言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2003/2/19
佛 から 神へ
15・2・19
昨日で、1月18日から丁度一ヶ月が過ぎた。
1月18日の日付が、昨年12月15日に出て来て、何が起きるのか気にしていたが、世間的には、別段大した事は起きなかった様である。
一ヶ月を振り返ってみると、確かに変化した事が有る。其れは、全体の無意識の世界が、変化した事が感じられるのである。
私の、昨日までの霊夢と、今朝の霊夢が違っている。
昨日までの一ヶ月間は、「佛」の教えが「エネルギー・祈り・意乗り・波動」を占めている様だったが、今朝の霊夢は一転して、「神」の世界を映して来た様に感じる。
私が、此処で謂う「佛」と「神」の違いは、「佛」とは「解脱・げだつ」の意味で、日本語では「しがらみがほどける(ホトケる)」又は「悪い因縁が無くなる」の意味で、物事から自由に成る事である。
「神」とは、「縁結びの 神様」とか「あの人の技術は 神業だ」と言う様に、私達の住む現象界で、物事がハッキリ示される事を意味している。
「宗教」の単語は、明治時代に英語の「リリジョン・religion(再び神と結ばれる)」の日本語訳として生れたもので、英語圏でも「神」とは、結ばれるモノであって、解けるモノではない様である。
日本は、神武天皇が奈良で、神と結ばれる処から、歴史が始まった事に成っている。
今朝の霊夢は、昨日までの真理を求める事から一転して、私達の住む現象界を映して来た。
1.私が訪れた家は新築の家で、各部屋で食事が出来る様に成っており、和食が出来る畳の部屋、テーブルの有る部屋、カウンターの有る部屋、そして庭ではバーベキューが出来る様に成っている。どんな食事のパターンでも、可能に成っていた。
2.会社の社長と、パーティー会場に向っていて、会社の合併や、身内の結婚の話し等している。
3.大きな宿泊所に居て、サイフやカバン等の事を調べたりしている。
今朝の夢は、色々の場面が映って来たが、内容は、全て是からどの様にするかの事柄と、其の場所の場面だった。
其れ等の事から、考えられるのは、是から始まる未来社会を、どうすれば良いか考えろとの事だろう。
昨日の夢では、数字は「5・6」と出て来たが、其の数字の次元の説明までは無かった。
私の考えでは「5・6・7」の世界は、「3・4」の世界の事を理解した上で、人間の文化・文明を、創造しろとの事ではないだろうか。
5とか、6の世界は、神と人間が、共に創造して行く、理想社会を意味しているのかも知れない。
昨日までに、私の意識が究極に達して、今日から、未来創造に向うのだろうか。
不思議な事に、昨夜のNHKの番組で、現在の言葉の氾濫に付いて取り上げられていた。
其のテレビ番組の内容は、毎年500語ほど、日本に入って来ている外来語を、日本語に正しく変換しないで、皆が、意味のハッキリしない言葉で仕事をして行くと、社会が崩壊するとの事で、国が、国語の見直しを始めたとの事であった。
私の書いた文章と、NHKの番組が、連動しているのである。
神は、テレビ番組と、政府の方針と、私へのメッセージとを、全部を管理して、一挙に事を進めている様である。
神の世界が、ようやく、新しい「ムスビ・リリジョン」を起し始めている様である。
1月12日には、「3・18」の数字が告げられて来ている。
3月18日の事であれば、今日から又一ヶ月後である。3月18日までに、又何が有るのか、私の思考は休む間が無いらしい。
去る2月17日は「祈年祭」の日で、出雲大社や伊勢神宮等で、本格的な儀式が行われているが、東京の椿山荘でも130名が集まって催しが行われた。
知り合いである「西村玲光さん」の主催で、スーリアさんも参加し、私の文章が載っている屋久島発の雑誌「生命の島」を、会場で販売もした。
新たな、屋久島ツアーも企画されている。
私にも、また新しい役目が始まろうとしている。
七次元の神と共に、世界を創造する次元は、直ぐ其処に迫っている。
平成15年2月19日
礒邉自適
投稿者: huujinntakewaki
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2003/2/18
言葉の危険
15・2・18
今朝の霊夢は、長くて、意味も重要な物の様であった。
其れを、上手く文章に出来るかどうか分からないが、今日の分は、今日処理しなければ、夢の流れが止まってしまい、明日の分が来ないと考えられるので、可能な限り文章化して見たいと想う。
今朝の夢の中には、数字が付いていて、1から7まで有った様だが、4の番号の処に文字も映像も無く、4の処の内容が一番大事な様に感じた。
1の数字が出る前に、意識が物を捉えて映り始め、映像は大地の景色である。
其れは、地球の大地の自然の景色であり、人間にはどうする事も出来ない、根本的な世界である事が認識された。
次は、其の自然の中で生活する、人間の意識の存在が認識された。
この次元の意識の目は、人類だけでなく、他の生物も同じ意識のセンサーを備えている事になる。
其の世界が、2の数字の次元であろうと想われる。
そして、3番目と、4番目の境界が、一番理解が難しい様である。
3の数字の次元は、自然の中で生活する生物のルールや、コミュニケーションの世界ではないかと考えられる。
小鳥が、鳴いて縄張りを主張したり、アフリカのゴリラは胸を叩いて、自分の存在を主張したりする。
彼等の世界は、その行動で、ルールが守られているのだ。
しかし、それは、言葉であるとは言えない。
事と、場は、確かに実行されて、営みは確立されているが、それは遺伝子に記憶されているプログラムに依って、行動が発生しているのであって、人間の様に、言葉に依って、意志が伝わっているものではない事は、確かである。
だから、言葉を使用する人間とは違って、小鳥やゴリラは、行動パターンで、仲間との約束事を、継続させて行くのである。
人間世界も、言葉や文字文化がなければ、意識の分散と、誤解が無く、現在の様な混乱は起きなくて、仲間同士が殺し合うと言う、戦争等は存在しなかったであろう。
其の点から言えば、人類は、小鳥やゴリラに比べれば、大事な能力を失ってしまったと言えるだろう。
今朝は、4の数字の処が空白だったので、其処の世界が、テーマの本題だと想われる。
人間の特長として、ヨチヨチ歩き始める生後12ヶ月位いから、言葉を覚え始める。
動物の様に、餌の捕り方や、敵から身を守る事等は、人間には必要がなく、言葉でのコミュニケーションを図れる様に成る事が、一番大事であるのだ。
今朝のテーマは、子供の時から、覚えて行く言葉の内容と、其れで培われて行く文化の事を、明確にしろとの事のようだ。
子供にとって、一番大事な言葉は、母親に、お腹が空いたとの事を、伝える意志伝達用語である。だから、母親は、飯を「まんま」と呼ぶ様に訓練する。
子供には、「ま」が一番発生し易い音らしい。
日本では、母親を呼ぶのに「まんま」と云えれば、母親から食料を貰える事を知るので、「まんま」は直ぐに覚える。
英語でも、母親を「ママ」と呼ぶので、人類の発生から考えれば、当然の事なのだろう。
「まんま」から始まって、次々に、言葉の数を増やして行き、4〜5歳頃には、人間社会での日常用語は、大体使用出来る様に成る。
小学校に入学すると、文字や漢字、数字を覚えて行く。
絵も画ける様になり、楽器も鳴らせる様になる。これらの次元は、人間の生活にとって必要な範囲で、どんな国に住んでいる人々にとっても、同じであろう。
この段階では、未だ、政治・経済・宗教・哲学などの、知識は必要が無いので、意見の衝突や闘争が生じないから、戦う事も無く、平和な世界と言えるだろう。だから子供達にとって、この時期は、遊びの延長線であると言っても良いだろう。
4の数字の場・次元は、是より先の、成人になってからの言葉に因って、出来上がって行く文化や文明の方向性や、内容に関する事に付いてだと思われる。
現代社会の人間の不幸は、言葉の使用のずれや、文化の違いから起きていると考えられる。
戦争の大きな原因は、民族や、国家の価値観の違いから発生している。
人間の価値観は、言葉に因って組み上がったものである。
地球人類60億人が、同じ言葉を使い、同じ価値観の本で 同じ生活様式をしていれば、戦争になる事は無いだろう。
余りにも言語が分かれ、価値観がずれてしまった為に、戦争が絶えなくなったのである。
同じ意味を、表現する単語が、地球上に、何十種類存在するだろうか。
余りにも、言葉が増え過ぎて、人間は、言葉の意味を理解出来ない内に、一生を終えて行くのである。だから、人類は、言葉の不消化を起していると言っても、良いのではないだろうか。
言葉を正しくしようと想えば、言葉の意味を、正しく理解しなければならない。そうであれば、言葉の数や量を、少なくしなければならない。
処が、現在では、其れと反対の方向に流れており、意味の不確かな外来語がどんどん入って来て、日本語でさえ、満足に理解していない者が、中身の伴わない外来語を使用するので、益々、言葉の世界が乱れるばかりである。
其処で、問題点を挙げると、言葉が乱れると、聖霊界や、先祖霊等とのコミュニケーションが取れなくなる事がある。
私達が、現在生きている社会の文化・文明は、昔の人達が積み上げて来たものである。そして、これからの未来は、その上に、私達の生きた時間が、重なっていく事に成る。
と言う事は、私達の生活次第で、未来が変わると言う事だから、言葉が乱れると、過去と未来が、不連続に成る事になる。
だから、未来社会を安定させ、人類の幸福を願うならば、言葉を正しくする必要がある事になる。
今朝のメッセージは、正しい言葉を選び、未来に向かって、正確に伝えろとの事ではないだろうか。
此処、数日のメッセージの内容を思うと、正しい価値観や、文字や、言葉を如何に伝えるかを、示して来ている様に想われる。
現在の世の中は、主義・主張や、哲学が様々に有り、宗教も数知れず存在していて、どれを学べば良いのか判断が難しい。
其れ等の中から、人間にとって、重要なものだけを選び出し、正しい価値観を残す事が、我われに与えられた使命ではないだろうか。
子供達に、自信を持って伝えられる、文化の中身の充実を、図らなければならないのである。
4の数字の処は、是からするべき作業なので、空白だったのかも知れない。
正しい言葉が伝えられてこそ、5次元、6次元の世界が、確立されて来るのだろう。
宇宙の働きと、人間の間には、未だ、計り知れない次元が存在するのだ。
其の世界を知ろうとすれば、正しい言葉の意味を、知る事が大事である。
人間の脳のシステムが、本来の働きに戻らなければ、宇宙の正しい情報源に、チャンネルを合わす事が出来ないので、現在社会の多くの人々には、宇宙の本来の働きを知る事は不可能である。
例え、脳が、其の世界を垣間見る事が出来たにしても、其れを言葉に置き換えて、理解出来ないのである。
皆が、簡単に、神の世界を観られないのは、神が不用意に、人間に高次元の神秘を見せて、誤解されて人間界に伝えられてしまう事を、心配しての事であろう。其れは、誤解されると、人間に新たな迷いを、齎してしまうからである。
人間の言葉が正され、脳が自然の状態に立ち返れば、脳が見るものは素晴らしい神の世界、美しく輝く大自然の姿なのである。
其の世界は、言葉が必要ない、無言の世界であり、文字も無い、調和の世界である。
其の世界は、子供達が、この世に誕生して来る前の世界である。
だから、私達が、長い人生の旅を終えて、行き着く終着駅は、この世に誕生する以前の世界なのである。
私達は、神の世界の裏表を旅する、旅人なのである。
その旅の、途中の遊び場が、言葉を使用する人間社会なのだ。
だからこそ、この社会で使用される言葉が、一番大事と考えられるのである。
私達が、どんなに美しい文字が書けても、その文字の意味が、正しく使用されていなければ、害には成っても、益には成らないだろう。
此処まで、ある・あると、決め付けて書いてしまったが、其れは、私の18年間の体験から出る事なので、了解して欲しいと思う。
今朝の夢のテーマは、密教のマントラの世界に通じるものである。
空海が「マントラ」を「真言」として捉えたのも、言葉と、神の繋がり・コミュニケーションの世界の秘密を、知ったからであろう。
弘法大師空海の体験した世界は、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」と、言葉と文字が、一体化している世界であったのだろう。
ようやく、空海が石に刻んだ文字の「祷り・意乗り・帰命」が、現実のモノとして、現れ出ようとしているのではないだろうか。
3次元と、5次元の間に、「金剛・こんごう」の光り輝く世界が、存在するようだ。其の金剛の光を、どの様に現象化させるか、其れが、私達に与えられた「宿命・さだめ」の様である。
平成15年2月18日
礒邉自適
2003/2/14
記
15・2・14
私の旅日記を捲ると、様々な事が記してある。
何しろ、18年間自由に旅をして来たので、多くの出会いが有り、日記を書いた場所も、全国バラバラである。其の中で、自分でも興味深い事が有るので、文章に起して見ようと思う。
1999(平成11)年5月21日の夢に、「ルーベン-デス」と出て来て、次に「判断基準」の意味が伝えられ、縦書にて「記― 性― 食― 霊―」と、次々に文字が書かれて現れた。
そして、一番上の「記」の文字だけが光っていたのである。しかし、当日は未だ、何の事だか分からなかった。
次の日22日に、出雲から、東京に向かって出発した。
23日に、埼玉県上福岡市で神明塾を開いている「佐々木将人氏」の祭りが有り、其れに呼ばれていたからである。
不思議な事に、二ヶ月前の1999年3月18日金曜日の夢に「23日 1.4」と現れて、何だろうかと考えていたら、其の日の午後2時頃、郵便が届いたので開けて見ると、佐々木将人氏からの手紙で、『5月23日午後1時より4時まで祭りを行う。』との内容であった。
3月18日は、私が無庵師匠に捜し出されて丁度16年目の日である。
其の16年目の記念すべき日に、夢に出た日付と、時間が附合する手紙が届いたのである。
早速、安部忠宏氏(当時、私がお世話に成っていた 出雲の会社社長)に其の事を話し、二名で参加する旨を連絡した。
そんな事が有って、5月22日朝9時20分発の飛行機で、出雲空港から東京へ向けて出発する事と成ったのである。
其の、5月23日の祭りも無事に済んで、出会いの中から、東京に安部氏が事務所を持つ事に成り、私は事務所探しの為に東京に留まる事になり、其れから暫らくホテル住いと成ったのである。
26日に、時間が空いたので、渋谷の本屋に寄って「ルーベン-デス」を調べてみようと思い、辞典のコーナーに行って見た。
行って見て、分かった事は「ルーベン-デス」のスペルが分からないと、調べ様が無いとの事である。「ルーベン-デス」の日本語の意味も、分からないので調べ様が無い。
私はガッカリして、あきらめ掛けたのだが「ルーベン」の言葉の響きがドイツ語の様な気がするので、ドイツ語辞典の棚の前に立った。
しかし「独和辞典」なのか、「和独辞典」なのかも分からない。
私は、何気なく、厚い独和辞典を手に取って、栞・しおりの挟まっているページを開けて見た。すると、独語のスペルの右側に、カタカナが書いてある。
其のカタカナの中に、何と「ルーヴェン」と有るではないか。
そして、後の方に「船首を 風上に向ける」と書いて有り、スペルの方を見ると「lu-ven」と載っている。「ルーヴェン・(ルーフェン)」の所に、偶然に栞が挟まっていたので驚きであった。
私は喜んで、昂奮気味に、今度はカタカナで「デス」を追っ掛けて頁を捲って行った。
すると「デス・タメント」が載っており、【@遺言状 Aキリスト教・神と人との契約】とある。判った事は「デス」とは「テスト」や「テスタメント」の「テス」で、「精確に。精密に。」「聖なる契約」の意味である事が分かったのである。
遺言状や、神と人との契約は、人間にとって一番大事なもので、決して間違ってはならないものである。
テストは間違っても、点数が悪くなるだけだが、それでも正確に書くという約束事は、ハッキリ意味付けされている。
「ルーヴェン」と「デス」を続けて意味を採ると、「正確に 船首を 風上に向ける」となり、私の是からの行動は、「風に向って 正確に前進せよ」とのメッセージとして受け取れた。
この事が判明したので、私は、馴れない東京での、一人暮らしの覚悟が出来たのである。
話を元に戻すと、5月21日には「性(男・女の働き)」「食(食物の良し悪し)」「霊(守護霊の霊格)」等の判断基準の前に「記」の文字が有り、其の文字が光っていた事が有る。
此れらの事からも、「ルーヴェン-デス」が、何の事か解って来た。
「デス」が正確に書く、つまり記す事に関係が有る事が分かったので、「記す事を正確にし 其れを判断基準にして、風上に向って進む」とのメッセージが、明確に成って来たのである。
西洋の旧約聖書が、預言書として3000年来伝えられている様に、人間が風に流される事なく前進する為には、何らかの記された物が、必要であるとの事だろう。
「記す」と言う事は、古代シュメール文化や、エジプト文化や、マヤ文化でも行われている。記された物が、如何に、人間の判断に影響を与えるかは、昔から重要視されていたのであろう。
それにしても、中学校しか出ていない私に、ドイツ語で云って来るのも不思議な事であり、東京の本屋の辞典の、其処のページに栞を挟んである事も、常識では考えられない。
私が、出雲に住んでいる事を知っており、東京の本屋の人間まで、動かしている者の正体は、一体何者であろうか。
私にも、神の世界がどう言う「絡繰・からくり」に成っているのか分からないが、全体的に、目には見えない何者かが、手を尽している事は、ハッキリ感じられるし、其の働きを人間側が知って、証しとして記す事が、大事である事も理解できて来た。
私が文章を書き始めたのも、此の「記」と「ルーヴェン-デス」のメッセージが大きな切っ掛けと成り、1999年の秋から、日記だけではなく、文章にも残し始めたのである。
それから、三年余りに成るが、私が記す事で、神界も段取り良く、事が進められる様である。
私の行動を支えながら、メッセージを送って来る者、それも、私が持っている辞書の中身まで知っていて、私の知り得る情報の限界をも、把握していての事らしい。
昔から、神は、偉大な存在だと云われているが、私も、其の事に対して疑いは無くなっている。
私が、不思議に思うのは、其れだけ力の有る神が、何故・なにゆえこんな出来の悪い人間を、大量に増やして来たのかと言う事である。
他の生物や、地球環境の事を考えると、もう少し、何等かの方法が有るのではと想うのだが、其れも人間の余計な考えなのであろう。
神は、偉大な存在であるのだから、全て知っていての、現象界への現れなのだろうから、私達人間は、風上に向って、神の御業の完成を手助けし、勝って行かなければならないのだろう。
13日には、愛媛県と岡山県の中年男性が、「もう 世の中に合わせて 生きて行くのには疲れた」と、限界を訴えて来た。
人間社会全体が、古い価値観では、どうしようもない処まで、来ている様である。
未来に向って、新しい船を出港させなければならない日は、近いのであろう。其れが、「ルーヴェン-デス」のメッセージの指し示す事であると想われる。
平成15年2月14日
礒邉自適
2003/2/14
き
15・2・14
今朝の霊夢には、平仮名の「き」の文字がハッキリと大きく出て来た。
その前後の夢も有るので、説明すると、少し長くなりそうな気がする。
「き」が映る前の夢は、長い物語りに成っていて、大きな理・ことを示して来ている様である。
最初に、リング・輪の付いた、大きめの単語帳が映って来て、教室が現れた。
教室には、20名程の生徒達が居て、教壇の先生の話を聞いている。
先生が云っているのは、「単語帳の 一枚一枚に書いて有るセリフを覚えて これから始まる場面に 合わせて話すように」との事である。
自分勝手に、セリフを云ってはいけないらしいのだ。
私は、教室内の、後方の席に座って居て、自分の単語帳を捲って見ると、一枚目には何か短い文章が書いて有ったが、二枚目からは何も書いてないので、何を話せば良いのかが分からないでいた。
教室内での説明が終り、皆が外に出て作業が始まった。
その作業とは、人から人へ、手に持っている物を、リレー式で受け渡して行く「道筋(過程・経路・プロセス)」を、現している様だったので、文化や文明の継続を意味しているものと思える。
私は、自分の役割を忘れて、他の人達が次から次へと、自分の特長を出した物を、渡しながら走り続けているのを、眺めている内に、その列から外れてしまい、取り残されてしまった。
そして、皆が走り去った後に立って居ると、畑で農作業をしている母子に気付いた。何をしているのかと想い、近付いて行くと、其れは自分の母親と、27年前に26歳で亡くなった、直ぐ下の弟「農夫成」だった。
私が近付いて、其の作業を見てみると、私のやり方とは違っているので、「こんな事をしては 駄目ではないか」と云うと、弟は「自分では この新しい方法が 良いと想う」と云って、作業を止めないのである。
私は、母親に協力を求めようと想い、母親の顔を見ると、母親は、優しい顔をして見ているだけで、何も云わない。
私の云う事も、弟のやり方も両方理解しているらしいので、私は、もう弟に委せた事だから、好きな様にやらせるしか無いと想い、一連の夢は終った。
この夢の連続が、何を伝えて来ているのかを考えて見ると、
1)起きる事の順番に 口にするセリフが 大事。
2)順番に 伝え続ける 技術や文化。
3)個人が 研究して新技術を開発し 実行している事の邪魔をしてはいけない。
4)古い考えを 押し付けてはいけない。
等の事柄に思い当たる。この事を、通して考えると、「人間の生活の舞台には、其の時代 其の時代に合った 言葉が必要とされ、其々の人達が、考え出した発明、発見を、連続して継続しているのだから、たとえ自分の弟であっても、余計な口出しをしてはならない。」との理・ことに、成るだろうか。
この夢が終ったら、「き」の文字が現れて、何の意味か考えていると、右下の方に小さく「拳」の文字が見えて、其の文字を確認したら、次に「ろ」の音霊が意識に浮かんで、今朝のメッセージは終った。
朝起きて、辞典で調べると、「拳」は「拳法」の「ケン」で、【指をまきこみ、こぶしをにぎるの意味。から、にぎる、かたし、つとむ、力の意味】とある。
「ろ」は、「何々をしろ」の「ろ」で、命令語に使用されるが、国語大辞典・言泉には「感動を持って 相手に働きかける時に 使用する。」とある。漢語林
「き」は、平仮名文字でハッキリ現れたので、「漢字では考えるな」との事であろう。漢字で考えると、「気」とか「木」とかに、意識が固定されてしまう。
文字に気を取られないで、「き」の音だけで探ってみると、「気持ちが 悪い」の文字は「気・キ」「持・ジ」「悪・オ」が、漢語読みだから、「きもちがわるい」は日本語である事が分かる。
其れは「きの もちかたが わるい」との意味だから、「き」は人間にとって目には見えないが、大事な物である事が理解出来る。
「気」は、「キ」の他に「ケ」とも読み、「気配・ケハイ」にも使われる。
「ケ」は、人間の体の外に感じる物の怪の事で、人間の目には見えないが、感じるものの事であるし、一方「きもち」の「キ」は人間の内側に存在する、目に見えないものの事である様だ。
目には見えないが、確かに、人間の内側に存在するもの、それが「き」であろう。
「き」は「生」もあり、【「生娘」「生そば」「生一本」「生まじめ」「生糸」「生醤油」など。原産のままで人手を加えていない、また精製していない意味と、純粋でまじりけのないこと】とある。 言泉
後半の夢の「き」「拳」「ろ」を調べてみたら、「感動して(ろ)こぶしをかたくにぎりしめる(拳)+き」という事になる。
「き」を、前に持って来ると、「純粋な まじりけの無い気持ちで、かたくこぶしをにぎりしめ 感動する」になり、「き」を後に持って行くと、「感動して 拳をかたくにぎりしめる 純粋な気持」という事になる。
それでは、前半の夢の映像と、後半の文字の意味を繋いで見ると、どの様に成るであろうか。
一番のテーマは、やはり「き」の言霊・ことだま・言葉が持っている、本来の働き、魂しいであろう。
「き」は人間の内側ばかりでなく、宇宙全体の内側に、満ちているものでもある。神の名も、その宇宙に満ちている「き」に名付けた名前であろう。
宇宙には、永遠に継続する何かが存在する。
その何かを、名付ければ「真理」とか「神」とかになるであろうが、名付けないで認識だけしようとすれば、「き」と言う音霊に行き着くのではないだろうか。
人類の文化を発展させ、継続させている根源の力も「き」であるし、発明・発見を起させている力も、その「き」が源である。
そして、その文化や発明・発見に感動するのも、人間の内に在る「き」のエネルギーであるし、拳を固く握り絞める力は、身心のエネルギーの気である。
「きをくばる」とか、「きをひきしめる」「きがきく」とか、日本語の中には「きを使った」言葉が澤山ある。
その「き」が現代では、「き」が違ったのか、狂ったのかは分からないが、自分の金儲けとかの欲望だけに「き」が使用されて、本人も気を使い過ぎて疲れ果てている。
「疲れ果て」とは、使いつくされている事の表現である。
其れ等の人々は、人類が長いトキを掛けて築いて来た、文化・文明を、ただ自分の為にだけ使っているのだ。
愛とは、「き」を自分の為だけに使うのではなく、他人の為に使う事である。
自分の為に使う「拳」は、怒りと暴力の為であり、その様な人は「ろ」も、また権力の命令系にしか使えない。
今朝の夢は、自分が、私心ではなく公の場で、どの様なセリフが言えるかを、深く考え、準備しろとの事であろう。
宇宙の永遠性の時間の中で、神氣に因って築き上げられて来た、人類の文化が、地球環境と共に、滅び去ろうとしている現代社会において、未来社会をどの様に継続させて行く事が出来るかを、今朝の夢は、示唆して来た現象・モノであろう。
私に、此の様なメッセージを送って来る「き・ケ」は、何なのであろうか。
昔の人達は、その「き」に対して、神と名付けたのではないだろうか。
そうであれば、私は「き」の中に、埋もれていると言う事に成るのであろう。
そんな「き」がする、今日のメッセージであった。
平成15年2月14日
礒邉自適
2003/2/12
業
15・2・12
昨夜、風呂に入浴していたら、「業」の漢字が、頭に浮かんで来た。
其れを、風呂の温かいお湯に、ゆっくり浸かったまま、考えて見た。
「業・ギョウ」は「ゴウ・カルマ」とも読まれ、仏教では、善い意味には使われない。
辞典を見ると「業因、業火、業果、業苦、業病、業腹、業魔」と、仏教用語として、悪い意味ばかりである。
漢語では「業績」が有る。
また「業」が下に付いた熟語は「偉業、営業、職業、稼業」等40位が有る。
日本語では「業」は「わざ」「なりわい」等に使われ、良い意味に使われている。
私に、一番身近なのは、農家に生まれたので、親の職業を「農業」と書いていたから、職業としての「業」であろう。
私が、風呂の中で考えていて、想った事は、「やはり お釈迦さんは凄いなあー」と言う事である。釈迦は、王様の跡継ぎなのに、それを止めて、無一文の生活を始めている。釈迦は、「王業」を止めて、無職に成ってしまったのだ。
人間社会において、最高の位置に在った者が、最低の場に身を置くのである。其のギャップは、凄いものがある。
そして、釈迦の凄さは、6年間続けていた修業の、業も止めてしまった事にある。修業さえも、悟りの邪魔と成ったのだ。
だから、仏教(釈迦の教え)では「業は カルマであり 悟り(覚醒)の邪魔である」と言う事に成っているのである。
つまり、何かの職業などの、遣らなければならない事や、物事に対する執着が有れば、絶対に悟れないと教えているのである。
釈迦仏陀の訓えは、此の世に身を置く内に悟らなければ、あの世に帰ってからでは悟れないとの理である。
此の世に、身が在る間に「悟る・覚醒」する事を「仏に成る」と言う。
つまり「成仏する事」が、仏教の真髄である。
「成仏・ジョウブツ」する為には、一切の業を、止めなければならないのである。
死ぬ瞬間まで、何等かの業を行っていると、其れが業因と成り、永遠に業火に焼かれ、生まれ変って来ても「業苦・業病」に悩ませられると言うのが、釈迦仏陀の訓えである。
其れは、仏教の宗教団体を、抱えている事も同じである。
私も、18年前に仕事を全て止めて、家族とも離別し自由の身に成った。
そして18年間、霊界人達の働きに協力をし続けて来た。
其れが、私の宿業だと言われてしまえば、一言も無いが、それで4300体以上の霊界人が、救われるのであれば、私の本望としなければならないだろう。私の、その宿業も、間も無く終るのではないだろうか。
昨夜は、「業」の事を考えながら床へ入った。
そして、見た夢が変っていた。
其の霊夢とは、私が知り合いに案内されて、何処かの、大きな建物に連れて行かれた。その建物は、個人の住宅で、その地域の、昔からの裕福な家系の家であり、老夫婦が温かく迎えてくれた。
私は、其の老夫婦を紹介されてから、家の造りの説明を受け始めた。
其の建物は、何百年も前に集められた、資材に拠って、大きな家が出来ており、大工も一流の者が雇われ、高い技術に拠って建設されている事も分かった。
一口に言えば、贅を尽した家屋と言う事が出来る有り様である。
家具も、全て日本風で、西洋の品物は一切、何も無かった。
そして、私は一人に成り、次の家に向った。
次に訪れた家は、前の家よりも、もっと贅沢な造りで、高価な屋久杉がふんだんに使われている。家中に置かれている品物も、最高に贅沢な物ばかりで、私は驚いたまま外に出て、また次の家に向った。
その家も、伝統的な造りで、古い立派な家である。
私は、老夫婦にお茶を頂きながら、村の様子を聞いていた。
すると、其処に、村の人が遣って来て、入口の箱の中から、今日の見学料金を取り出して持っていった。
どうやら、其の村は、建物の見学料をとって、何らかの運営をしているらしい。
私は、500円玉ばかりが入れられている箱に、お金が無いからと、百円玉二個を入れて外に出た。
すると、老婦人が呼び止めて、「裏の小屋の 精米所なら敷物を敷いて 泊っても良い」と云ったが、私はそれを断って、歩き始めた。
立派な大きな家が、幾つも有る村なのに、若者は居ないで、年寄りだけが住んでおり、大きな家には泊る事も出来ないらしい。
大きくて、贅沢な家が建てられているからには、以前は、産業が発展しており栄えていたのだろう。
其れが、今では、見学料を貰って、老人だけが住んでいるのである。
この夢は、何を意味しているのだろうか。
昨日のメッセージの「業」から考えると、釈迦仏陀の教えと、反対の世界の出来事と考えられる世界である。
大きくて立派な家は、文化財に指定されて、壊す事も、改造する事も出来ないし、道路を拡張する事も出来ないので、身動きが取れないのだ。
産業が興せないので、若者も皆、他所へ出て行ってしまっている。
老人達は、古い大きな家を守る事に精一杯で、村全体から、創造性が消えてしまっている。どうやら、思考が停止してしまっている、村の様なのである。
今朝の夢は、古い伝統的な町並の中で生れ、其のまま其処で生活していれば、思考が止まってしまい 未来が創造出来ない理・ことを、告げて来ている様である。
アメリカが発展したのは、古い町並のイギリスから脱出した人達が、何もない荒野で、全て0から始めたからではないのだろうか。
其のアメリカも、今では400年の古い町並と成ってしまい、人々の思考は、古い文化に支配されてしまっている。
ブッシュ大統領は、未だに、戦いの相手のインディアンを求め続けている。
400年間続けて来た、敵を作る事で国内を纏める政治のやり方は、もうアメリカの業と成ってしまっているのだ。
幸い、日本とドイツは、戦争に負けた事で、古い柵・しがらみから抜け出て、新しい社会創造に邁進して来た。
其れも、またゴールに達して、次の目標が見付からないでいる。
日本の京都や ヨーロッパの都市は、古い時代の建物や物品を、外国人に見せる事で経済を立てている。
今朝の夢は、古い物や型の中からは、新しい思考が生れない事を、知らせて来たのではないだろうか。
古い物は、大きくて立派な程、人間の思考を執着させてしまうとの理・ことだろう。
イエスキリストは、「古い革袋に 新しい酒を 入れる者が居ない様に 新しい酒は 新しい入れ物に 入れるべきである」と、謂っている。
其れは、新しい価値観は、古い建物からは、生れない理・ことを意味している。
釈迦仏陀が、自分の城を捨て去って、森に入った様に、我々も、古い型を捨て去り、森に入り、原点に立ち返る事を、しなければ成らないのだろう。
人類は、数万年前までは、大自然の中で、強い動物達に囲まれて、恐れながら生きて居たのである。その畏れは、また神への畏敬に、繋がるものでも有ったのだ。
其の、大自然の力への畏敬の念が消えた今、人間の意志は、途方も無い方向へ向っている。釈迦仏陀が、2500年前に謂った業火の中に、人類は突入してしまっているのだ。
今朝のメッセージの意味は、古いカタチ其のモノが「業」であると言う理を、伝えて来たのであろう。
「業」の文字は、「すでに。まえに。」の意味も有り、「やしき。土地。建物。」の類の意味も有る。 (漢語林)
今朝の古い建物の類は、正に業の事を、映し出して来た事に間違いは無い。
我々の救いは、古い建物の学校、神社、教会、寺院、銀行、役所、病院等には、無い事に成って来る。
私達は、釈迦仏陀やイエスキリストが舞台とした、自然の中に身を置く事から、始めなければ成らないとの理・ことではないだろうか。
そうであれば、私は一番大事な処に、身を置いて生きて来た事に成って来る。
イエス・キリストの言葉に、「其の時には 一番前(さき)の者が 一番後に成る」と有る。
私は、NHKの番組の「まんてん」の物語とは、反対の処に位置している。私の生活する屋久島が、前と後の、両方の舞台に成っている事も、また不思議な事と言えよう。
「まんてん」の物語も、作り話であって現実ではないし、私の夢に出て来た家や村も、現実には無い村である。
現実ではない事から、私達は、何を学べば良いかは、各個人の力量に任せるしかない。
現在の世の中は、良い意味では、民主主義の世の中だから、個人が、何を考え何をするかは、自由である。
古い業から逃げ出せるのは、社会全体が経済的に余裕の有る、今の内だけである。
人間は、食うに困ってからでは、何も出来なくなる。
早く気付いた者から順に、業から脱出するしかないだろう。
私は、現に、18年前から脱出に成功している。
私には、古い物事は、既に一切関係が無いのである。
私は、毎日楽しく、新しい世の中が、始まるのを待っているだけである。
私に出来る事は、未来を担う若者達が、古い物事に捕われない様に、見守る事だけである。
平成15年2月12日
礒邉自適
2003/2/8
かな脈
15・2・8
今朝の霊夢は、自然の景色が次々に現れて来て、最後に「かなみゃく」との言葉が告げられて来た。
其れが、何の事か考えて見たら、中国思想の五行に関する事ではないかと思い、広辞苑で調べて見た。
・五行(ごぎょう)
中国古来の哲理にいう。天地の間に循環流行して停息しない木、火、土、金、水の五つの元気、万物組成の元素とする。木から火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を生ずるを相生(そうしょう)という。
また木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋(か)つを相剋(そうこく)という。これらを男女の性に配し、相生のもの相合すれば和合して幸福あり、相剋のもの相対すれば不和で災難が来るという。と 載っている。
中国の古代の人々が、何故、この様な考えをする様に成ったのかは判らないが、自然の循環を見詰めて、其の仕組を定義付けしたのだろう。
若しかしたら、今朝の私の様な夢を、昔し見た人が居たのかも知れない。
今朝、私が見た霊夢の映像を、順番に書いて行くと、
1.花崗岩の岩山に窪みが有り、その窪みは丸く開いていて、中に丸い岩があり、中心に黒い小さな丸い穴が、眸・ひとみの様に付いていた。
2.大地(土)に、5本の線(五条)を引いて溝を掘り、其の線に水を流し、五本の川を造る。
3.目に見える場面一杯に清い水が縦横に流れ出して、白い水しぶき(飛沫)が美しい。
4.飛沫を見ていると、気持ちの良い風が吹いて来た。
5.新聞紙一杯に、人名が書かれている。総理大臣以下の、人事異動の記事の様に見受けられ、人間社会の人脈配置を示している様に思われた。
6.映像が続いた後、言葉で「かなみゃく」と浮かんで来た。
「かな」とは、金物の「カナ」かも知れないが、今朝の夢に、金属が直接出て来なかったので、金属を含む岩石と捉えておこうと想う。
今朝の私の夢には岩、土、水、風は映って来たが、木と火は出て来ていない。代りに人名が出て来たので、岩(金)、大地(土)、水流(水)、風吹(風)、人名(人)の順番となる。
金、土、水、風、人の場面から、私に何を考えろと言うのだろうか。
是を、私なりに考えれば、「金・(花崗岩)」はミネラルを含み、人間の意識に作用する。「土・(大地)」は食物を育て、生活の場(グランド)となる。
「水」は血液を始めとして循環を司り、生命を育てている。
また水は、洗い清める力が有り、浄化の働きが有る。
「風」は、氣を巡らせ精神を和らげる。
「人」は、神の働きを助け、良い仕組が出来れば天地が和らぎ、生物は安定し、神を喜ばせる事が出来る。
是等の事を思い付くが、人名が載っていた新聞紙は、木で出来ており、風が吹くのは、太陽の存在があればこそなので、木と、火(日)も、場面には参加している事に成る。
これ等の場面が、私の夢に現れるのは、私が、自然豊かな屋久島で生活し、農林漁業をしていたからであろう。
私は、世界自然遺産に登録された、屋久島の自然と相和して生きて来たので、自分と、自然が、同化して感じるのであろう。
農業を行っていなければ、土の畑も映って来ないし、魚を獲りに海に潜らなければ、海中景色も映って来ない。
古代の人達は、皆、私と同じ生活をしていた筈である。
現代の文化も、其の人達が創り出した、言葉と文化が、土台に成っているのである。
現代人は、余りにも、自然から離れ去っている。
「五行」と言っても、お墓や寺院に、五輪の塔として建て、祈っているだけでは物の役に立たない。
社会を創っているのは、人間自身の働きである。
其の人間が、天地自然の「おきて(掟、法、ダルマ、道、タオ、道理)を忘れてしまえば、文化や、文明も、進むべき方向を誤ってしまうであろう。
現代社会は、正に其の限界点に至っていると想われる。
今朝の夢は、人間の在り方を、今一度考え直し、自然と調和する事を、考えろとの事ではないだろうか。
今朝の夢に、最初に出て来た、花崗岩の岩の目が要石であれば、「かなめ」は「かな目」の事かも知れない。
また、新聞の全面に載っていた人名が、人脈の事を意味しているのであれば、1〜5が巡って、5と1と繋がれば、人脈と要目が加わって、かなめ人脈となる。
何か、クイズの様だが、今朝の霊夢は、内容が意味深いのであろう。
「かな」の漢字を調べると、「夫」も「かな」と読み「冠を着けた成人男子」とあるし、「夫天地者万物之逆旅・・・」と、関係が有りそうな文章も載っている。
今朝の言葉の「かな」は、漢字が示されなかったので、意味が、他にも有るのかも知れない。日本語は、漢語と比べて、難しい様である。
古代人の言語が、解かっていれば、もっと楽をすると想うのだが・・・・・。
平成15年2月8日
礒邉自適
2003/2/7
静寂
15・2・7
私の屋久島の暮らしも、九ヶ月目に入っている。
3月から、また島外の方達が、来島する旨の連絡が入っているので、今が一番静寂な期間と言えるだろう。
私が、全国を旅している時、意識の向う対象が、豪華なホテルや豪邸ではなく、山中に一軒離れて建っている、簡素な和風の建物だった。
それも、何故か、新しい物よりは古い方が気になって、其の様な建物が目に付くと、空き家ではないのかと思い、車を停めて中を覗いたりしていた。
どうして、その様な気分が生じるのか、ようやく分かって来た様な気がする。
屋久島に帰って、自分の持ち家に一人で住んでいて、何時に寝ようが、何時に起きようが自由であり、誰に気兼ねをする訳でもない。
未だ、屋根の部分は修理していないので、大雨が降ると雨漏りはするが、雨漏りする場所に、タライを二つ置いてあるので、別に大して気にもならない。
私の自宅は、戦後直ぐに建てられた物だから、私の年令と同じくらいだろう。
私が、此の自宅を手に入れたのは30年前である。
私が購入してから、二階を増築したり、水洗トイレを付けたりして、手を入れたが、30年も経てば、建て直さなければならない年数である。
でも、今の私には、今のままで十分に間に合っている。
中国の老子の言葉に 【我有三宝、持而保之。一日慈、二日倹、三日不敢為天下先】と有り、これは訳すと【われに三宝有り、持してこれを保つ。一にいわく慈、二にいわく倹、三にいわくあえて天下の先たらず】
「私には 大事にしている宝が三つ有る。それは一に人をいつくしむ心、二に物事を控えめにする、三に行動において 自分から人の先に立たない。」との意味である。 (徳間書店 中国の思想 老子 奥平卓訳)
私はいま、此の老子の教訓が、能く理解出来る。
いまの私には、自分から、生活を良くしようとか、偉く成りたいとかの欲望は一切無い。
他人が、何か頼みに来る迄は、自分からは行動を起さない。例え、動き出す事があっても、其れは自分の事ではなく、他人への慈愛の気持ちからである。
家も古いし、金も無いので、借金を申し込んで来る人も居ないし、押し売りも遣って来ない。
稀に来る人は、焼酎やつまみを持って遊びに来るか、野菜や食料の、差し入れに来てくれる人達である。
釈迦の様に、自分から托鉢に出掛けなくても、困る事は無いのである。
豪華な家に住んでいれば、税金は高いし、物売りも押しかけて来るだろう。
台風が来る時は、少しは心配もするが、其れは、家が立派でも同じ事だろう。私し自身の、気持ちを振り返って見れば、随分と、若い時の願望とは違って来ている。
若い時は、弟や妹達四名を、一人前にしなければと言う責任も有ったし、自分が結婚してからは、自分の家族に対しての責任感も有った。
今は、それさえも無いので、こんな呑気な事を言っていられるのだろう。
私が、何故、家族も無く仕事も無く、ノンビリして居られるのかを考えて見ると、自分が、そうしたくて成った分けではない。
聖霊達が寄って集(たか)って、この様な状態に、私を持ち込んで来たのだ。
私は、聖霊達が肉体を借りに来てから、神武天皇の様に政治を始めたり、釈迦の様に、多くの弟子を集めたり、イエスキリストの様に奇跡を起したり、ピカソの様に絵を画いたり、芭蕉の様に和歌を詠みながら、旅を続けるのかと、霊魂が入れ替わる度に、意って来たが、実際にはそうは成らなくて、18年振りに屋久島に帰って、島での暮らしに納まってしまった。
屋久島で、18年前に、神掛った当初は、第三次世界大戦の核戦争を見せられ、人類が絶滅するのも知らされた。
そして、そう成らない様に「人類を救うチャンスを お前に一度与える。失敗は許されない。」と告げられ、私は全てを捨て去り、人類救済の為に、全身全霊で取り組んで来た。
振り返って見れば、18年前の、あの事は、一体なんだったのだろうと思ってしまう。
家族も、島の人達も、みな「自適は 頭が変しく成った」と云っていた。いま考えると、そう想われても、仕方の無い事であった。
王様の一人息子であった、インドの釈迦でさえ、変に想われた世界である。
まさか、自分の家族や、自分の町から、其の様な人間が出るなどとは、誰も想っていない。
釈迦の様に、自分の町を出て、誰も知る人の居ない、修行僧ばかりの森に出掛けてしまえば、他人に迷惑を掛けないが、私は、自分の住んでいる日常の生活の場で、それを始めたのだから、大変な騒ぎとなった。
現在の静寂とは、丸きり正反対の世界・状況だったのである。
18年前は、毎日、昼も夜も、島の荒野をさ迷い歩いた。
しかし、いまは用がない限り、何日でも、家から一歩も出ないで、同じ所に座っている。
「静寂」の言葉、其の物の暮らし振りと言えるだろう。
家に居ても、神棚も仏壇も無いから、読経や祝詞を上げるわけでもない。
家の中の音は、洗濯機と冷蔵庫の音ぐらいである。
「静寂」の漢字を漢語林で調べて見ると、「静」は「青+争」の組み合わせで、「青」は「すみきる、なにもない」の意味で、「争」は「一個の物を奪い合う両人の手」である。
だから、「静」は「物を奪い合う争いが 何も無い」との意味になる。
「寂」は「家が古くなり壊れそうでいたましい、誰も人が寄り付かないでさびしい。」の意味である。
「静寂」とは「あらそいが何も無く 人の出入りも無い静けさ」を意味している。
「寂」は、仏教の教元の中に使用されている。
意味は「煩悩を滅しつくして 解脱の境地に入る」の意味で、茶道では「ワビ、サビ、カレ」の「サビ」に使用されている。
話を冒頭に戻すと、私の意識を、山中の古い家屋に向けていたのは、私の体を借りに来た、静寂を望む霊人達だったのであろう。
其れが、誰の意識なのかは定かではないが、戦争までして、栄華を極めようとの者ではない事は確かである。
茶道の人であったにしても、茶室を欲しがったり、高価な茶道具を欲しがったりする事はない。
日蓮やイエスの様に、教えを広めようとの行動も起さない。
其れ等の人々であっても、18年間の時間の中で、本来、無用の事であると悟ったのかも知れない。
老子の謂う、「自然無為」を理解したのではないだろうか。
私が、旅に出て、一番先に買う事になった本が「老子」の道徳経であり、最後に座右の書として残ったのも、其の老子の本である。
老子は、最後に、自分の考えを5000字に集約して残し、国を出て行方知れずに成ったままである。
私が、多くの本の中から老子を選んだのは、自分にとって一番理解し易いし、実行出来そうな教訓だからである。
私の両親は、終戦までは、中国の北京に住んで居たので、父親の意識にも、中国の古典の世界が、影響していたのであろう。
私の本名「自適」も、親の話しでは、私が生れた時に、自分で持って来た名前だとの事である。
「自適」は、「悠々自適」の「自適」であり、老子の生き方の真髄・神髄でもあろう。
釈迦仏教の、「サマディ(三昧・ザンマイ)」も同じ様な意味である。
私の18年間の旅は、私一人の個人的な事ではなく、4311体の霊界人達の修行でもあった様である。
今は、私の個人的にも、島にとっても、一番静かな時である。
春に成れば、この静寂も保たれないかも知れない。
今日、これを書いている事は、私にとって、人生そのものと、言えるのかも知れないのである。
岡本天明氏の日月神示にも、「老子だけを内に祭り 他の神は 皆外に祭れ」と出ている。
老子の残した5000字の文字こそ、人類救済の鍵となるものであろう。
私にとっても、老子の残した5000字は、静寂を保つ為の良薬でもある。
自分の内側の魂しいを、覗き込む時、老子を理解出来る何者かが、存在する事に、心から感謝しなければならないだろう。
老子の謂う「古の人々は 素晴らしい」の言葉が、本当に、有り難い年代と成って来た。
追記:「治人事天、莫若嗇。天唯嗇、是謂早服」人を治め 天につかうるは 嗇(しょく)にくはなし。それただ嗇、これを早服という。
「三曰不敢為天下先」「私の 宝の 三つめは あえて天下の先たらず。(自分から進んで先に立つ事はしない。)」 中国の思想 老子
平成15年2月7日
礒邉自適
2003/2/5
爪の垢
15・2・5
今朝見た夢は、長い夢なのだが、繰り返し同じ場面が出て来て、其の意味が良く分からない。そして、起き掛けに「爪の垢」と言葉が来たが、其れも良く解からない。
昨日「神の手」の文章を書いたので、「爪」は神の手に関しているのだろうか。
「爪の垢」を辞典で調べると、【@爪にたまった垢。A少ない。また、小さい物事のたとえ。「爪の垢ほどの事にも腹を立てる」「爪の垢を煎じて飲む」(すぐれた人に対した場合、せめてその人の爪の垢でももらってという気持ちで、その人にあやかるようにする)】と 載っている。 広辞苑
「爪の垢」とは「少ないこと」の意味らしいが、何が、少ないのかが良く解からない。
「煎じて飲め」とは出て来なかったので、人間の誰かを、示唆するものではないだろうと想われる。
此処まで来て、私は、今更、誰かに指示を受ける事も出来ないだろう。
今朝の霊夢の場面は、私が、空のペットボトルを持って、何ヶ所かを訪ねる場面が繰り返し出て来た。
其のペットボトルは、現在市場に出されている形ではなく、透明で4リットルぐらいの水が入りそうで、何等かの目的の為に、専用に作られている様であった。私は、其のボトルをダンボールの箱から、一個だけ取り出して持ち歩いていた。
何処を訪ねても、其の中に入れる物が出て来ないので、何を入れる入れ物かが判からないのである。
此の夢の、水を入れるボトルと、爪の垢に、何か繋がりが有るのだろうか。
まさか、誰かの爪の垢を煎じた水を、貰いに、彼方此方訪ね回って居たのではないだろう。
若しそうであれば、私は優れた人を探し出して、其の人の徳に、肖からなければならない事になる。今から、どんな人を探し出して、その人の徳に肖からなければならないのだろうか。
精神的な人か、働き者の人か、金儲けが上手な人か、技術のある人、芸術家、様々な人達が存在するが、その対象が私には定まらない。
若しかしたら、其れは、昔の人達である老子や釈迦とかの、徳の事を告げて来ているのだろうか。
夢の中で、ペットボトルを持って回っても、相手の姿が見えなかったし、相手が誰だか判かれば、その相手の職業等で、是から、私が見習う事のヒントを掴む事が出来るのだが、それも知らされなかったのである。
考えられる事は、是からの私の行動に対しての、忠告なのかも知れない。
是から出会う事になる、どんな人に対しても「その人の 徳に対して あやかるようにしなさい」との事なのかと想えて来る。
それでなければ、「人類を 此処まで育てて来た 神の手に対して その力を少しでも感じなさい」「天の苦労を 理解しなさい」との事だろうか。
夢の中では、ペットボトルを手にしてウロウロ出来たが、現実の世界ではそんな事は出来ない。そんな事を行って居ると、また屋久島の人達に「自適は 頭が変しくなった」と、云われるのが落ちである。
今朝の処は、是くらいの事しか、頭に浮かんで来ないので、ここらで止めておこう。
平成15年2月5日
礒邉自適
2003/2/4
體と言葉
15・2・4
現在の社会は、昔に比べて、言葉の量が物凄く多増している。
日本は、特に、外国からの言葉の移入が多いので、最初に、日本列島に有った言葉が判別出来なくなって来ている。
昔の、言葉を探り出す為には、新しい言葉から、順番に外して行かなければならない。
一番新しいのは、現在、取り込まれているアメリカ製英語である。
其の前は、明治時代に導入された医療のドイツ語、其の前が、長崎から入って来たオランダ語、其の前が、仏教用語と中国語や朝鮮語である。
天武天皇が、日本書紀を作った690年代には、18の異なる文化を有する部族が在ったとの事だから、其の頃は、未だ言葉は、様々の言語だったのだろう。その、18の部族数にアイヌが入っていなければ、未だ多かった事に成る。
「安田徳太郎氏」の著書〔古代日本人の謎〕を読むと、日本語の中にヒマラヤに住むレプチャ人の言葉が2500語、チベット語1000語、サンスクリット語500語、計4000語も混ざっているという。
万葉集の意味不明の言葉は、それらを当て嵌めると、スンナリ意味が解けるとの事である。
沖縄の宮毛島には、昔、インド人が移住して来て、住んでいるのだとの話も他から聞いているので、私も古代語に、段々と興味が湧いて来ている。
私が、自分の記憶を辿るのに、屋久島の方言が、重要な手掛かりに成っている事からも、文化を知るには、言葉や地名が、一番重要だと言う事に成る。
特に日本列島は、他民族に制圧されて、言葉が一変に変えられた事が無く、流れ込んで来る異民族の文化を、列島に住む民族が、長い時間を掛けて受け入れているので、日本語の一番古い土台には、本来の言葉が残っている筈である。
私の住む屋久島でも、80年程前までは、他部落との婚姻が禁じられていたとの事で、村ごとに方言・イントネーションが違っている。
栗生、平内、尾之間、安房、小瀬田、楠川、宮之浦、一子、一湊、永田と、今でも違った方言が残っている。
其の中で、私が育ったのは安房地区だから、安房弁が、私の言葉の土台と成っている事になる。
私達の年代が、安房弁でシャベルと、島外の人達は、殆ど何を言っているのか判らないらしい。
安房弁は、鹿児島弁や、奄美や沖縄の言葉とも違うし、お隣りの種子島の言葉とも、違っているのである。
私は18年前、修行が始まって、一番先に発生して来た問題は、瞑想で出て来る映像を、どの言葉に置き換えるかであった。
私には、現在の、江戸弁でもない標準語は、意味がハッキリと、定置出来ないのである。
私が、東京で都会の人と話しをしても、同じ言葉で会話をして居るのに、変に想われるのである。
其れは、使っている言葉は同じでも、言葉からイメージされる映像が異なるので、意味が伝わらないらしい。話しをしても、トンチンカンらしいのだ。
それは、どう言う事かと言うと、体験が異なっているので、同じ単語を使っていても、お互いが、頭に画いている像が、違っているかららしいのである。
私は、その問題を解決するには、体・體に密着した表現から、取り組んで行かなければならないとの、考えに至った。
「体・體」に密着した言葉とは、「歯痒い」とか「耳が痛い」などの言葉である。此れは、別に歯が痒い訳でもないし、耳が痛い訳でもない。
表現したいのは心の問題である。
これ等の言葉は、体・體と、言葉(事と場)が、一体のものである理・ことを示している。
人類が、最初に使用し始めた言葉は、心の状態を、直接他人に伝えるものであったはずである。
動物や小鳥も、自分の感情を、鳴き声と動作で表現しているので、人間の言葉も、その延長線上にあるはずである。
感情を表す言葉に「頭に来た」とか「腹が立つ」などが有る様に、動物的な表現は数多くある。
私達が使っている、安房弁を一つ採り挙げると、「タマガッタ」が有る。
「タマガッタ」とは、驚いて恐がる事を意味している。
「オドロイタ」と「コワガッタ」とを、同時に言い表しているのだ。
語源を調べると、「タマガル」は【「魂がる」で「たまぎる。たまげる。」と同じで「魂去る」の事。(魂が消える意から)非常に驚く。びっくりする。】と、載っている。 広辞苑
この言葉は、人間が急に驚くと、頭がカラッポに成ってしまうので、「魂が消えてしまう」と、考えられていた事を伝えている。
これも体験しなければ、解からない言葉である。
私達が、日常使用している言葉を、此の様に、一語一語理解して行けば、一生それに費やす事に成ってしまうが、人間にとって、此れは一番大事なことである。
諺に「三歳(みつご)の魂百まで」と有る様に、言葉の基盤が出来上がるのは三歳までだと言うのであれば、三歳までに、体・體と一体と成った、言語世界を組んでやらなければ、其の子供は一生、言葉と體が一体化しないまま、過ごす事に成ってしまう。
現代の若者が、直ぐに「頭が切れる」と言うのは、この作業が、しっかりと行われないまま育った結果である。
幸いにして、私は38歳まで、屋久島の安房で暮らし、中学校までしか教育を受けていないので、言語中枢が侵されていないのであろう。
私が、瞑想を行い続けて、自分の意識の始まりを探る時、子供の頃覚えた安房弁が、物事を理解する支えと成った。
言葉の数が少なくて、ハッキリと体に定着していたので、精神の崩壊を招かないで済んだのである。
私は、此の世界に飛び込んで、意識が不安定に成った時に、言葉が現実の伴ったハッキリしたものでなければ、起きて来る現象(物事)に振り回されて、精神病院に連れて行かれ、注射を打たれ、薬を飲まされて、一生精神病患者として、檻の中に閉じ込められていたであろう。
インドの、お釈迦さんの教えの中にも「十二縁起」として、言葉と現象の繋がりを説明してある。
悟りとは、自分の意識に気付く事であり、意識は言葉に拠って、組み上がっている理が明確になって来る。
そうなれば、自分が使用する言葉に、自覚と責任が伴って来るのである。
現在社会は、あまりにも言葉が無責任に使われ、人間は言葉が信じられず、皆が情緒不安に成ってしまっている。
其の情況は、不幸だと言わなければならない。
漢字の「よろこぶ」には、20文字も有る。
私達は、身体がヨロコブ状態と、その時の意識状態を、説明出来る言葉を失っているのではないだろうか。
其れは、子供の時から、机にしがみ付いて勉強ばかりして、遊びが少ない事もあるだろうが、オトナが、喜びを表現して見せていない所為も、有るのではないだろうか。
私達自身が、ヨロコビを体験し、楽しい世の中を見出すしか、世の昏迷を、救う方法は無いのではないだろうか。
体・體から言葉が発生し、言葉で、幸福感を認識出来るのだと言う理・ことを、今一度、認識する必要に迫られているのだ。
平成15年2月4日
礒邉自適
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