言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2001/7/24
目出度い
13・7・24
今日は、ホームページで紹介されている伊勢神宮の資料を見ていて、伊勢の奥宮と云われている、磯部町に在る「伊雑宮(いざわぐう・イソベさん)」の説明に、田植神事の事が載っており、最後の所に、お田植歌の歌詞が紹介されていた。
その歌詞の一番に「目出度(めでた)目出度」の後 「神田を植えて 躍り込むぞえ 宮様へ」が有る。その歌詞を読んでいて、私はその音霊で「めでた」とは、「天照坐皇大御神御魂 ・あまてらしますすめおおみかみのみたま」の中の「すめ大神のみたま」の「すめ」が、出る事だと感じたのである。
「すめ」とは、「澄み切った眼」の意味で「素目」と書いても良いだろう。
澄み切った眼とは、汚れの無い純真な眼の事で、曇りの無い、素晴らしい青空のイメージと、捉えて良いだろう。
「すめ」を持った人とは、禊ぎ払いが出来ており、邪心が一つも無い意識の人の事である。
邪心が無いとは、物欲や権力欲などの執着心が一つも無い理・ことで、仏教で言う精進が良くできている人の精神状態を言う。
意識に曇りが無ければ、眼から欲望の光が消えてしまうのだ。
例を挙げるなら、アメリカ映画の「E・T」の目も、それに当たるかも知れない。
監督である「スピルバーグ」の話では「E・T」の目は、詩人C.サンドバーグの顔写真の目を切り取って、使ったとの事。
詩人の目とは、神の目に一番近いのかも知れない。
詩人には、人を救わなければ成らないとか、世の中を良くしなければ成らないとかの人為も無く、只 自然を見詰めるだけなので、作為も表れ出ないのだろう。
「すめ大神のみたま」とは、この現象世界を、何の偏見も無く見据える、宇宙的意識の魂を持つ者の呼び名であろう。
人間は、何等かの人為を持って、行動する動物である。
其の人間の行動も、静かに見据えている大いなる目の主、それが「天照坐皇大御神御魂」の役割なのだと考えられる。
だからこそ、坐るの文字が使われているのだろう。
インド生まれの釈迦牟尼佛も、坐って民衆を見つめている仏像として、伝わっている。
インドでは、「転輪聖王(チャクラヴァルティラージャン)」として、現象界に表れる王の存在が伝えられている。
旧約聖書の「エホバ。ヤハエ。」も「有る時から 在るもの」の意味で、其の目はあらゆる現象を見通している目を、持つと伝えられている。
アメリカ国発行のドル札にも、その目は印刷されていて、その目は、ルシフェルの目と呼ばれ、エジプトではラーの目として伝わっている。
日本では、「何処に 行っても 御てんとう様と 米の飯はついて回る」と言う言葉が有る様に、太陽の光を通じて、現象世界であるこの世は、誰にも、平等に恩恵が与えられているのだとの考え方がある。
只、普通の人々は、日常の生活に追われていて、その神の目の働きには気付かずに、日々を過ごしているのだ。
それらの民衆に代わって、神の意識を受け取り、現象世界を見守り続けるのが「天照坐皇大御神御魂」の役割で、其れを継いでいるとされているのが、皇室の役割である。
その理を、表す言葉が「御稜威・みいつ」で、「坐皇大神・スメミマ」から発せられる波動として伝えられている。
御稜威を発する「スメミマ(大神の御神体)」の儀式が、宮中で秋に行われる新嘗祭であり、その元は奈良の石上神宮の祭りで、物部家に伝わる秘密の儀式である。
新嘗祭は、其の年に収穫された新しい米(みあえ)を食べて、神の意識を受け取る事が、儀式の意味である。
その祭りが、正しく行われた時、その王の意識は、宇宙意識(神の目)と成り、この現象世界を平和なものとする事が出来るのである。
「目出度い」とは、其の神の目が生まれ出る事を、古代から喜ぶ意味を、表す言葉なのであろう。
いま世界は、その目が現れ出る事を、大望しているのだ。
その事を、「メシア」とか「弥勒菩薩」とかの現れとして、考えているのだろう。
平成13年7月24日
礒邉自適
2001/7/23
浦安
13・7・23
今朝のメッセージは、ビデオテープの映像が少し映って、愚妻を教育するとの意味があり「浦安」との声のメッセージがあった。
出来の悪い女房殿を、如何に教育できるのか、難しい課題である。
浦安がヒントなので、辞典で早速調べて見た。
「浦安」とは、なんの不安もなく、心安らかなこととある。浦安の国、心安らぐ国、大和国、または日本国の異称。とあり *書記−神武31年4月(北野本訓)「日本(やまと)は浦安国」と、載っている。(言泉)
是からすると「浦安」とは古い言葉で、日本の良い面を、言い表している言葉であることが理解できる。
愚妻に、この意味を教育すると言うことは、西洋文化(外国文化)を取り入れて、変しくなった現代の妻たちに、日本の昔の暮らし向きを、映像化して観せろと言うメッセージとなってくる。
現代の生活スタイルは、戦後 急激に出来上がってきたものである。
着る物も、食生活も欧米化し、住宅でさえ日本建築は少なくなり、電化された近代様式となった。
女房殿たちは、嫁(家の女)から「外の女」に成り、家庭で子育てをし、食事を作り、裁縫をするという昔のパターンは、時代遅れの事の様に想われる社会風潮である。
自分の子供も、自分で育てるのではなく、分けの分からない他人に、預けてしまっている。
子供たちは、自分の親が誰なのかもハッキリしないまま、成人に成っていくのだ。
自分の、両親の個性や、自分の家の食事の味も整わないまま、世間に出て行ってしまうのである。
人間は、自分の個性とか、立場が確立されてこそ、他人の世界も見えてくるものである。
自分の認識の目、よく言う「ものを見る目」が養われていない間に、他人の世界に入っていくと、自分を失ってしまい、一生自分を取り戻すことが出来なくなってしまう。
エジソンや、モーツアルトは、良く知られている人物であるが、彼等が、現代の日本に産まれたとしたら、とても能力を発揮出来なかったであろう。
現代の日本は、天才を産み出す西洋形でもなく、精神的な安らぎを求める大和形でもなく、ただ物と金を追求する社会となってしまった。
人間が育つのは、先ずは母親の胸であり、それから家庭を通して、世間へ出ていくのである。
子供の精神の土台は、先ず母親にあるのだ。
父親は、外の情報を持って帰り、子供に与えるのが役目である。
浦安とは、心の裏側が安らかな事であろう。
心のウラ側が安らかとは、家庭の味と、母親の愛の世界のことであろう。
今朝のメッセージは、その母親の役目が、疎かに成っているので愚妻だと言ってきたのだろう。
その妻たちに、浦安を伝えるとは、どの様な方法があるのだろうか。
その一つの解決法が、ビデオテープの映像だと言う事になる。
ビデオテープを制作するには、撮影する現場がなければならない。
先ずは、その現場を見付けなければならないのだ。
日本書紀には、神武天皇31年4月に、その言葉があったと記されている。
神武天皇が住んだのは、奈良県であり、奈良は大和の言葉の故郷だ。
奈良に、その現場が存在するのか、それとも千葉県の浦安に存在するのか分からない。
若しかしたら、日本の何処からも、消えてしまったのであろうか。
平成13年7月23日
礒邉自適
2001/7/21
グリーンクラブ
13・7・21
神が、人間に与えた最後のチャンス。
宇宙は、永遠に果てしない闇である。
空間とは、其の闇の中に現れた、有の世界の呼び名である理・ことは、良識の有る者なら誰でも知る処である。
我々地球人類が住む、此の地球と言う名の惑星は、其の宇宙空間の中に、粉粒の様に存在する小さな物にしかすぎない。
しかし、其の小さな星の上に、60億もの人間が住み、其れを生かし続けている、大自然の仕組みが有る。
其の仕組みは、全ての星に有る訳ではない。
現在、人類が確認出来る範囲には、一つも無いのである。其れだけ、此の地球は奇跡的な存在物なのである。
古代から、人類は其の事に気付いており、神に感謝を続けて来た。
其れが、現代社会では大多数の人々に忘れられ、大自然の仕組みは、破壊され続けているのである。
人間の體は、大自然が、永い時間を掛けて創り込んで来た物である。
其の人間の肉体に、魂しいが住む様に、地球にも、宇宙にも、魂しいは存在する。
其の魂しいの中で、一番大きな存在が、全体を管理する「神」と呼ばれているものである。
其れは、丁度、私達の肉体を管理し、働かしめている、自立神経の様なものであり、私達人間の意識が眠っていても、其れは、一秒の休みもなく働き続けている。
其の、宇宙で一番大きな働きが、人間社会に一つの魂しいを送り込んで来た。
其れが、グリーン-クラブのシルエットの「jiteki」だ。「Ji・ジィ」と言う名は、中国の老子の本名が「耳・ジ」であり、イエス-キリストの別名もジーザスである。
「ジィ」と言う音魂は、静かにして動かないの「ジィー」である。
日本人は、静かにして動かない時のサインは、口に指を当て「ジィー」と云う仕種をする。
其れは、身動きしてはいけない意味であり、勿論、言葉を出してもいけない時のものである。
「シィ」を強めた「ジィ」は、年老いた老人の呼び名でもある。
だから、「ジィ」と呼ばれる人物は、ジィーとして居て、行為の無い人物の事である。
だから、動かない人物は、捜しようが無い。
だから、其の者に会いたければ、会いたい者自身が、歩き出さなければならないのだ。
神の働きを、治ろしめる為には、其の旅人の為に、光の情報を、灯台として発信しなければならないだろう。
其の為には、グリーンクラブの事務局を立ち上げなければ成らない。
其れは、参加も、退会も自由であり、IT社会の中での最大の遊びの空間でもある。
2001年7月21日
グリーンクラブ発起人 礒邉自適
2001/7/17
「る・れる・られる」
13・7・17
今朝のメッセージは、「る・れる・られる」と、平仮名が縦に並んで出て来て、丁度三角形に成っていた。
朝、辞典言泉で調べて見ると、次の様に載っている。
「る」は文語助動詞。活用表では終止形に有る。
「ら」は、形容動詞文語の未然形に有る。
成る
成れる
成られる
私は、中学校しか卒業していないので、其れ等の文法の事が、能く解からないが、日常使っている言葉なので、私なりに其れを考えて見た。
中国の漢字だと、文字自体に意味が表わされているが、日本語の表記だと、漢字の後に、平仮名が付いている。其処が、日本語の特徴だろう。
「平仮名」は、音節文字に使用され、「辞典言泉」には、
音節とは言語における音声の単位の一。ひとまとまりの音として意識され、単語の構成要素となる。母音で終る開音節の区別があるほか、各種の分類法がある。 と 辞典に載っている。
私は、文法などの事は、能く理解出来ないので止める事にして、今朝の夢に出て来たのは、何を意味しているのかを考えて見る事にする。
私が、毎日気にしている事は、宇宙の状態が、今どうであるかと言う事なので、毎日、潜在意識から送られて来る暗示を、一番大事としている。
他人から聞いたり、本で読んだりして知る事は、過去の情報なので、現在・いまの宇宙の情報を知る事には、繋がらない。
其れは、私だけの事ではなく、潜在意識の仕組みが、どう成っているかに付いても、未だ、科学的には明らかにされてはいないのである。
潜在意識とは、お腹の中に住む、微生物の考え(虫の知らせ)なのか、宇宙の意思なのか、其れとも、過去に生きて居た人達(御霊)からのメッセージなのか、其れとも、自分の欲望か、または先祖の霊魂からの知らせなのか、更に、草木や動物達からの訴えなのか、可能性の有る事を挙げると、澤山出てくる。
これ等の、中から考えると、文字や言葉を伝えて来るのは、言葉を使える過去の人間の誰かであろう。
一番強く考えられるのは、私が住んでいるのは四国なので、四国出身の「弘法大師空海」なのかもしれない。
空海は、真言(マントラ)を一番気にしていた人で、書に付いても「弘法も筆の誤り」との諺にされている程、達筆者であった人である。「いろは」の歌も、空海の作だと伝えられている。
今朝は、誰が「る・れる・られる」の言葉を、悟れと言って来たのだろうか。
それに「る・れる・られる」だと、其の文字の頭に、他の、何らかの動詞らしき音を、付けなければ成らない。
何を付ければ良いか、思い付くものを当て嵌めて見ると、先ず「る・れる・られる」に、「な」を当てて見ると「成る」「成れる」「成られる」の単語が、生まれる。
夢に出て来たのは、上下に並んでいたので、其の様に措いて見ると、一番上が「成る」で、中が「成れる」で、下が「成られる」となり、人間の上下関係が見えてくる。
「成る」は決定的な言い方で、自分の意志か、権力の有る者の言い方に成り、「成れる」は自分に言い聞かせるか、誰かが「成れる」と励ます言葉に成る。
どちらも、気持ちを、奮い立たせる時に使う言葉である。
「成られる」は、目下の人間が、目上の人間を、表現する時に使う言葉で、未来を言い当てる言葉である。
この事から、「ら」は未然形と言うのが理解出来る。
其の言葉を使える、新しい王の立場の者は、未だ現れてはいない。
其れが、現れる為には「成る」との意志を持った者と、「成れる」と言う励ましや支えがなければ成らない。
「成れる」と、励まし支えるには、其の相手が存在しなければ成らないし、其の者自身の、自覚が先ず必要であろう。
私に、伝えられて来るメッセージは、17年間続いてはいるが、未だ、新しい指導者、インドで云うところの「転輪聖王・チャクラヴルティン」が、立ち現れて来ない。
「成られる方」は、何処に居るのか、未だ、誰にも知られてはいないのだろうか。
私の知る処でも、其の者が、何処に居るのかが、発表された事は聞かない。
私の夢は、7月12日に「鶴」と出て、13日には「能明塾」と出た。
鶴は、声も飛ぶ姿も、「天に向う・高い」との意味、「能明」とは「能く出来る・道理に明るい」との意味であろう。
其れを、今朝の夢と、関係して考えると、鶴の様に気高く、道理に明るく、能く人を「治める・しろしめる」方が、新しい時代の指導者に「成る・成れる・成られる」と、なって来る。
今朝のメッセージで、「成る」が一番上にあると言う事は、「成る」と自覚出来る者が、自覚をしなければ、成らないと言う事であろうか。
何れにしても、其の様な時代と成り、其の者が現れると言う事であろう。
其れには、「成れる」と云って、支え励ます仲間と、「成られる方」を待ち望む人々が、多く存在する事が条件の様である。
平成13年7月17日
礒邉自適
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