言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2000/12/29
頑張る
12・12・29
近年の子供達の登校拒否や、全国で100万人を数えると云われる閉じ籠もりの人達の、原因と成っているのは、「頑張れ」と言う言葉だと言う意見が有る。
国語辞典には、「頑張れ」とは「我を張れ」の転意ではないかと載っていて、語源が明確ではない。
漢語林でも、頑を使う単語は「頑強・頑健・頑固・頑鈍・頑夫・頑味・頑民・頑迷・頑冥・頑魯・頑陋」等、11は有るが「頑張」は無い。
「頑・ガン」【解字】形声。「元+頁」音符の元・ゲンは、圜・ケンに通じ、めぐるの意味。考えがある一つの事にだけをめぐてこだわる、かたくなの意味を表す。
【字義】@かたくな。かたいじ。融通がきかない。Aにぶい。㋐物の先がまるくて鋭くない。㋑おろか。(愚)。Bむさぼる(貧・ドン)。よくふか。
Cわるい。凶悪。
「頁・ケツ・ヨウ・コウ」【解字】象形。人の頭部を強調した形にかたどり、かしらの意味を表す。篆文は(一+見)であったが、頁に変形した。
【字義】(一)@かしら。こうべ。頭。Aくびすじ。うなじ。(二)ページ。書物の紙面で、その片面。また、それを数える語。「頁数」
北方の近代音で葉と同音であることから借り用いた(ただし)葉は枚の意味。=数。 漢語林
「頑・ガン」は、日本語では「かたくな」の意味に使っている。
其の意味からすると、「頑張る」とは「かたくなに 自分を 主張する」との意味になる。
何故、中国の漢字に無い言葉が、日本人に使われているのだろうか。
そして「頑強・ガンキョウ」と「頑健・ガンケン」の言葉の他は、みな悪い意味の単語である。
だが、其れは、不動の存在である山の様に、「自分の堅固な意志で 首を巡らし、他人の意見に振り回されること無く 行動する人」と言う意味になる。
つまり、自立した人と言う意味であり、自立心を持って行動すると言うことだ。
一方「張」は、弓の弦を長くすると言うことからきており、大きくする。広げる。強くする。盛んにする等の意味を表わしている。
此処で、両方の文字を合わせると、「頑張」の意味は「自分の意志を 大きく持って広げて行く」の意味にとれる。
さて、話しを元に戻して、子供達がどうして引き籠ってしまい、社会に出て行けないのかと言う問題を考えてみると、理由のひとつは、自分の意志で、強く、大きく広がって行こうとする子供達を、現代社会の構造が、遮ってしまっているという事である。
人間の心は、一挙に大きく成ることは出来ない。
まず、子供の時代に、自分の意志の力を培う必要がある。
其れは、学校教育の中ではなく、地域社会のコミュニケーションや、遊びの中で培われるものである。
現代の学校教育は、他人の意志の植え付けであって、自立心を培うよりは、寧ろ潰す方向に有る様だ。
自立心を潰された人間は、自分の力で、道を切り開いて行く事が出来なくなる。
社会の仕組みや、他人に押し付けられた生き方が、資質的、また性格的に合わない人々は、自分の部屋の中と言うか、巣から飛び立てなく成ってしまうのである。
現在、日本政府は、教育審議会を設置して協議を重ねているが、審議員に選ばれている面々が、現代社会に上手く適応している人ばかりであれば、社会に適合出来ない人達の立場や、感情は、理解出来ないのではないだろうか。
先ずは、子供達の、小さな自立心が育つ為の、第一歩のところを造る必要があるのだ。
其れは、自然環境に恵まれた土地で、大きな大自然の営みを、体験出来る場でなければ成らない。
自然の中で戯れる事で、自分が、偉大な世界に包まれている理・ことを実感出来れば、現代の人間社会が、如何に、小さい世界であるかが解かって来る。
そうなれば、自分の世界、生きる道を、探そうとする自立心が、芽生えて来るのではないだろうか。
特に、此の日本国の国土は、森や水の環境に恵まれ、其の豊な自然環境中で、皆が共同作業をして社会を築いて来ている。
其の点、放牧民族の文化や、海洋民族の文化では、此の病んでいる国の社会は救えないであろう。
日本の文化は、「大和心・やまとこころ」として伝えられて来た様に、「山と 大きく和した心」の文化である。
此の国に生まれ育った人間が、早く目覚めて、地球環境や人心を救う為に、立ち上がらなければならない。
其の為の「頑張り」であれば、全ての人々の一致団結が、図れるのではないだろうか。
未来とは、科学が発達する事で、人間の心が失われるのではなく、人間と大自然の「関係性・むすびつき」が、理解され、心豊な時代を完成させる事である。
ナザレの「イエスキリスト」は、「其の時がくれば 一番前の者が 一番後に成る」と謂っている。
「その変化の時に 逆向きの 一番前に成る者」とは、自然と強く結ばれている者の事であろう。
平成12年12月29日
礒邉自適
2000/12/20
良識
12・12・20
12月19日の夜床に入ると、「良識」と言う文字が頭に浮かんだので、早速20日の朝「良識」を辞典で調べて見た。
言泉では「良識」とは、フランス語のbon-sensの訳語であり、(社会で一般的に承認されている健全なものの考え方、優れた判断力。)と、記されている。
別の辞書には、英語の「good-sense・グッドセンス(よい見識・優れた判断力)」と記されている。
こうして見ると、良識との言葉は、元々日本にはなかった概念のようだ。
日本に、漢字が導入されていなければ、どのように訳したのだろうか。
「良識」とは、「よい思い方」「正しい考え」とでもなるのだろうか。
しかし、これでは、何かしっくりこないものがある。
其れは、何故なのだろうか。
日本には、古来より「祓い・清め」と言う言葉で表す、精神文化が存在する。
これは、「人間の考え方には 間違いが起こり得るので 禊ぎ祓いをして 神の知らせを聞く」と言う概念である。
したがって、正しい判断力とは、神示を受ける事であり、人間には判断の権利は無いことになる。
中国の「知」という漢字は、「しる」と言う意味で、日本語に使用されているが、その元の象形文字は「矢+口」の組み合わせで出来ている。
其れは、人間の行為の道具である「矢・刀」等の武器を、神に預けて無為に成り、神の「言葉・知らせ」を受け取るとの意味である。
更に、下に「曰く・いわく」の「曰」を加えて「智」という漢字を創り、神に知らされた事柄を、口を開いて、他人伝えるのが智慧であるとされている。
良識とは、この「智」の意味に通ずるものが、有るのではないだろうか。
「智」と同じ意味を表す漢字に「聖」がある。
「聖」は「耳+口+王」の組み合わせで出来ており、「耳を傾けて 神の言葉を 受け取る人」と言う意味である。
そうすると、聖人が智者であり、良識者である事になり、「知者」は自分の道具(役職)を神に供えて、自由な心で、神意を知る者を意味すると考えてよいだろう。
だとすれば、「グッドセンス(good-sense)」とは、神意を知る者の行動と言う理になり、博識や博士とは少々違った人達のことに成る。
磔に成って死んだ「イエスキリスト」や、托鉢で貰った食物で食中毒にて死んだ「釈迦牟尼佛」が、グッドセンスの人と言えるかどうかは判らないが、自分の智慧を5000文字に残して、死の姿を見せていない老子は、グッドセンスの第一人者として挙げられるのではないだろうか。
一人の弟子も採らず、「精神的な理を 他人に押しつけるべきではない」と書き残した、老子のような人物は、後にも先にも彼一人だ。
「嗇(しょく)に しくはなし(天は 種を蒔いて育て 収穫する それしかない)」と言い切った老子の智慧は、何処から来たものなのだろうか。
其れこそが、老子が、神意を知った事の証ではないだろか。
勿論「良識」と言う言葉が、明治時代に日本で生み出されてから、200年と経っておらず、2600年前に老子の遺した5000文字の文章中にも、其れは無い様である。
しかし、其れ等も、人間側の考えだから、神の立場の考えではないのかも知れない。
老子の、文字の中に「良識」を求めるならば、「和光同塵」が其れに当たるだろうか。
「和光同塵」とは、「光をやわらげて ちりに交わる」の意で、自分の学徳・才能を包み隠して 俗世間に交わること。と、有る。
平成12年12月20日
礒邉自適
1 | 《前のページ | 次のページ》