言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2020/11/17
制人
2・11・17
昨日は二十歳の時に、阿蘇の「日の宮幣立神宮」の近くに住んで居た私を訪ねて来て、暫く子供の遊び相手や農作業を手伝ってくれた「白土君」から電話が有り、85分間、是からの日本国の在り方に付いて色々話した。
其の事と関係が有るのか、今朝のビジョンには、船に掲げる「大漁旗」の様な雰囲気で「制人」との文字が大きく記されている看板の様な物が、建物の入り口の右側に置かれている場面・様子が映し出されて来た。
其の「大漁旗」の縁取り・飾りの色彩は、青色が基調と成っていた。
其れに「制人」との書き順は、現在の横書きでは制人であるが、漢字文化では右側から「人制・ジンセイ・ニンセイ」と読まなければ成らない事に成る。
だが、其れは、両方とも国語辞典には載っていないので、「制人」「人制」とも、有りそうなのに無いのは、「人を制する」との言葉は、禁句扱いに成っている様である。
制の漢字を漢語林で調べて見ると、次の様に載っている。
制・セイ 【解字】会意。篆文は「刂(刀)+未」未は、枝の重なる木の象形。余分な枝をそぎおさえるの意味を表す。制は、利の変形。制を音符に含む形声文字に掣・猘・製などがあり、これらの漢字は「そぎ、おさえる」の意味を共有する。
【字義】@おさえる。押さえつける。従わせる。Aとる。占める。手におさめる。制勝(かちをセイす)。Bきる(切)。たつ(断)。Cつくる(製)。整えつくる。また、調整する。Dおさめる。つかさどる。あやつる。Eのり。おきて。とりきめ。Fみことのり(詔)。また、その文書。
【制可】天子の許可。
【制誥】みことのり。詔勅。詔書。
【制詔】みことのり。天子の命令。 漢語林より
其れに、過去の文章を「制」で検索すると「制世」の文章が出て来た。
2010/1/25・・そして、場面が変わり、今度は知り合いの、足の不自由な70歳くらいの男性が現れて、若い夫婦を雇って、自分の家の敷地の川縁に、川水の流れギリギリまで、コンクリートの擁壁を造らせている。
其れは、1mmでも、自分の土地を広げ様と、考えている様子が伺えるものである。
私は、其の様子を見て、何れ崩れてしまうのは間違い無いのに、無駄な事をする物だと意って居た。
すると、「覚醒」との言葉が、枠の中に書かれて現れ、次に「制世」との言葉が、枠内に書かれているのが映し出されて来た。
「覚醒」との言葉は、よく使われている言葉だが「制世・せいよ」との言葉は、聞いた事がない。
PCで検索して見ると「制御」との言葉は有るが、「制世・せいよ」との語は無い。
「制御」は、せい‐ぎょ【制御/制禦/制馭】
[名](スル)1 相手を押さえて自分の思うように動かすこと。「欲望を―しきれない」2 機械・化学反応・電子回路などを目的の状態にするために適当な操作・調整をすること。「運転を自動的に―するシステム」 Yahoo辞典
*「制・セイ」は、「リ(刀)+末」の組み合わせで、「末」は枝の重なる木の象形。余分な枝をそぎおさえるの意味を表す。【字義】は、@おさえる。押さえつける。従わせる。Aとる。占める。手におさめる。制勝(かちをセイす)。Bきる(切)。たつ(断)。Cつくる(製)。整えつくる。また、調整する。Dおさめる。つかさどる。あやつる。Eのり。おきて。とりきめ。Fみことのり(詔)。また、その文書。
*「世」は、十を三つ合わせて、三十・三十年・長い時間の流れの意味を示し、転じて、世の中の意味も表す。【字義】@よ。㋐三十年間。㋑人の一生涯。父の後ついで家長となり、其の地位を子に譲るまでの30年間をいう。㋒一王朝の続く間。㋓その時代。その時勢。㋔世の中。世間。また世の中の人。㋕とし(年)。Aよよ・代々。Bよよにする。代々続く。C過去・現在・未来をいう。
漢語林より
此の意味からすると、「制世」とは、確かに「次元切り替え」の言葉に関係が有り、「世を制する」との意味であり、「まつりごとのつかさ」の働きを告げて来ている事に成る。
其の事は、以前1986年1月10日・近江神宮の大祭にて、祭神である「天智天皇」に「ひもろぎの 代よの乱れを 盃に 菊一輪と まわし飲み」と伝えられて来ているし、昭和天皇には「吾が身 既に遠く 良き世を 願い奉る」と、平成元年2月24日の大喪の日に告げられて来ている。
今朝は、其の「まつりごとのつかさ」としての条件が、「覚醒」に関係有る事を告げて来ているのであろう。そして、何に付いて、覚醒が必要であるかを示す為に、女性の本能(生殖)と、男性の本能(城造り・権力・縄張り)が映し出されて来たのであろう。
其れは、両方とも、純粋な動物の本能であるし、「自己保存」の自然法則に従ったモノであるので、「生命の本体」が映し出されて来ているのだから、別に悪い事ではないだろう。
しかし、其の人間の本能が暴走すれば、地球環境を破壊し、他の地球生命との調和を、欠いてしまう事に成るのである。だから、其の為に、今朝は「制世・せいよ」との言葉を創り出して、私に示して来たのであろう。
今朝のメッセージには、「覚醒」「制世」「自己保存」「生命の本体」等の言葉が、枠の中に書かれて出て来た。
其の言葉から、私が考えた理・ことは、「言葉」は「自己認識をする為に 役立っている」との理・ことであり、言葉は、其の為に発達して来たと謂える。
だが、現代社会には、様々な言葉が氾濫しているので、多くの人間が不消化を起こし、本来の「霊留・ひと」の道から外れてしまっている。
其の為に、社会が混乱を起こし、迷走を続けているので、若者や子供達がどの様に生きて行ったら良いかが、判らなく成っているのである。
「教育」の単語は、明治維新に拠り西洋から取り入れられた概念であり、英語の「相手の命・みこともち を 引き出してやる」の意味の「エデュケーション・education」を訳したものである。
其れに、人間の精神を、本来の道に返す為に取り入れられた概念は、「再び神と結ばれる」の意味である「リリジョン・religion」であり、其れを漢字二文字に訳したのが「宗教」の単語である。
其の「教育」と「宗教」の単語も、消化不良を起こしているのが、現在の教育と宗教の世界である。
今朝は、其の他にも、「本堂の修復を止める」との言葉が告げられて来た。
其れは、もう釈迦仏法の「真実」が明らかに成って来たので、寺の本堂が必要ないと言う理・ことを示唆して来ているのであろう。
其れは、本堂に、金を掛けて修復しないで良いとの事だから、古く成った本堂は解体して良いとの事であり、仏像も必要ないと言う理・ことである。
其れは、仏教の寺院だけではなく、キリスト教の教会も同じである。
何故なら、教祖である「イエスキリスト」自身が、「建物には 神は住まない」と謂っているからである。
イエスは、「人前で祷るな。」「同じ言葉を繰り返すな。」「大勢で祷るな。祷りは隠れてしなさい。一人でしなさい。」と、訓えているのである。
だが、日本の仏教と同じく、キリスト教もイエス本人の訓えが守られていないのである。守られていないどころか、止めろと謂った事ばかりが、行われているのである。
今日のニュースには、大手のイオングループが、葬儀の事業に乗り出して好評であると載っている。其の理由は、葬儀の透明化を図っているからだとの事である。
其れが、拡大すれば、お寺や教会も、葬式代が値崩れを起こして、立ち行かなく成るかも知れない。そう成れば、今朝のメッセージに有った「本堂の修復を止める」との事が、現実と成るのかも知れない。
日本で、仏教に拠る葬式が増えたのは、徳川幕府が隠れキリシタンを弾圧する為に、「仏教で 葬式をしない者は 隠れキリシタンと見なす。」との政策・制世を行ったので、其れまで、神式で葬儀を行って居た者まで、神社関係と天皇家の他は、全て、仏教で葬式をする様に成ったのである。
だから、400年前は、仏教に拠る葬式は一般的ではなく、むしろ神式が一般的だったのである。其れに1500年も遡れば、キリスト教どころか、仏教も、日本には無かった事に成るのである。
今朝の「制世」のメッセージは、2月11日に行われる「新大和発進 !」の集いで、私がどの様な内容を講演すれば良いのかを、示唆して来ているのかも知れない。
2月11日まで、残り16日と成った。
私に取って、其の講演の内容をどう言うモノにするかが、「問題・試練」と成って来た様である。
幸いな事に、「新大和発進!」のテーマには「国」の文字が入ってはいない。
「大和・倭・やまと」とは、奈良の事であり、神武天皇が奈良の橿原で「政・まつりごと」を始めたので、「大和・倭・やまと」と言えば、日本の国を意味する事に成る。
今朝のメッセージは「制世」との事なので、日本の国造りだけの事ではなく、地球全体、宇宙・神界・霊界・人間社会など、全てを含んでいる。
其れは、「我が国」とか、「うちの会社」とかの、小さな領域の世界ではないのである。其れを考えると、「国」と言う言葉ではなく、新しい「くに」の概念を、創り出さなければ成らないと謂うことに成る。
日本語・倭言葉の、「くに」に使われている漢字を調べると「国・國・州・六合・邦・郷」などが有る。
「國・国」は、武器を持って国境を守るの意味で、「六合」は、家が立ち並ぶ集落の意味で、「州」は、川と川の間の中州の意味で、「邦」は、敵の侵入を防ぐ土塁が築かれた土地の意味で、「郷」は、自分の故郷の意味である。
だから、現在良く言われている「地球村」や「世界政府」の様な意味の「くに」の文字は無いのである。つまり「国・邦・州」の漢字は、境目・境界の意味であり、地図上の仕切りを意味し、其処で生活する、人民の姿が在るわけではないのである。
日本語の「くに」とは、空や海に対する「大地」の意味であり、「祇神・くにつかみ」の言葉に有る「土地」の意味である。
だから、日本語の概念には、境界を必要とする「国」の概念は、無いと言う理・ことに成る。
だとすれば、日本語の「くに」とは、旅人でなければ使えない言葉であり、自由な民の概念であり、イエスや、釈迦や、老子や、芭蕉の様な生き方をした人間には、国とは無く、大地が「くに」である理・ことに成る。
其の様に考えると、「故郷に帰り 幼友達と一緒に 同じ食卓で 故郷の食べ物を食べて こころ・魂を響き合わせる」との意味の「郷・くに」が、一番合っている様だが、其れは個人的な理・ことなので、今朝告げられて来た「制世」の意味には合わない。其の様に考えると、「制世」とは、何処から、何処までを、制世の範囲・領域とすれば良いのであろうか。
一番近いのは、「身土不二・しんどふじ」の世界で、自分が食べ物を集められる距離の領域であり、自分の胃と、お友達の世界である。
そして、一番広いのは、ビッグバンから始まった138億年の時間で広がっている、此の宇宙空間である。
其の空間を抜けてしまえば、永遠の闇の空間なので「世(質量)」自体が無いのだから、制し様が無いので、考えなくても良いだろう。
其の様に考えると、「制世」とは、距離・範囲を何処に設定すれば良いのであろうか。
日本の古事記には、「黄泉の国・常世」が有る事に成っているので、死後の世界には138億年の「空間・世」が有る理・ことに成っている。
そして、宇宙が誕生して、現在の世の中が出来るまでを「ひ・火・日、ふ・風、み・水、よ・世、い・飯・禾、む・体(からだ・むね)、な・名、や・矢、ここの・心、たり・足り・完」の順番で、現しているので、昔し風に考えると、今朝の「制世」とは、其の「一・火・ひ 〜 十・たり」の世界を、全て含んでの事なのかも知れない。
其の様に考えると、今朝のメッセージに「覚醒」との言葉が伴っていた事の、意味も理解出来る。何故なら、「覚醒・かくせい」とは、其の「一・火・ひ 〜 十・たり」の世界を、全て思い出す事の意味だからである。
昨日は、時間が無いので書かなかったが、「300(8)」の数字が現れて来て、映像も現れて来た。其の映像は、部屋の中に置いて有る金庫を開くと、中に札束が澤山積んで有り、其の札束の上に乗せてあった紙袋の中から、金貨が外に零れ落ちて来た。
私が、其の中に、幾ら程の札束が有るのかを確かめ様として居ると、其の部屋に他人が入って来たので、 慌てて金庫の扉を閉めて、抱きかかえて居た。
其れから、場面が変わって、私は、建物が建っていない丘の上の土地から、広い海を眺めて居た。
其の二つの場面から、私が連想したのは、現在NHKで放送されている、大河ドラマの「龍馬伝」の番組に出て来る、「坂本龍馬」と「岩崎弥太郎」の二人である。
海を眺めているのは「坂本龍馬」風で、札束や金貨が入って金庫を大事に抱えているのは、アメリカの資本主義に協力した「岩崎弥太郎」風である。
坂本龍馬は、日本人に夢を与えたが、子供も居なかったので子孫も無く、生家の跡には記念碑が建っているだけである。
一方岩崎弥太郎は、兵器産業や、金貸し(銀行)や造船など、数多くの事業を起こし、現在でも子孫が其の事業を継いでいる。
昨日のメッセージで、宇宙から新しく生まれた子供(九代竜王)に見せるのは、其のどちらの姿が良いのであろうか。
其の、答えと成るヒントが、今朝のメッセージに、含まれているのではないだろうか。
今朝のメッセージの映像には、人の顔が現れて、其の顔の目が、様々な方向へと動いていた。
そして、次に瞼が閉じられて、今度は、顔の表情が色々様々に変化した。
私は、其の目の動きと、顔の表情から次の様に思った。
人間の目の動きは、「意識の方向性」を表しており、顔の表情は「心の動き」を表していると言う理・ことである。
其れは、「制世」の中に、先ず、自分の目線と、顔の表情を、管理する事が含まれている理・ことを、意味しているのではないだろうか。
何故かと謂うと、目線は意識の方向性・矢先を意味し、顔の表情は自分の心の鏡であり、其の二つを、意識的にコントロール出来る者でなければ、全宇宙の「制世・せいよ」は不可能だからである。
其の、自分の顔と目線が管理できる様に成れば、他人の目線や表情だけではなく、昆虫や、小鳥や、動物などの目線や仕草も、理解できる様に成るし、植物のこころ・命も読める様に成るであろう。
そして、其の先には、地球の悲しみや、喜びの表情が有るのである。
其の、地球の表情が読める様になれば、日本語の「くに」の言葉も理解できて来るのではないだろうか。其処には、日本国中に木を植えて回った「素戔鳴尊・すさのおのみこと」の存在が浮かび上がって来る。
「素戔鳴尊」は、息子の「五十猛命・いそたけるのみこと」と大陸に渡って、木の苗や種子を持って帰り、娘二人「大屋津姫命・都麻津姫命」に育てさせて、家族で日本国中に木を植えたのである。
其の、素戔鳴尊の家族の行動や、物語は、世界中に広げられる必要があるだろう。
其の、素戔鳴尊の家族の行動が、世界中に認められれば、植林をする為に、国境は無く成る事に成るし、人類の意識の解放・拡大にも繋がるのである。
そして、国境が無くなれば、戦争は無くなる事に成る。
正に、木を植える事は「いのち」を理解する事に成るし、生命は、植物に助けられて存在している理・ことわりを、理解できるのである。
そして、森林から、全てが生まれている理・ことを学ぶのである。
昔は、此の様な事を謂っても、誰も耳を貸さなかったであろう。
其れは、其の様な行動は、不可能とされていたからである。
しかし、現在の世の中には、PCとITが有るので、過去の社会システムとは全然違うのである。
ようやく、昭和20年8月15日の天皇の玉音放送の後に、奈良の「矢追日聖法主」に神が告げて来た事が、現実と成るのであろう。
其のメッセージは、新しい精神革命が、日本から世界に向けて起きると言う事である。
「制世」https://green.ap.teacup.com/20060818/1416.html
此の「制」の意味「余分な枝をそぎおさえる」を考えると、現代社会の様相・仕組みは、余りにも人間の生活には関係無い物事が多過ぎて、資源の無駄使いだけではなく、地球環境の汚染に繋がっているので、天神・宇宙意思が未来の為に「余分な枝をそぎおさえる」との事を実行するとの理・ことであり、其の為の一手がコロナ禍の現象なのではないだろうか。
今朝「制人」との看板が映し出されて来て意識が目覚めた時刻が「2時11分」であった事から、今年の「2月11日」の文章を視て見ると、次の様に書いて有る。
2020/2/11昨夜は入浴して、マッコウ鯨瞑想を行って居ると、「明日からゲンメツが始まる」との言葉が一言告げられて来たので、風呂から上がり、辞典原泉で「げんめつ」を調べて見ると、ゲンメツは「幻滅」しか無いので、「本日から幻滅が始まる」との事の様である。
「幻滅・げんめつ」幻想から覚めて現実にかえってがっかりすること。美化し理想視していた事柄が幻に過ぎなかったことを知らされること。
『あの人には幻滅した』
此の「幻滅」の意味からすると、本日から、人間社会に「覚醒」が始まり、人間だけではなく、芸術・政治・宗教・思想・教育・ファッション・金融・等々の世界で、良いと思っていた事柄が、実はそうではなかったとの理・ことが、自覚され始めるとの事の様である。
其れは、今朝のビジョンで「天界・神界・四次元世界」に完璧な準備が整った事が映し出されて来た事と関係が有り、愈々人類の意識の進化・アセンションが始まるとの事なのではないだろうか。
昨夜は、其れが分かってから、床に就いて目を閉じて居ると、瞼に満開の向日葵の様な感じの男性神の顔が映し出されて来て、其の顔が私の中に侵入すると、息子が二人居る家庭の居間の中に、其の存在が割り込んで来るので、私は立ち上がって、其の存在を居間の中に迎え入れて居た。
其れから、再び、私の目の前に三体の光の顔・女神の顔が正三角形状に並んでいる場面が映し出されて来て、私は、其の三体の光の顔の存在も受け入れて居た。
其れは、昨日の「三匹の子牛」の言葉と関係が有り、其の三体の女神が「三権分立」で三つの物の世界の管理を司るとの事なのかも知れない。
其の様に考えると、昨日私が「日本帝国印」の印鑑を受け取ったのは、父親の代理で、此の三次元世界を治める統尊(すめらのみこと)の存在を、示唆している事が考えられる。
今朝のビジョンには、先ず、私の唯一の親友であった故「岩川道夫」が登場して、私が実家の方に案内して居ると、其の故郷は人間が住まなく成って、何十年も経過しており、道路の両脇には木々や蔓が被い繁っており、通行できない状態に成っているのである。
そして、岩川道夫は昔のポンカン園の中に入って行き、暫くすると、野生化していたラッキョウをビニール袋に詰めて山の中から出て来た。
次に、私達が街中に向い、昔のレストランの建物に到着すると、其のコンクリートの建物の中には、大きなガジュマルの根が張っており、まるでカンボジアのアンコールワットの様な状態と成ってしまっているのである。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「4時13分」であった。
其れから再び眠ると、今度は漢字の「管」の竹冠の部分が、伸びた頭髪の様に、二本の竹が伸びて「官」の部分を被っている象形に成っているのが映し出されて来て、其の様な文字が次々に映し出されて来て、其の難しい漢字(絵の様な)で文章が綴られている場面が映し出されて来た。
其れから、青色の文字単語が、チベット曼荼羅の様に配置されている場面が映し出されて来て、其の文字単語は、PCのアドレスの様な役割と成っており、其の単語をクリックすると、其の世界がPC画面に現れる仕組みに成っている事が理解されて来た。そして、其の曼荼羅は「天界・神界・四次元世界」の情報整備が完璧に出来上がっている事を示唆していた。
そして、「下生して居た」との言葉が一言告げられて来てから、「3月13日」の日付が示されて来た。
其処で意識が目覚めたので、照明を点けて時計を見ると、時刻は「6時16分」であった。
其れから再び横に成って、今朝のビジョンに付いて考え始め、起きた時刻は9時16分であった。
昨夜眠る前に、私の瞼に映し出されて来た「向日葵・太陽」の顔をした存在は、アステカ文化の「太陽神」と関係があり、其の太陽の化身の存在が、昨日私に「日本帝国印」の印鑑を手渡した「ユダヤ神」であり、後の三体の光の顔は、昨日私が乗っていた空中を走る列車の後部座席に座って居た三体の女神・姉妹の存在と関係が有り、私の身体・意識に、太陽神と其の娘である三体の女神が、入り込んで来たと言う事に成るのではないだろうか。
其れに、今朝のビジョンに登場した「岩川道夫」は遺言が「先に往って待っている」との事であったのだが、私は未だ此の世(現実界)に居るので、「待っている」と謂って居た岩川道夫が待ち切れずに、私の方に降りて来た事に成る。・・
だが、其の降りて来た世界は、人間社会が滅び去って、元の森林に還ってしまっている世界であり、人間が存在していた事の証は、野生化している「ラッキョウ」と、コンクリートの残骸だけであった。
其れを考えると、此の世・三次元世界から人類が居なく成れば、霊界人・神霊も「立つ瀬が無い」と言う事に成ると言う理・ことなのではないだろうか。
今朝起こされた時刻「4時13分」「6時16分」「9時16分」の数字から、昨年の「4月13日」「6月16日」「9月16日」の文章を視て見ると、次の様な事が書いて有る。・・
此の文章の内容からすると、今朝のビジョンで、私の故郷が無人と成り、アンコールワットの遺跡の様な状態と成っていた場面は、自然の中でこそ生活できる農家・農業を、国家が守護せずに見捨ててしまえば、国家自体が滅び去ってしまう理・ことが、示されて来ているのではないだろうか。・・
今朝告げられて来た「下生して居た」との言葉と、「3月13日」の日付に付いては、次の様な事が考えられる、3月13日の日付は、私が1984年3月13日に太陽が水平線から顔を半分(日の象形)出している時に、「土肥無庵が神だから守れ」と告げられた日付であり、更に昭和天皇の導きで、1989年3月13日に阿蘇に在る「日の宮幣立神宮」に初めて参拝すると、太陽が異常現象を起こし、3時33分に私の身体に激しく神がかかって来る現象が起きた。
其れを考えると、太陽神は既に下生していた事が考えられる。・・
此処まで文章を打って来ると、今朝の文章は太陽尽くめの内容である事に成り、何故日本の神(天津神)が太陽神とされているのかも理解されて来る。
其れは、「エジプトの神・イスラム教の神・アステカの神」が太陽とされている事と関係が有り、太陽信仰は世界全体で行われて来た事に成る。・・
其れは、以下に、太陽の存在が大事・偉大であるかが、古代から理解されていた事に成り、其の太陽の神(はたらき)に付いて理解が出来れば、人間以外の生き物が全て太陽の存在・エネルギーで純粋な儘、生かされている理が理解されて来る。
其れに比べれば、偉そうな顔をして、自然破壊・エネルギーの無駄使いを続けている人間の存在・有り方に、幻滅する事は顕かである。
其の事さえ、人間が自覚出来れば、明日からでも、平和な未来社会の創造が開始される準備は整っているとの理・ことなのではないだろうか。
「今日から幻滅が始まる」https://green.ap.teacup.com/20060818/5270.html
此の「2月11日 建国記念日」の文章の題が「今日から幻滅が始まる」である事は、今朝示されて来た「制人」との文字や「制世」との言葉と関係が有り、経済優先主義と成っている近代社会体制は、一度衣替えが必要であると言う事であり、地球自体が身震いをして、古い毛並み(睫毛)を祓い落すとの事なのかも知れない。
令和2年11月17日
礒邉自適
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