言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2002/4/26
新しい二冊の本
14・4・26
今朝の霊夢には、新しい本が二冊出て来た。
本棚に、赤色の数冊の古くて厚い本が立てて有ったが、其れを全て取り除いて、棚のホコリやゴミを掃除した。そして、其処に、新しくて前の本よりは薄めの白い本を、代りに二冊に立てた処で、其の場面は終わった。
そして、「彼等は 日本語の調べ方が 分からない」との言葉が、告げられて来た。
今朝のメッセージは、「古い価値観・情報・概念の本を片付けて 新しい内容の本と 取り替えろ」と言う事だろう。
そして、其のテーマは、日本に関する事が含まれている様だった。
日本語には、古い時代の情報が、澤山含まれている。
其の、日本語の持つ情報を、習得させる為には、先ず、日本語の意味する処を、他国の人や、多民族が理解できる処から、作業を始めなければ成らないだろう。
「彼等は 日本語の調べ方が 分からない」とのメッセージは、彼らが、調べ易い様にしなければ成らないとの事であろう。
日本国の伝統的文化は、放牧民族や、海賊民族とは違う、価値観を伝えて来ている。
日本の文化は、2700年も前から「須佐之男尊・すさのおのみこと」の一家が、国土保全の為に植林をし、大自然の神を敬い、水を大切にし、食生活を一番の重要な事として来ている。
現在・いま、世界全体が行き詰まりを示している現状では、其の日本の伝統的文化は、世界を救済する方法として、世界へ向けて、発信しても良いのではないだろうか。
特に、日本語には、世界共通の古い言語が含まれている。
英語の元となった、ラテン語や、シュメール文化の名残り、其れにアステカの行事や、エジプトの神事、またユダヤの生活風習と、次々に探って行けば、様々な人類の記憶が蘇えって来る。
東の端に位置する日本列島は、世界中の文化の吹き溜まりと成っていて、日本の存在は、正に、人類の情報記録庫と捉えて良いだろう。
アメリカ資本主義が、世界をリードするかに想えていたが、現在・いま、其の継続が難しい理・ことが見えて来ている。
日本民族は、新たな役目へ向けて、進むべき時節を、迎えていると言えるだろう。今朝のメッセージは、その理・ことを、我々に、自覚せよとの事だろうと想える。
新しき白い二冊の本は、世界を救う方法が、日本語と、日本の文化に秘められているので、其れを、解り易く纏めろとの事だと想われる。
平成14年4月26日
礒邉自適
2002/4/11
倫令
14・4・11
今朝の霊夢は、右手の方から、中年の女性がやって来て、「自適さん 前に来ていた手紙を 渡すのを忘れていた」と云って、私に其れを渡した。
其れは、ハガキが5〜6枚有って、一番上の文章を読むと「倫令」の書き出しが読めた。その文字を、覚える事に意識が移ったので、後の文章は、記憶に残ってはいない。
朝起きて、辞典・漢語林で、早速「倫令」調べてみると「倫」は「人+侖」で、「人の ふみ守るべき 道の意味」と有り、「令」は「命ずる。みことのり。のり。おきて等の意味」
「倫・リン」の「侖」は「△+冊 」で「△」は「三直線が合う様を示す。
「冊 」は文字を書きつける竹ふだの意味。すじみちをたてて 考えをまとめる意味を表す。」と 載っている。
「倫・リン」【解字】形声。「人+命」音符の命は、すじみちをたてるの意味。すじみちのたどれるともがらの意味や、すじみちの意味を表す。
【字義】@みち。㋐人のふみ守るべき道「人倫」㋑すじみち。道理。Aともがら。なかま。たぐい(類)。「倫類」Bしな。等級。順序。Cもくめ(木目)。Dならべる。また、くらべる。
漢語林
「令・レイ」は、「人の ひざまづく形どり。人が ひざまづいて神意をきくさまから、いいつけるの意味を表す。」と 載っている。
「倫令・リンレイ」とは、人の守るべき道の、法令の意味との事であろうか。
新しい「△・三直線」が合う、真理を組み立てて、記さなければならない様だ。
三方向の組み合わせは、「天地人」とか「身口意」とか「父母子」とか、関係性の上で様々な事に使用されている。
神社の、お供えの台も、三方と呼んでいるので、古代から三方向の認識法が存在したのだろう。
西洋でも、「三位一体」とかの言葉もあるし、日本の古神道でも、天照神、月読命、須佐之男の、三つの働きとして、区別されて来た。
人間の意識は、大脳生理学からも、二方向よりは三方向の方が、記憶され易いようである。
新しい価値観を創造するのに、三方向・三つの意味が結ばれる事が、重要だとの理・ことだろう。
「侖」も「令」も、上には「△」が付いている。
その「△」の意味が解けなければ、倫令の理解が出来ない。
普通に考えれば、政治・経済・教育と、社会システムでの基本となるべき事にもなりそうだが、「令」は「神より受け取る命令」の意味があるので、人間が勝手に決定できる事でもなさそうである。
世界は現在・いま、ユダヤ民族が考え出した貨幣発行に拠る「資本主義」で動いている。
紙幣に拠る、証券化された世の中のシステムは、物の動きは活発化したが、精神的には、何かを失った様に想われる。
金券の為なら、どんな事でもする人達の世の中は、「令」の意味の「神にひざまづく姿」は、どこにも無くなって来ていると、言える処まで事態は到ってしまったのでる。
本来の「人のふみ守るべき道のきまり」は、どうなってしまったのか。
世の中には、様々な宗教観が広がって、残ってはいるが、其れ等の宗教には、倫令は教えられてはいるが、実際には守られていない事の方が多いので、其れを私に、何とかしろとの事ではないだろうか。
私は、課題が与えられた事で、新しい思考回路が必要となって来たようである。
漢字の「参・サン」は、頭の上に輝く三ッ星の象形である。
「参」は「@あずかる。Aまみえる。Bまいる。Cしらべる。くらべる。」である。
若しかしたら、「令」は空に三ッ星が現れ、神のメッセージが有ったので、生れた文字かも知れない。
私
は、天の言葉を参・あずかる日が、近いのだろうか。
平成14年4月11日
礒邉自適
2002/4/10
人間社会は言葉に因って動いている
14・4・10
改めて考えて見ると、人間社会は、全て、言葉に因って動いている事に気が付く。
一見、世の中は、金で動いている様に思われがちだが、経済の動きも、誰かの言葉(物言い)で、金や物質が動いて、成り立っているのである。
特に、アメリカ大統領の言葉は、世界の金融に影響を与える事は、皆の良く知る処である。
此の日本でも、鈴木宗男代議士の言葉で、外務省が影響を受けていた事が、判明したばかりである。
世の中に影響を与える、新聞も、書籍も、言葉を文字にした物である。
テレビ番組は、絵・映像が映っているが、音量をゼロにしてしまえば、何が話されているか判らない。
テレビが無い時代は、言葉だけのラジオ放送が、社会に全体に、大きな影響を与えて来た。
文字が無い時代まで遡れば、人々の意思の伝達は、言葉だけであったので、現代・いまでも、言葉が一番大事なものと考えて良いだろう。
其の大事な言葉が、人々の幸福の為だけに、使用されていれば善いのだけれど、現代社会では、個人的な欲望の為だけに、言葉が使用される事が多くなっている。
同じ言葉が、一方では人々を幸福にし、一方では、不幸の原因を創り出しているのである。
教育が進んだのは、善い事と言わなければならないが、沢山の言葉を覚えても、その言葉が、正しく使用され、人々の幸福に繋がらなくては、教育が役に立ったとは言えない。
昔から、言葉は「凶器に成る」との言い方もあるし、仏教では、優しい言葉を掛けてあげるだけでも、布施をした事に成るとも言われている。
若しかしたら、私の言動は、自分も父母の日常会話が、基になっているのかも知れない。私は、喧嘩言葉が苦手である。
其れは、両親の喧嘩を一度も見た事が無いし、喧嘩言葉を聞いた事が無いので、稽古が出来ていないので、使い難いのであろう。
その反面、人に対しての対応は、ソフトに出来るのかも知れない。
私の家には、父親が亡くなった時、私が17歳までは、テレビも無く、私の実家は、野中の一軒家で、テレビの影響も、隣の家からの雑音も無かった。
私の生い立ちを思い返すと、其の環境が幸いしたのだと想える。
テレビや、車の騒音が無く、小鳥の鳴き声や、小川の音、風の音などが、私の脳の基盤となっているのである。
自分の人生を振り返って見ると、言葉に守られて、生きて来た様に思える。
私は、誰よりも言葉に恵まれて、是まで生きて来られたのではないかと思える。そうでなければ、私の性格は、違ったものに成っていた可能性がある。
私は是から、言葉の環境が、人間に、どの様な影響を与えているのかを、気にして生きる事にしよう。
その答えが出せれば、世の中を、少しでも善いものとする事が、出来るかも知れない。
平成14年4月10日
礒邉自適
2002/4/5
慥(たしか)なもの
14・4・5
・貴男は 正しいことをしていますか。
「 私には 自信は 有りません 」
とにかく 進むしか無いのです
・一番 後から来る者を いたわってあげなさい。
・夢は夢に 現実は現実に
繰り返される 現実の嵐は
貴男を 鍛える現象なのですから
くじけず ひるまず 常世までとおもい 続けるのです。
・それが 今回の 貴男の人生なのですから。
4月5日 朝
今朝は、日の出前に起きて、机に向かい静かにしていると、「たしかなもの」と言葉が出て来て、漢字を調べると、「確」「慥」「聢」と「たしか」に使用できる漢字が、三通りあった。
・「確・カク・たしか・たしかめる」【解字】形声。石+隺のくみわせで 音符の隺・カクは、硬に通じ、「かたい」の意味。かたい石の意味から、かたい・たしかの意味を表す。【字義】@たしか。真実で間違いのないこと。あぶなげないこと。はっきりしていること。「確実」「明確」Aたしかに。また、たしかめる。「確認」Bかたい(堅)。しっかりして動かない。「確信」「確立」Cつよい(剛)。
漢語林より
・「慥・ゾウ」は「心+造」の組み合わせで、「造られる心」を意味し、自分の心の状態をたしかめる様子から来ている。
【字義】「@まこと Aせわしい。あわただしい。「国語」たしか、たしかに。ア・きっと。確実に。イ・おおかた。「慥慥爾、ゾウゾウジ」まことあるさま。言行一致につとめるさま。」と、単語が一つだけ載っている。
辞典 漢語林
私は、今朝初めて「慥」の字が有る事を知った。
私は18年間、夢のメッセージに頼って生きて来ている。其の私が、自分の心で創り出した「慥かなもの」とは何だろうか。
其れを、自分の心に問うと、最初に書いた文章が出て来た。
書いた文章から判断すると、一番後から来る者の事を忘れずに、ただ前進する事で創り出されるものらしい。
過去を振り向いてしまえば、過去を懐かしむ心を造ってしまうのだ。
過去は、過ぎ去ったものだから、過去を、再び心に創り出す事は、捨て去った生ゴミを、ゴミ箱から再び拾い出す事と同じ行為である。
今朝のメッセージからすると、天・神の働きは、前進する者しか、味方にしない様である。
今朝の作業は、自分の内側の心に問い掛けを行い、慥める事にあったのだろう。
自分の、内側の声を「聢かめる」のが、是からの私の意識に、新しい光と風をもたらす事になりそうである。
「聢」とは、「意識を定めて しっかりと耳にする事」の意味のようだ。
昔の人は、たしかめる作業を、物に対して「確かめ」、自分の内側から出る心を「慥め」、外から内に入り込むもの(情報)を「聢める」。
此の三つを「聢・しか」と「認識・たしかめ」ていた事を、今朝は學んだ。
追記。
「聢」は、国字であり漢字の音読みは無い。
日本人が、聴く事の大事さから、新しく組み合わせたものである。
平成14年4月5日
礒邉自適
2002/4/3
串玉と名付けた人の魂
14・4・3
私は、屋久島で瞑想に明け暮れていた時、脳の中が見えた様に思った。
脳の中を顕微鏡で見ても、只の味噌の塊にしか見えないので、脳味噌と言うのだろうから、私の見た物は、実際の脳の中身ではなく、脳の働きだったのだろう。
後に、其れが「クシ」と「タマ」であり、古に、誰かが同じ物を見ていた事が、私には理解されて来る。
現代では、科学や化学が進んで、物質的にも論理的にも、人間の脳の働きは、様々な説明がなされているが、古代の人々がどの様にして、言葉を組み立てたかと言う事に対しては、未だ、どの学者も説明出来ていない様に思われる。
其の例を一つ上げると「人が走る」と言っても、どうして人が走る姿を「はしる」と言うのかは、説明がされていない。
其れは、「はし-る」としても、「は-しる」としても、意味を見出せないのではないだろうか。
処が、私は「くしたま」「たまぐし」の言葉が分かったのである。
「くし」は、「串のダンゴを通した形」で、「通す事」を「くし」と言うのだ。髪の毛を通す「櫛」も、「通す」の意味である。
「たま」は「玉」で、「丸い玉」の意味であり、「魂・たましい」の「たま」である。
「くし・串」と「たま・球」は、人間の大脳の、右脳の働きと、左脳の働きを表現したものであるのだ。
現代の医学界でも、右脳は、芸術的・空間的な色彩や音などを司っており、左脳は、論理的・時間的な繋がり・経過などを、司っていると言われている。
右脳の、空間的な思い出の映像は、丸い玉となって、人間の意識に捉えられているのだ。
体験が多いほど、思い出の玉は数多く有る事になり、其れが、右脳に記憶される事になる。
左脳は、其の多くの空間の思い出の玉の「意味」や、関係性を結び付ける「糸」の役割を、していると言う理・ことになる。
だから、古代の人々は、自分の頭の中に一杯に成った、「くし」と「たま」を、神社に捨てに行くのである。
そして、空に成った脳に、神の「くし」と「たま」を貰って帰るのである。
簡単に言えば、自分の「串魂・くしたま」と神の串魂の、交換を行う場所が神社なのである。
其れが、神社や式典で行われる「玉串(タマグシ)奉納」のセレモニーなのである。
チベット仏教の絵にも、其の「球・魂・たま」は「如意宝珠」の形として描かれているし、古代エジプトの王家の墓に納められた壷にも、其の球の形の絵は描かれている。
と言う事は、世界中で、其の理は認められていた事になる。
何時の時代に、何処に住んで居た人達に拠って、その理・ことが、語り始められたのかは判らないが、其の理は、今の時代でも見ようとすれば、自分で見られる世界なのである。
しかし、現在の神社や宗教では、其れ等の理が、学習されているとは聞かないので、失われてしまったのかも知れない。
だが、現在でも玉串奉納として、儀式だけは伝えられているのだから、儀式だけでも、日本に残っている事を、良しとしなければならないだろう。
神武天皇祭の日に
平成14年4月3日
礒邉自適
2002/4/2
ほんろん すいろん
14・4・2
今朝のメッセージには、「ほんろん」と「すいろん」の二つの言葉が出て来た。
意味を探ると、「ほんろん」は「本論」「正論」で、左側の上の方に位置し、「すいろん」は「推論」で、右側の下の方に位置していた。
朝起きて、辞典言泉で調べてみた。
「正論」は「道理にかなった議論、主張、正議」
「本論」は「@主となる論、根本の論 A話題にしている、この論」
「推論」は「@ある事柄を他の事柄からおしはかって論じる事 A論理学でごく短い論証でその当否がすぐ分かるもの」 と 載っている。
「ほんろん」が左上に有り、「すいろん」が右下に有った事が、何かの意味を告げて来ているものと想われる。
「ほんろん」は正論と同じで、「道理にかなった議論で、主となる論、根本の論」との事。こちらの方が「推論」より、上位に位置するとの理・ことであろう。
今朝のメッセージは、私の考察を、推論ではなく、本論重点にしなさいとの事だろうか。
人々に論じるには、「推論」に有るように、ある事柄を、他の事柄から推し量って論じる方が、理解し易いと想われる。
いきなり本論を説かれても、頭にイメージが何も無ければ、理解のしようが無い。だから、何かの例を取り出して、其れと比較をさせて、異なる現象を認識させるのが、推論の方法なのだろう。
インドの、釈迦仏陀の訓えは「方便」と呼ばれているので、その方法を使ったのだろう。
釈迦の教えを、伝える経典の一部を「方便品」と言って、「例えを使って 教えを説いた品々」と言う意味で、現代まで伝えられている。
中東のイエスキリストの教えも、「イエスは 例えを使って 人々に説いた」と伝えられている様に、推論の方法が使われた事は明らかである。
その点、中国の老子の「道徳経」は、老子自身が、自分で5000字に書き残した物で、釈迦やイエスの様に、人々に話した記録ではないので、根本的な内容を持つものだから、本論と言えるのではないだろうか。
私には、これ以上の推論は浮かんで来ないが、推論の上に、本論が存在すると言う事は、間違いないようである。
今朝のメッセージは、推論より本論を大事にする事と、推論を使わなければ衆生を救えないとの意味も、伝えて来たのかも知れない。
改めて考えると、私に「本論・正論」なるものが、確立されているのだろうか。
私の意識は、未だ、推論の枠を出ていないのではないだろうか。
今日から、私にとっての本論とは、何なのか、私の論じる正論とは何なのかを、ジックリと捕捉して行かなければならないのだ。
平成14年4月2日
礒邉自適
2002/4/1
源質
14・4・1
3月27日に見た霊夢を、何と、説明したら良いかを思い続けていて、29日に「源質」との単話が浮かんで来た。
辞典を調べても、その様な単語は無いが、私には、その単語の意味が霊夢のイメージに合っていると想うので、「源質」として意識に留めて置こうと決めた。
「源質」の「源」は「水の流れのみなもと」の意味で、「質」は「物質の本質」を意味する言葉である。だから、「生命の源」である本質を定義付けするには、適した言葉であると想われる。
科学的な用語は、新発見や、新発明が起きた時に、直ぐに創られるが、一方精神的な用語は、老子や、釈迦くらいの人格者が現れないと、新しくは創られない。
其れは、精神的な用語は、人の意識に作用するからであって、科学的用語の様に、物質の定義付けとは異なるからであろう。
人間の、魂しいに影響の有る言葉が、無闇矢鰭(むやみやたら)に創られても、迷惑だからだと思われる。
しかし、時代が進み、文化が変化すれば、その時代に適した言葉が創られるのは、当然の事であろう。
私が20歳頃、文章を書いて、母親に清書を頼んだら「自適よ 心態という言葉は無いよ」と謂う。私は、「無いから 自分で創った。言葉は 誰かが創ったものだから、俺も創ったって 別に問題は無かろう。」と云って、そのまま文章にした事が有った。
辞典漢語林を見てみると、心を使用している漢字は「心境、心思、心情、心髄、心地、心得、心理」等、53程が有るが「心態」とは本当に無い。
辞典に載っている言葉は、心の情景や状態を、其々に言い表していると理解出来る。
私が、20歳頃「心態」として、心の状態を想って、言葉をイメージしたのは、私が53もの単語が有る事に無知で、自分の頭に浮かんだ心象風景を、素直に表現出来たからであろう。53もの単語自体が、心態を小さく分けて、具体的に税明したものである。
私が、「心態」の単語を書いてから、35年が経って、「源質」と言葉を組み立てているのは、私の心態が、宇宙の源極に辿り着いた証しではないだろうか。「心・こころ」との、言葉と言うものが、何時、何処で、何者に拠って発生し、定義付けられたのかが、人類の永遠の課題である。
「神・かみ」と言う言葉も、神を定義付けなければ、神も存在しないし、「仏・ほとけ」の言葉も、釈迦が仏陀として存在するまでは無かったのであろう。
「覚者」の言葉が、「仏(釈迦)」が存在する以前に、有ったのかどうかは、私には判らないが、其れは「仙人」とか「行者」とかの、他の言葉で呼ばれていたのであろう。
21世紀に入って、人類の意識は、新しい段階に到達しようとしている。
ターニングポイントと呼ばれて20年程が経過し、科学者が、目に見えない世界に、力が存在すると言う処まで、時代は進んで来た。
私の見た、生命の起源と想われる姿像も、コンピュータ・グラフィックで再現が可能な技術は、既に完成されている。
何事にも始めがあり、仏教は釈迦が始まりで、旧約聖書にも、最初に言い出した予言者の名前が載っている。言葉には、最初に意味付けを行った者の、イメージが留まっているのである。
700万年前、人類特有の大脳皮質が出来上がるまでは、人間には、未だ言葉は無く、動物や小鳥の様に、鳴き声のような合図しか無かったのである。
しかし、其の頃は、現在の人間の様に、言葉に拠って会話をしていないので、脳は自由に、様々な映像を写し出していたものと想われる。
学校教育が、現在の様に、完備されていなかったので、言葉や文字による判断は少なく、自然のシステムと、人間の思考は、直結していたものと想われる。
私と、同じ思考体系の人が、多数を占めていたのではないだろうか。
自由な、精神から生み出されるものこそ、潜在意識と繋がっているものと言えよう。
本来の、自分の意識は、何処に在ったのかを、誰かが取り戻さなければ、人類は、迷いの世界から、抜け出す事が出来ない。
人類が、幸福になる為には、本来の自分、源質の何たるかを、取り戻す作業を行っている者達を、サポートする必要があるだろう。
私の謂う「源質」とは、人間だけが知り得る世界ではなく、森羅万象に生命が関わっている、営みの根源に在る法則の力、そのモノの事である。
卵子や精子を、電子顕微鏡でいくら覗いても、物のシステムは見えても、いのちの働きは目には見えない。
其れは、レコード盤を顕微鏡で覗いたり、映画のビデオテープを調べたりしても、其の中には、絵や言葉は見えないのと同じである。
レコードも、映画のビデオも、働きを持った機器を通さなくては、見たいものは目にする事は出来ないし、聞きたいものを、耳にする事も出来ないのである。
幸い、人間の脳のシステムは、其の、見たい物が見えるのである。
それには、其れに関わる道筋を、踏まなければならない。
科学者の目で、相対的に調べても、それは見えないのである。
しかし、其の理・ことの説明は、宗教者では出来ないであろう。
私にとって、是から必要な人材は、科学者の人達なのかもしれない。
生命を、働かしている根源の力の元へ、一歩近付いた自分を、実感している、今日此の頃である。
平成14年4月1日
礒邉自適
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