言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2002/7/30
恒歌・ときわ
14・7・30
今朝の霊夢には「恒歌」と文字が出て、「ときわ」と読む意味が示され、続いて文章が見えて来た。
文章の書き出しは、平仮名から始まって、易しい漢字があり、段々と難しい漢字へと移行して行くのである、
そして横書きの短い文章が、楯に10行ぐらい映って消えた。そして次に、短冊に書かれた和歌が、一首現れて終った。
朝起きて、辞典言泉で調べると、「ときわ」とは「常磐(盤)」と書き、「とこ(常)いわ(磐)の転で、常に変らない岩、転じて永久に続くさま」と有る。
私の夢に出た「ときわ」は、「恒歌」の漢字であった。
普通に、意味を採れば、「つねに変らないうた」と成る。
漢語林で調べると、「恒」は「心+亘」で、「亘」は「一方からもう一方へ、つねに変らない方法で わたすの意味」と有り、「いつも 変化しない方法で わたす心の意味」である。
「歌」は、金文では「言+可」の組み合わせで、「可」は「大きな口を開けて、喉の奥が見えている状態の象形」で、「迷い無く 大きく言える 良い言葉」の意味である。
これ等の、漢字の意味から考えると、「恒歌」とは「永遠の真理を ハッキリと言葉にして 伝えて行く」との意味に取れる。
「常磐」の意味も「永久に続くさま」だから、同じ意味を有する理・ことが見えて来る。
日本の天皇家の伝統は「御饌殿・みけどの」で、台所を神の居処と捉え、食事を守り、鎮護国家の祈りを、和歌にして詠う事にある。
日本語での「うた」とは、「宇宙の力(た)」の意味で、「宇田」と表記出来るのではないだろうか。真言宗で言う処の、「マントラ・真言」である。
仏教でも、「仏(釈迦)」の教えを守るには、食事が大事とされ、漢字の「謂・いう」は、訓読みでは「こころ・心」とも読む事が、辞書には載っている。
私は、屋久島に帰り、屋久島の水を飲み、屋久島の大地に触れ、屋久島の空気を吸い、屋久島の蝉の声を聞きながら、一ヶ月に成ろうとしている。
ようやく、18年前まで生活して居た、屋久島の環境に「体・體」が馴染んで来たのだろうか。
屋久島は、全島が花崗岩で出来ており、山岳部は猿と鹿しか住めない険しい地形である。その為、人家は、海岸辺りにしか無く、島の西部には人家は一軒も無い。
そんな島だから、人手が入っていないので、常磐の岩山としてはピッタリである。
私は、そんな島の山々で、遊んで育って来たのである。
私の意識の基盤には、梃子・てこでも動かない、磐石な情報システムが、組み込まれているのだろう。
私達の「生命・いのち」は、「胃の血」であり、人間が生きるには、他の生命を胃に入れなければならない。
地球上の全ての生命は、生命(仏)の情報に因って生きている。
その「情報・いのち」とは、別の言葉で表現すれば、磁気的信号情報を蓄えたものが、「いのち(仏)」と言えるだろう。
私達は、自分の遺伝子情報を伝え残す為に、他の生命の、遺伝子情報を食べて生きている。その情報は、地球の大地から産み出される現象・ものである。
私達人類が、現在・いま一番先に、求め直さなければ成らない物が、この「生命・いのち」の情報である。
現在の情報は、教育も含めて、経済中心の方向だけに向っている。
人間の、脳が創り出した、不自然の情報ばかりが、巷・ちまたに溢れており、常磐の意味など考える者など、一人も居ないのではないだろうか。
本来は、天皇家が、其の事を伝・傳える役目なのだが、皇太子にさえ、其の事が教育されているのか定かではない。
国民に、天皇家の本来の役割が何であるのかを、ハッキリと示さなければ成らない。其の事を、大きな口を開けてハッキリするのが、私の役割なのだろうか。
今朝の夢に出て来た一首が、誰の歌かは分からないが、霊界の歌詠み名人が、一首贈って来たのだろう。
私には、天皇家の様に、歌う技・すべは無い。
私は、夢の意味を、解きほぐして行くだけである。
私の見る夢は、無意識の力であるので、自分で操作する事は、出来ないのだ。
平成14年7月30日
礒邉自適
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