斎草(さいぐさ)
14・2・15
「斎草」又は「三枝・さいぐさ」とは、笹百合の事である。
日本では、神様の為に「巫女(神子・御子・皇女)」が舞う時に、手に持つのが白百合であり、古代では「笹百合・ささゆり」が、神に奉納する花であった。
其の名残が、斎草となったのである。
斎草は「さいぐさ」だが、其の儀式に参加する専門の家があり、三枝家となったと思われる。
三枝を「さいぐさ」と読むのは、百合の花が三枝咲く事から、来ているのではないだろうか。
古い時代の、西洋の宗教画にも、絵画の中に白百合が描かれている。
白百合は、世界共通の聖なる花で、神に奉納する神花だったのだろう。
白百合は別名、小百合でもある。
ラテン語では、百合は「リリー」で、「ユリ」の日本語とは、身近な言葉である。
私が1997年、京都から出雲に11月1日に引越しをして、出雲の地を調査している内に、「6月16日・斎草祭り」とのメッセージが有った。
場所は、横田町の櫛稲田姫を祭る「奇稲田姫神社」と言う事で、1998年6月16日、島根県仁田郡横田町稲原の「櫛稲田姫神社」で、三枝祭りを出雲の安部忠宏氏と行った。
地元の人達と、全国の人達に呼び掛けて祭りを行い、巫女三名に、笹百合を手に持って舞って貰ったのである。
不思議な事に、舞った女性三名とも、舞い始めて「笹百合」の花の香りを嗅いだ瞬間、意識が消えてしまい、舞が終わって座るまで、意識をまったく失っていたとの事であった。
しかし、舞いの方は、最高の出来だったのである。
古代の人々は、笹百合の香りと、人間の意識の関係を、知り尽くしていたのだろうか。
漢字の「無」が、「何もない」の意味に使われているが、「無」の漢字の元は、「舞」であり、其の舞の意味は「神様の為に舞う時は 人間社会に対して もう何も借りが無い 状態である」との意味から、「無い」の意味に使用される様になった。と、辞典に載っている。
神に仕える巫女は、一切の邪念が有ってはならないのである。
その事が、笹百合を手に持って舞う事で、自然に起きたのである。
不思議な事に、1998年6月16日に稲田姫神社で祭りを行ったら、2000年6月16日、昭和天皇の奥様の「香淳皇后」が罷ったのである。
日本の歴史では、最初の王が「須佐之男尊」だが、その奥方が「櫛稲田姫」である。
其の、櫛稲田姫の神社で儀式を行い、二年後の同じ日に香淳皇后が罷ったと言うのも、何かの神のお示しではないだろうか。
宇宙の、時間は「イザナギ(凪)」の名で呼ばれ、空間の拡がりは「イザナミ(波)」の名で呼ばれてきた。
ナギは「時間・トキ」に、ナミは「波・空間」に置き換えられた時、言霊はその霊力を失ってしまっている。
日本の国土は、「言魂幸和国・ことたまさちあうくに」でもある。
今一度、人間は笹百合を手にし、神の前にて、身も心も捧げ尽くす事が、必要とされているのではないだろうか。
平成14年2月15日
礒邉自適
「無・ム・ブ・まい」【解字】仮借。もと、舞の字と同形で、人の舞う姿にかたどり、まいの意味を表したが、借りて「ない」の意味に用いる。篆文は、亡を付し、ないの意味を明らかにし、省略して無となった。
【字義】@ない。否定の意。⇔有。「絶無」「有無」Aなかれ。禁止の意。B混然として区別がなく、万物の根源となる道。道家の説で虚無の道。万物の本体。Cなみにする。ないがしろにする。軽んずる。無視する。Dゆたか。草木のゆたかにしげること。
「舞・ブ・まう・まい」【解字】形声。「舛+無」音符の無・ブは、まいの象形。甲骨文は、人が装飾のあるそでをつけて舞うさまにかたどっているのがよくわかる。のち、さらに左右の足の象形の舛をふし、まいの意味を明らかにした。
【字義】@まう。㋐音楽に合わせて踊る「剣舞」㋑こおどりする。喜んでおどりあがる。「乱舞」㋒とびまわる。かけまわる。めぐる。Aまわす。まわせる。㋐舞いをさせる。踊りをさせる。㋑はげます。奮い立たせる。「鼓舞」Bもてあそぶ。おもいのままに扱う。Cまい。おどり。舞踏。
漢語林より