言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2002/5/3
色々な数珠
14・5・3
本日5月3日は「憲法記念日」で、私の息子の14歳の誕生日でもある。
私の、存家得度の名は「真悠護法居士」であり、法の世界には縁が深い。
今朝の霊夢には、横に渡された棒に、色々様々な数珠が掛けられていた。
しかし、其の意味が知らされて来ないので、私に縁の有る「憲法」と「護法」の言葉に、関係性を繋いで考えて見た。
夢に出て来た「数珠・じゅず」は、色も形も、数も長さも、様々だったので、一律にしなさいとの事ではなく、其々の意いで、好きな物を、選び取れと言う事だろうと想われる。
数珠を、胸に掛けるか、腕に巻くかも、本人の自由である。
数珠は、仏教的世界に使用されているが、西洋にはネックレスがあり、日本では、神世の昔から、神に通じる物として大事にされ、首に掛けたり、死後はお墓に納められたりして来た。
大分県湯布院に在る「宇奈岐姫神社・うなぐひめじんじゃ」には、巫女の事を「ウナグ姫」と、呼んでいたらしい事が伝わっている。
「ウナグ姫」とは、「項(うなじ)」に、「具(首飾り)」を掛けた「姫(巫女)」と言う意味なのだろう。
人間は、物事に納得した時に、「ウンウン」と頷くが、これも「項(うなじ)を前につく意味・うなづく」だと、辞典にも載っている。
「ウナグ」とは、「項じに掛ける具」の事だと理解出来る。
日本で、使用されていた「うなぐ・項具」は、曲玉(まがたま)と、管玉、丸玉の組み合わせで出来ている。
映画で「寅さん」が、首に掛けているお守りも、これらの延長から生れたものだろう。
カトリックでは、十字架を胸に掛けるし、インドのヒンズー教の行者も、澤山の首飾りを着けている。
世界中で、首から胸にかけて、何かを掛けるのは、何故なのだろうか。
私が、京都府亀岡市に有る、「大本教」の本部の拝殿で見たビジョンの様子では、頭が真っ白な巫女(出口ナオ)が、神棚にお供えする三方の上に、紐に通した丸い玉を盛って、畳に座っている男性(出口王仁三郎)に、差し出す場面が映って来た事が有り、其れが「玉串」の事だと教えられた。
「玉」は「珠」で、「魂・たましい」に通じ、「串」は「櫛」と同じ意味で、「トオス・通す」の意味である理・ことが判かった。
「串」は「ダンゴを竹串に通す象形」で、「櫛」は「髪の毛を通す」の意味である。
「柘・つげ」の木を、「節状にした物が 通すの意味」の、「クシ」と名付けられたのであろう。
神に通じるのに、必要な道具とされたのが、「項具・ネックレス」である。
「項具・うなぐ」を身に着ける事で、神に通じると考え、「奇しき(不思議な事、神秘的な事)」との意味の、言葉が生れたのだろう。
出雲の「熊野大社」の祭神名は「神祖熊乃大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」となっている。其れは、「奇しき御氣の命」であり「御氣・みけ」とは食物の事である。
天皇家の伝統で、一番大事とされているのが、台所の神「御餉殿・みけどの」であり、食物の事を「御氣・みけ」と呼んで、神に通じる役目の「巫女」や「神主」は、獣の肉を食べてはならないとされて来た。
これは、仏教の教えの「精進・しょうじん」と同じ意味を持つものである。
血を清くして、項具・うなぐを身に着け、神に通じる事が、古代では、最も大事な事とされていたのだ。
その理・コトが、現代の「憲法」や「法則」の世界には、全然取り入れられていない。
「祭り事(政治を含む)」を行う役目の人達は、何を、一番大事とせねばならないか、その事が、憲法に謳われなければ成らないのではないだろうか。
現在の社会情勢を見ると、何かが欠けている事は、誰でも感じている事である。其れを、正しく整えるべき政治家が、一番我欲に取り憑かれているので、始末が悪い。
本当の、天の働きを担った「みこと(御事・命)持ち」の人が、出て来なければならない。
今朝の数珠は、その「命もち」の人の魂しいが、色々様々で、働きも十人十色だとの事を伝えて来たのだろう。
私自身も、自分の魂しいが何色で、どんな形の玉が、どれだけ繋がっているのか、命の性質が分からない。
多くの仲間が現れてくれば、周囲の人々の性質を観る事で、自分の串玉も判断出来ることだろう。
憲法にも、自分の役割を認識する事を、盛り込んだらどうなのだろうか。
今日の私には、是くらいの判断しか出来ない。
平成14年5月3日
礒邉自適
投稿者: isobejiteki
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