カンガルーの所に繋がっている)の前に、70歳ぐらいの男性が座って居り、カンガルーの方へどうにか行こうとすると、其の人物が、「異人には必要ない」と云ったとの事である。
カンガール語源
「カンガルー (kangaroo)」は、グーグ・イミディル語でクロカンガルーを指す言葉であった gangurru が変化したものであると考えられる[1]。これは直接的な意味としては「跳ぶもの」を指す。
「カンガルー」という語がはじめて記録されたのは、ジェームズ・クックの最初の航海について、王立協会会長を務めた貴族のジョセフ・バンクスが記述した文章においてであり、このときは「Kangaru」と綴られた。これは元々はグーグ・イミディル語でオオカンガルー(ハイイロカンガルー)の意味で、すぐにカンガルー全体を示す英語として使われるようになった。
ただし、オーストラリア周辺には多くの部族が住むため、すべての部族がこの生物のことを“カンガルー”と呼ぶわけではない。
なお、「カンガルー」の由来に関する逸話として、『西洋人が初めてオーストラリア大陸に上陸した際、現地人にカンガルーを示して「あの動物は何と言うのか?」と訊ねたところ、現地人は西洋人の言葉が理解できないため、「(何を言っているのか)わからない」という意味で「カンガルー」と答えたが、訊ねた側は「あの動物は“カンガルー”という名前らしい」と誤解してしまい、これがこの動物の通称となった。』というものがあるが、これは俗説である[1]。
フリー百科事典『ウィキペディア』2020/07/現在
此の説明からすると、今朝の「画・畫が異なる」との意味は、日本から外国に出た事が無い私が、自分の考え(画・畫)を他国の人々に直接傳える事は、不可能であるので、其の様な事を考える・悩む必要は無い、との事なのかも知れない。
令和2年7月17日
礒邉自適
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