言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2002/11/26
削り役
14・11・26
今朝の霊夢は、写真を撮る場面が二場面出て来た。
其れは、大勢の人達を迎え入れる為の準備の様で、建物と外の景色を、カメラアングルを決める様に、余計な物を外して行く作業を、男性に手伝って貰っていた。
朝起きて、其れが、何の意味か分からずに、「只の雑夢かな?」と思いながら、顔を洗って居ると「けずり役」との言葉が浮かんで来た。
「けずり役」と、今朝の霊夢に関係が有るのかな?と想うと、スッと感じるモノが生まれて来た。
其れは、余計なモノを取り除いて行く事が、私の役目だと言う事である。
今朝の夢の中で、私はカメラを覗く様な感じで、視野に余計な物が入らない様に、指令を出していた。
漢字の「撮る」とは、「一部分をつまみ取る」の意味から来ているように、必要な部分だけを選択する意味である。
私の今朝の夢は、未来を創造するには、先ず、余計な物を削り取れとの事だろうか。
私は18年前に、余計なものどころか、女房、子供まで全てを削り取って、ただ、神の仕事を是まで手伝って来た。
其れは、「最高・ハイレベル」のボランティア活動と言えるだろう。
漢字の「愛」の文字は、自分の個人的な目的・行動を一切止めて、困っている人の事を、全面的に手伝う事を意味している。
私は、困って居る人を手伝ったのではなく、困っている神霊達の手助けを、18年間遣って来た事になる。
だから私の行動は、神様の立場への協力を、して来たと言えるだろう。
神は、人類への愛の行動の為に、私の身心を使用した事になり、私から言えば、神に仕えたと言う事になるだろう。
今朝の夢は、愈々、神が現象世界を演出するので、其の受け入れ態勢を整えろとの事だろうか。新しい現象を起すには、不必要なモノを、取り除かなければ成らないとの理・ことだろう。
神の視界を遮るもの、其れは何だろうか。
其れは、自然界の働きに災いしているモノであり、人類が、勝手に創造した不純物であろう。
人間は、創造する事が善であるとして、実に様々な物質や、概念を創り出して来た。ゴミや公害ばかりでなく、宗教や小説まで、様々な、魂しいに害に成るものを、一生懸命創り出して来たのである。
其の、人間が創り出して来たもの全部が、不必要な物と言う訳ではないが、不必要な物が邪魔となって、全体の動きが止ってしまうと言う事も考えられる。
人間だって、小さな刺が指先に刺さったり、小さな魚の骨が喉に刺さったりすると、何も出来なくなってしまう。
神にとっても、大事な場面に、刺みたいな余計なものが刺さっていれば、作業を中断するのかも知れない。
新しい家を新築する為には、土地を平らにし、余計な物は、一切取り除いてサラ地にする。
神の方から考えると、真っ新な気持ちの人間と、不必要な物が無い舞台が、必要だとの事ではないだろうか。その為に、私に余計な物や者を、取り除く「削り役」をしろとの事であろう。
私は、幸いと言うか、都合良くと言うか、一切のモノを捨て去って、修行を積んで来た。一旦、全てを捨て去ってから、新たに、必要な物と者を、身の回りに置いて来た、私の其の選択感・体験は、是から人々の参考になるだろう。
今朝の夢は「必要な物と 者は 一応揃ったので 不必要なモノを 入れるな」とのメッセージだろうか。
イザ何かが始まれば、再び、不必要なモノが押し駆けて来るだろう。
それをどう排除するか、其れが、私の目利きに掛かっているとの事であろうか。さすが、神様である。私に、事が始まる前に注意を与えて、心の準備をさせているのだ。
私が、18年前に神懸かった時に、「全てを カメラに 納めなさい」とのメッセージが有ったので、18年間、気になる物や者を、記録し続けて来た。其のアルバムは、既に50冊を超えている。
18年間、カメラのファインダーを覗く行為が、現象を捉まえる訓練に成って来た様である。
人間は、毎日の行動の中で、余程の事がない限り、場面を意識にフォーカスする事は無い。交通事故でも、他人が起したものであり、自分が関係無ければ、事故を目撃していても、数日すれば忘れてしまう。
いつまでも残っている場面は、自分の人生が変った時の、切っ掛けぐらいのものではないだろうか。
人間の記憶は、日記か、写真でも残っていなければ、昔の行きずりの人などは、記憶には残らない。
だから、私には、出会った役目の人達や、物事を忘れさせない為に、写真を撮って残せと告げて来たのだろう。
50冊のアルバムの中には、何千人の人達と、物事が有った場所、日付、内容が一目で分かる様に成っている。
私は昨晩から、450枚の年賀状を書き始めた。
住所録や名刺を整理していると、様々な人達と、其の人達の職業の事が思い出されて来る。其れ等の、人々や職業にも、不必要なものが含まれているのか。
その事にも、余計なものを視野に取り込むなとの、メッセージが有るのかも知れない。
新しい企画の中に、余計な線を、引いてはならないとの事だろうか。
今朝の霊夢は、私が写真を撮り続けた事による視線が、影響している様である。
古代社会では、男は狩をする為に、弓矢を持ち歩き、獲物を探す目線と、弓に矢をつがえて獲物の心臓辺りに、視線を集中する力を鍛えていた。
其れと同じ行為を、私はカメラを覗く事で行って来たのだ。
其の様に考えると、50冊のアルバムは、私の狩の獲物の貯蔵庫と言う事になる。
今朝の夢の中では、その獲物を狙う目線が、新しい情景の中の、不必要な物を分別していた。
建物の中に有る、必要の無い物を片付ける事と、自然の景色の中に、水田や林や山の美しさが有って、其れに不似合いの電線や看板等を、アングルの中から外していたのである。
是ぐらいで「削り役」と、今朝の夢の意味する処は、繋がったのだろうか。
日本の神社には、鳥居に注連縄が取り付けられているが、其れは、多数のモノを練り編む事を表している。
祭りを「まつり」と言うのも、「まつりあわせる」事から来ているのである。
「多くのモノを まつり合せる」と言っても、藁と針金を編みこむ事は出来ない。何を、祭り合わせていけば良いのか。
是からが、選択の本番である様だ。
人を選り分けないのが、私の長所であると想ってはいたが、是からは、それが欠点と成るのかも知れない。
誰か、男性の助手が、出て来なければならない時を迎えた様である。
平成14年11月26日
礒邉自適
2002/11/25
引き裂かれた気持ち
14・11・25
私は、静かにしていると、深秋の空気が身に染みて来る。
川向こうには、実を小鳥に与え切ったハゼの木が、役目を終えた葉を散らしながら、眠りを準備している様だ。
そんな景色を観ていたら、「引き裂かれた気持ち」との言葉が頭に浮かんで来た。「ひきさかれたきもち」とは、私が「慈悲」の漢字の意味を調べている時に、辞典で知った言葉である。
其れが何故、いま脳裏をかすめたのだろうか。其の理由が、良く判らない。
昨日、実家に野菜を貰いに行った時、母親が、愛知県の娘の所から持ち帰った写真を、見た所為なのだろうか。
愛知県に嫁いだ、私の妹の長女の結婚式があり、母親は老身を押して参加し、数日前に帰って来ていた。
18年振りに、写真で見る妹二名の姿と、両方の夫や子供達、説明を受けなければ、どれが誰かも、私には判らない。
私は、其の事で、月日が経っている事を改めて感じた。
18年前、霊界との接触が無ければ、私も、結婚式に参加して、写真に納まっていただろうし、私の娘達も、結婚していたかも知れない。
私には、温かい家庭が、今は無い。
昨日、写真を見て観じた感情が、今朝の気持ちを引き出しているのだろうか。
晩秋の気候と、空気の冷たさが、身に染みる所為も有るのだろうか。
其れに、言葉が自然と湧いて来るのは、人間の大脳の仕組みのせいなのだろう。
改めて、漢語林で「悲」の漢字を調べて見ると、「心+非」の組み合わせで「非」は『「左右に分かれる意味。心がひきちぎられ、いたみかなしむ。」の意味を表す。』と載っている。
人間のかなしみ、さみしさは、「嘗て 存在したものが 現在は無い」と言う、空白の心の状態なのだろうか。
今朝、川向うの景色の中に有るハゼの木の姿を観て、川面に落ちて流れて行く枯葉を想わなければ、言葉は浮かんで来なかったのかも知れない。
日本の和歌の世界は、この様な情況から発生したのではないだろうか。
仏教では、「慈悲の心」とか「無常」とかの言葉がある。
其れは、「有る事」と「無い事」の状況が入り混ざって、言葉に成っている。
「嘗て 在ったものが 消えて行く」との空白になった部分を、何かで埋め合わせようとする心が、佛の世界を、創り上げて来たのではないのだろうか。
子供や、孫に囲まれ、仕事に追われていれば、こんな気持ちを感じる事は無いだろう。
佛教が「出家」を基本とし、山里に寺院を造ったのは、信者が多く集まる為のものではなく、静かに、引き裂かれた気持ちを確かめ、その空白の中に生じて来る何ものかを、感じ取る為なのだろう。
仏教とは、「この宇宙は 存在したものが“無”に帰って行き、また“無”から“有”へと現れて来る。」其の永遠性の場面を、自分の事として、受け入れることなのかも知れない。
失われたモノを認識する事で、存在の意味が確認されるのであろう。
釈迦が、明日は 散って行くであろう花を、「一輪手にして 沈黙し 只座っていた」と、仏典には載っている。
今朝は、其の時の釈迦の気持ちが、理解出来る様な気がする。
イエスは、家庭も子供も持った事がない。
だから愛は説けたが、慈悲の感情を体験していないのではないだろうか。
イエスの悲しみと、釈迦の悲しみには、少しの違いが有るのかも知れない。
イエスキリストに、悲しみが、無かった訳ではない。
愛を説くイエスの悲しみは、天の父の愛を理解しようとしない人々に、「どうしてなのか」と言う、無理解に対するものであったのだろう。
イエスキリストは、弟子達に「天の父の愛を 説いて回りなさい」と云っているが、釈迦の言葉の中には、其れは無い様に想われる。
釈迦は、「この宇宙の存在そのものが、計り知れなく大事なものであり、其の存在は人間自身も含めて、実に奇跡的なものである。だからこそ、全てのものはいとおしく、感謝すべきものである。」と、そう謂いたかったのではないだろうか。
引き裂かれたものを、しっかりと確認出来た時、存在の全体像を把握・つかむ事が出来る。
其処に、調和の世界が在る事を初めて悟るのである。
その理を、日本では古くから伝統として傳えて来ている。
「大和」とは、それを言い当てているのだろう。
紅葉して、散って行く木の葉は、其の象徴であり、白い雪に被われた世界が、やがて春と成り新緑に被われ、生き物が満ち溢れ、子孫を残して行く。
其れ等の情景が、日本人の心を養って来たのだ。
釈迦の教えが、仏教として「日の本・大和」に定着したのは、この事が土台となっての事だろう。
現代の世の中は、神社だ寺院だ、テレビだ新聞だ、ディズニーランドと、朝から晩まで、物と情報の洪水である。
人間は、押し寄せる物と情報に、自分の命を擦り減らしているのだ。
こんな世の中に、身を置いて居れば、現象が有り過ぎて、引き裂かれた悲しみ等、感じて居る事は出来ないだろう。
否、その様な世の中だからこそ、自然の大法則より引き裂かれて、不安で悲しいのかも知れない。
そうであれば、私は、人々とは反対の悲しみの世界に、在るのかも知れない。
私は、皆と同じ川の流れを見ているのだが、私の立っている岸は、他の人と反対側の岸なのだろう。
私だけが、彼岸に渡っているのかも知れない。
私の見ている、向岸のハゼの木は、現代社会を象徴している姿なのだろうか。
ハゼの実は、小鳥の餌と成り、種子は方々に運ばれて行って、新しい芽を出し、世代を継いで行く。
其れに比べて、現代社会の人間の営みは、ユダヤ資本主義に席巻されて、稔った実も、誰も、収穫の喜びを感じるものでは無くなっている。
成功した者達の子供も、自然の中で育つ場を持てないのだ。
やがては、自然からも、物質からも引き裂かれて、悲しみの淵に追い遣られるのであろう。
今こそ、人類が“何から”引き裂かれているのか、それを考えるべき時期なのではないだろうか。
イエスや、釈迦、老子が謂い残した、永遠の宇宙の「のり・理・法」に振り返り、手を差し伸べて、其れに触れて見る時節を、迎えているのだと感じるのは、私だけではないだろう。
平成14年11月25日
礒邉自適
2002/11/21
12
14・11・21
今朝の霊夢は、いきなり鮮やかな色から始まった。
桃色がかった紫の色が、段々と濃く輝いて来て、大きく拡がって私の意識から外れていった。
そして、白い新車の車か、電車の頭部が、家の前に横付けになった。
其の車内の座席を見ると、未だ誰も乗っていなくて、人が乗車するのは是かららしい。
次に、横に長い紙に「12」と、大きく数字が書かれて出て来た。
私が「12」だけでは、意味が解らないと思うと、小さな文字が紙面に現れて来て、「12の事を しっかりと把握しろ」と知らされて来た。
朝起きて、辞典言泉で調べて見ると、色はマゼッタらしき色で、「マゼッタ」は「印刷の紫の原色」との事である。
マゼッタ色は、「色相6RP」「明度4」「彩度14」と、表示されている。
私は17年前、奈良県の「天河神社」に参拝した時に、同色の蛇・コブラが霊感で見えて、私が行なった儀式に因って、ようやく天河神社の磐座・いわくらに納まって、「ありがとう。貴方のお陰でようやく入れた。」と、女性の声で、お礼を云われた事がある。
後で判った事だが、天河神社の祭神とされている弁財天は、吉野の脳天寺の修行場である谷川に降りて来た女神で、其処は、男の修行場で女神を祀る事が出来ないので、脳天寺が困ってしまい、天河神社にお願いして、移って貰ったとの事である。
天河神社は、女神自身が気に入って降りた所ではないので、ちゃんと納まっていなかったのであろう。
私が行くまで、何百年も待っていた事になる。
私も、屋久島の安房川で禊をして、水神に導かれる事になったので、「弁(辯)財天」とは霊的に繋がりが有るのだろう。
「弁財天」は、二通り有って、「弁財天」は「Sarasvati・サラスヴァティ」で、サラスヴァティは河を神格化した女神で、「弁才」は「河川の音」を表し、「琵琶」はこれを象徴するという。
「梵天王の妃といわれ、音楽、弁舌、長寿、福徳、戦勝、除災などを満たす神である。財宝や名誉を与える「大吉祥天女・ラクシュミー」と、よく混同される。」と 載っている。 (仏教いわく辞典より)
私には、天河神社の弁財天は、其のどちらとも言えない。
河川の霊が「サラスヴァティ」で、財宝の神が「ラクシュミー」との事であるが、今朝の色は、マゼッタの色なので、天河神社の弁財天の蛇姿も同じ色だから、同じ意味を持つと考えられるし、天河は水が豊かなので「サラスヴァティ」とも考えられるが、ピンク系統の色は財産を表すとも云われているので、「ラクシュミー」との関係も有りそうである。
何れにしても、水に関係有る女神である事には間違いないし、両方の働きも全然別という訳でもないので、私は区別しない事にしておこう。
今朝の映像で、ピンク色のマゼッタ系の輝きの後に、リムジンの様な真白な車体が映った事は、財産に繋がると考えて良いだろう。
其の車・乗り物にどんな人間が乗るのかは、私にも未だ分からない。
芸能人が乗るのか、金持ちが乗るのかは分からないが、私にとっては、どちらでも良い事である。
今日は、物部神社の鎮魂祭の日である。
物部は、古代社会で、天皇家の一切の財産を管理していた部族である。
物部初代は、「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」で、「饒速日命・にぎはやひのみこと」の長男であり、奈良の石上神宮は、其の物部代々の霊を祭る神社である。
そして現在の天皇家は、今日まで物部族の儀式を取り入れて、儀式を続けて来ているのである。
天皇家は、此れまで政治的な中心となり、物や人を治めて来た。
神霊のまつり事は、神社に任せて来ている。
天皇家が、代々の霊を真剣にお祭りしていれば、この私に、代々の天皇霊が寄り付く筈がない。
今日は、また、新しく用を言い付けて来たのである。
其れは、12の事を調べ上げて、全ての物事を管理せよとの事らしい。
言泉で調べると、12は「12縁」「12音階」「12月」「12宮」「12光」「12支」「12時」「12神将」「12社」「12段」「12天」「12表法」「12門」「12律」「12束」等、様々な世界に使用されている。
音、光、占、法律、時間、仏、神、寸法、易、季節、あらゆる事柄が、12に分けられているのである。
私に「これらの全てを、把握せよ。」との事だろうか。
これだと「財産など、必要ないから、ほっといてくれ。」と言いたくなる。
しかし、神霊達が、全国の「新嘗祭」に行かないで、私に出て来ると言う事は、他に受け取る人が居ないと言う事だろうか。
円・○を、12に分ける。
音や色を12に分ける。
天の働きを12に分ける。
其れ等の事は、今のままで良いだろう。
私が、改めて12の事を意識しなければならないのは、どんな事であろうか。
今日の処は、気付きが無いので、心に留め措く事だけにしておこう。
平成14年11月21日
礒邉自適
2002/11/19
勝
14・11・19
此処数日、ある新聞を読んでいて、気付いた事は「人生に勝利する」とか「悪に勝つ」とか、「勝」の文字がやたらと出て来るので、漢語林で「勝・ショウ」の字を調べて見た。
「勝」は「力+朕」で「朕」は「舟+物+両手」の組み合わせで出来ている。
右側の「券」は、「両手の力で 物を押し上げる」の意味で、左側の「月」は「お月さんの月」ではなく「船の形」らしい。
「川を 上流に向って 舟を 押し上げて行く」との意味が、「流れに勝つ」との意味の様である。
日本語の「カツ」が、何を意味しているのかと想い、辞典言泉で調べて見ると、「かち」があり、「徒・かち」と 載っている。
「徒」は「徒歩」の事で、「乗り物の乗らずに徒歩で行く事」とあるので、「勝」も「かち」も同じ意味を持ち、「進む事」を表す言葉の様である。
日本語の「かちまけ」も「先に進んだ方が かち(かつ)」という事の様だ。
此の、両方の意味からすると「流されて行く事」は「負・まけ」という事らしい。
流されて、元に所に戻されるという事は「負け」という事になり、絶えず上方へ力を尽して前進する事が、「勝」という事になる。
自然界を見ると、樹木や草も蔓も、一日も休みなく上や横に伸びて行く。
一日でも休んだ物は、太陽の光を受ける事が出来なくなり、成長が遅れて枯れてしまう事になるのだ。
これ等の事から考えると、「勝」とは、相手を殺したりする事ではなく、又相手を押える事でもなく、自分が上昇する為に、努力を積み重ねる事の様である。
此の意味からすると、戦争を引き起こして、相手を殺す事は「勝」ではなく、「壊す」である事が解る。
「勝」とは、相手や周囲を潰す事ではなく、自分が、苦労をしながら突き進んでいく理・ことらしい。
そうする事で、周囲も付き従って来るのだろう。
本当の勝者とは「欲望の 流れに逆らって 正義の道を 創造して行く者。」という事が出来る。
勝とは、皆と一緒になって、欲望の川に身を投じ、環境を破壊しながら、物質を貯め込む事ではないのだ。
魂の崩壊が、叫ばれている現在、誰が勝者と成り得るのだろうか。
なかなか 難しい課題である。
平成14年11月19日
礒邉自適
2002/11/18
静寂と動機
14・11・18
静寂とは、風景の事であって、人間の直接的な精神状態を、表す言葉ではないようだ。
私は、全ての事に解放され、至って、心は静かである。
毎日、暇が有るのではなくて、何かの事を行ってはいるが、其れは、私自身が遣りたい事を行っているのではない。
全体的に、動いて来る物事に対処して居るだけなので、起きて来る事に対して、相手と成っているだけだから、事が終れば、其れだけの事で済み、私の直接的な心の重荷とは、成っていないのである。
他人が、何かを持ち込んで来なければ、私は静かなままであり、こうして文章を書いているのも、メッセージが来るからであり、私が好きで、始めた事でもないので、現在は特別な使命感も無い。
今日、私が気付いた「静寂」との言葉は、其の場の情景を、言い当てたものであって、人間の心には、静寂と言うものは無い様である。
人間は、静寂な場に自分の身を置くと、心が落ち着いて来て、何かの意志が、内側から生じて来るようである。
人間は、何かの行動をしている間は、其の行動内容に振り回されて、自分の意識は其の対象に向かってしまうので、その間は、自分自身の、其の侭の意志ではないようなのだ。
書道だ、茶道だ、武道だと言って、何かの修行に励む事も、今夜のオカズを何にしようかと考えたり、家族の事や、神仏の事を考えたり、想ったりする事も、他人との関係性の中で生れ、伝えられている事柄であり、自分の直接的な未来の事ではなく、過去の誰かの真似をしているに過ぎない。
音楽を聴く事も、映画やテレビを観る事も、全て、自分自身の事ではないのだ。其れ等の、他人の、行為や実績に感動すればする程、自分の意志は遠くに行ってしまう。
芸術だの、何だのと言って、他人の行為に刺激されて生れた感情は、自分のものではなく、他人のカルマ・業を受けて、動揺しているだけに過ぎないのである。
振り返ってみれば、私の18年間の旅も、其れと同じ事で、自分自身の意志ではなく、霊界の住人達の「霊魂の思頼・みたまのふゆ」で動かされて来た事だったのである。
私の旅の動機が、私の意志から発したものではなく、霊界の過去の怨念を引き継いだ、現象だったのである。
私が、屋久島を出てからの17年間は、知らない人達との出会いの、連続の旅であった。
現在の私の意識は、霊界人の思想と、全国で出会った現世の人々の願いと、再び屋久島に帰って来て、18年振りに仲が復活した知人と、屋久島に移住して来ている新島民との付き合いに因って、組み合わされて出来てきている。
其れらの意識の織物の中から、私の意思が、何を選び出して動機とするか、其れは未だ明確ではないが、一筋の方向性が見えて来ている。
私が、旅をした事で、理解されて来た理・ことの一つに、「須佐之男尊」の家族と、大国主命や少彦名神、大物主尊などの想いが、森林の復活と、人類の魂の完成を願って、働いている事がある。
静寂な環境の中で、私の意識に芽生えて来た一つの種子は、神霊の願いと、源を一にするものであろう。
精神が禊がれた人間に、起きて来る事が何なのか、其の事を理解して、実行する事が、是から始まるのかも知れない。
私は、自分のこの身を、神に18年間捧げて来た。
其の為に、家族への愛を、実行出来ないでいる。
有り難い事に、子供達は無事に成人していると聞く。
家族が無事であった事が、私の心が、静かである事の要因でもあろう。
私が18年前、全ての事を止めて、この世界に入った動機は、此の侭では、子供達の未来が無い事が解ったからであり、18年の旅の結果として、未来社会の創造には自信が持て、子供達に対して、責任が取れたとの思いも有る。
その事も、私の精神の充足に繋がっているのだろう。
このくらいの文章で、「静寂と動機」のテーマに合っているのだろうか。
「静寂と動機」のテーマは、もっと深い意味が有るだろう。
道元禅師が、悟る原因となった場面には、シイタケを干している老人の「典座・てんぞ」の言葉が有る。
「今 やらなければ いつやれる」「私が やらなければ 誰がやる」
其の二つの言葉が、道元禅師の一生の支えと、成っていた事は間違いない。
「禅」とは、「静寂の環境の中に 身を置いて 瞑想をする事である」と、一般的には考えられているが、「禅」とは「自分の人生の 動機を探る事が 一番の大事」とされているのだ。
「一大事因縁」と「時節一縁」が、禅のテーマである。
私は、時の節目を捉えて、自分の一大事因縁に生きているのだろうか。
その答えは、本日のテーマである「静寂と動機」が、ヒントなのであろう。
「帰・キ」との漢字は、「肉+手+箒」の組み合わせで出来ている。
意味は「旅から帰った者が 旅の無事を神に感謝する為に 箒を手にし 部屋を掃き清めて 神にお礼の肉を供える」との理・ことである。
私には、未だ、其の段階が見えないままである。
平成14年11月18日
礒邉自適
2002/11/11
中間子理論を超えるもの
14・11・11
今朝の夢には、小柄な日本人で、眼鏡を掛けた、60歳代の男性の上半身の写真が出て来た。
その写真は、書類に貼られている物で、其の書類には、小さな文字で文章が書かれており、数枚が有る事が判った。
文章の題は「中間子理論を超えるもの」で、内容は、中間子理論を踏まえての、新しい理論が書かれているらしい。私には、其の男性が誰なのか、中間子理論がどんな内容なのかは分からない。
朝起きて、辞典言泉で「中間子」を調べて見た。
「〔中間子〕電子と核子との中間の質量をもつ素粒子。湯川秀樹によって存在を予言され、のち宇宙線中に発見された。μ(ミュー)中間子、π(パイ)中間子、k(ケイ)中間子がある。」と載っている。又〔湯川秀樹〕物理学者。東京出身。小川琢冶の三男。京大、東大教授。京大基礎物理学研究所所長。中間子の理論的解明を行い、昭和24年(1949)日本最初のノーベル物理学賞を受賞。著「素粒子論序説」など(1907〜81)」 と 有る。
私の家にある資料では、写真の人物が「湯川博士」であるか、そうでないのかが判らないので、本屋に出掛けて見た。
湯川博士の写真とかは見当たらないので、「雑誌Newton(ニュートン)2002年12月号」を見ると、「宇宙『99%の謎』・ダークマターとダークエネルギー」とのテーマで、30ページに亘って文章が載っているので、其れを買って来て読んで見た。
私は数年前に、宇宙には、陰のエネルギーが存在して「陰の場・シャドーグランド」と名付けられている事を知り、日本語の「お陰様」の言葉が的を射ていた事を知ったが、数年間の科学者の努力で、其れ等の世界が解明され続けている事を改めて知った。
真空の中が「ダークマター・暗黒物質」と、「ダークエネルギー・暗黒エネルギー」で満たされていると言うのである。
「人間の目に見える物質、星などは、宇宙の密度のほんの1%で、99%はダークマターとダークエネルギーで満たされている」と 載っている。
この記事の内容からすると、電子とか、核子とか、中間子とかの物質の捉え方は、宇宙の数%の世界の話になってしまう。
この雑誌の記事の理論からすると、宇宙の星や銀河は、ダークマターとダークエネルギーの満ちた中に、1%存在する僅かな物質に過ぎない。
そして、私達人類や、他の生命も、其のダークマターのエネルギーの中に存在しているので、其のエネルギーが消えると言う事は、私達の肉体も同じに消えてしまう事になる。
と言う事は、私達人類は、全身の殆どが、ダークマターと、ダークエネルギーに支えられている事になる。それからすると、日本人の「お陰様」の挨拶は、理に適っていた事になる。
日本人の先祖は、陰の存在の力を知っていたのだ。其れは、どうしてなのだろうか。
私の体験では、テーブルの上に、いきなりお金が出て来たり、船で海に行ったら、いきなり空中に鳥が何百羽も現れたり、魚が生じたりした。
其の現象は、私ばかりでは無く、私と縁が出来た人にも起きたのである。
其れ等の現象から、考えられるのは、この宇宙は二重構造に成っており、普通の日常の生活の裏側に、もう一つの世界が重なっていて、そちらの世界の方が力を持っており、私達が日常生活している此の世界は、鏡に映っている様な、仮の世界なのだと想われる。
鏡に向って、化粧をしている住人が、鏡の向こう側にも住んでいて、私達人間は、其の住人が化粧をした姿が、鏡に映っている存在なのだ。
鏡に向って、化粧をしている存在が、鏡に映る姿を失敗だと思って、鏡の前から立ち去れば、必然的に鏡に映っていた姿も消えてしまう。
例えが、不味い様だが、私達の存在は、ダークマターとダークエネルギーが映し出している仮の姿であり、宇宙・神が創り出している芸術作品なのであろう。
神が、自分のエネルギーを使用して、自分の姿を創り出しているのである。
私達の姿は、宇宙のエネルギーからすれば、1%でしかないのだ。物質として現れている其の1%が、神が自分を知る為の道具なのである。
神は、全質量の1%を、自分の化粧道具として使用していると言えるだろう。其の化粧品の中に、電子も、核子も、陽子も、中間子も入っているのだ。
神は、自分の意志で、鏡に映る世界にも、物を創造したり、消し去ったりしているので、私の身の回りにも、不思議な現象が起きたのだ。
其れ等の、現象の元となっているのが、ダークマターではないだろうか。
暗黒物質は、あらゆる所に充満しているので、神の意志が働けば、暗黒物質から、現象世界へと転じる事が出来るのだろう。
日本人の先祖は、私達の住む、此の現象世界全てが、そうして出来ている理を知っていたのだろう。
其の理を、西洋の科学者は、必死になって解明しようとしているのだ。
今朝の夢は、誰かが、西洋の価値観を使って、其の理・こと証明しようとしている事を、伝えて来たのかも知れない。
今朝の夢には、続きが有って、私が緑に囲まれた研究所を訪ねて行って、受け付けで事情を話すと、其の施設が、私を受け入れてくれた。
場所の名は「流山倫理研究所」と教えられ、木立の中に、幾つもの建物の屋根が見えていた。
受け付けに現れた男性が、文章に出て居た人物かどうかは分からないので、中間子理論と倫理研究所が繋がっているのかは分からないが、科学分野と精神分野が、統合される日が近いのだろうか。
平成14年11月11日
礒邉自適
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