言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2003/5/26
彼岸へ渡った者の愛しい言葉
15・5・26
今朝、瞑想をしていると、色紙らしき物が現われ、文字と絵が映って来た。
一枚目は、左右に開かれた紙で、左頁には横書きで、平仮名の印刷文字にて数少ない文章が有り、右頁には、縦書きの漢字で、長い文章が書かれてあった。
二枚目の方は、絵と言うよりは、画像と言った方が当たっているのだが、左側の頁には、人が歩く歩道の横の、直径が2m程の岩に、緑色の苔が全面に生えているのが映っており、右頁には、夜明け前の海の岬が映っていた。
其の海は未だ暗く、紫色掛かった岬の向こうの空には、暁の色彩が視えた。
今日見えた場面は、二場面だが、両方とも、左右に別れているので、四分割して、考えなければならない様である。
一枚目の方は文字で、二枚目の方は写真の様な自然物の画像である。
其の両方ともが、左右に別れているので、意味が判らずにいると、漢字が縦書きで映って来て「彼岸渡者雅文」と読めた。
其の意味は、「彼岸に渡った者の うつくしい言葉」と言う理・ことだと想われる。
二つの場面の、左側だけの関係を考えると、平仮名の数少ない文字は、日本の和歌の様に想われ、苔の生えた岩の横を、通る視線の者を考えれば「松尾芭蕉」の存在が思い出される。
右側の方は、漢字の長い文章と、夜明け前の暁の空なので、それは、何の関係を意味しているのだろうか。
夜明け前の空は、新しい時代の幕開けを意味しており、漢字で書かれた文字は、その説明か、約束事を意味しているのではないだろうか。
漢字は、中国の文化である。
私が、中国人の事を想えば、其れは老子であり、日本で、漢字を使用して約束事を書いた人と言えば、聖徳太子が考えられる。
日の出と、中国と、漢字と、約束事の関連を考えれば、聖徳太子の名文「日出る処の天子・・・」が思い出されて来る。
和歌の方は、人間が、自然から言葉を受け取る側で、約束事は、人間が自然に関わって行く活動を、表記するものだと言う事も出来る。
今日のメッセージの「彼岸に渡った者の うつく(愛)しい言葉」から、渡った者を、私が勝手に聖徳太子と老子、それに松尾芭蕉とすれば、聖徳太子と老子は「政治(まつりごと)」に係わる者の心構えを考えた者で、松尾芭蕉は政治を離れて、自然を相手に文学に取り組んだ者とする事が出来る。
其の様に考えると、人間は彼岸に渡っても、陰陽の働きがあるとの事に成って来る。そうであれば、私は、どちら側の手助けが出来るのだろうか。
今日の、瞑想の場面の事をよく思い出して見ると、二つの場面を、同時に左右の頁として視ている者は、一人の意識である事が分かる。
と言う事は、一者が、全部を視ている事に成る。では、その者とは誰なのだろうか。
私が其の事に付いて、考えられるのは、日本の天皇の役目である。
日本の天皇の仕事は、憲法等の決まりに目を通して印鑑を捺く事と、国と国民の平和を祈って和歌を詠む事である。
という事は、今日は、私の身体の中に、天皇霊の誰かが、入り込んでいるとの事だろうか。
しかし、日本の天皇の歌の書き方は縦書きである。
今日出て来たのは、横書きの愛・うつくしい言葉だった。
横書きだと、西洋の人間とも考えられる。
西洋人だと、私が知るのはゲーテであり、ゲーテは、自然の神秘の奥に潜む力に吸い寄せられて行った人である。
ゲーテや、芭蕉を詩人と考えれば、左側は詩人の世界で、対照と成る右側は、理屈や理論の世界と考える事も出来る。
此の相対する、両方の世界は、人間社会だけではなく、人間の脳の仕組みや、意識の世界にも、同じ様に存在する働きでもある。
私が、今日の瞑想で観たものは、自分の意識の働きを見たものなのか、霊界人の働きが複合されて出て来たものなのか、それとも一人のブッダが、世界を四分割して、認識していたものなのか判断出来ないが、何者かの意識が、最終的な認識をしようとしている事は、間違いないだろう。
自然を見詰め、其の存在物の現象から、言葉を導き出して文字化する者とは、何者であろうか。其の者が、彼岸を既に渡っており、彼の岸から、私の意識に文字を送って来たのだろうか。
それとも、私の意識が、瞑想中に彼岸を渡って、探り出して来た現象なのだろうか。
左右の文字の意味は、捕捉出来なかったが、画像の方は、屋久島の山に行けば、何処にでも見受けられる岩と、島の東側の海岸に、夜明け前に行けば見られる場景である。
私の内にある意識体は、私の目を通して、島の場景を写し撮っている様である。しかし、私の能力は、未だ和歌を詠じたり、難しい理論を組み立てたりする事はできない。
是から、其れ等の事が、出来る様に成るとの事だろうか。
それとも、出来る様に訓練せよとの事なのだろうか。
何れにしても、是は私個人の事だけではなく、宇宙全体に関する事の様なので、私一人の手には負えないようである。
私は只、世事に係わる事を止め、彼岸を渡った者達の、意見の受け皿に成る事を、忘れなければ良いのだろう。
私の意識(精神状態)は、一昨日より、身の回りの物の整理や、旅で掻き集めて来た物や、情報の処分に向かって働いている様で、身体の方も、其の反応に従って動いている。
屋久島に帰って一年間は、島での新しい体制を構築する為にあった様だが、それも一段落して、数日間、魂しいが静けさを保って来ている。
其の数日の静寂が、彼岸の世界を呼び込んだのかも知れない。
私の脳裏には、19年前の屋久島での修業が思い出されて来ている。
食う物も食わず、水ばかりを飲んで、人々とも交わらず、荒野で過ごした数ケ間が懐かしくなり、再び、あの時の世界へ帰りたい自分が、目覚め始めている。
若しかしたら、今朝の私の意識状態を察すると、彼岸に渡った者が、私の中に住んでおり、愛しい世界を創りたがっているのだろうか。
平成15年5月26日
礒邉自適
2003/5/22
自分の存在理由が解ける
15・5・22
私が、何者なのか、ようやく理解が出来そうに成って来た。
昨夜、眠ろうと想い、床に着いて、しばらく想いに耽っていると、「自分の 存在理由が 解けて行く」との言葉が、意識の内を流れた。
その言葉を聴いて、私は、自分の人生が、ゴール地点に差し掛かっているのだと感じた。
「自分の存在理由」と、一口に言っても、「存在すると言う」其のモノに対して、何処から、切り込んでいけば良いのかが分からない。
人間は、過去の歴史から観ても、此の問題に関して、実に多くの人達が悩んで来ている。
その課題を、私一人が解決出来るとは、とても想えないが、私の意識の中に、存在理由を解こうとする、何者かが存在するのなら、私自身も、其の事をテーマとして、取り組んで行かなければならないのだろう。
中国の文字は、3千6百年前頃の「殷・イン」の時代から使用されているとの事だが、漢字の中に「自分」と言う語が有る。
その意味は「自分を 刀で 左右に切り分けて 内側を見る」との字義であるので、此れは「自分の 存在理由を 知る」との事と、考えて良いだろう。
「自分」と言う言葉自体が、自分が能く分からないとの事だから、人間が自分の内側に目を向けてから、随分と永い時が過ぎ去っている事になる。
此の私が、其の、長年の人類の悩みを、解決出来るのだろうか。
人間は、生物の一種として存在するのだから、生き続けなければならない理・ことはハッキリしている。だから、自殺する事は、自然の法則に反している事となり、存在の第一義は生きると言う事であろう。
では、「生きる」と言う事とは、何なのか。
其れは、自然の法則に従って、他の生き物の様に、遺伝子を伝えて行く事が基本であり、其の事無くしては、生物が存在出来ない理・ことはハッキリしている。
地球上の他の生物と、人間の違いは、人間は意識の組み立てが出来る事であり、その特長が無ければ、人間が自分の存在に悩む事すら、発生しないはずである。
人間の悩みは、何時から発生したのか。
其れは、自己の存在に、気付いてからである。
自己の存在に気付くとは、自我意識の目覚めであり、その自我意識の組み立てが、未だに続いている事に成る。
人間は、誰しも、成人として、此の世に生まれて来るのではなく、約3000gの肉体を持って皆「オギャー」と泣いて、赤ちゃんで此の世に遣って来るのである。
そして、成長するに従って、自我意識は生じて来るが、何歳に成っても、自我意識の完成が起きない。
それは、何故なのか。その原因は、人間が成長を続けるからである。
成長するに順い、取り組んで行く情報が変化するので、「確立」したと言う、ある一線を引けないのだ。
では、人間とは、永遠に未完成で在り続けるのだろうか。
其れは、そうではないだろう。
植物の生体を見れば、花が咲き、実を着けて、中に種子を育て、熟して地面に落ちて、次の発芽を待つので、必ず、一応の完成を終えている事に成る。
だから人間も、植物と命の源を同じくしているので、一世代には、必ず一回の終結を見るはずである。
只、植物の場合でも、全部が、立派に熟して種子を残せる分けではないので、落ち零れは、必ず出来る事は間違いない。
植物に比べると、人間は、意識の部分を抱えているので、特に落ち零れが多く発生する事は、やむを得ない処があるのだ。
人間の完成の仕方も、植物に、多くの種類が有る様に、様々な場で、多彩な熟し方があるだろう。
芸術、科学技術、スポーツ、生活全般等、行為の種類を挙げて行けば、何百とある。そして、何時の時代かに、誰かが完成させた事が、土台と成って、現在の社会が営まれているのだ。
其れ等の、多くの流れの中に、此の私も存在していて居るのだから、私も、何かを完成させなければ成らないのである。
其れを、何にすれば良いのか、私には、是と言った特長が無い。
有るとすれば、自分の存在理由が何なのか、ひと一倍悩んでいる事である。
其の、ひと一倍悩んでいる、私の意識の中に、「存在理由が 解けて行く」との意識が生じた事は、答えが、間近に迫ったとの事であろうか。
私が、歴史の中で、最も、人間として熟した人物を挙げるとすれば、中国の「老子」である。
老子の残した思考の種子が、私の中で芽生えて育っているのであれば、私には一番嬉しい事と言える。
私の本名は「自適」であるが、母親の話では、此の名は、私が自分で持って来た名前であるとの事である。
「自適」の語は、「悠々自適」の「自適」であり、老子の生き方を、一言で言うならば「悠々自適」の生き方をした者と成るだろう。
そして、私が屋久島を出て、旅の途中で、最初に買う事に成った本が、老子の本であるのも、何かの因縁が有ったのだろう。
そして、旅の途中で、全ての本を捨てようとしたら、夢の中で、ゴミ箱の中から、その老子の本だけが飛び出して来たので、未だに、老子の本は、私の座右の書として手元に置いてある。
何故か、老子の本「道徳経」は、他の人は難しいと言うが、私にとっては、自分が書いた物の様に、能く理解が出来るのである。
人間に、魂の転生と言う現象が実際に有るとすれば、私の意識の奥に、老子の思考の種子が発芽している事に成る。
私は、38歳で旅に出て、初めて、老子の書物に接する事が出来た。
私が18年間、横道に逸れる事無く、旅を続けられたのは、其の老子の「道徳経」を、何時も身近に置いていたからであろう。
しかし、私にしても、最初から老子の魂・精神を、理解出来た分けでは無い。私に其の老子の言葉が、理解出来るまでに成長するには、実に大変な仕掛けがあったのである。
私が、物心が付いたのは1歳8ヶ月の時の、祖父の葬式の日からであり、精神的に強くなったのは、17歳の秋に、父親が亡くなった日からである。
1歳8ケ月の時から、祖父「礒邉助次郎」の霊魂の働きで、父親を自分の息子として扱い、17歳からは父親「礒邉勲」が、霊界から目に見えない手で、私を導いて育てて来ている。
そして、38歳からは、老子の思考が私の意識のセンターに、実在して居るらしい。
日本語では、肉体の事を「からだ」と発音するが、其れは、体は「空だ」との意味らしい。体・からだは、魂しいが入る物で、魂しいが無ければ「空っぽ」だとの意味だとの理・ことである。
島根県の出雲地方では、女性が妊娠すると「霊が 止(とど)まった」と考え、「ヒが とどまっしゃった」と言っていたとの事である。
日本語の「ヒト(人)」の意味は「霊が留まる」との事が、語源の様である。
私の人生を、振り返って見れば、私の人生は本当に「霊止・霊留・ひと」としての人生を、歩いている事に成る。
私の人生の、存在理由とは、過去の人達の念いを、継続する事にある様だ。
日本の神社では、現在でも、大祓祝詞の中に「祓い清めれば 神魂の思頼(みたまのふゆ)が起きる」との内容が有り、人間が、自分の欲望を祓い清めて、空に成れば、神霊が入り込み、神霊の思いや、頼みをふゆ(附与される)するとの事が、儀式として伝え続けられているのだ。
私には、その事が、現実として起きて、今でも其れが続いている事に成る。
人間は、万物の霊長と考えられ、人類は、地球上のあらゆる生命の頂点に立っているとの考えがある。其れが本当なら、人間は、全ての生命の代表として、相応しい立ち振る舞いをしなければ成らない事に成る。
果たして、現在の人類は、その様に生きているだろうか。
私には、一部分の人間を除くと、大部分は、自然の獣・けもの以下の行動をしている様に見受けられる。
自然の中の生き物は、必要以外の、無駄なエネルギーの消費はしないが、人類は物凄い勢いで自然を破壊し、エネルギーの消費をし続けている。
老子は、2600年も前に、人間が守るべき三宝として、次の理・ことを伝え残している。
・物事に 慈しみを持って 接すること。
・足りるを知ること(不足を言わないこと)。
・自分から 進んで人前に立たぬこと。
私の行動には、此の老子の三宝が支えに成っている様である。
老子が、私の中に存在しているのであれば、此の姿勢は、今後も続いて行くであろう。
老子の言葉には、「古の人々は素晴らしい」と有り、其れは、自分が此の様な智恵を得る事が出来たのは、古代の人達が、智恵を積み重ねて来てくれているからだとの意味である。
その延長線上に、私が在るのなら、老子の智恵の上に、私も智恵を積み上げなければ成らない、責任がある事に成る。
私の存在理由とは、その為に在り、私が其の事を果たす為に、老子をはじめ、多くの霊界人達が支えていてくれる事に成り、宇宙の森羅万象が廻っている事にも成る。
途轍もない話の様だが、釈迦やイエスの語録を読めば、それは当然の事であり、寧ろ其の事が、宇宙と言うか、人間が存在する理由の、基本に成っている理が理解される。
私は、現在56歳に成るが、ようやく意識が「大人・オトナ・翁」の世界に近付いて来たのだろうか。
霊界人に、何かをお願いする立場ではなく、霊界人の頼みを聞き届けられる段階に、至ったとの事かも知れない。
古代では、当たり前だった事が、忘れ去られてしまいそうなので、其の理・ことを、私を使って復活しようとしているのだろう。
私が、自分の存在理由が解かるとは、私が修業を終え、もう自分では何も考えたり、想ったりしなくても、事が動いて行くとの理・ことではないだろうか。
私は、ようやく解脱の時期を迎えて、悠々自適の名の通りに、「生かされて行く」との事なのかも知れない。
いよいよ、「三昧・ざんまい・サマディ」の中に、身を投げ入れて行けば良いのだろう。
私は、是から、此の「現し身・うつしみ」を空にして、森羅万象の変化を楽しんで行けば良いのだ。其れが、私の存在する理由なのかも知れない。
平成15年5月22日
礒邉自適
2003/5/18
長輪壺
15・5・18
今朝のメッセージは、「長輪壺・ちょうりんこ」と漢字で出て来た。
「長輪」とか「長輪壺」とかの語は、聞いた事がないので、「長」「輪」「壺」の其々の漢字の意味を、辞典で調べて見る事にした。
「長」は、髪の毛の長い人の象形で「長い」の意味に使われ、物の長さや時間を表現し「長(おさ)」等と人間にも使われている。
「輪」は、「すじみちが立っている」の意味で、車の矢が放射状に秩序だって並んでいる「輪」の意味を表す。
「壺」は、口がつぼんで、腹がふくれた容器の象形だが、容器の他に体の壺や、話の要点等にも使用される。
此の三文字の意味から、私なりに考えると、「要点(壺)は 長期的に 筋道が立っており 秩序正しく組み込まれていなければならない」との事に受け取れる。
長期的に、筋道が立っていて、その仕組みが、上手く廻って行かなければ成らない事とは、何であろうか。
私に、此処のところ伝えられて来るメッセージからすれば、人間の暮らし方に付いての事だとは解かるが、具体的に、要点を列挙しろと急に言われても、無理である。
私自身も、此処のところ二ヶ月くらい、此れから何が起き、何をすれば良いのかを考えている処なので、今朝のメッセージは、その心構えには役に立つと想う。
私自身は、世界の人達と同じ様に、短期的な計画を企て、明日の生活の事を考えていてはいけないのだろう。
現代社会は、スピードが早い事もあるが、長期的なビジョンを立てる事が、難しくなっている。
その原因は、企画する内容が経済中心なので、経済は、物の流通が主だから、物の流れる勢いに、人間の精神が付いて行けないのである。
人間社会を、平和で幸福なものへと導く為には、精神的な事が重要である。
その精神的な事には、長期的なプログラムと、根気有る人達の努力が欠かせない。
現代社会には、実に多くの宗教活動や、イデオロギーの研究機関は在るが、それは、過去の人達の概念を、伝える内容のものが多く、未来社会の創造に繋がるものは少ない。
経済活動の方は、発明発見が有るので、どんどん新しい方向に進むのだが、宗教の方は、何千年前の価値観を変えてはいけない事に成っているので、新しい発見や言葉の近代化が進まないのである。
確かに、基本的な処は変えてはいけないと想うが、生活手段や、物質の変化に、教えが追い着いていない部分が、多多有るので、日常の生活と、精神的意義に相当の差が生じている。
是からは、近代科学の発達で、人体や宇宙の構造が、増々明らかに成って来るので、それに見合った教えが、確立される必要があるだろう。
今朝のメッセージは、新しい価値観を整備しろとの事ではないだろうか。
しかし、そうは云われても、私一人には何も出来ない。
その事を企画しようと想えば、社会学者や法律家など、多くの人達の参加が必要である。其れ等の人達を、呼び集める事を、誰かが遣らなければ、具体的な動きとはならない。
先ずは、筋道の通っている人材の輪から、創る必要があるだろう。
私に、其の人材の選出、を考えろとの事だろうか。
「長輪壺」の三文字は、その動きの、基本的姿勢を伝えて来たのかも知れない。
何れにしても、誰かが、何かを始めなければならない時期に来ている事は、間違いないと想われる。
私も、その切掛け創りには、積極的に参加するべき使命はあると実感している。これから、スタート台に何人が上がって来るのか、それが一番の気掛かりではある。
平成15年5月18日
礒邉自適
2003/5/15
二者選択
15・5・15
私達は常日頃、無意識の内に物事のどちらかを選んで行動している。
食事をする時も、道路を歩く時も、買い物をする時も、選ぶという意識が無くてもどちらかを選んでいる。
それでも時々、どちらを選ぶかを意識しなければならない時がある。最初から自分に合ったもの、都合が良い事柄を決められれば問題は無いが、多くの中から2つが残り、どちらかを選ばなければならない時、人は二者選択を迫られる。
過去に、選ぶ事に失敗した経験があれば、尚更迷う事に成る。
私達は、その場面で「えらぶ」との言葉を使用し、漢字は「選」の文字をそれに当てている。では、「えらぶ」との語源は何語で、何を意味する事から始まったのだろうか。
英語では、「シレクト」か「セレクト」なので、「エラブ」の語とは関係が無さそうである。
私は屋久島生れなので、隣りの島に「口永良部島」の名が有り、沖縄には「沖永良部島」が有る。その共通点は、両方の島に海蛇が産卵に上陸する事で、昔はそれを食料としていた様である。
屋久島は鹿が多く、古代では鹿を“ヤク”か“ロク”と呼んでいた様なので、屋久島とは鹿の島で、鹿が食料とされていた事が分かる。これが間違っていなければ、「えらぶ」とは蛇の事である事に成る。
この事に私が気付いて、世界の文化を調べると、世界中に同じ概念が、古代に有った事が判明して来た。
漢字の「選」も、2匹の蛇が競い合っているとの象形から来ており、中国の文化は陰陽を大事にし、道(タオ)のマークは、2匹の陰陽の蛇のモチーフで画かれている。
エジプトの神官が手にするアークの杖も、2匹の蛇が左巻きと右巻きに付いている。インドのヒンズー教の知恵の神も蛇(コブラ)であり、旧約聖書にも蛇は知恵を勧める者として出て来る。
この様に、世界の古典には皆、蛇が知識や知恵の神として、何故現れて来るのだろうか。
それは、古代の人達には自分の中に、蛇に似た何かが住んでいると考えられていたからではないのか。私には、そう想えて来たのである。
古代の人達が、選ぶという行為が必要な時に、自分では決められない迷いが生じて来る。その迷いの正体が、自分ではなく、自分の中に2匹の蛇が住んでいて、意識を取り合っていると考えたのではないだろうか。
物事の選択権が、自分に有るのではなく、自分の中に存在する蛇の様なものが、神の使いであると考えていたのであれば、日常の生活の中に、2匹の蛇が神の化身として、モチーフとされる事は考えられる。
日本の国生みの神話にも、イザナミとイザナギが天の御柱の回りを左回りと右回りに回って、まぐわいをする場面が出て来る。
これも、人間の意識の始まりに、2つの螺旋・渦巻きが関係している事に成り、エジプトのアークの杖と同じ意味が、伝えられている事になる。
イザナミ・イザナギの言葉は、「ナミ(波)」が女を意味し、「ナギ(平・和ぎ・凪)」は男を意味しているので、陰陽を現している。
そして、「イザナウ」の「ナウ」は「縄を綯う」の「ナウ」だから、陰陽のむすびを意味している。
「イザ」は、思い立って事を始めようとするときに使用する、掛け言葉として残っているので、人間の意識を喚起させる枕言葉である。
人間がイザ、物事の選択をしなければ成らなくなった時、何を基準とするか、それは先ず自分でするか、だれか知恵有る者に相談するかである。是も既に、二者選択に入っている事に成る。
現代では科学が発達し、人間の脳の仕組みが解明され、それにヒントを得て、コンピューターが開発されて来た。
コンピューターは、I・Cのチップを電気が流れ、高速で二者選択を起こす事で動いている。二者選択をする基準は、人間が打ち込んだ過去のデータに拠るものである。人間のデータが間違っていれば、コンピューターの出す答えも間違って来る。
この情報のシステムは、古代の人達も気付いていたのではないだろうか。自分に未だ経験が無く、他に相談しても、結論を出せない時、どうすれば良いか。
現代の様に、電話を掛けて聞く事も出来ず、図書館に行って本で調べる事も出来ない。昔の人は神に尋ねるか、自分で占いをするかの、どちらかではなかったのだろうか。
人間が、本当に思案に暮れた時はどうするか。その時には、無意識に立ち上がって、グルグルと其の場を回り始める。左に回ったり、右に回ったりしている内に、ハッと閃いて「ヨシ」と手を打って答えを出す。
此の現象は、人間の内側に、2匹の螺旋の蛇が住んでいる証しではないだろうか。
確かに医学的に調べても、人間の体内には、食物の消化を助ける微生物や、栄養を横取りする回虫は住んでいるが、蛇は住んでいない。
2匹の蛇は、体内にではなく、人間の意識の中に住んでいて、魂を栄養としているのだろう。
その本当の正体は、遺伝子の中に蓄えられた記憶の海に住む海蛇なのである。
その海蛇の名が「エラブ」なのである。
私達人間は、自分が生まれたいと考えて、此の世に生れて来たのではない。永遠と続いている遺伝子の本体が、私達の肉体を此処まで進化させて来たのである。其の本体の姿が、二重の螺旋構造をしており、その螺旋の仕組みを流れる電気が、38億年間のデータ情報を運んでいるのであれば、私達の体の中には、2匹の陰陽の蛇が左巻きと右巻きに絡み付いている事に成る。
昔から、変な事を言う人がいると「あの人はクルクルパーだ」と言って、人差し指を頭に向けて、左巻きに回していたものである。
今、そんな事を言ったりすると、人権侵害で訴えられるので、誰も言わない様に成って来た。
是等の表現は、端的に人間の意識の中に、左巻きと右巻きの働きが在る事を示している。
大分県と宮崎県の境にある、祖母山を中心に、現在でも大蛇信仰が残っており、毎年祭りが行われている。山の峰の分水嶺の御神木に、藁で出来た大蛇を巻きつけて、御神酒などを供え、人間の幸せを祈願するのである。
何故、分水嶺なのかと言うと、水の神が一番大事とされ、旱魃があれば、川が枯れ、米は穫れず、作物は枯れ、生き物は生きられず、人間は惟オロオロするだけである。
人間の知識や努力は、何にも成らない事を、つくづく思い知らされるだけである。
昔の人達は、人間の力の限界を知っており、人間の愚かな行為が、神の機嫌を損なわないように、気を付けて来たのだ。その祈りの対象も、やはり蛇である。
仏教の始まりの釈迦も、キリスト教の始まりのイエスも、日本の神道の始まりのイザナギも、皆、禊ぎを行って目覚めている。清い水を浴びる時、人間の意識の中に住む古代の蛇は、息を吹き返して来るらしい。
「えらぶ」と呼ばれている海蛇は、今日も、私達の意識の中で目覚めるのを待っているのだ。
平成15年5月15日
礒邉自適
2003/5/12
鳥居もなかに
15・5・12
今朝は「とりいも なかに」との言葉が遣って来た。
漢字を使用すると「鳥居も内(中)に」と成る。
鳥居は、神社に行けば、何処にでも建っている物なので、誰にでも直ぐに分かる物だが、それを「なかに」とは、どう言う意味なのか、私には良く解からない。
鳥居は、神社のヤシロや建物よりは、敷地の入口の方に建っており、入口や参道の在り様を示す、役目を果たしている。
神社に依っては、神社の入口だけではなく、神社に通じる道路の入口や、最寄りの駅前など、数ヶ所に鳥居が建てられている所もある。
今朝の「とりいもなかに」とのメッセージは、外にある鳥居は止めて、やしろの有る敷地の中だけにしろとの事なのだろうか。
駅前や、一般道路に建てられている鳥居は、神社の宣伝効果を狙って建てられたものであったり、道案内の意味を込めたりと、人間の思惑が有っての事だろう。
本来の、鳥居の意味や役割からは、現在の在り様は、逸脱していると言えるかも知れない。
「鳥居」を辞典で調べて見ると、次の様に載っている。
【鳥居】神社の参道入口に立てて神域を示す一種の門。左右二本の柱の上に笠木をわたし、その下に柱を連結する貫(ぬき)を入れたもの。伊勢神宮の神明鳥居を基本として、明神鳥居・山王鳥居・三輪鳥居・両部鳥居などがある。
広辞苑より
上記の様に載っているが、鳥居自体の持つ本来の意味の説明が無い。
これでは、答えが出せないので、私が自分の足で、全国を旅して研究した事柄から、今朝の言葉を解釈してみようと想う。
或る本に拠れば、鳥居の原形は中国の雲南省辺りの、魔物の侵入を防ぐ為の、結界の風習に源が有るとされている。
私が、出雲に生活している時、松江市大庭町にある「神魂(かもす)神社」に行ったら、鳥居の原形の様な物が、国宝の社の横に立てられていた。
「神魂神社」は、出雲地方でも一番古い神社とされ、「出雲大社(杵築大社)」の社は、神魂神社の社を真似て造られたとも伝えられている。
その「神魂神社」の敷地の左側の山に、直径1メートル50センチ程の洞窟が掘られており、その入口に、二本の木が左右に立てられ、上に横木が渡され、稲藁で作られた飾りが付けられている。
私は、其れを初めて見た時に、是が鳥居の原形だと感じたのである。
其れを、そう感じたのは、伊勢神宮の創建の原因と成った「倭姫命・やまとひめのみこと」の物語に出て来る内容が、それらの風習を感じさせるものだからである。
倭姫命は、奈良の地より、天照大神の神霊が鎮まる、新しい地を求めて旅を続けるのに、榊の木を二本用意し、それを二人の巫女に別々に持たせ、一本には左巻きに、一本には右巻きに、木綿の布きれを巻き付け、前方の左右を歩かせ旅を続けたという。
目的地に着けば、その二本の榊の木は、地面に左右に立てられ、新しき神域の結界を示すものと成ったのであろう。
私の考えでは、其の二本の榊の木の棒に、巻き付けられた木綿の布きれは、蛇の代わりだったと想われる。
左巻きと、右巻きの螺旋は、世界中で古代神のシンボルマークとされている
中国では、タオ・道のマークの二匹の陰陽の蛇として、それにエジプトでは神官の手にする神の杖に巻き付く、左巻きと右巻きの二匹の蛇として使用されている。
何故、中国でもエジプトでも、二匹の陰陽の蛇がシンボルとされるのか。
日本の古事記の物語でも、「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」と「伊耶那美命・いざなみのみこと」が、天の柱を左回りと右回りに回って、契りを結んだとある。
人間の意識の根底には、何かの二本の渦巻きが存在している様である。
その、意識の奥に存在する二本の螺旋は、遥か昔から、人類に、永遠の謎を突き付け続けて来ている様である。
エジプトの神官が手にする杖は、握り手の所は鷹の姿で出来ている。
二匹の蛇の謎が解ければ、神の使いの鷹が、手に入る事を表しているものだろう。
鳥居に「鳥居」の文字が使われているのも、その意味が込められており、横に渡された木には、神の使いである鷹や鳶が降りて来るとの、願いがあるからなのだろう。
私には、18年前実際にその鳥の使いが訪れた。
其の鳥とは鷹で、私が、神社の鳥居に出向いたわけではなく、自宅の上空に毎日同じ鷹が迎えに来たのである。
私の、神の世界への旅立ちは、鳥に誘われて始まったと言っても良いだろう。
其の出来事は、私の心の中に、二匹の蛇が生じたから起きた事であろうか。
あれから、18年経過して、私の意識には、もう神社の鳥居は必要なくなり、心の中に、鳥居の仕組みが出来上がったとの事かも知れない。
そうであれば、私はもう、神社の鳥居を潜る必要は無く、意識の中の鳥居を見続けていれば良い、と言う事に成って来る。
私の父親は、子供達を、神社やお寺に一度も連れて行く事は無かった。
その事が、私が迷い道に踏み込む事を、防いで来たのだろう。
私の意識の中の鳥居は、私一人が通る為の物ではなく、全ての人々の通る参門である。
全ての人々が、私の建てる鳥居を通過する時、世界人類の意識は、同じ道に帰る事に成るだろう。
私の意識は、宇宙意識と繋がっている事はハッキリしているが、人類の何%が、同じ意識に至っているのかは、私にも未だ判らない。
今朝のメッセージは、私が何処かの、一つの鳥居に固執するのを、食い止める為のものだったのかも知れない。
日本の神社の鳥居を、世界中に建て、その門を、人類が全て潜る様にするのは、絶対に不可能な事であろう。
私に出来る事は、私の意識の中の鳥居を、全ての人々が潜って幸福に成る事を念じる事だけである。
今朝のメッセージで、私の意識は、再び新しき段階へ、進み始める事に成りそうだ。
私の意識が、私一人のものではない事を証明する為にも、私はこの道を進んで行くしかない。
平成15年5月12日
礒邉自適
2003/5/5
道具
15・5・5
今日は、昨日の海遊びで、少し疲れが残っていた為か、朝起きるのが億劫で、目覚めてから、しばらく布団の中に居た。
すると、夢ではなく、瞼に映像が浮かんで来た。
私が、毎日の様に書いている夢日記は、普通の人の夢とは違い、神の世界の霊夢としてである。
霊夢とは、自分の日常の生活や想いから、発生するものではなく、霊魂が人間の脳を使用し、映像を映し出して、人間界に何かを知らせて来るものである。
今日の映像は、其れがまた一歩進んだ型で現れた。
本人は、完全に目覚めているのに、瞼に映って来るモノだから、幻覚に近いものなので、幻視と言っても良いものだから、霊夢と言うより、霊視と言った方が良いのかも知れない。
「霊視」とは、辞典には言葉としては載っていない。
それに近い単語は、「霊応」で「神仏の現す不思議な感応」の意味である。
「霊視」とは「人間である自分が 見るのではなく 霊が 人間の脳の視神経を使用して 見るもの」との意味として、考えれば良いだろう。
私の、個人的な人生では、子供の時よりこの事が頻繁に起きていた。
この事は、一般的には「霊示」とか「霊夢」「霊告」と呼ばれている現象である。
宗教を起す人達は、夢枕に、神仏が立ったからと云うし、ノーベル賞を貰った人達でも、夢で視た事がヒントとなったと言う人が、複数居る。
霊的な夢とは、自分の日常の欲望を映すものではなく、未来を創造する為に、霊界の霊人達が、現界の人間に、認識を迫って来るモノ・現象の様である。
其れは、映像に拠るものだが、映像にも色んな物が有り、映画の様に、人間の姿や景色が物語として出て来るものから、文字を使ったもの、其れに一枚の写真だったり、シンボルと成る図柄や物品など、様々である。
私が、今日の文章の題を「道具」としたのは、今朝映って来た物が、私が海に行く時に使用する、貝取りの道具だったからである。
「道具」の「道」の漢字は、「人間の目には見えない 心のみち」の事であるが、「具」は「貝を両手でささげる」の象形文字である。
「具」は、【@そなわる。Aそなえる。Bそなえ。Cうつわ。Dともに。Eつぶさに。詳しく。こまかく。】(漢語林)の意味を持つので、今日、私に映って来た映像が、貝を取る道具なので、何故か興味が湧く。
屋久島の岩場で、様々な貝を採る道具を「クシ」と呼び、「磯物取りの クシを忘れないで」と使う。
夢には、其の磯物取りのクシが現れて、2m程の長さに大きくなったかと思えば、今度は小さく耳掻き棒程の大きさに成ってしまった。
実物は、長さ50p〜60pで、棒の直径は1p程の、鉄かステンレスの金属製で出来ており、棒の先端が両方加工されているものである。
片方は、マイナスドライバーの先の様に平たく成っていて、岩に張り付いている貝を岩から剥がす為に使われ、もう一方は、細かい鉤形(かぎがた)に加工されており、狭い穴から貝を引っ掛けて、取り出す為に使用される。
クシは、大き過ぎても、小さ過ぎても役に立たない。
今日の映像は、道具が大き過ぎても小さ過ぎても、役に立たない理・ことを知らせて来ている。物事を実行するのには、適正な道具を使うようにとの事らしい。
「道具」の単語が、何時頃から使用され始めたのかは、私には分からないが、意味としては「目に見えないモノの働きを この現象界に現す為に 人間が手に使用する物の 総称」と説明出来るのではないだろうか。
物を加工する工具も、道具の一種だが、人間が土を掘る為の木の棒も道具だし、森に住むチンパンジーが、白蟻を捕まえる為に使用する細い木の枝も、道具とされている。
仏像の千手観音像が、千本の手に持っている物も道具だし、密教の弘法大師空海が手にしている「三鈷・さんこ」も道具である。
しかし、それは物を加工するのには、何も役に立たない物で、霊的なエネルギー調整に必要な物とされている。
人間の衣食住の生活にも、実に様々な道具が使用されていて、人類の文化は、道具に因って築かれて来たと言っても良い。
現在問題に成っている、原子力発電設備や、戦争に使用される大量破壊兵器等も、道具が発展した過程の産物と言って良い。
今では、広島に落された核爆弾の何百倍もの威力の有る核爆弾は、大き過ぎて実際には使用出来ない。
大きくなり過ぎた道具は、便利を通り越して、不便な物と成ってしまう。
核爆弾等は、一度に大量の人間を殺す為には大変便利だが、人間をただ不幸にするだけの物であり、人類の幸福には何も役に立たない物である。
人間が手にする事になった道具は、人々の生活を便利にすると共に、人間の意識の分野も大きく変えて来た。
猿と人間の差は、道具の使用数の差と言っても間違いではない。
私達人間は、手にする道具次第で、意識も、行動も、変化してしまう。
お金を手にすれば使いたくなるし、刃物を手にすれば何かを切って見たく成り、筆を手にすれば書きたく成るし、鉄砲を手にすれば何かを撃ってみたくなる。
道具は、人類の知恵を発展させ、また知恵は、更に新しい道具を発明して来た。私達は、これから未来社会を創造するに当り、どんな道具を、どの様に使用していけば良いのか、真剣に考えなければならない。
「チェーンソー・電動のこぎり」の発明に因り、地球の森林は毎日凄い勢いで失われている。昔の様に、鎌や鋸の使用に返る必要は無いが、チェーンソーの使用量を少なくする事を考えなければ、地球の緑は少なくなり、人間の未来は明るいものではなくなる。
私は、此処数日、磯物を取りながら、昔は、とにかく多量に取れば良いと考えていたが、現在は、残す事が一番大事なのだと気付いている。
私は、磯物取りの行為で、昔の自分と、現在の自分の気持ちが「変化した」との実感を得ている。
人間は、自分で変ろうと意いさえすれば、変れるのである。
今では「出来るだけ小さい物は 残して置かなければ」と、考えながら、食料を集めている自分が、少しは好きになって来ている。
道具を如何に使用するか、其れが、今日のテーマと成った。
本日は、男の子の節句である。
今日のメッセージは、未来を生きて行く男の子達に、道具の使用方法や、道具の持つ意味と、人間の意識への作用を、しっかり教えろとの、霊界からの思頼(ふゆ)だったのだろうか。
平成15年5月5日
礒邉自適
2003/5/4
さかしら
15・5・4
今朝は、夢の知らせが何も無く、朝起きて机に座ってタンポポコーヒーを飲んで居ると、頭に「さかしら」との言葉が浮かんで来た。
早速、辞典で「さかしら」を調べて見ると、「さかしら」〔賢しら〕【@かしこそうにふるまうこと。利口ぶること。A自分から進んで行動するさま。B差し出たふるまい。お節介。また、差し出口。】と 広辞苑には載っている。
其の意味は、此処のところ続いて出て来ている、自分から行動する事を戒める内容と、同じ様である。
其れは、私が「自分から 何かを遣らなければ」との気持ちが出て来ているので、それを止めさせようと霊界がしているのだろう。
と言う事は、私のする事は、霊界や神霊がもう決めているとの事だろうか。
霊界が、私のする事を既に決めているのであれば、私は、其の事が始まるのを、ただ待つしかない事に成る。
それが、どう言う形で始まるのかは、私には分からない。
動く事なのか、動かない事なのか。動くとすれば、どう動くのか、それさえも未だ知らされて来ないのである。
此処のところ、知らされて来る事は、私が、自分から、行動を起さない様にとの事だけである。
私は、老子の本を座右の書としているので、今「老子」を手に取って一ヶ所を開けて見ると、六章の「母なるもの」の箇所が開いた。
六章は「うつろなものは、無限の創造力を持つ。谷を見よ。谷は「母なるもの」である。母なるものの門、それが天地の根本なのだ。永遠に滅びることなく、生めども生めども疲れを知らない。」
是は、奥平卓氏の訳だが、原文の訳は「谷神は死なず。これを玄牝と謂う。玄牝の門、これを天地の根と謂う。緜緜(めんめん)として存するごとく、これを用いて勤せず。」で、原文は「谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地之根。緜緜若在、用之不勤。」と 載っている。
「用之不勤・これを用いて勤せず」の「勤」は【力をこめて粘土を塗りこむさまからつとめるの意味を表す】とある。(漢語林)
この事からすると、つとめて何かの作業をする事を止めて、玄牝の門に我が身を置くとの事に成る。
私は、何も作為せず、玄牝の門に身をおけば、無限の創造力の根本に成れるとの事だろうか。
私は、屋久島の「明星岳(矢本嶽)」の麓に生れ育ったが、現在は安房川の河口に住んでいる。
山に住んでいれば、「仙人」なのだが、谷の終点の河口に住んでいるので、「俗人」と言う事に成る。
自宅の周囲は飲食街で、夜中2時〜3時頃迄、人が飲んで騒いで、実に煩・うるさい場所である。
訪ねて来る人の中には、私のイメージには合わないので、「どうして 自適さんは こんな場所に 住んでいるの」と云ってくれる人も居るが、私には他に住む場所が無いので、其れは仕方の無い事として、いまは諦めている。
しかし、人々が訪ねて来るのには、一番便利が良い場所である。
実に、色々様々な人々が訪ねて来て、居ながらにして澤山の情報が集まって来る。
山の中に住んで居れば、余計な情報が入って来ないので、静かで心は休まるだろうが、人類の未来社会の創造の材料と成る情報は、入って来なくなる。
人間は一人で居ると、考える事は「独り相撲」に陥り易い。
その点、現在の私には、自分は動かないでも、様々な情報が集まって来る此のの場所は、天が与えた私の仕事場として、相応しいのかも知れない。
私は、自宅に只毎日座って居て、訪ねて来る人達の悩みや愚痴を聞いているだけで、他人の相談相手には成っているが、自分から何処かに出て行って、物事を起す相談等はしていない。
だから、其れは、自分が原因となって、何かを起す事はしていないと言える。
昨年、屋久島に帰ってからの数ヶ月間は、島での自分の生活の場を確立する為に、少々の賢しらは有ったかも知れないが、一応それが落ち着いた現在では、「自分から 行動はしていない」と、自分には想える。
自分から行動を起せば、物事の原因が自分の所為で始まった事に成るので、責任も義務も一切自分に有る事に成り、人間の気持ちは、其の事に集中するので、自由が失われ、大きな創造力が発揮出来ない事に成る。
自分が動かず、一点に在る事で、気持ちの分散が起きないし、現象の移り変りを静かに見詰めている事が出来るのである。
宇宙の森羅万象の流転を、静かに認識している者の処には、宇宙の働きが全て流れ込んで来るのだろう。
其の者が、森羅万象の働きに接触しているとの事に成れば、宇宙の働きと、其の者は一体に成っていると言える。
其の姿は、2600年前の「釈迦仏陀」の姿と重なって来る。
釈迦は、悟って「ブッダ・仏陀」に成った時、其の事・成仏を体験したのだろう。
其の釈迦は、「三千世界に吾は在り 衆生一切我が子」と謂っている。
其れは、「数多く存在する世界に 私は繋がっており 生きとし生きる一切の生き物は 私の子供であり 私から生じたものである」との意味である。
中国の老子や、中東のナザレの「イエスキリスト」も、釈迦と同じ体験をしたものと想える。イエスや釈迦は、説法をして歩き回ったので、賢しらが無かったとは言えないが、老子は弟子を採っていないし、説法もしていない様である。
其れを考えると、中国の老子だけが、「自然無為」を完全に守ったと言えるのではないだろうか。
私が、1984年の秋に伊勢神宮に参拝したら、伊勢の神霊が現れて「8回トンネルを通過するのに失敗して 今度が9回目で 今回失敗すると もう地球には 遣り直すエネルギーが無い」と告げられた。
今に成って見れば、私には「何故 8回も失敗したのか」の原因は、人間が賢しらに填ってしまったからではないかと想えて来た。
其れは、天が動き、神霊界の聖霊達が協力し、地上の人間を目覚めさせようとして、力を与えると、力を得た人間が、その力が自分の力であると勘違いを起して、宗教を起したり、自分が王に成り権力を握ったりして、神の存在を忘れてしまうからではないだろうか。
人間は、一旦権力を握ってしまうと、神が与えた力を自分の為にだけ使おうとして、神の言う通りに行動しなくなる。
神は、理想的な地上世界を創造しようと企画し、ある人間に、知恵や、力や、物質の管理の権利を与えるのだが、人間は、それを得ると、自由に何でも出来る様に成るので、動物的な欲求本能が強くなり、自分の為に全ての現象を動かそうとする。
そして、神の存在までも、自分の欲求を満たす為の道具としてしまうのだ。其れが、過去8回の失敗の原因ではないだろうか。
今回が9回目で、最後のチャンスであり、絶対に失敗が許されないとの事であれば、私の役目は過去の人達の、二の舞い、三の舞いに成ってはならないと言う事である。
失敗の原因さえ判れば、同じ失敗をする可能性は無くなる。
過去、8回の失敗の原因が、人間の賢しらに有ったのであれば、賢しらが出ない様に務めれば良い事に成る。
人間は、金と物と人が集まって来れば、何かを始めたくなるものである。
其れを考えると、私のまめな性格と、他人の面倒を見たがる行動癖は、一番の欠点である様だ。
是まで、情報を集めるのには役に立った私の行動が、此れからは、逆に欠点となるとの事だろうか。
今日「さかしら」と出て来た事は、私への自覚を促す事と、事態が緊迫している事を、両方告げて来たものと受け取る事も出来る。
過去に、8回も失敗した事を、私が、成功に導く事が出来るのかどうかは分からない。しかし、私よりも天や神が困っての事であるのなら、私が心配する事は無いのだ。私はただ、自分に賢しらが出ない様に努力するだけで、良いとの事だろう。
後は、全て神に身を委ねて、「神惟の道・かんながらのみち」を守るだけで良いのだと想われる。
平成15年5月4日
礒邉自適
1 | 《前のページ | 次のページ》