言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2002/10/30
紫雲 勲賞
14・10・30
今朝のメッセージは「紫雲勲賞」と有って、内容は「祓い・はらい」に付いてであった。
朝起きて、辞典言泉で調べると、・「紫雲」は「紫色の雲。めでたいしるしとされ、仏がこの雲に乗って来迎するという。」
・「勲賞」は「勲功をほめたたえること。賞勲。」と 載っている。
「紫雲勲賞」の意味に付いては、何も説明は無く、イメージされて来たのは「祓い・はらい」に付いての事柄だった。
「勲賞」は、勲功を褒め讃える事だから、一番簡単で分かりやすい。
「紫雲」は、仏がこの雲に乗って、来迎するとの意味を表す単語と成っている。
何時、誰が、この概念を創り出したのかは知らないが、私が持っている辞典「言泉」に、その意味が載っている事を、知っている神霊は何者なのであろうか。
私は、其の事に興味が湧いて来るが、其れはそれとして、仏が乗って来る紫雲を褒め讃えるとは、どんな意味を持つのだろうか。
今から、仏が紫雲に乗って来るのか、既に遣って来ているのか、其れも判らない。
「勲賞」との言葉からすると、勲功の有った者に対する表現なので、既に、現象は起きて来ている事に成って来る。
では、何時、其の事が起きていたのであろうか。
私の知る範囲では、鹿児島市の繁華街である天文館通りの南口に、小さな社が在って、仏像が祭られているが、其処には「この地に 紫雲がたなびいて云々・・・」と書かれている。
その事が、天文館の「天文」の云われの元かどうかは分からないが、何かの現象が有った事は、間違い無いのだろう。
しかし、此の事と、今日のメッセージに、直接の関係が有るとは想えない。
無理に、こじ付ければ、「天文の入口は 紫雲に乗った仏が案内する」と、受け取れようか。
しかし、其の事と、私に何の関係が見出せようか。
勲功の示しとして、勲章が与えられるが、其れは国家が、国民に対して授ける物なので、もし仏が現れても、其れに対して、国家が勲章を授ける事は出来ない。
若し、仮に私が仏であるとしても、誰も其れを証明が出来ないのだから、私が勲章を貰う事は不可能である。
釈迦仏陀や、イエスや、老子等も、国家に対しては、都合が悪い人間だから、其れ等に対して、国が勲章を与える事は考えられない。
国家・政府とは、公務員の会社だから、その組織に対して都合が悪ければ、殺しはしても、勲章を与える事など無いと言って良いだろう。
イエスや、釈迦や、老子の教え通りに生きる事は、自由に生きて、税金を納めない事であるから、国家・政府が、体制を維持出来なくなる。
国家としては、国民が覚醒したら困るのである。
現在の処、私は18年間、住民税や国民年金など一切払っていない。
私は、全ての預金と、私財は、世直しの為に使ってしまい、現在は、何も無い状態である。払うにも、払う余裕が無いのである。
私の様な人間が、国家から勲章を貰う事は、絶対に無いだろう。
逆に、国家に因って、人権と最低生活は保障される様に成っているので、税金を払わないからと言って、刑務所に入れられる事は無いし、言論の自由が謳われているので、此の様に自由にものが書けるのであるから、有り難いと感謝しなければならないだろう。
話が、段々、本筋から外れてしまって、勲章を出す側も、受け取る側も見えて来ない。勲功の「功」は「何かの働きを成した」との意味なので、何の業績が有ったのかを考えて見ると、内容の「はらい」の事が出て来る。
「はらい」に対して、業績が有ったと言う事に成って来るのだろうか。
それならば、私は、自分の行動に対して、納得出来る物は持っている。
「はらい」とは「禊ぎ祓い・みそぎはらい」の「はらい」で、日本の神社等で昔から行われている儀式において、「罪汚れを 祓いたまえ 清めたまえ」と祝詞で唱える様に、日本人ならお馴染みの言葉である。
「禊ぎ払い」とは、川に行って、山から流れて来る清い水で、身も心も洗い流して「リフレッシュ」し、クリーンな身心に成る事を、意味している。
日本の神様の始まりは、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」が、小戸のあわぎ原で禊ぎ祓いをした事にあり、仏教は「お釈迦さん」が池で水浴びをして、木に寄り掛かって休んで悟った事が始まりで、キリスト教は「イエス・キリスト」が、ヨハネにヨルダン川の水で洗礼を受け、聖霊に満たされた事で始まっている。
イスラム教も、礼拝の前に、手と顔を洗う事が、仕来りと成っている様に、世界の四大宗教は皆、禊ぎ払いが原点であり、根本の教義でもある。
私も、安房川で同じ体験をしたので、四大宗教の本質の処は、良く理解出来る。
では、祓わなければならない「つみけがれ」とは何なのか。箇条書きにしてみよう。
○ 食欲・性欲・権力欲・所有欲等の欲望。
○ 家族や 社会等のしがらみ。
○ 宗教や 思想等の概念。
○ 学校等で詰め込まれた知識(歴史、方程式、科学、文化等)
○ 好き嫌いや 損得の感情。
○ 生に対しての執着。
○ 言葉に拠って考える事。
○ 神や 佛に 頼る事。
○ 煙草や 麻薬を 使用する事。
○ 一切の 宗教的儀式や 修行の行為。
以上の様な事柄が挙げられるが、此れだと、何も出来ない様だが、する事が残っているのだ。
其れは、第一に、命を懸けて自分を預けられる場所か、人間(師)を見付ける事。第二に、自分の身を守る為に、水と食べ物に注意する事が有る。
仏教でも「精進」と言う様に、自分の身と心を、しっかりと守護していなければ、精神が不安定に成り、精神病院に連れて行かれる事に成る。
「導師」も、自分を守護してくれる者であるし、「場」も自分を安定させてくれるものである。
導師は、自分の場を持っているし、聖地は聖なる霊が存在し、指導をしてくれるし、其処に存在する物自体も人間の意識に安定を与えてくれる。
そして、大事なのは、精神は、自分の體に宿るものであるので、食事を正し、自分の血液を清くしなければ、細胞も脳も変らないので、覚醒する事は出来ない。
其の理・ことがハッキリしているので、禅宗の寺では、台所の係りは「典座(てんぞ)」と言って、一番優秀な者が採用されている。
其れに、日本の古い伝統を受け継いでいる天皇家も、台所を「御饌殿・みけどの」と呼んで、一番大事にしている。
「はらい」の事を書いて行くと、切りが無いので、ここらで止めにするが、私が18年前に体験した「はらい」の事を再認識し、他人に説明出来る様に成る為の、ものであったのだろう。
今朝のメッセージが、「はらい」の件に付いて、私に功績が有ったので、紫雲に乗って仏が遣って来て、勲賞を表彰するとの事であろうか。
今朝の処は、無理にでも、結論を出して置かなければ、後が難儀なので、そう言う事にして措こうと想う。
間違いであれば、又、何か言って来るだろう。
平成14年10月30日
礒邉自適
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