言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2000/6/3
言葉に置き換える
12・6・3
「ことば」とは、事を起こす場の意味もあるだろう。
言葉とは「事を起こすもの」とも言えるし「起きたことの説明」とも言える。
日本語には、「モノを言う」との言い方も有る。
どちらかと言えば、「モノを言う」の方が日本語らしいのではないか。
動詞にしても、ある物が動かなければ、その言葉は無いし、名詞にしても物がなければ名付けようがない。
言葉とは、物を、音に置き換えたものと言えるのではないか。
そして、言葉が無ければ、考える事が出来ないので、心とは、言葉に拠って生れているものと言えるだろう。
神のはたらきも、人間が「神」と言う言葉がなければ、考えられないので、仕方なく名付けたものであり、本来は、神と名付けてもいけないものなのだろう。
「神」の漢字は、「示+申」の組み合わせで「示」は祭壇の形で、「申」は雷のイナビカリの形で電気の事である。
其れは、「台を置いて その前で祈り メッセージを受け取る。」の意味だから、神そのものが、其処に在るわけではない。
日本語のカミは、「上方」の文字の方が合っているだろう。
「神・シン」【解字】「示+申」の組み合わせ。音符の「申」は、いなびかりの象形で、天の神の意味。示を付し、一般に、かみの意味を表す。
【字義】@かみ。㋐天の神。宇宙萬物の主催者。←祇。「天神地祇」㋑かみの総称。Aたましい。霊魂。Bこころ。精神。C霊妙ではかり知れない働き。理性でははかり知れない不思議な働き。Dきわめて尊くて、侵すことのできないこと。「神聖」 漢語林
天津神の言い方は、「津」が接続語の「乃・の」用い方だから「天の神」となり、天に何かが存在して、知らせて来る事が意識されている。
言葉に置き換えると、受け取り方が、様々になってくる。
長野の、諏訪神社の「諏訪」の字が「言+取」と「言+方」で、「言の取り方」となっているのが面白い。
諏訪神社の御柱は、神の示が柱と変わり、柱で申を受け取るとの考え方であろう。
世界中の言葉は、その言葉の語源に遡ると、それなりの意味を持っている。
その意味を知るとき、人の昔の記憶が甦ってくる。
平成12年6月3日
礒邉自適
2000/6/2
存在
12・6・2
「存在・ソンザイ」とは、「現実にあるもの」「実在するもの」との意味だが、「神の存在」と言うと、殆どの人が、現実感を持てないのではないだろうか。
「捉える」の漢字が「手+足」だから、とらえられる物は「手と足で確かめられる物」と言う事になる。
小さな子供たちに、神様を教えても、何の事だか解らなくて、神社に連れて行けば「社・やしろ」が神であり、お寺に連れて行って仏像を見せれば、「仏像」が仏だと想うだろう。
処が、其れは、大人に成っても同じ状態が続いていて、一生、神社の建物や仏像を拝んでいる。
老子や、釈迦は、「そんな事など止めなさい。その行為を止めないと、神とは会えない。」と訓えているのにも関わらずである。
此の、人間の無知は、一体何処から来ているのだろうか。
長い間の習慣が、遺伝子にまで染み込んでいるのだろうか。
そうではない筈である。
大人が、子供に教えなければ、百年も経たずに消えてしまうはずである。
其れは、簡単な事なのだ。
では、どうして其れが、何百年も続けられているのだろうか。
その理由は、人間の脳は、物に対して、反応する仕組みになっているので、物が無ければ、意識の組み立てが出来ないからである。
其の為に、お寺の仏像や、神社の鏡などが造られて、対象物とされているのである。
神の存在が、直接実感出来ない為に、神の説明に物を使っているのである。
その長い習慣が、物自体を神としてしまったのだ。
真実の存在は「目に見えないもの」である理を、しっかりと認識し、その上で目に見える物の世界は、神の存在の証だと覚え、その事を実行して、子供達に教えて行くべきである。
子供が、産れて来る事実こそ、一番の存在の証しなのだから。
平成12年6月2日
礒邉自適
2000/6/2
見える物と 見えないもの
12・6・2
「神様」と呼ばれているものは、「目に 直接 見えないものの事」で、目に見える物は神ではない。神社や、お寺に祀られている物は、どんなモノであっても物である。
そして、名前が付いている物は、全て物としての表現だから、神ではない。
神とは、働きの事であって、目に見えるものではない。
「仏・ブッダ」も、宇宙の働きに目覚めた人間の事であって、神ではないし、過去に生きて居た人物を、神として祀っているが、此れも霊魂であって神ではないのである。
言葉とは、最初に、物に名前を付ける事から始まっている。次に、名付けた「物」や「者」を、動かしたり、動いたりする事に意味を与えて、それが言葉となった。
言葉が無かった時代は、神と共に意識がはたらいていたが、言葉が段々と増えた事によって、人の意識は言葉に振り回されて、神のはたらきから外れてしまったのである。
現在の宗教は、殆どは人間が創り出した言葉を使用する事で、神に近付いて行こうとしているが、誰も成功していない。其れは当然の事で、言葉を使う時は、自分の思考を動かしているので、自分の自我意識に過ぎないからである。
この理は、中国の老子も、インドの釈迦も云っているし、日本の神社の禊ぎ祓いの儀式も其の事の為に有る。
現在の世の中は、教育が進んで、皆が言葉によるコミュニケーションを執っているので、美しい言葉や優しい言葉に会うと、本質は違っていても受け入れてしまう。言葉の少なかった時代の様に、顔の表情や目の動きから、本質を読み取ろうとする事をしなくなっている。本質を見ようとする人が居なくなると、どう成るか、それを現代の世の中が示している。
宗教家は、詐欺師ばかりとなり、商業界は本当は必要ない物を、平気で売り付けるようになった。農家も、体に悪いものを生産し、子供達の命を脅かしている。弁護土は、揉め事が増える事を望み、医者は病人を増やす事を考えている。すべての人が、金を中心に考え、物を判断基準に使っている。神仏でさえ、金儲けの為の対象でしかないのである。
「神のはたらき」、老子の云う「道」を、維も護らなく成った時、神ははたらきを止める。神のはたらきが止った時、この世の全てのものは、存在の意味を失い消えてしまうのだ。
それが、釈迦の云った「色即是空」の世界である。世の中は、T.Tやゲーム機の普及で、益々人間の意識を遠くへ運び去っている。一人でも、早く目覚めなければ人類には、未来はない。
平成12年6月2日
礒邉自適
2000/6/2
あそび・游・遊
12・6・2
「あそび」とは、仕事と異なって、自分の好きな時間と、体の動きを伴った行動と言えるのではないだろうか。
人間にとって、楽しい事は、体に深く記憶される。
だから、子供の頃の「あそび」が一番記憶に残ってしまう事になる。
「游・ユウ」の漢字は、「子供が 吹流しの旗のように 自由に 川で泳ぐ」という意味である。
人生の一番の基本、方法、方向は、子供の頃の学習にあると言って良い。
「学習」とは、「学(まなぶ)」「習(ならう)」で「まなぶ」も「まねる」から来ていると言われている。
子供の頃、親に色々な事を習い、年上の子供達と遊ぶ事によって見習い、また学校に行く様になって読み書きを習い、次第に社会人と成って行く。
社会が異なっていれば、習うことも異なっている。
それが、文化の違いと成って現れるのである。
「習・シュウ」の漢字は「羽+白」の組み合わせで、字義は「巣の中にいる 未だ何も知らない真白な雛鳥が 親の羽ばたきをまねて覚える。」との意味らしい。
そして「学・ガク」は、旧字が「學」で「子+家+交+両手」の組み合わせで出来ており、字義は「家の内に居る子供に交わる 教えてくれる人の両手」となる。
「学」は「人の手」が「習」は「親鳥の手」が関係しているとの事で、両方とも「手」だと言う事になる。
そして、「伝える」の旧字が「傳」で、字義は「人が車のようにクルクル 次々に手から手に伝える」である。
だから、日本語の「手伝う」とは、「手仕事を 伝えて行く 手の方法」と言う事になる。
此れから考えると、現代の社会は手伝う事ではなく、ただ理屈というか、知識だけを伝えるだけで、実際の体験を伝えていない事になる。
私達が、子供の頃(昭和30年代頃まで)は、女の子はママごと遊びで、「ママ(お母さん)」のまねごとで、料理や赤ちゃんの世話の作業を見覚え、男の子達はナイフで笛や釣竿など、色々な物を作って遊んでいた。
漢字の「作・サク」は「人+木・手・刃」の組み合わせで、字義は「人が 枝を刃物で削る」の象形文字である。
世界中で、自然の中で生活する男性は、ほとんどと言って良いほど、刃物を大切にしている。
学校が出来て、ペンや筆を手にするまでは、男の子は刃物の使い方が、一番重要な事であったのだ。
古代社会では、刃物一つで家を造ったり、食器を作ったり、竹を編んだりして、生活に必要な物を作っていたのである。
子供の頃から、ナイフを使ったり、母親の真似をしたりする事は、遊びであるけれども、大人になる為の、大事な準備なのである。
人間は、両手を使う事で、脳の前頭葉が発達すると云われている。
だからこそ、「あの手 この手を考える」とかの言葉が生まれたのだろう。
子供の時代に、大事なのは、自分の手足を使う事で、言葉との繋がりを確かめ、増やしていく日常生活である。
社会とは、その為の環境や、条件を整える事が役割であり、それが、「教・育(おしえ・はぐくむ)」の本来の意味である。
今年(平成12年)に入って、世界中で16歳・17歳の子供達の犯罪が増えているが、これも本人の罪ではなく、社会条件に因るものである。
幼稚園から、机に座っての文字の学習では、本来のまなびの道から外れてしまうのは、当然の理・ことと言えよう。
もう一度、人間の教育、おしえる側と、まなぶ側の成り立ちを、考えるべき時に来ているのではないだろうか。
漢字の「捉える」は「手」と「足」で出来ている。
子供の時の「あそび」が人生にとって、どれだけ大事かを、痛切に感じるこの頃である。
平成12年6月2日
礒邉自適
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