言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2000/7/30
悪魔
12・7・30
「悪魔」は、西洋では、神に敵対する物として嫌われているが、日本では「不動明王・鬼」として、信仰の対象に成っている。
仏教寺院には、「羅生(城)門」と呼ばれる立派な門があり、両脇に二体の仏像を飾っている。
これも、元々は「帝釈天・タイシャクテン」の変化である「羅刹・ラークシャサ」が「羅刹鬼」として、仏門を守護すると言う教えを表しているものだ。
これは、インドの釈迦牟尼佛の、前世物語に起因している。
其れは、釈迦が、前世で「雪山童子」であり、帝釈天が羅刹鬼と成って、雪山童子を試して、悟りへ導いたと言う物語である。
其れは、ナザレのイエスキリストが、山上で悪魔に為された出来事と、同じ物語である。
私も、屋久島で、此の世界に入った時に、同じ体験をしている。
屋久島の、山中での修行中に、恐ろしい悪魔が現れて、其の悪魔に試されたのである。したがって、私には、釈迦牟尼佛やイエスキリストの話が良く理解できる。
釈迦牟尼佛の前世である雪山童子には、「帝釈天(シャクラ-デーバーナム-インドラ・光明と財宝をもたらす神)」が、本性を現して姿を見せている。
イエスにも「全世界を お前に与える」と云って、悪魔が誘惑したとある。
試しの内容が、よく似ている事から、両者に現れたのは、同じ神霊の働きの様だ。
私に現れた悪魔は、映画に出て来るより、恐ろしい姿で(恐ろしくなければ意味がないので、最大限恐ろしい様子を演じている)、私に爪を立てて脅したが、幸いにも、私はイエスの体験を聞いて知っていたので、「さあ 始まったか」と思いながら、じっと耐えていると、「ばれたか」といった様子で、私の身体から離れて行った。
その瞬間、其れまで悪魔の姿をしていた者が、神霊界の最上級の天使に変わったのである。悪魔とは、最後の試験の教師(校長先生)だったのである。
この時、私に、イエスキリストが体験した事の知識がなければ、精神的に耐えられたかどうか自信がない。
この事から考えると、釈迦や老子が謂う様に、悟りとは、自分一代において起こるものではなく、遠い古より「覚者・ブッダ」が積み重ねてきた、修行の延長上に、起こるモノ・現象である理・ことが解る。
平成12年7月21日(21日は 弘法大師空海の縁日)、私の霊夢に「讜逓聖・とうていせい」と言う文字が映り、意味を調べると「神の門への 正しい答えを 次から次へと 送り伝える聖人」である理・ことが判った。
私達人間は、天地の「道・タオ」「法・ダルマ」「神・はたらき」を認識する為に、存在するのである。
その認識が、アカシック-レコードと呼ばれる宇宙の記憶となり、後世の人々に遺され、道標と成るのだ。
したがって、天地の道を認識する事が、私達に与えられた「天明・使命」なのである。
そして、其の事で、真実の「言葉・マントラ」が自分の物となるのだ。
宇宙の真理は、調和する理・ことである。
私には、「理解する・わかる」とは「和勝(わか)った」であり、「忘れる」とは「和擦減る」であるのだと思われる。
忘れているからこそ、思い出す事を「覚醒・大覚」と言う。
其れは、忘れる事の対称として、其の言葉が、生まれたものと想われる。
忘れているのは、多忙な雑事に追い回されている為であり、瞑想する事に拠って、雑事を離れる事に成り、忘れていた理・ことを、取り戻す事が出来るのである。
それは、自分の心臓の音を開く事に始まり、自分の息を確かめる事で終わる。
赤ちゃんが、オギャーと生まれ落ちる時に「吐く息(呼)」は、死の時に引き取る「息(吸)」と、対に成っているのだ。
呼吸の中に、善悪の概念が溶け込んで行くのが、瞑想である。
瞑想は、冥界を従わせる事に、繋がるのである。
平成12年7月30日
礒邉自適
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