言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2003/4/30
トータリティ
15・4・30
今朝は、午前3時頃、床に入って眠ろうとすると「トータリティ」と出て来て、次に「はんぎゃくせい」と出て来た。
「トータリティ」とは、統一性か全体性の意味なのだろう。
それに対して、反対の言葉が「反逆性」との事だろうか。
「トータリティ」と、英語の名詞で出て来る原因は、日本語に同じ意味を表現する言葉が無いか、私が有っても知らないからなのだろう。
その意味を、私に知らせる為に、反対の意味の「反逆性」との言葉を、補足してきたものと考えられる。
「トータリティ」の言葉で、私が現在・いまの意識で浮かぶモノは、全宇宙のシステムとか、大自然の法則とか、生命の本質とかの理・ことである。
もう一歩、踏み込んで言うならば、「トータリティ」とは「神の意識」「神意」と考えても良いのではないだろうか。
神意に逆らって、「エゴ・利己主義」に走る人が、反逆性の有る人と考えられるのではないだろうか。
「はんぎゃくせい」が「犯逆性」であれば、「法律や 道徳を犯して 逆らう性質」となるので、自然の法則や神意に逆らう事は、犯罪と言う事にも成って来る。
私の「トータリティ」の解釈に、間違いが無ければ、老子の「タオ・道」の概念や、釈迦仏陀の「ダルマ・法」」や、イエスキリストの「永遠のいのち」も、其の理の意味と考えられるし、仏教用語の「マハーヴァイローチャナ」や「阿弥陀」も、同じ概念の範疇・はんちゅうに入るのではないだろうか。
「マハーヴァイローチャナ」は、日本語では「大日如来」で「宇宙の真理の本体」の意味だし、「アミダ・阿弥陀」は「人間の意識では 計り知れない 光であり 慈悲」との意味である。
神の、意志や働きは、人間には計り知る事が出来ないとの意味であれば、私の考えは間違っているとは想えないし、宇宙の仕組や、生命の本質の不思議さは、未だ人間には、しっかりと解明されていないと言える。
近年「ガイア」との言葉が使用されているが、「ガイア・Gaia」とはギリシャ神話の「大地の女神」の名で「大地」を意味し、「カオス・混沌」から生まれた物との事である。
其れは、老子の謂う「混沌から生じたものに 名前を与えなければ 認識出来ないので、仕方なく道と名付けよう。だが 道と名付けたらもう道にあらず。」と似ており、ギリシャ神話を考えた者と、老子の考え方が、同じ様なものである事が分かる。
何も無い、カオスから生じたモノ、其れに、どの様な名を与えるか、それに因って、人間の意識は方向性を持つ事が出来る。
地球・大地が、最初から有った訳ではないし、「阿弥陀仏」や「大日如来」が、宇宙に仏像の姿として存在する訳でもない。
仏像や、十字架や、様々な物に名を与える事で、人間の意識は、其れ等に振り回され、根本の処から外れてしまっている。
カオスとは、未だ何物も生じてはいないが、無と言う訳ではなく、何かが生じようとしている場面を、表現する言葉である。
カオスから生じ、現在の森羅万象の姿と成って来たモノに、どの様な名を与えるか、其れが一番の問題である。
世界の戦争などの不幸事は、此のモノの呼び名が、宗教毎に異なる事から、起きていると言っても、過言ではない。
「トータリティ」とは、全体の調和も意味しているのだろう。
全体の調和を崩す者が在れば、それが反逆者と言う事に成る。
現在、ガイアの調和を崩している者と言えば、私たち人間がそうである。
人間以外の地球生物は、生活に必要以外の事は遣らないが、人間は、不必要な事を休み無く続けている、存在と言える。それも、神仏の名を使用しながらである。
「トータリティ」の調和を壊す者は、自分自身に、その結果が、因果の法則で現れる筈である。一番その良い例が、病気のエイズである。
エイズは、同性愛者や麻薬常習者に拠って発生し広がって来た。現在、日本では、出会い系サイトで知り合った若者達の間で、急速に広がっているらしい。
「性・セックス」とは、本来子孫を残す為の大事な行為であり、遊びとして気軽に誰とでもするものではない。
人間の様に、性に対して、不真面目な生物は他には無い。これも、自然の法則から外れている。
今年に入って、中国から、新しい病気が新たに発生して広がっているが、これも、原因は不自然な生活習慣から生じているのであろう。
豚や、鶏も、ケージの中で人工飼料だけを与えて、不自然な飼い方をされている。それを食べる人間が、身体に不調和を起こす事は当然の事と言えるだろう。
宇宙や、自然のシステムだけではなく、人間の体も、トータリティに拠ってバランスを保って調和しているのである。
人間の體・からだこそ、宇宙の創造物であり、神の表現物である。
宇宙の全体性を、認識するのが、人間の役目である筈である。
其の人間が、一人残らず、道から外れ反逆者と成れば、宇宙の存在意味が、無くなってしまう理・ことに成る。
今朝のメッセージは、全体的な統合性を認識し、人類が調和を重視する様にと、告げて来たものではないだろうか。
私が、此処まで認識をするのに、如何程の「人材」と「物資」と「時間」が投入されて来たか、考えるだけでも恐ろしく成る。
それは、宇宙の全体性が、永い時間を掛けて取り組んで来た、大事業だったのである。
私の認識が、其のまま、新しき人類の価値観に成るのであれば、私が個人感情を出して、自己中心の行動を起こす事は、犯罪者に成る事でもある。
昨日は、昭和天皇の誕生日で「みどりの日」であり、私の二番目の妻「井上佳子」の五回忌でもあった。
私の、二度の結婚と、離婚と死別は、私の認識行程には、不可欠のモノだったのであろう。
一度目の結婚と子育て、二度目の結婚と子育ては、全然意味の違うものであった。
其の行為や、現象は、同じ様に見えても、其れに関わる、私の意識の中身が、全然違うものであった。
最初の結婚は、個人的なもので、二度目の結婚は、全体性を認識しながらであったし、生まれた子供達も、二度目の結婚で生まれた四人の子供達は、宇宙のトータリティからの贈り物であると、実感出来るものだったのである。
宇宙の全てが、トータリティで整っているのなら、妻の死も、死ではなく、全体的な現象の一部であった事に成り、私も又、神のトータリティの一部である事には間違いないのである。
此処数日、私に与えられたメッセージは、私が、トータリティの一部として役目を果たすように、指示して来たものであろう。
「トータリティ」其のモノを、支えるには、私が一時でも、道から外れる事は、調和機能の中心が、役に立たなく成るとの事ではないだろうか。
私に、18年前に告げられて来た事は、「事象の特異点」と「神が 未来を企画する為の 座標軸」であった。
私が、新しい「事象の特異点」に位置し、神の未来創造の「座標軸」の役目を果たす時、全体的な統合が成され、未来が整って行くのだろう。
是からは、私自身が、其の事を自覚し、其の場を、守って行かなければならないのである。
愈々、私は、老子の謂う「無為自然」の道を、実行しなければならない時を、迎えた様である。
老子「無為にしてなさざるはなし」《行為しようとの意志を持たず、しかもすべてを成し遂げる。これが無為自然の「道」である。君主がこの「道」にのっとるなら、万物はおのずと生々発展する。だが、この生々発展の中にありながらも、人は作為したい欲望を起こすものだ。そうした欲望は、無心の徳によって鎮めよう。いや、鎮めようとする意識すら捨て去ることだ。無心に自然のはたらきにまかせれば、天下はおのずと治まる。》
徳間書店、中国の思想、老子、奥平卓訳
「道」とは、トータリティの働きの事であり、個人の作為は、反逆と考えて良いだろう。
私は老子の言う様に、そして、無庵師匠に18年前に意識させられた様に、作為の欲望を、完全に止めなければ成らない様である。
今朝のメッセージは、人類全体にと言うよりは、私個人に対してのモノ・現象だったのかも知れない。
「事象の特異点」と、「神の座標軸」に付いて、もう一度深く認識し直さなければ成らない様である。
私の為に、短い人生を送る事に成った、二度目の妻である「井上佳子」の為にも、失敗が許されない事であると想う。
平成15年4月30日
礒邉自適
2003/4/30
明晰は氏で流れる
15・4・30
今日は、正午前に一寸と微睡でいると「明晰は 氏でながれる」との言葉が出て来た。
これは、聞いた事の無い言葉なので、意味を探って見ようと思う。
「めいせき」〔明晰〕@明らかではきりしていること
A(哲)(Claraラテン)概念の内包が一つ一つはっきりしていなくても、その対象を他の対象から区別するだけの明白さを持つ概念についていう語。
「うじ」〔氏〕@血縁関係のある家族群で構成された集団。氏族。
A古代、氏族に擬制しながら実は祭祀・居住地・官職などを通じて結合した政治的集団。その内部は、姓(かばね)を異にする家族群に分かれ、上級の姓を持つ家族群が下級の姓の家族群を支配し、最下層に部民(べのたみ)および奴婢(ぬひ)がある。と載っている。 (広辞苑)
この説明からすると、私の姓の「礒邉・磯部」は下層の部の民に成るのだが、天皇家の祭祈を行っていた「物部」も部が付いている氏族なので、此処ではその事は考えないでおこう。
氏族、血縁で一番分かり易いのが、日本の天皇家や、イギリス王室等の例であるが、旧約聖書のアブラハムの子孫の様な伝えられ方をしている血筋も在る。
天皇家や、西洋の王族は、政治的な要素を含んでおり、アブラハムの子孫は宗教的な要素を含んでいる。
釈迦や、イエスや、老子の子孫は継続されてはいないが、孔子の子孫は現在まで続いている。
日本では、天武天皇が日本書紀の編纂を命令し、次の持統天皇の時に、儀式を一本化させる迄は、18の氏族が其々異なる生活習慣を持っていたとされるので、18通りの血筋と、其れに伴う処の、価値観があったと思われる。
今日、私に出て来たのは「明晰は 氏で ながれる」なので、戦いに強い氏族や、権力に強い血筋の事ではなく、道理に明るい血筋の流れの、一族との事だろう。
私自身の血筋を謂えば、父親は鹿児島市上福元町(旧谷山市)出身で、住んで居た所の地名も「磯部」と呼んでいたらしい。
磯部は、錦江湾(鹿児島湾)に面した部落で、伊勢湾にも磯部町が在るので、湾に面した土地に住み、海を生活の場として居たのかも知れない。
確かに、私の父親「礒邉勲」は、道理に関して明晰だったが、祖父から前の代の事は、私には判からない。
私の、霊的な出来事を謂えば、物部の初代「宇摩志遅命・うましまじのみこと」の御陵に参拝した折に、「此処は 貴方の神社だ」とメッセージが有ったので、私に憑いている本霊は、物部の流れで、礒邉とも本家筋で繋がっているのかも知れない。
物部一族を祭る、奈良の石上神宮は「イソのかみ物部」で、石を大事にする風習がある。
伊勢神宮の「イセ」も、「石を敷く」事の意味から来ているらしい。
天皇家の武蔵野御陵も、墓の周りには、全面石を敷いてあり、神戸の明石に在る五色塚の墓と同じである。
五色塚の祭神も、物部系の王だと云われているので、祭式としては同じ物ではないだろうか。
岡本天明氏の日月神示には、「148の救世主が 日本から現れる」と出ている。
148とは「石屋(イシヤ)」と読める。
石屋の救世主とは、石とチャンネルが同調する者であるとの事だろう。
大本教の「出口ナオ」のお筆先にも、「やがて 石が モノを言う時が来る」とあるし、天理教の「中山ミキ」に懸かった神は、石上神宮の物部の神霊との事だから、其れも一つの流れに繋がって来る。
時代を、物部からもっと遡ると、岡山に古代吉備王国が在ったとされ、王墓山古墳から発見された、祭祈用の石は、アイルランドの5000年前の王墓から発見された、祭祈用の石とソックリである。
其れは、5000年以上も前に、アイルランドの「ダーナ神族」と同じ風習を持つ氏族が、岡山に住んでいた事に成る。
其れは、9000年前の南九州の文化遺物と同じ物が、南アメリカ大陸の西海岸で発見されているのだから、それ程不思議な事ではない。
アイルランドの「ダーナ神族」の文化も、石を大事にする文化である。
日本が元か、アイルランドが元かは分からないが、人間の魂と、石との間に、何らかの関連性を見出していたのだろう。
石を祭る事は、現代社会の様に金銭を大事としたり、権力を大事としたりする事ではなく、自分と神の関係を、明確にしようとするものである。
何故なら、石を祭っても、金銭や権力が直接手に入る分けではないのだから。
石は、宇宙の記憶を取り戻す事や、神の意志を受信する物として、考えられて来た。
「明晰」が、宇宙の真理、神の意志を明確にするとの事であれば、石の謎を解かなければならないであろう。
キリストとは、ユダヤ民族の「メシヤ」から発生した言葉で、「神に油を注がれた者」の意味であるとの事。
キリスト教の救い主「the saviorザ・セイヴィア(助ける者)」とは意味が違うだろう。
ユダヤの秘儀でも「石工が 石の上に立つ 兵士の謎を解く鍵とは 永遠に生ける力のダイナモ・dynamoを 正しく応用する事であると知る時 彼は結社の神秘を学び取り ルシファーの渦巻くエネルギーは 彼のモノと成る」と有り、石の持つ記憶を、自分の生体電気を使って引き出し、自分の能力とする事が示されている。
石の神秘を学びとる事こそ、明晰の意味ではないだろうか。
それは、その可能性を持った、血筋でなければならない事に成る。
その血筋が、「イソ部・石部」や「物部」であれば、私も、其の血筋の流れを受けている事に成る。
自分の先祖の霊が、其の秘密を知っており、私の身心を使って、記憶の再生を図っているのであれば、私の人生の不可思議も、納得が行くものと成って来る。
私が、18年前に神掛った時に、自動書記したメモ書きに「海渡族の謎を追え」と書いて有った。
伊勢神宮の神主で、磯部族の末裔である「渡部・わたらいべ」と名乗る氏が在ったらしい。
其れは、海を渡って来た部族の意味の渡辺であろう。
伊勢神宮が在る伊勢は、元は磯部の氏族が住む地であり、現在の伊勢神宮の神域は磯部族の「イザワ彦」が土地を与えたと伝えられている。
磯部町に存在する「伊雑宮・イザワの宮・磯部の宮」が、伊勢の元宮とされているのも磯部族の古さを意味しているし、伊雑宮のカゴメの印(六芒星)は、古代ユダヤの紋章と同じ標である。
石の記憶を取り戻し、宇宙のシステムと同調出来る者こそ、今日のメッセージの「流れを組む者」の事であると思われる。
其の様に考えると、私の礒邉の姓も、値打ちが有る様に、想えて来るではないか。
平成15年4月30日
礒邉自適
2003/4/28
ほどく
15・4・28
日本語の「ほどく」に、漢字を使用すれば「解く」と書く。
此れは、「仏陀・ブッダ」を「ほとけ・仏」と、日本語で呼ぶ事の原因にも成っている様である。
「仏陀」とは、「真理に目覚めた者・覚者」の意味で、物事の真理を理解し、全ての執着から脱する事が出来た人の、呼び名である。
真理に目覚め、全ての「執着」や「柵・しがらみ」から「ほどけて脱した者」を、仏教用語で「解脱者・ゲダツシャ」と呼び、解脱者が「仏・佛」の本来の姿である。
日本では、物事から離れない状態を「しがらみが多い」と表現する。
其れは、解脱と、反対の処に位置する言葉である。
色々な厄介事が積み重なって、身動きが出来ない状態が、「ほとけ」と反対の姿である。
インドの「釈迦」は、民衆のそんな姿を見て、解決の方法を探って、山中で6年間の修業を続けた。
そして、修業を続ける事も、執着の一ツの姿だと気付いて修業を止め、池の水で禊をして木に寄りかかって休み、悟りを得たのである。
日本の古神道でも、同じく、水で禊ぎをする方法が採られており、神社で清い水で身心を禊ぎ、神主の払いを受け、潔白に成ろうとする。
根本的な処では、仏教(釈迦の教え)も、古神道の行法も、同じ要素を含んでいる。
仏教では、しがらみ・柵をほどき、執着を離れる事が大事とされる一方、インドでは「ヨーガ」と言って、神とむすばれることを願うし、日本の神社でも注連縄を張って「結び・むすび」を願う。
英語の「宗教」の意味も「religion・リリジョン(再び神とむすばれる)」で、やはり「むすび」が概念の元と成っている。
どうして、ほどかれる事と、むすばれる事が、対に成っているのだろうか。
此の事を良く考えて見れば、人間社会のしがらみや、執着から「離れ・ほどかれ」て、神の世界とむすばれる事を意味していて、世界中の人が、両方の事を同じ様に願っている事に成る。
では、此の両方を解決する方法が、果たして有るのだろうか。
私の体験から、此の事を説明すれば、「解脱」と「むすび」は、全く反対の言葉で、対に考える事自体が、変しな事であるのだが、これを四ツに分けて考えれば、理解され易い。
柵・執着 ー 神無し
禊ぎ祓いーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
解脱 − むすび
図の様に、禊ぎ祓いを境として、「解脱・ほどける」すれば、同時に、神との「むすび」が起きる事が分かる。
人間の普通の状態では、柵や、執着が強く有って、神と結ばれていない。
しかし、禊ぎを正しく行えば、成仏し、神とむすばれる事に成る。
これが、神社での禊払いの儀式と、注連縄の意味である。
私の体験を、もう少し述べると、解脱をすれば、意識が正しい道に帰るので、判断力が蘇り、何が真実なのかが、能く理解出来る様に成る。
そして、真理の道を歩き、正しい行動をする様に成るので、聖霊が味方と成ってくれるのである。
これが、日本の神道の伝統「神霊の思頼・みたまのふゆ」であり、日蓮が云う処の「諸天善人皆加護に着く」である。
イエスキリストも、ヨルダン川で禊をした時に、聖霊に満たされ、同じ事が起きている。
そして、解脱する方法として、仏陀と成った釈迦は、他人にも出家する事を奨め、イエスキリストは「私に付いて来なさい」と、やはり仕事や家族から自由に成る事を奨めている。
解脱するには、どうしても家族や社会から、一度、自由に成らなければならないのである。
私の場合も、無庵師匠に「自適さんは 大事な役目があるので 仕事を止め 家族と別れてくれ」と云われ、それを実行して、釈迦やイエスの様な事が、自分に起きたので、此の世界の実体が能く分かるのである。
私の体験から、結論めいた事を言うと、真理を知る為には、一度、一切の行為を止めて、禊ぎをし、潔白の状態に成って、何の物差しも使わず、無意識のセンサーを取り戻す事が大事であり、本来の無垢の状態で物事を見詰めれば、全ての真実が明らかに見える様に成るとの理・ことである。
これは、社会や学校で習う事とは、別の世界である。
学校や社会は、執着と柵の巣窟であるので、何かの物差しが必ず掛かっている。
其れは、色眼鏡を掛けて物を見ても、本当の色は見えないのと、同じ理・ことである。
人間本来の、素直な眼・まなこを取り戻す事が出来れば、何が真理であるかが見えて来るので、道から外れている概念が、どんどん剥がれ落ちて、意識・魂が透明に成って来て、柵や執着の原因がハッキリと自覚されて来る。
真実が理解される事で、余計なモノが一切無くなり、純粋意識に立ち返れるのである。
純粋意識に立ち返る事こそ、釈迦の教えであり、日本の古神道の伝統なのである。
つまり、古い概念を、全て脱ぎ棄て去る事なのである。
無庵師匠が1984(S59)年に、私に初めて書いた物を下さった。
その書き物が、ようやく時節を得て、現実のモノと成って来た様だ。
ナニモナサザルナ ソノママデヨイ
自然無為
達人が 平凡に生くること
こそ 本科なり
カンヨウ
必要 こそ道
無庵記
平成15年4月28日
礒邉自適
2003/4/22
阿字観・あじかん
15・4・22
今朝の霊夢は、私だけが、「大日如来」の姿である「阿」の真理を得る儀式に、合格する場面が映って来た。
他の人々は、文字に拠る修業だけなので、合格者の部屋には入れなかった。私が合格して、誰か、男性が私に一人付いて部屋に残った。
「阿」の字を受ける事は、大地を含む物質の世界を、全て委かされる事を意味している。
大地を委任されると言う事は、私自身の體が、大地と一体化している事になる。
都会に生れて、机上で密教の勉強をしても、大地と一体化する事はない。
今朝の夢は、他の人と、私の体験力の差が、示されていた。
今日は、午前中に屋久島に来て住んで居る、真言宗の寺の跡継ぎの資格を有する亀頭君が、家に来て「今朝は 誰か 入ってはいけない所に 入った者が居る」と云う。
彼は、今朝、結界の地に、何者かが侵入した事を体で感じたらしい。
彼の言葉で、私だけではなく、動きを察した者が、他に居るという事は、本当に大日如来が動き出したのかと想って、旧暦を見てみると、今日は、旧暦の3月21日で弘法大師空海の命日である事が判った。
空海は、日本の真言宗の開祖で、大日如来が本尊の宗派の祖に成っている。
「大日如来」とは、「マハーヴァイローチャナ」の訳語で、「マハーヴァイローチャナ」とは、宇宙の真理の本体との意味である。
マハーヴァイローチャナとは、人格霊ではない。
我々が住む、此の宇宙の一切の物質は「マハーヴァイローチャナ」の本体であり、文字にすると「阿・ア」の字であり、梵字の「阿」の字を大日如来として念じる事を「阿字観・あじかん」と言う。
今朝の夢は、私が、阿字を受ける事に合格した事を、告げて来たものらしい。
私が何故、大日如来の本尊を受ける資格が出来たかと言うと、私は、屋久島の自然の中に生れ育ち、大地と共に37年間を過ごし、大地と切り離れる事無く、生きて来たからであろう。
19年の修業で、其の意味や、真理も理解した事が、証明されて来たのではないだろうか。
私は、特別な宗教の修業をした訳ではないが、其の行をした弘法大師空海(774〜835)」が、私の肉体に住んでいれば、私の意識は、空海と一体である事に成るので、空海の体験・修業が、私の潜在能力に成っていると考えれば、其の可能性は有ると言えよう。
今日から、屋久町の町議会議員選挙が開始され、私の友人も、今回初めて立候補者と成り、今朝早く、神社に祈願に出掛けたとの事。
亀頭君は、其の神社の近くに住んでいるので、それに反応したのかも知れない。
私が島に帰ってから、何かのエネルギーが動き出している事は、何人も感じている。私を突き動かして来た、目に見えない世界の力が、現実に、何かを動かし始めたのであろう。今朝は、其の兆候が現れたものと想える。
7月2日迄に、何が始まるのか未だ分からないが、空海の行じた道は「密教」だから、目に見えない世界を動かす修法である。
私が念じている事は、人間と自然の調和であり、人間だけに都合の良い世界ではない。
私の友人達も、其の事を想って動き始めている。
その動きが、大日如来と通じていれば、私達の仲間の流れは、必然と現象化するであろう。
今朝からの動きは、新しい時代の息吹と成るであろう。
「あ」の字は、物事の始まりを意味しており、神社の鳥居の前や、仏壇の入口の、右側に位置していて、左側が「ん」の字で終止を意味している。
この事からも、右側の新しい世界の扉が、開かれた事が理解される。
平成15年4月22日
礒邉自適
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