言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2002/8/14
創造の木
14・8・14
今朝は、樹木の構造のイメージが遣って来て、「創造の木」との言葉が浮かんだ。そして「創造の木」とは、生命・いのちの木でもある理・ことが理解出来た。
人間の意識の内にも、木の構造と良く似たシステムが隠されているらしい。
其れは、遺伝子的なものなのか、人類が、文化の中で認識して組み立てて来た物なのか、どちらかは判らないが、現在でも木の構造は、学問の中でも良く使用されている。
例えば、理科の時間の「生命の起源」と「進化の道程」等にも使用されているし、チベットの仏教の教えに使用されて来たマンダラの配置図も、一番初の古い図形は、木の姿の中心に生命の法を悟った、仏陀である釈迦が座っており、枝の方には、弟子達が座っている図柄である。
チベットには、文字も学校も無かったので、絵で、真理を教えるしか他に手段が無かったのだろう。
宇宙の中心には「法(ダルマ)」が存在し、その真理に至った者が「仏(ブッダ、覚者)」だと言っても、一般の人々には、何の事だか理解が出来ない。
だから一番身近に有り、形ある木の姿に準・なぞらえて、認識させようとしたのだろう。
樹木には、地上から上の部分と、地下の根の部分が有り、地上部分と地下部分は、形や量も等しく出来ている。
杉の木の様に、真直ぐ上に伸びる木は、根も真直ぐに下に伸びるし、横に枝を伸ばす木は、根も横に伸びて行く。
地上と同じ姿が、地面の中にも有る事になる。
根が、健康で繁る事が出来ている木は、地上部分も元気で繁る事が出来るし、地上部分が日光に良く当って、炭酸同化作用が活発に行われれば、地下にも澱粉等が沢山蓄えられ、次の年の芽吹きを能くする。
これ等の働きやシステムは、人間の意識や行動にも、当て嵌めて考える事が出来る。
宗教の世界では、「天国」と「地国・地獄」の例えに使用される様に、地下には幸福が無く、悪魔が住んでいる様なイメージを与えられて来たが、地下に地獄が在る訳は無く、地下こそ、生命の源であるミネラルや、栄養が澤山含まれているのだから、大地は生命の舞台なのだ。
ただ、「天国」と「地国・地獄」の例えに使用されたのは、地下には太陽の光が当らないので、闇だから「闇は恐いでしょう」と言う比喩に過ぎないのである。
大日如来も、阿弥陀仏も、天照大神も、みな光のイメージとして伝えられ、闇は悪魔の棲家として捉えられて来たのである。
人間の意識が、単純なので、光は善で、闇は悪だと教えられて来たが、草木は昼間に伸びるのではなく、生長するのは夜である。
人間も「寝る子は育つ」と言われる様に、夜眠っている時に成長しているのだ。昼は、活動の時間帯にしか過ぎないのである。
話しは外れてしまったので、元に戻すと、地下系の光が当らない部分こそが大事で、根が地上系を育てている事になる。
だから、木は地上部を切っても、又幹から、新しく芽を出して来るが、根を切ってしまえば、直ぐに枯れてしまうのである。
だからと言って、根だけが大事かと言うと間違いで、地上部が繁って花を着け、実と成って種子を蒔かなければ、木の存在が無意味なものと成ってしまうのだ。
この様に、私が文章を書けるのも、言葉や文字を覚えたからだが、一番大事な理・ことは、頭の中に樹木の姿、形がイメージ化されているから、言葉の組み立てが起こり、文字化されているのである。
其の事が、今朝のメッセージの「創造の木」の意味する処だろう。
人間にも「子供の意識の芽生えが起きる」と使用される様に、草木の種子の芽生えは、人間の思考の元に成って来た。
どんな草木でも、最初種子から出て来るのは、芽も根も一本である。
その一本が伸びて、根も枝も数を増やして行く。
最初の一本が、上にも下にも、中心と成って行くのである。
私達が子供の頃に、「この指に止まれ」と云って、同じ遊びをする者の同意を求めていた。
何事にも、中心が必要とされるのは、時代が変わっても同じである。
中心が決まらなければ、個々は、どちらに伸び始めたら良いのかが分からない。其れに、中心が上と下に、ドンドン伸びるには、良い枝葉が広がらなければならない。
現代社会に目を向けても、中心と成るべき人材が見当たらないので、指に止まり様が無い。元首が居ないのは、日本だけだそうである。
日本の政治では、天皇も総理大臣も、全権を任されている訳ではない。
政治もそうだが、宗教の世界も何万と言う宗派が存在し、中心的人物も見当たらない。
だから、衆生は一切、中心を失って、新しい枝葉に成る事が出来ず、根が腐り、枯れかけている木に、唯、しがみ付いているかの様である。
新しく、中心的な芽が伸び始めなければ、民衆の意識は、益々拠り所を失って、混迷の一途を辿って行くだろう。
日本語には「奉る・たてまつる」の言葉がある。
「立てる」とは「人を立てる。筋道をたてる。榊を立てる。シキミを立てる。門松を立てる。蝋燭を立てる。」と、様々な言葉が有るが、其れは全て見えない力に対して、見える物を用意して、意識化しようとの方法である。
私達が、新しく正しい世の中を創造しようと意えば、もう外に目を向けるのではなく、自分の内側に、新しい芽を発芽させて、其れを、大きく育てて行くしかないのではないだろうか。
どんな木が良いのかは、自分の好みで決めるしかない。
砂漠に生まれ、ヤシの木しか見た事のない人間には、通用しないかも知れないが、地球は木々の多い星である。
自分の意識に、木をイメージして取り込む事は、容易な事であろう。
それとも、チベットの小学校に入学して、根本から組み立てなければならないと言うのだろうか。
幸いにして、日本は都会の真中でも、神社や寺院が存在し、庭には大きな樹木が存在する。
木をイメージするのは、方法論さえ理解出来れば、誰にでも簡単な事である。
幼稚園から、文字だけを教えるのは、良い加減にしたらどうだろうか。
自分の内側に、中心が立たなければ、自分の意識の位置確認も決められないだろう。
私達の子供の頃は、遊びの中心にガキ大将が居て、其れらしいシステムは無意識に学んでいる。
現代社会の子供達は、学業に忙しく遊ぶ暇が無いので、これ等のシステムは体験していない。
現代社会は、金を澤山持つ者が、お山の大将と代わっているので、人格が大きく作用する「お山の大将」は育たなくなっている。
自然界では、猿や鹿、狼、アフリカのライオンまで、其の、お山の大将のシステムは機能している。
その根本原因に成っているものが、遺伝子の生命システムである。
その生命システムを、認識可能にするものが、生命の木の視覚化である。
中南米の、古代マヤ族の意識の木はカレンダーに刻まれ、現在でもピラミッドで見る事が出来る。
現代社会は、古代から一番大事にされて来た、根本的な教育の土台が、失われてしまっていると言えよう。
今日は、お盆の中日で、明日15日は旧暦の7月7日である。
本当は、今日の夕方、竹を立てて、様々な願いを短冊に書いて、竹の枝にくくり付け、天に向って祈るのである。
しかし立てる物は、元々は竹ではなく、木であったのだろう。
西洋の、クリスマスの祭りに使う「モミの木」のクリスマスツリーも、人間の意識と木との繋がりを示すものだろう。
私が、インターネットのアクセスコードを「森の木」としたのも、私が森で、多くの事を学んだ事に起因している。
私が願っている、新しい生命の樹が「創造の木」として立ち上がってくる事を、短冊にして木の枝に託そう。
若者達が、この指に止まってくれるかも知れないので・・・。
平成14年8月14日
礒邉自適
2002/8/1
利用できるもの
14・8・1
今朝のメッセージには、「利用できるもの」との言葉が伝えられて来た。
私は、是まで、単に「利用」は「利にもちいる事」の意味と思っていたが、漢語林で調べて見ると、もっと深い意味が有りそうだ。
「利」は「禾(稲)+ 刀」の組み合わせで出来ている。
甲骨文で見てみると、稲株に両手が上方から付いており、根本にスキの形の刃物が描かれている。
漢語林の説明には、「刀+禾+又+土」で、いねに手をかけ、鋭いすきで土をおこすさまを表す。引いて、するどいの意味や、農耕に役立つの意味を表す。
と 載っている。
「用」の漢字は、「甬鐘・ようしょう」という鐘の象形。金庸・ようの源字。この柄を持ってもちあげるの意味から転じて、とりあげる、もちいるの意味を表す。とある。
「利用」は、
@ 利益になるように用いること。役立つように用いること。
A方便に用いること。と 載っている。
単語としては「利用厚生」が載っており、「用いるのに便利にし、人の生活を豊かにすること。」とあるので、本来は善い意味に使われるべき言葉だが、Aの、方便に用いて利口に立ちまわり、利益だけに使うと、「利口」も「利巧」も、「悪がしこい」の意味にとられてしまう事になる。
今朝の言葉、「利用できるもの」の「もの」は、「者」なのか「物」なのか、明確ではなかった。
しかし、そのお陰で、「利用厚生」の言葉が存在する事を知ったので、良かったと思う。
「利用厚生」の意味で捉えていくと、「者」も「物」も、両方区別無く考えて行く事が出来る。利用とは「用いるのに便利で 人の生活を 豊かにすること」との意味であるようだ。
人の生活を、豊かにするのに物は大事だが、其れだけでは、豊かな生活とは言えない。
物を、澤山持っているだけなら、只の物持ちの人であり、便利な生活をしているだけに過ぎない。
この時期に至って、私に、「利用できるもの」と告げて来ると言う事は、重要な意味を含んでいる筈である。
18年間、精神的な修行をさせて、17年以上、日本国中を遍歴させてからの、利用できる「もの」である。
それが「物」であれば、屋久島も地球もそうであり、太陽や、月も、そうであるし、車も飛行機も、コンピュータも、お金もそうである。
其れ等を、有効に使う事を、改めて考えると言う事も、含まれているのだろう。
そして「者」であれば、18年間の新しい人生の旅の中で、知り合った人々が、全国に何百人も居る。
私が、屋久島に住んでいた37年間の人脈よりは、遥かに数は多い。其れ等の人達を、人材と考えれば、豊富な財産を抱えている事にもなる。
屋久島に帰って、丁度一ヶ月が過ぎ、今日8月1日で、二ヶ月目に入った。
一ヶ月の間に、何10人かの屋久島の知り合いに再会して、新しい関係が生じている。
私が、是から、何を神にさせられるのか、未だ、明確には成っていないが、何かが、徐々に動き出している事は間違いない。
今日のメッセージで、私が、考え始めなければならない事は、何を、何時、何処で始めるかと言う事。
つまり、場所、建物、人材と時期と目的、其れに方法などを意識して、企画(イメージ、デザイン)して行く事だろう。
是からの、私の毎日は、屋久島の自然のど真中で生活しながら、屋久島の全体を自分の意識の中に捉えて、自分との関係を調和させながら、日本の未来、地球の未来を考えて行く作業が、続くのであろう。
私は、是から、地元の人達と、島外の人達、そして新しく屋久島に住み始めた、新しい島人達の間に、位置して、多くの「むすび」を起して行きたいと、想える様に成って来ている。
一ヶ月間で、新しい「礒邉自適」の意識は、物語を組み始めている。
是が、地球での神の最終的なプログラムであれば、この「私」も、「礒邉自適」という肉体も、楽に成る事であろう。
この「私」とは、どの「私」と言う物ではなく、18年の旅で、皆の力に因って組み上がった「私」である。「時・トキ」其のモノが、「私」なのだ。
「トキ」は育っているのである。一日も、休む事なく・・・。
平成14年8月1日
礒邉自適
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