言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2000/5/29
事象の特異点
12・5・29
沖縄では、神霊を祀る場所を「ウタキ」と呼び「御嶽」の漢字を当てている。私は、自分の体験からこの「ウタキ」に繋がる日本の伝統文化を思い起こして見ることにした。
沖縄の人間と、北海道の先住民であるアイヌとの関係も、研究されているが、アイヌの暮らしの中の「カムイコタン」の言葉が、「神の居る谷」の意味であれば、ウタキとは「宇を感じる瀧」と同じ意味になり、瀧のある山が嶽であることが分かる。
漢字の「瀧」も、水の流れ落ちるのを龍としており、水しぶきより立ち上る霧に現れる虹を、龍の現れとしている。
虹の「虫」は龍の意味であり、「工」は工具の工で「作る」という意味を表しているので、虹は「龍が作る」の字義である。
もう一つ挙げるなら、「風」の字義は「几」が船の帆の象形で「龍が 几に風を送る」の意味で出来ている。
中国では、龍は神の化身・働きとして考えられている。
その事が、文字として傳えられてきた。
島根県の日崎の日本海側に、「十六島」と書いて「ウップルイ」と呼ぶ地名が有るが、これはアイヌ語の意味では「我が水の道」という意味で有る。
また、日本語でそのまま使えば「宇振い」となり、「千早振る」との関係性が考えられる。
屋久島でも、安房川の海から3kmくらい上流に滝壷が有るが、其の呼び名が「とんごのウト」と呼ばれている。「ウト」と「ウタキ」とは、関係が有るのかも知れない。
日本では、山に有る滝が、宗教的な修行の場であったり、「妙見信仰」の祭場が、清水の湧水地であったりするのも、古代からの生活風習の続きではないだろうか。
私が、霊的修行の段階で、何10日間も、屋久島の山中の水に触れながら、川の岩の上で瞑想を続けたのも、古代人の精霊に因るものであった。
現在でも、南米のアンデス地帯の原住民達は、清水の湧き出す場所を、精霊の存在する場として祀り続けている。
森の、水の湧きだす場所に居て、自然を静かに見ていると、朝から小鳥達が水を飲みに来て水浴びをして帰る。
どんな生物も、水なしでは生きて行けないのだ。
アフリカの草原でも、南米の森でも、動物連は一日に一回は、水を飲みにやって来る。
私達人間も、その動物達と、同じ仕組みの肉休を持って生きている。
私達は、人間の特徴を有してから、約650万年とも云われているが、それも遺伝子の38億年から見れば、僅かな時間でしかない。
永い記憶から考えれば、人間も、森より湧き出る水の場所に1日に一回通って、自分の魂の根源を感じてみるのが、一番良い方法ではないだろうか。
日本の神社や、お寺が、其の様な自然の場所に建てられたのは、ごく当たり前だと考えられる。
近代に建てられた宗教施設は、其の様な考え方は忘れられ、人間社会中心の考え方で、人が集い易く、また人目に付く事だけを目的としている為に、本来の聖霊の働きや、魂の呼びお越しの事は問題外になってしまった。
現代人は、物質追求の生活に疲れ、安らぎを求めているが、宗教の世界もまた金と物の世界になってしまっているので、人々は行き場を失っている。
いま一度、森の泉や、清水の湧き出る所に出掛け、一人静かに目を閉じて、自分のいのちの38億年の時間を、感じてみたらどうだろうか。
私は屋久島に生れ、37年間その霊気を感じて生きて来た。
この理・ことは、私が話すのではなく、皆が聞いた話としてではなく、自分で体験して見なくては、私の伝えたい理・ことは理解できないと意う。
聖霊の住まう地は、沖縄では「御嶽・うたき」として伝わり、出雲では「熊々しき谷」と呼ばれ、アイヌの人達にとっても、「苔を取ったり 落葉を拾ったり 木の枝を折ったりしてはいけない 聖なる地」として、護り続けられていた。
いま、世界中に都市が出来て、その都市に生まれ育った人達の考えた文化が、自然のシステムで暮らして来た人達の文化を、消し去ろうとしている。
私は、37年間屋久島で生き、そして16年間全国を旅して、この理を何とか人々に説明できるようになった。
21世紀を創造して行く若者や、子供達に、これ等の理・ことを伝えて行く事が、私に与えられた、使命ではないかと考えるこの頃である。
平成12年5月29日
礒邉自適
2000/5/19
垣
12・5・19
日本の住居には、周囲に垣根を廻らせる事が一般的である。
其の垣根について、最も古いと思われる伝説が、出雲に残っている。
その伝説が残っているのは、島根県雲南市須賀の地にある「須賀神社・すがじんじゃ」で、其の須賀神社は日本の「和歌発祥の地」であると傳われている。
須賀神社の祭神は、「須佐之男命・櫛御氣命」と「櫛稲田姫」で、其れに二人の長男である「清之湯山主三名狭漏彦(すがの ゆやまぬし みなさる ひこ)」が祭祀されている。
此の地で、須佐之男命が「櫛稲田姫・奇稲田比売」の為に歌った有名な和歌が、次のようなものである。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣造る その八重垣を」
此の歌は、新居の周りを垣根で囲ったと言う意味である。
須賀神社から、車で30分ほどの所に「八重垣神社」が存在し、其処でもこの歌が紹介されている。
ただ、八重垣神社では「八雲立つ」が「夜久毛たつ」と成っていた。
「八雲立つ」と言うのは、現在定説となっている書き方で、須佐之男命と奇稲田比売の新居である須賀の地に、雲が八重に立ち上っているところがイメージされている。
しかし、私が調べたところでは「ヤクモ」は、昔垣根に使った草の茎の事である様なのだ。
「ヤクモ」は「益母」であり、漢方薬としても用いられ、人間の背丈ほどにも伸びる多年草だと言うことである。
「益母」の和名は「メハジキ」であり、毎年、春に芽を出し、夏には花をつけて、秋になると枯れてしまう。
其の、益母草の茎が、人間の顔の高さまで伸びるので、前を歩く人が掻き分けた茎が挑ね返り、後に続いて行く人の目に当たった事から「メハジキ」の名が付いたのではないだろうか。(別の説明も有る)
また、その名を付けることで、「ヤクモ=メハジキ」の生えている所は、目をはじかれるので注意しなさいと言う、心構えも促したと思われる。
文字の意味が、よく理解されていない時代に、表音のために「夜久毛」が使われ、その後に続く「八重垣」の「八」と混同して「八雲」となり、「益母」の意味は見えなくなって、幾重にも雲の立ち上った様子が、定着したのであろう。
この歌の詠まれた須賀神社の近くに、私は二年間住んでいたが、八重に雲が立っている状況には出会った事が無い。
須佐之男命が、歌を詠んだ当時の心境を想ってみれば、新妻を得て「おまえのために 新居の周りに 幾重にも垣根を立てて 大事に守ろう」と言う意志が感じられる。
刃物が発達していない古代、垣根にするには、秋に枯れて、根本から手で折り取れるヤクモ草は、都合が良かったものと思われる。
「益母立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣造る その八重垣を」と言う歌を、何度も口にしていると、この意識は、「愛人を囲う」という意識に通じるものがあるように思えてきた。
「囲う」と言う意識が、2000年も3000年も前から有るのであれば、男性が、愛する女性を大事に思い、他の男に見せない為に、目線が隠れる程の高さの垣根を造る事は当然のことであり、男性の本能と言ってもよいだろう。
天皇家の、重要な儀式である「大嘗祭」が行われる「悠紀殿、主基殿」の周囲には、柴垣が立てられる。
神社の周囲にも、「瑞垣・みづがき」と言って、石垣が造られている。
これは、外からの邪念が入らない様にする為とか、悪霊を防ぐ為とか云われている。
古来より「垣」と言う物は、重要な意味を持つものであったのだ。
数千年に亘って、続いてきた垣根の文化は、当分無く成りはしない様だ。
「目弾・めはじき」シソ科の越年草。茎は四角形で直立して分枝し、高さ0.5〜1.5メートル。冬にある根出葉は卵心形で浅い切れ込みがあり、長い葉柄があるが、茎葉は3裂して、裂片はさらに羽状に分裂する。7〜9月、葉腋(ようえき)に紅紫色で長さ6〜7ミリメートルの唇形花を開く。萼(がく)は5裂し、裂片は先が針状にとがる。道端に生え、日本、およびアジア中南部に広く分布する。名は、子供たちが茎を短く切ってまぶたにくっつけて遊んだことにちなむ。また、全草を乾かし、打撲症や腹痛、月経不順、産後の出血などに煎(せん)じて用いられたことから、ヤクモソウ(益母草)の名もある。なお、このエキスは益母膏(やくもこう)と称し、市販されたこともある。
小学館 百科辞典
追記 其の後調べた処では、「萑・スイ・カン」が(一)@草の多いさま。A薬草の名。めはじき。やくも。(二)@おぎ。萩のじゅうぶんに成長したもの。若いものを菼・タンという。A萑蘭はなみだの流れるさま。と有った。 漢語林
平成12年5月19日
礒邉自適
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