言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2001/4/30
徳
13・4・30
「徳の有る者」と言うのは、品性を備えた者と言う意味に考えられているが、もっと深い意味が有るのではないかと思い、調べて見た。
「徳」の漢字は、「彳+十+目+心」の組み合わせであるが、本字は「悳」であり「直+心」の組み合わせで、「直」の「十+目」の組み合わせの「十」は、まじないの意味を持ち、神の世界を知るという理・ことのようだ。
そうすると「悳」は、神を見る目を持つ心となり、神に通じる「真っ直ぐな心」と言う意味になる。
「徳」は「彳+悳」で、彳が行人偏なので、「天に通じる真っ直ぐな心で 人生を歩く・進む人」の意味になる。
道徳とは、「道+徳」の組み合わせなので、「天の働きに 真っ直ぐに通じる人の道」という意味になり、その実践者を「徳のある人」「有徳者」と言い表してきたのだ。
では、漢字が入ってくる前の日本語では、其の事は、何と表現されていたのであろうか。
ただの「直・スナオ」では、物足りないので、気分がすっきりしない。
まじないの目「十+目」から考えると、日本の天皇の古い呼び方である「スメラの大君」の「スメ」が、澄みきった目を表している事が、参考に成る。
其れは「スメラの大君」は澄みきった目を持ち、神に通じるまじないの大王という意味になる。
「大王」、「大君」は、徳ある者の代表であり、神に通じる目・意識を持っていなくてはならないのだ。
そして、その大王の治める国を「皇御国・すめらみくに」と、呼んできたのである。
日本の国は、「素戔嗚尊」が出雲に住んだ処から始まり、「大国主命」が国造りをして、天津系の民族「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」と、息子の「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」に国譲りをして、政治・まつりごとが治められてきた。
素戔嗚尊は、出雲の「熊野大社」に祭られているが、本名は「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎ くまの おおかみ くしみけぬの みこと」となっている。
「櫛」は、通じると言う意味で、「神に通じるのは 正しい食べ物である」と伝えている。
仏教でも、悟りを得るには精進をしなければ、目覚めが起きないと云っている。
徳を、身に付ける為には、「食べ物を大事にすること」だと、神道も仏教も伝えているのだ。
「スメラの命」は「スメ」を開き、身体を清めて、美しい体「ミマ」にならなければならないのである。
天皇の、昔の呼び方は「スメミマ」である。
徳という文字は、「スメミマ」と読んでも、可能な文字なのである。
人類は、皆出発点が同じであるから、目指す所も同じであっても、何ら不思議はない筈である。
ようやく「徳」の意味が、身近に見えてきた。
平成13年4月30日
礒邉自適
2001/4/28
経済は数学、精神は言葉
13・4・28
経済の世の中は、数学がなければ機能せず、精神は、言葉に因って組み立てられている。
精神を貫こうとするなら、数字を、経済活動から外してしまわなければならない。
数字は、相対的な分析の世界に対して必要なものであり、その数字が頭に有る間は、人の意識は、現象世界に捕らわれているので、自由な感性が止まってしまう。
その現れとして、科学者は目に見える数字に固執してしまい、目に見えない神の働きを、信じられなく成って行くのである。
神とは、人間の目には直接には見えない働きの呼び名であるから、目に見えない神は、信じない人々にとっては、いつまでも見る事は出来ないモノである。
その点においても、言葉は、本来目に見える物ではない。
言葉は、使う人に拠って、意味を現すものである。同じ言葉でも、使用者に拠って善悪が逆に成る事さえ生じる。
確定している数字と違って、言葉は、真に不安定な物とも言えるだろう。その不安定性ゆえに、文字と言うものが考え出され、イメージの固定化が行われて来たのだ。
文字も又、文字自体が意味を含んでいるので、読み取る人の既成概念に因って左右されるので、現した人の意志が正確に伝わるかは疑問視されている。
言葉とは、生き物であり、使われる現場に有って、初めて正確さを保ってくる。
その点、数字はあくまでも数字であり、書き間違わなければ、正確にその役目を果たしている。だから、「数字」は人間の意識を固定させ、「言葉」は人間の意識を自由に弄ぶ物と言う事が出来るであろう。
この様に危険な言葉を、どの様に操るかは、言葉を使う人に掛かっている。
現在の世の中は、言葉が何に使用されているかと言うと、人間の精神を育てる為ではなく、金と言う名の数字を、出来るだけ沢山集める事に使われてしまっている。
数字が、金を稼ぐ為に使われ、文字もその為に利用され、言葉さえも、その為だけに使われる様に成った。
言葉は、本来、人間の暮らしの為のコミュニケーションとして発達してきたものである。
人間が、人間として幸福に暮らす為に存在したものが、人間を不幸にし、社会を不安に陥らせる為に使われたのでは、言葉を人間に与えた神も、立つ瀬が無いのではないだろうか。
言葉を、今一度、数字から切り離して、心の為に使う訓練を、始めなければならないだろう。
平成13年4月28日
礒邉自適
2001/4/20
あやが切れる
13・4・20
屋久島では、人間の活動のエネルギーが切れて、続かない時に「あやが切れた」と表現していた。
人間は、何かの行動を起こす時、胸の中に、何かの「意(おもい)」がなければならない。それを「あや」と呼ぶのだろう。
そして、何かの問題が起き、精神的にも肉体的にも、継続できなく成った時に、「あやが切れた」と表現するのだ。
「あや」にあたる漢字を調べると、「文、紋、綾」と有る。
「文」は「文章、文字、文学」などに使われる様に、文字の事である。
「文」の象形は「人の胸に意(おもい)の印を刻む」である。
思想を忘れない為に、胸にその意味を入れ墨する理・ことを表している。
「紋」は「文」に多くの意味が派生した為に、糸をつけて織物や家の印として区別されたものである。
さらに「紋」は、模様と言う意味も表している。
また、「綾」は「紋」と同様の意味である。
「文」も「紋」も模様を意味しており、「文」は心模様、心象風景を表現したもので、「紋」はその人間の意(おもい)を形に表したものである。
世界中で、様々な模様が布に織られているが、其れは、その民族の文化を伝える役目を果たしている。
文字文化を持たない民族でも、織物の伝統的な模様は持っている。
模様は、人の心を伝える最大の手段なのだ。
其れを「モチーフ」と言うのだろう。
モチーフとは、仏語でmotif @動機、主旨、A創作の中心思想、主題とある。若し、このモチーフの「モチ」が、日本で正月に供える餅と同じ語源を持つのであれば、日本の鏡餅は日本人のルーツを伝える、モチーフであるとも言える。
仏語はラテン語から派生しており、日本語の中にもラテン語が多く入っているので、その可能性は否定できない。
例えば、「気持ちが続かない」と言えば、気のモチが続かない、エネルギーを持ち続けられないと言う意味にもとれる。
反対に、エネルギーを持ち続けられる事を「力持ち」とすれば、英語の「タフ・tough」は日本語の「たふる・タエる・耐える」と同意語になる。
日本の鏡餅は、日本人の心模様を伝える代表的なものであり、正月に行うセレモニーとしては、最も良いモチーフである。
鏡餅に添える品物は、橙、裏白、譲り葉、昆布である。
これ等の持つ意味は、「代々子種に恵まれて 家督を譲って喜ぶ」となる。
文字が一般的でなかった時代に、これだけの心模様を伝えるモチーフを、創り出した事は立派なものだと言える。
逆に、文字が発達した現代では、これだけの意味が伝わらなくなり、日本人の魂の心象風景は、どこかに消え去ってしまった。
「文が切れる」と言うのは、人間の気持ちや、精神的エネルギーの基本的な処を、巧く説明し尽くしているのだ。
屋久島で「あやが切れた」使っている時は、個人的な、一時期の様子を表す言葉として存在していたが、現代の日本全体を「紋が切れた」と表現しても、過言ではない。
天皇家の紋も、色褪せてきた。
今一度、家紋や鏡餅の事を思い直してみるべきではないだろうか。
神社に有る鏡は、其の為の物である。
色褪せるの「褪」は、「示しが退いていく」処からできている。
「示し」とは印であり文である。
「文」を強く持つのは、志を強く持つことである。
世界は今、新しいデザインを求めている。
志を立てるには、心差しの指針が必要だ。其の為のモチーフを、創り出すのが日本文化の役割ではないだろうか。
其の為の同志が、集まる時に到ったと、私は考えている。
インドの釈迦牟尼仏は「時節因縁が来れば、一大事因縁の人達が集まる」と謂っており、そう成った時「マイトレーヤ、有情の菩薩(弥勒菩薩)」の世の中になる」と、予言している。
私の旅も、17年目に入ろうとしている。
「あや」が、其の間、切れないで来られたのは、全国に、同じ想いの人達が存在したからである。
「有情の世(救いの情報が伝わる社会)」は、既に動き出しているのだ。
ITの世界は、それを加速させて行くに違いないだろう。
あべ未来研究所 1−1室
平成13年4月20日
礒邉自適
2001/4/18
嶋官(しまのつかさ)
13・4・18
平成13年4月17日の新聞に、「飛鳥京にも動植物園?」と言う見出しで、奈良県明日香村苑池跡から「嶋官」と書かれた木簡が出土した事が載っていた。
私は、この記事を読んで、「嶋官」とは現代で言えば「生命研究所所長」に当るのではないかと考えた。
それと言うのも、「嶋官」に「十六島」との関わりを感じたからである。
「十六島」は、島根県出雲大社の近くにある地名で「ウップルイ」と読む。
「ウップルイ」とは古代の言葉であり、アイヌ語では「我が水の道」と言う意味になる。
日本語では「宇振るい」であり、人間の意識の魂振りのことを意味する。
アイヌ語の「我が水の道」とは、「人間の意識は 水によって 左右される」という考えに基づいているのではないだろうか。
神社で行う禊ぎや、仏教で行う水浴、また、ユダヤ教やキリスト教で行うパプテスマなどは、神仏との交流の場が、水を舞台としている事の現れである。
「十六の島」は、天皇家の家紋になっている「十六弁の菊花紋」と同じ意味を持ち、シュメール文化の象徴的なマークである。
其れは、人間の生命の働きを、十六に分類する処から来ているのだろう。
「島・シマ」とは、孤立したもの、独立したもの、単独の空間を意味している。現代の精神医学では、人間の生命の働きを何百かに分類できるのだろうが、昔は十六くらいが限界だったのだろう。
飛鳥時代に薬草園が作られ、また動物が飼われていたと言う事は、其処で、人間にとって必要な薬草の働きを調べたり、動物の特性を研究したりしていたと言う事である。
古代では、人間の生命活動のうちに、動物の特長が見出せる事が、認識されていた。
中国の太極拳図などを見ると、猿、熊、鶴などの動物の形・仕草をしている動作が、見受けられる。
其れも、万物の霊長(生命活動の頂点という意識)の概念の、基礎になっている考え方の現れでもある。
神に奉納する、銅鏡の裏の十二神獣図や、十二干支の獣もこの考えに拠って刻まれているものと思われる。
十六島を研究する「島官」とは、皇帝が大事にしていた、機関組織の一部だったのだろう。
私が、皇帝の立場にあれば、真っ先にする事は、この「島官」を任命することであろう。
その選ばれた「島官」の部下は、何百人と必要になるであろう。
何故かと言うと、何事を始めるにしても、人間自身の生命活動が把握できていなければ、その行いは失敗する事が、目に見えているからである。
平成13年4月18日
礒邉自適
2001/4/16
長年二幸
13・4・16
今朝の霊夢には、「長年二幸」との漢字四文字が映って来た。
其れは、聞いた事の無い言葉であり、何を知らせているのか分からない。
しかし、私に出て来た文字だから、私が考えるしかないだろう。
「長」は、人の髪の毛が長いと言うことを表しており、長老などの「オサ」という意味を表している。長老になるまで、年を重ねれば、二つの幸があると言う事なのであろうか。
「幸・コウ」は、手錠の形の象形文字で、「執・シツ」に対して、手錠がかかっていない状態、「自由」を意味している。
其れは、病気、権力、貧困、寒暑などから自由である事。
気に掛かる、災いが無い事が幸福であると言う意味である。
人間は、長生きをすれば、二つの自由が有る。
其の一つは、子供の時の自由だ。
子供の時は、衣食住は親に与えられ、自分で手に入れる努力を必要としないでも良い。疲れ切るまで遊んでも、何の責任も無いと言う自由である。
二つ目は、子育てを終わって、仕事も後継者に譲り、ゆっくりと余生を楽しむ事ができる自由である。
「福禄寿・ふくろくじゅ」の「寿」が、その意味で、寿命が長い事を意味している。
子供が存在し、寿命の長い老人が存在する社会、其れが理想の社会である。
どちらが欠けても、自然な状態ではない。
両方が、調和して営まれる社会。
其れをも、今朝伝えられて来た「長年二幸」は、意味しているのではないだろうか。
雅子妃懐妊ニュース
平成13年4月16日
礒邉自適
2001/4/12
無心
13・4・12
「無心」とは、「心が無い」状態を意味しているので、「無心の時」は、「無心である」と言う意識すら無い、自分を忘れた状態に成っている。
無心であれば、自分の主義・主張や哲学など、一切無いので、赤子の状態である。赤子は、自分と言う意識さえ無い。
だから、親の状況に、そのまま左右される事になる。
赤子が成長して、「翁・オキナ・おとな」に成っても、無心の状態であれば、親である神のおもわく通りに、動く事が出来ると謂う理・ことだ。
そうなれば、たとえ誰かから相談を受けても、自分で考える事なく、神の答えが湧き出してくるのだ。
其れが、「智慧」と言うモノである。
其の状態を表す言葉が「観音力」であり、「観自在菩薩」である。
仙人が、山に住むのも、無心を求めての事であり、賢者と聖人が区別されるのも、無心であるかどうかの差によるのである。
賢者は、人間社会に住まなければ、実力を発揮する事はできない。
賢者は無心ではなく、「有心」の状態であるのだ。
現在の世の中では、賢者が求められ、聖者は排斥される様に成っている。
だとすると、現在の宗教界の有名な人々は、皆、聖者ではなく、賢者である事になる。
聖者は、無心を第一義とするので、弟子も信者も建物も持たない。
さらには職業さえ持たない。
例えて言うなら、ホームレスに似た状態である。
ホームレスの人々は、魂が濁っているが、聖者は澄み切っている。
聖者の心は無心だから、物を欲しがらない。
欲求を起こさない事が、無心と言う事になるだろう。
平成13年4月12日
礒邉自適
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