言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2000/4/27
御嶽・うたき
12・4・27
沖縄では、神霊を祀る場所を「ウタキ」と呼び「御嶽」の漢字を当てている。私は、自分の体験からこの「ウタキ」に繋がる日本の伝統文化を思い起こして見ることにした。
沖縄の人間と、北海道の先住民であるアイヌとの関係も、研究されているが、アイヌの暮らしの中の「カムイコタン」の言葉が、「神の居る谷」の意味であれば、ウタキとは「宇を感じる瀧」と同じ意味になり、瀧のある山が嶽であることが分かる。
漢字の「瀧」も、水の流れ落ちるのを龍としており、水しぶきより立ち上る霧に現れる虹を、龍の現れとしている。
虹の「虫」は龍の意味であり、「工」は工具の工で「作る」という意味を表しているので、虹は「龍が作る」の字義である。
もう一つ挙げるなら、「風」の字義は「几」が船の帆の象形で「龍が 几に風を送る」の意味で出来ている。
中国では、龍は神の化身・働きとして考えられている。
その事が、文字として傳えられてきた。
島根県の日崎の日本海側に、「十六島」と書いて「ウップルイ」と呼ぶ地名が有るが、これはアイヌ語の意味では「我が水の道」という意味で有る。
また、日本語でそのまま使えば「宇振い」となり、「千早振る」との関係性が考えられる。
屋久島でも、安房川の海から3kmくらい上流に滝壷が有るが、其の呼び名が「とんごのウト」と呼ばれている。「ウト」と「ウタキ」とは、関係が有るのかも知れない。
日本では、山に有る滝が、宗教的な修行の場であったり、「妙見信仰」の祭場が、清水の湧水地であったりするのも、古代からの生活風習の続きではないだろうか。
私が、霊的修行の段階で、何10日間も、屋久島の山中の水に触れながら、川の岩の上で瞑想を続けたのも、古代人の精霊に因るものであった。
現在でも、南米のアンデス地帯の原住民達は、清水の湧き出す場所を、精霊の存在する場として祀り続けている。
森の、水の湧きだす場所に居て、自然を静かに見ていると、朝から小鳥達が水を飲みに来て水浴びをして帰る。
どんな生物も、水なしでは生きて行けないのだ。
アフリカの草原でも、南米の森でも、動物連は一日に一回は、水を飲みにやって来る。
私達人間も、その動物達と、同じ仕組みの肉休を持って生きている。
私達は、人間の特徴を有してから、約650万年とも云われているが、それも遺伝子の38億年から見れば、僅かな時間でしかない。
永い記憶から考えれば、人間も、森より湧き出る水の場所に1日に一回通って、自分の魂の根源を感じてみるのが、一番良い方法ではないだろうか。
日本の神社や、お寺が、其の様な自然の場所に建てられたのは、ごく当たり前だと考えられる。
近代に建てられた宗教施設は、其の様な考え方は忘れられ、人間社会中心の考え方で、人が集い易く、また人目に付く事だけを目的としている為に、本来の聖霊の働きや、魂の呼びお越しの事は問題外になってしまった。
現代人は、物質追求の生活に疲れ、安らぎを求めているが、宗教の世界もまた金と物の世界になってしまっているので、人々は行き場を失っている。
いま一度、森の泉や、清水の湧き出る所に出掛け、一人静かに目を閉じて、自分のいのちの38億年の時間を、感じてみたらどうだろうか。
私は屋久島に生れ、37年間その霊気を感じて生きて来た。
この理・ことは、私が話すのではなく、皆が聞いた話としてではなく、自分で体験して見なくては、私の伝えたい理・ことは理解できないと意う。
聖霊の住まう地は、沖縄では「御嶽・うたき」として伝わり、出雲では「熊々しき谷」と呼ばれ、アイヌの人達にとっても、「苔を取ったり 落葉を拾ったり 木の枝を折ったりしてはいけない 聖なる地」として、護り続けられていた。
いま、世界中に都市が出来て、その都市に生まれ育った人達の考えた文化が、自然のシステムで暮らして来た人達の文化を、消し去ろうとしている。
私は、37年間屋久島で生き、そして16年間全国を旅して、この理を何とか人々に説明できるようになった。
21世紀を創造して行く若者や、子供達に、これ等の理・ことを伝えて行く事が、私に与えられた、使命ではないかと考えるこの頃である。
平成12年4月27日
礒邉自適
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