言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2003/8/25
物の所有は言葉から始まった
15・8・25
今朝の映像には、文字も言葉も無く、物だけが映って来た。
其の場面は、私がテーブルを作る屋久杉の板を二枚運んで来て、一枚を自宅に持ち込んで、二枚目を取りに行くと、他の人がトラックに積んで、持ち去ろうとしている。
私は、其の人に「それは 私の物です」と云いたいのだが、その言葉が無いので、話し掛ける事が出来ない。
私が、意思表示を出来ないまま、其の二枚目の板は、他人に持って行かれてしまった。
今朝の映像の意味は、言葉が無ければ、所有権を主張出来ないと言う事である。
地球上の生物で、言葉を話せるのは人間だけである。
そして又、所有権を認めているのも、人間だけである。
他の動物は、土地や家の、所有権は主張しないし、所有する事も出来ない。
動物に有るのは、生活や子育てをする時の、テリトリーの確保だけである。
それは、空間の確保だけで、自分の所有物との考えは無い。
動物は、自分の物として所有出来る物は、自分が手に入れた食料だけである。
子育てをする時の巣は、他に向けて、所有を主張する物ではなく、安全の為に出来るだけ隠す物だから、所有権は必要が無い。
この様に、人間と他の動物を比べると、人間だけに、所有の概念が在る事が分かる。
人間と、他の生物の違いは、この所有感が有るか、無いかの差であろう。
他の生物は、所有の概念が無いから、物に執着心が起きないのである。
人間だけが、地球の表面を区切って、此処は、自分の物だと主張しているのだ。
其れが、人間の不幸の元だと、イエスキリストも釋迦牟尼佛も、マルクスも云っているが、人類は一向に、それを改める気配が無い。
聖書でも、人間がエデンの園を出て行かなければ成らなくなった原因は、「所有心」と「エゴ・自我意識」の二つだと伝えているし、仏教でも「所有」と「自我」は双子であり、悟りの邪魔に成るものだと説いている。
所有とは「それは 私の物です」との言葉が無ければ、成り立たないモノらしい。
その言葉が無ければ、自分の持ち物は、絶えず自分の身の回りに置いていて、他の者が取ろうとすれば、殴るか噛み付くかして守らなければならない。
一度、持って行かれてしまえば、取り返しに行っても、逆に殴られるか、噛み付かれる事に成ってしまう。
言葉が無ければ、「それは 私の物だから 返して下さい」と、云えないのである。
私は、昨日までは、頭が空白に成る事を書いて来たが、今朝は、言葉が無ければ、物の管理も出来ない理・ことが伝えられて来た。
言葉がなければ、物の所有が出来ないので、執着も生れ様が無い事に成る。
他の生き物が自由なのは、言葉が無く、所有が出来ないからなのだ。
人間は言葉を生み出し、それに因って大脳を発達させて、文化を生み出し、文明を発展させて来た。だから、文化も文明も、大脳が言葉を使って、生み出して来た物と云う事が出来る。
人間は、頭を空白にした侭だと、文化・文明を組み上げる事が出来ない。
では何故、修行をして頭を空白にする必要が有るのだろうか。
其れは、誰かが頭を空白にして、脳の暴走を止めるブレーキの役割をしないと、人類は道を外れて、谷底へ落ちてしまうからであろう。
人間が、言葉を使用する事自体は、悪い事ではなく、道を外れ易い原因が、言葉に有るのだと、ちゃんと認識をして措けば、良いとの事ではないだろうか。
私の意識を、空白にする迄で導いておいて、今度は、言葉がなければ、自分の物も管理出来ない理・ことを、伝えて来るのは、一体何者の働きなのだろうか。
その者の正体は、言葉を管理し、人間の行動を左右し、社会をコントロールする何者かである。
その働きを「神」と簡単に一口で片付けるには、余りにも味気無いし、素っ気無いだろう。
今迄は、其れを「大日如来」とか「アミダ」とか、「エホバ・ヤハウェ」「グレートスピリット」とか、様々に呼んで来ている。
森羅万象を管理するその働きに、何か、統一された名が必要であろう。
釈迦は「ダルマ・法」、老子は「タオ・道」と謂った、その働きが、何故、人間に正しく認識されないのだろうか。
それは、余りにも、言葉が安易に使用され出した為に、言葉が、脳を上滑りするからだろう。
世界中に、何千何万と違う言語が在って、其の意味を知るのに時間を奪われ、言葉の本質や力を、理解する処まで達しない内に、人間は人生を終えてしまうのである。
現代社会は、通信機器の発達で世界が狭く成り、既に、共通の言葉を必要として来ている。
人間が、生活する為に必要な言葉の数は、そんなに多くは要らないはずだから、「オーイ、風呂、飯」とかだけに、極端に少なくしなくても、世界中で共通する必要な言葉を、子供から大人に成るまでに、必要な分だけ創る事は、遣ろうと想えば出来る事である。
「それは 私の物です」の言葉が、言う方も、言われる方も、正しく認識出来れば、泥棒も居なく成るし、多くの所有を願う事も、利己主義(エゴ)も無くなるのではないだろうか。
言葉も、物も、必要なだけ有れば良いものだし、少ない方が管理も楽である。
私も、折角空白に成った頭に、必要以外の言葉を貯蔵したくない。
此れから、自分が生きて行くのに、最低限必要な言葉を探って行きたいと想う。
平成15年8月25日
礒邉自適
2003/8/24
一人に成ると言うこと
15・8・24
昨日から、今朝に掛けて、孤独感が遣って来た。
これは、家族が居たり、同室者が在ったり、アパートで、隣に住む人の気配がしていると、起きえない事だ。
其れは、自分の毛穴を閉じて閉じ籠るのではなく、全身の皮膚を解放して、五感を働かせても、他人の影響が無い状態の事である。
仙人が、山中に唯一人で住むのは、自分で、その状態を作る為だし、釈迦やイエスキリストや、マホメットも、その状態に身を置く事から、神の世界が始まっている。
私も、19年前(1984年6月4日)より、その世界に一年間身を置いた。
昨日から、その感覚が再び遣って来て、人間社会の業から切り離されている。
其の感覚の中で、神経を研ぎ澄まして行くと、脳裏の奥深い所から、死んだ妻が、私を呼ぶ声が聴こえ、死んだ父の澄んだ声が、聴こえてくる。
昨日は、お盆も過ぎて旧暦の7月26日なのに、身内の霊が帰って来たまま、立ち去らずに居るのだろうか。
22日には、9月11日の意味や出来事を書いたが、8月23日は、1997年8月23日に出雲の「素戔鳴尊・すさのおのみこと」が手植えした、御神木の樹が映像に現れた日でもある。
8月23日は、素戔鳴尊に縁の有る日なのだろうか。
素戔鳴尊は、須賀の「須我神社」に祭られているが、須我神社は、素戔鳴尊が妻の為に詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌で有名な神社で、和歌発祥の地とされている。
しかし、その和歌発祥の神社に私が参拝したら、その日の夜、神様が現れて「頼む」と言われ、漢字の「歓の左だけ(スイ・カン)」が現れた。
私が直ぐに、辞典で「歓」の字を調べると、「歓」は、草の多いさまで、薬草の〔めはじき・やくも〕のことだと判明した。
やくもを「八雲」と書くのは間違いで、「八雲立つ」とは、八重雲が立つ事ではなく、やくも草の垣根を、八重に立てる意味だったのである。
其処から、日本では「愛人を囲う」との言葉が生れた事が分かる。
「やくも・益母」が、「八雲」と勘違いされて、日本全国に広がってしまったのである。
雲を自由に操る事が出来ると成れば、素戔鳴尊は神と言えるが、愛人との生活を他人に覗き見されない様に、草の垣根を何重にも立てるのは、まさしく人間の感情である。
其の事に気付けば、素戔鳴尊は、現に人間として実在していた事に成る。
実在した人間であれば、魂しいとしても残っている事に成る。
「やくも草」が、八雲と書かれ、誤認されてから長い時間が過ぎ、日本全国に拡散して、多くの人達が真実を歪められている。
現在の人間社会と違って、昔は、言葉こそ神とのコミュニケーションの全てだったのである。言葉が間違えば、「神」は動かないのだ。
その様な時代に、生きていた素戔鳴尊にとって、自分の言葉が誤って伝えられ、自分の生きた証しが、現実と異なれば、素戔鳴尊も困って、霊界が乱れる事と成り、神霊として力を発揮出来ないのではないだろうか。
その為に、私に現れて「頼む」と告げて来たのだろう。
この件は、須我神社の石原宮司さんにも伝えてあり、何とか、正す様に努力をするとの御返事も頂いている。
今朝は、言葉の大事さに気付いて、「いつわり」の漢字を漢語林で調べて見たら、「いつわり」の字は「佯・許・偽・詐・詭・誕・矯・譎」と八文字もある。
・「佯」は「人+羊」で「羊」は「様」に通じ、【㋐あざむく。㋑うわべをかざる。ふりをする。人為的にあるさまを似せて作り出す。いつわるの意味。】
・「許」は「言+于」で「于」は「華」に通じ【はなやかな意味。はなやかなことば。いつわりの意味。おげさにいう。かざりたてていう。】
・「偽(僞)」は「人+為」で「為」は【人が手を加えてつくるの意味。人がつくりごとをする。いつわるの意味。見せかける。ふりをする。】
・「詐」は「言+乍」で「乍」は【作為。つくりごとの意味。乍為ある言葉の意味。】
・「詭」は「言+危」で【不安定なことばの意味。そむく。あざむく。】
・「誕」は「言+延」で「延」は【延ばすの意味で言葉を事実よりも越えてのばす。いつわりの意味を表す。むやみに大言をはいてだます。】
・「矯」は「矢+喬」で【矢を矯正する、曲げるの意味から曲がっている事を真直であるかの様にいう。】
・「譎(ケツ)」は「言+矞」で「矞・イツ」は【ほこらしげに示すの意味から実質以上に誇らしげに言う。偽るの意味。】
是等、8文字の「いつわ(は)る」の文字を見ると、「佯・偽・矯」の三文字は、人間の行動や様子でいつわる事を表しているが、「許・詐・詭・誕・譎」の五文字は、言偏が使われており、皆、言葉に因るいつわりの事を意味している。
聖書にも、「いつわりを言っては成らない」と有り、釈迦の訓えにも、正しく言うとか、酒を飲んで酔って話しては成らないとかは有るが、中国の漢字の世界では、それがもっと具体的に区別されている。
中国では、四千年も前から文字の文化が発達し、意識の組み立てがしっかりと成されていた様である。
言葉が神聖なものであり、いつわりが有っては成らないとの理・ことは、人類にとって、一番大事な事だったのだ。
聖書や、コーランや、仏教経典、日本の祝詞、其れ等は皆、言葉が神に通じるとの、考え方から発生した物であろう。
処が、現在では、日常使用される言葉が、本来の意味を失ったが為に、神に通じていたはずの言葉が、神に通じない言葉と成ってしまった。
言葉の始まりは、人間の行動と言葉とが、一体だったのである。
人間の言う事と、行ないが同じであれば、其れに、神も同調する事が出来たのである。
それが現代では、言葉の意味が食い違っているし、口にする言葉も、本音と建前があって、どちらが本当なのかも、区別が難しくなっている。
これでは、神も、幾ら願われても動きが出来ない。
日本の神社では、其れ等の事を解決する為に、鳥居の両脇に、「あ」と「ん」の像が在り、その手前に「洗心」と刻まれた御手水が備えられている。
私は、今月18日、19日と屋久島の奥岳に登って来た。
そして得た答えは、頭が真白の空白に成る為に、「岳参り」の行事が存在するのだと言う理・ことである。
「司る」とは、神意をことばによって、祈りうかがい知るという事である。
「司・シ」の漢字は、幟り旗に神の言葉「口」を書いて立て、行動するとの意味である。
私の、19年の旅の間には、「佯」(うわべをかざる)。「偽」(みせかける)。「許」(おおげさにいう)。「詐」(つくりごと)。「詭」(不安定なことば)。「誕」(引き延ばしてむやみに大きくいう)。「矯」(真実をねじ曲げていう)。「譎」(ほこらしげにいう)等の、いつわりの言葉が有ったと想われる。
人間社会を見ていても、今年に入ってアメリカのラスベガスや、日本の飯塚市でも洪水が起きた。ラスベガスは、砂漠の中の街なのに洪水である。
ラスベガスは博打の町で、様々なショーも演じられている。
福岡県飯塚市は、炭坑で栄えた町で、大きな芝居小屋が被害を受けている。
ラスベガスも飯塚も、人間の言葉に拠るショーが行われる事が、共通している。
ショーや、芝居は「許・詐・詭・誕・譎」が使用される、代表的な世界である。いつわりの言葉が、話されている所が、洪水を受けると言う事は、何か、神の意志が働いている様な気がする。
神に拠る、此の三次元世界の禊ぎが始まるのであれば、本番が近いと言う事だろう。そうであるなら、私も、自分の言動から「いつわり」の言葉を無くさなければならない。
8月9日から始まった、私の禊ぎらしき現象は、「真実の言葉とは 何か」を考える処まで達した。
神社の、鳥居の前の御手洗で禊ぎをし、言葉の門を通り抜けて、社・やしろの奥に達したのであろうか。
であれば、私はもう、過去の事を話す必要が無くなり、未来の事を告げて来る神の意志を、正確に受け取り、いつわりの無いまま、人々に伝えて行けば良いのだろう。
今回、一泊で奥岳に登った事には、それなりの意味が有った様である。
9月11日の満月の夜、平安神宮で催しされる祭りが、いつわりの無い言葉で演じられる事を願いたいものである。
一人に成ると言う事は、他人と言葉を交さないので、言葉の柵から外れて、真実の源へ帰れるのだろう。
岳に登った時には、山中にて鹿が警戒音を発して居たが、その音が、どこかの時代に正確さを失ってしまっていれば、鹿の世界もコミュニケーションが執れれなく成っていたであろう。
人間も、自然の中での本来の音を、誰かが、取り戻さなくてはならないのだ。
平成15年8月24日
礒邉自適
2003/8/21
陳
15・8・21
今朝のメッセージは、「陳」の漢字が一字出て来た。
文字の前に、自然の中に、何ヶ所か造成した土地が映って来て、「陳」の字が現れ、その後に、デパートのバーゲン売場に、澤山の品物が並べられているのが映り、数10人の人達が品物を手にしていた。
朝起きて、漢語林で「陳」の漢字を調べると、「陳」は「阝+東+支」の組み合わせで出来ており、東は東西の東ではなく、【袋を棒(支)に結んだ形で、その袋から品物を出してのべ広げるの意味を表す】と載っている。
「阝」は「陶」に使用されている「阝」と同じで、階段や棚の意味であるようだ。
今朝のメッセージの意味は、自然を壊して無闇に土地を造成したり、不必要な物をどんどん生産して、処分するのに困って、婦人に衝動買いをさせたりしてはいけないとの理・ことではないだろうか。
私はデパートに勤めたり、バーゲンセールを手伝ったりした事は無いが、30代の頃、屋久島の土地を造成して売る、不動産業を営んでいたので、自然破壊がどんなものであるかは能く知っている。
37歳の時に、自分の行為を反省して、今度は、自然を守る生き方をする様に成った。
18年振りに屋久島に帰って生活をして、自分が自然破壊をした跡を見ると、もう雑木が生えて、元の山の状態に返っている。
私は、其の様子を見て、屋久島は雨が多く、自然の復活力が強い事に、自分が救われた気がしている。
屋久島の土地を買っている人は、殆どが投資目的であり、実際に住む人は少ない。荒地が多くなって来たのは、それが原因である。
私は、もう一度、不動産業を始める気も無いし、バーゲンセールを行なう気持ちも無いので、今日のメッセージは、私個人に対する事ではなく、人間社会全体の営みに付いて、忠告して来たものと想える。
自然破壊は、未だに地球規模で行なわれているし、大量生産・大量消費の文化は、後進国の成長で益々進んでいる。
今朝のメッセージは、其れ等の事を改めない限り、人類の未来は良い方向には進まないとの理・ことを、告げて来たのではないだろうか。
そうであれば、人類の未来とは、資源を大事にする為に、必要な物だけを必要な分だけ丁寧に作り、大事に長く使う様にしなければならないとの理であり、土地も必要以外を手に入れたり、造成したりしてはいけないとの理であろう。
この様に、具体的な事を知らせて来るのは、新しい経済活動が始まる事を告げて来ており、過去の過ちを、繰り返すなとの理ではないだろうか。
平成15年8月21日
礒邉自適
2003/8/16
鏡
15・8・16
今朝のメッセージは、漢字の「鏡」が、文章の書き出しの最初の所に有るのが映って来た。
そして、「鏡」の文字を記憶したら、次に「360」の数字が知らされ、続いて斜め下に、種子島の南の部分が、陽の光が当って、美しい景色で現れて来た。
種子島は、屋久島の隣にある島だが、普通は水平線上に見えており、距離も16キロメートルあるので、真横に見えていて、今朝の霊夢の様に見える位置に立つのには、屋久島で一番高い宮之浦岳(海抜1936m)の頂上に、登りでもしなければならない。
私の意識が、屋久島の一番高い山の上に在って、周囲を眺めていたのであれば、360の数字は、展望が360度見えるとの事の様に、考えられる。
屋久島の、一番高い宮之浦岳の頂上から周囲を見渡す事と、「鏡」の漢字がどういう関係が有るのだろうか。
朝起きて、早速漢語林で調べてみると、「鏡・キョウ」は「金+竟」で、「竟・キョウ」は「景に通じ、ひかりの意味。」と 載っている。
鏡は、金属で作った、景色を映す物との意味の様である。
そうであれば、今朝の私の意識は、屋久島の頂上に在って、島の景色を映す鏡の役割を果たしていた事になる。
しかし、私自身は自宅に居るのだから、私の肉体自体が、山岳の頂上に在る分けではなく、何物かの意識が、島の頂上に在って、私の意識に、それを見せている事になる。
その何物かとは、何なのであろうか。
私は、鏡とは、自分の顔や姿を映して見る物であって、「鏡」の漢字を「かがみ」と読んでいたが、どうもそうでは無いらしい。
日本語の「かがみ」は、自分の顔を、かがみこんで水面に映して見る事だから、漢字を使用するのであれば、「鑑」の字の方を使用しなければならない。
「鑑」は【金で出来た器に水を溜めて、人が大きく目を開いて、かがみ込んで見る】との意味である。「鑑」は「カン」と読み、「鑑定」とか「鑑賞」「鑑識」と使用されている。
「鑑」は「鏡」と同じ意味に使われ、「鏡にうつして見る」と同義語に使用されているが、今朝のメッセージに出て来た様子からすると、両方の区別をしなければ成らない様である。
「鑑」の字も、「@みわけ・めきき・見識・判断」とか「Aてる・照らす・明らか」とか「B手本・模範・いましめ・教訓」と、使用の意味が広すぎる。
「鏡」と「鑑」の漢字の意味は、別れていたのではないだろうか。
今朝のイメージの様子からすると、「鏡」は「照らす・明らか」とか「模範・教訓」を意味するもので、「見分け・めきき・見識」とかの、行動が秀でている等の、人間の働きの事を言い表しているのではないだろうか。
エジプト文化の神である、「イシス女神」の頭上に着いているのは鏡であり、日本の神社にある三種の神器の鏡と、同じ意味を伝えているのであろう。
そうであれば、日本の「かが(屈)み見る」に当て嵌めるのは、間違っている事になる。
「鏡」とは、神の世界を映す意味を持ち、人間の意識にウツリ込んで来る、光り映える神の世界の景色を、意味するものなのではないか。
神の創造する世界が、人間の代表者に「ウツス(移す)」・うつされて来るからこそ、「いましめ」であり「手本」とされるのではないのか。
「鑑」の方は、自分の顔を屈み込んで見る事だから、観察する事には間違いない。
漢字が出来た頃には、両方の漢字には、明確な意味の違いが有ったのだろう。
それが、神の世界をウツシ視る事が出来る人間が居なくなり、鏡の意味する世界が理解されなくなって、鑑と混同されるようになり、文字の意味がゴチャ混ぜに成ってしまったのだろう。
「鏡」とは、「スメラの王・大君・みかど」の証明であり、天照皇大神の印であり、ブッダの覚醒した目の意味なのである。
「鑑」は、目の見える者なら、誰でも使用出来るが、鏡は、天眼通の者だけが理解出来る、否現実的な象徴的な存在物なのである。
この様に考えると、日本語の「かがみ」は「鑑」で良いが、「鏡」の方を何と読むか、当て嵌める日本語を探し出さなければならない。
「鏡」は、かがみ込んで見るものではなく、瞑想をして自分の額に、神の世界を映し視る事だから、姿勢を正し、胸を張って、呼吸を整え、内側を仰ぎ見ることなのだ。
釈迦が亡くなって、二千五百年後の無明の世界に、一人の目明きが現れて衆生を救うと伝えられているとのこと。
その目明きが、持っている印こそ鏡の理なのであろう。
昨日15日には、アメリカで大停電が起き、何百万人もが目が見えない状態に置かれた。是も、何かの暗示ではないだろうか。
今朝は、岡山の伊丹由香さんにも「日」の文字と「陽」の文字が映って来て、「ひかり」との知らせがあったとの事、
古代から、太陽と鏡は、関連付けされ続けている。鏡は、太陽神の代りなのだ。
人間が、モノを考えられるのは、視覚に物事が映るからこそ出来る事である。その大事な意味を、鏡は伝え続けて来たのだ。鏡は、日本語では「スメ・素目」を表す語だと言う事が出来る。
英語で、鏡を「ミラー」というのは、ラテン語、エジプト、又は、シュメールまで遡れば、「ラー(太陽神)」を「ミ(見)る」と言う意味ではないのかと想えて来た。
そうであれば、「見陽」と書いて、ミラーと読むか、神を見る意味で、鏡はそのまま「ミラー」とすれば良いのかも知れない。
「みらー」なら、「未来が見える」と、駄洒落の一つでも生れるではないか。
平成15年8月16日
礒邉自適
投稿者: isobejiteki
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2003/8/14
音(ね)に帰る
15・8・14
昨日、何故、無人島の砂浜に打ち上げられ、裸で寝ていたかが判明した。
一言で謂うと、私は、磯の段に辿り着いたのである。
お盆に、白くて清い砂を海から取って来て、墓石の周囲に撒く様に、神社の「斎庭・さにわ」にも白い砂を撒いてあり、その「白砂・おしらす」が禊祓いの場と成っている。
神社の、奥の社に続く16段の階段の、一番手前の1段目が「磯の段」と呼ばれ、其処から神への上り階段が始まっているのだ。
人間は、「海・うみ・産み」から誕生した生物だと考えられており、魂しいの源点に立ち帰るには、先ず、海水で身を清め、白い砂の上で、意識を空白・ゼロにしなければ成らないのだ。
私は、其の「生命・いのち」の原点に帰り着いた事を、昨日、神が知らせて来たのだろう。
昨日は、私が漂着した白い砂浜から島を視ると、森をスクリーン・背景として、日本語の文章が映し出されていた。その意味は、今朝のメッセージで理解されて来た。
文章は、人間の意志を伝える為に、言葉を綴ったものである。
そして、その言葉は「いろは48音」と言う様に、「音(声・ね)」を綴ったものである。文章が、日本語であったという事は、日本語の本来の「音・ね」に帰らなければならないと言う理・ことだろう。
現代の文章には、中国の漢字が使用されており、言葉には、明治時代に外国(ヨーロッパ)から導入された言葉(意味)を、漢字に訳した物や、中国から仏教の教えを漢字で導入した物が澤山含まれており、純粋な日本語は、仮名の音で読み取るしかない。
今朝のメッセージでは、日本語は「シー」「スー」とかの一ツの音が、意味を持っている理・ことが知らされて来た。
「シー」と言うと、静かにする事であり、子供に「シー」と言うと、おしっこをする時に意識を集中する事が出来、落ち着きを得て小便が出来る。
「シー」に濁点を付すと「シー」を強める事に成るので、「ジー」と成り、動かないの意味に変わる。
「スー」は「スーとした」と、自分の気持ちがスッキリした事を意味し、英語の「スムーズ・smooth」と同じ言語であることが分かる。「スムーズ」は、日本語の「ススム」と同意語であろう。これ等の事からすると、日本語のルーツもシュメール文化が源に在ることになる。
日本語の「スメラのミコト」もシュメールの言葉であり、「スメラ」とは「国を治める王」の意味で、漢字にすると「天照皇大神・あまてらすすめおおかみ」と読む。
其れは、現在の天皇陛下の事である。天皇を「スメラギ・スメラキ・スメロキ」と呼ぶのも、その名残りなのである。
「天照皇大神」とは、王様の働きの事であり、目に見えない宇宙の働きを言い表しており、「スメラギ」とは、その働きを受け持つ人間の役目、位の事で、本人の肉体の事は「ミマ」と呼ぶ。そして、その本人が正しく役目が出来ることが「スメ」なのである。
「スメ」とは、宇宙の働きが視覚化出来る事の意味である。
別の言葉で言えば、第三の目・仏陀の目・ラーの目と言う事になる。
だから「スメミマ」とは、本当の王のことであり、「スメラの命(みこと)」とは、スガタ・姿が立派であり、第三の目が開いて、天(天帝)に通じている者のことである。
王に成る者は、自分がスメラに成る為に、スガスガ(清清)しい土地に住まなければならない。その清清しいの「ス」が「スー」である。
自分がスーとして、ジーと生きられる土地が、清清しい地であるのだ。
その言葉が、伝え残されているのが、出雲の須賀の「須我神社」である。
須我神社は、「須佐之男尊・すさのおのみこと」と「櫛稲田姫・くしいなだひめ」が新居を構えて住んだ跡である。
須佐之男尊が、櫛稲田姫を伴って住む土地を探していて、現在の須賀の地に差し掛かった時に、「この地は スガスガしき地なり 此処に住もう」と須佐之男尊が云って、この地に住んだと伝えられ、その事から須賀の地名と成っている。
この事からも解る様に、人間は清清しい気持ちで、スゴセル事が大事なのである。その為に、各地に禊祓いの場として、清い水の流れる辺りに、神社が建てられて来たのである。
現在の世の中で、清清しく生活している人が、何人居るのだろうか。
生活が安定していても、預金には利息は付かないし、国は大借金をしているので、何時つぶれるかも分からない。財産が有っても、静かに落ち着いて暮せない世の中である。
私の様に、全てを捨て去って、釈迦や老子の様に生きている人は少ない。
私は、誰かの教えを受け継いだ分けでもないので、後に伝える必要もない。
弟子を見付け出して、訓練する責任も無いのだ。
完全に禊がれた所為か、釈迦の様にブラフマンが現れて「教えを伝えろ」とも言って来ない。
私に告げられて来るメッセージは、言葉の源点に立ち帰ることである。
日本の神社には、鳥居の前に「あ」と「うん」の狛犬が置かれているが、その意味する処は、言葉の始まり音「ア」から、終わりの音「ン」を示すものである。
神社とは、神に願いをする所ではなく、自分の禊祓いをして、言葉の原点に帰る儀式の場として、設置されているものである。
自分が禊がれて、音の本がスッキリ清まっていなければ、神の声は「オトヅレ・音擦」ないのだ。
漢字の「知」の字は、「神に 自分の手にする矢を返して 手ぶらで 神の言葉を受け取る」との意味である。
中国の漢字の意味からも、人間が一番大事とすべき事は、自分を真白にして、神の音(声)を聴く事である。
日本の神社での、直会・なおらいの意味は、神と直接会う事を現している。
日本は、古くから「言霊幸洲・ことだまさきはうくに」と云われている。
其れは、「日本の国土の 自然の中に 言葉が詰まっている」と言う意味である。
昨日の映像に、文字が映写されていた自然のスクリーンは、その「言霊幸ふ洲」の事を現して来たのかも知れない。「ことだまさきはふくに」とは、「言葉の魂しいが 咲き和う 土地」との意味であろう。
この様に考えると、昨日のメッセージの意味が能く理解出来て来る。
人手が入っていない原生林には、神の言葉(音)が詰まっており、その音・ねを聴くには、生命の起源の海から、純粋な裸のままで上がり、白い砂の上に寝て、無の状態で接しなければならないとの理であろう。
人間が一人も居なければ、決まりきった挨拶の言葉を、思い出して使う事も無い。
相手が存在しなければ、人間は言葉を使用する必要が無いのである。
真白き砂の上に立ち上がり、森の木々から受け取る最初の音は、どんな音であろうか。
海に暮らす生物の事を考えると、鯨や海豚の様に、一度陸に上がって生活した事のある哺乳類は、言葉に似た合図の音を持っているが、魚にはそれが無く、合図は「クックッ」と鰓・エラで立てる音か、角で出す「ギーギー」の音等である。
其の様に考えると、海の砂浜は、音と言葉の境界線と云う事になる。
水から上がることが、言葉を必要とする原因に成った様だ。
水の中では、音は空気中の三倍の速さで進む。
水から外に出た生き物は、単なる音では、コミュニケーションが取れなくなった為に、代わりに言葉を使う事を生み出したのだろう。
人間の頭の中には、魚の脳も蛇の脳も収納されている。それは、人間の胎児の発達を見れば能く分かる。
始めは尻尾も有るし、鰓も付いている。人間にも、魚や蛇と同じ脳が有るのなら、魚の様に音が聴こえ、蛇の様な感覚が使えるはずである。
魚や、蛇の能力を取り戻し、森に向うならば、自然の中から言葉(意味・事場)を取り出すことは、可能な事と言える。
私は、島に帰り一年が過ぎた。
島の自然の中で、出来るだけ、島で取れる食物を食べている。
此処のところ、友人に貰った、島で収穫された今年の新米を食べている。
海に一人で出掛け、海で泳ぎながら島の自然を眺め、その場に生きている貝や海草を食べて、島の米を食べる。
現在の私の生活は、正に産土・うぶすなの生活である。
日本の「天皇・スメラのミコト」の新嘗祭の儀式は、禊ぎ祓いをして、其の年に収穫された米を、神霊と共に直会・なおらいする事である。
私は、その新嘗祭の神事を、一人で行っている事になる。
今日は、此の文章を書いていて、魚の「エラ」は、「魚+思」の組み合わせの「鰓」であり、「鰓・エラ」とは、人間の口の働きと同じ様に、魚が自分の思いを伝える機関だと初めて知った。此れは「エラい」事である。
海中に存在する、龍宮に住む女王の名が「オト姫」なのも、ようやく意味が解って来た。
日本にも、中国の西遊記の孫悟空と同じ物語が存在していたのだ。
「孫は空を悟る」との、古人の願いは適えられ、龍宮の音姫に歓待されるのである。
「孫」とは、「子+糸」の組み合わせで、一本の糸に子孫が「ズー」と続く事を意味する象形である。
日本語の「ズー」とは、永遠に続く時間の理を意味している。
「スー」として、スッキリとした時間は「ズー」と続く事なのだ。
私もようやく、生命の孫の糸に帰り着き、スーとした気分に成っている。
この気持が、ズーと続く様に生きて行きたいと想う。
自分自身で、唇に指を当て、シィーと音を立て、社会の騒音から遁れジィーとしていれば、龍宮の「音姫さん」が良い音を聴かせてくれるかも知れない。
龍宮とは、特別な海中に在るのではないのだ。
水球である地球は、水が廻る事が生命・いのちそのままである。
日本の、神社の入口に有る「あ」と「ん」の言葉の前に、身心を清める御手洗が用意されている。龍宮城の入口は、神社の入口と同じなのだ。
清い水に触れ、意識がスガスガしく成れば、身心がスーとして、自然の音が聴こえる様に成るだろう。
浦島太郎とは、自分自身の事なのである。
使いの、亀と出会うには、亀が餌にしている水母・くらげと似たビニール袋を、自然の中に捨てる事から止めなければ成らない。
自然の物は、全て、母なる海に返って行くのである。
森と、海が近い此の屋久島こそ、龍宮音媛の住いなのではないだろうか。
今年のお盆は、真実の禊ぎと成ったようである。
明日は、自宅前の安房川で、灯籠が川に浮かべられ、海へ向かって流れて行く。唱えられる、お経の音・ねが正しければ、真言・マントラと成るのであるが、さてどうであろうか。
塵・ごみが、海に流された事だけに、終わらない事を願いたい。
自然の音を、知ると言う事は、自然と共に、唯生きて行く事である。
日本に伝わる「神惟道・かんながらのみち」とは、そう言う理・ことなのだ。
平成15年8月14日
礒邉自適
2003/8/12
「 」の言葉は神の言葉ではない
5・8・12
昨日8月11日は、旧暦の7月14日で夏禊の日であり、本来の先祖が帰って来る約束の日であった。
私は、先祖の霊が、何かを伝えて来るかと想っていたが、妙に遅くまで頭が冴えていて、眠くならないので本を読んで過ごした。
そして朝方、頭に現れて来た映像は、「 」の鉤括弧が出て来て、「 」の中の言葉は、「ワタシ(神)」の言葉ではないとの意味に、受け取れた。
「 」の中は、何の文字もなく空白で、後に書かれている文字らしき印を読み取って、その様に受け取ったのである。
是は、非常に重大な意味を告げて来ていると想う。
是が、本当の神の意志を告げて来た現象・ものであるなら、此れまでの、過去の神に関する文献を、再検討して見なければならないからだ。
西洋の、文化の基礎に成っている、旧約聖書の最初の部分、「神が『光在れ』と言われたら 光が在った」の部分も、「光在れ」との言葉を使っていない事になる。
「光在れ」との言葉を、最初に使用した人間が、頭でその様に考え出したか、自分に映って来た映像を、その様に解釈したかのどちらかであり、自分が感じた事を「神が 言葉で云った」と伝えてしまったのである。
旧約聖書には、多くの人の言葉が、預言として伝え残されているが、殆どが「私は見た」と言って、メッセージが言葉ではなく、映像であった事を示している。
私の体験からも、「神の言葉が有った」ではなく、「神の御意志の働くのを見た」と伝えるべきであったのである。世界中に、この宇宙が、最初光から始まった事を、視た人は澤山居る。
何も、旧約聖書の言葉を、最初に話し始めた人だけではない。
預言とは、言葉を預かったのではなく、神の意志が、人間の脳に伝えられる時は、映像であり、その映像を見せられた人間が、自分の使用する言語に変換・おきかえたのである。
其処のところをハッキリしないと、神が直接、人間の言葉を話す事に成ってしまう。
釈迦や老子の訓えにも、神・天が直接言葉でこう言ったとの記述は無い。
両者とも、人間が言葉で解釈を求めている間は、真理には到達出来ないと言っており、霊の存在は認めているが、神・天の存在・はたらきを、釈迦は「法・ダルマ」と謂い、老子は「道・タオ」と謂って、言葉を使う神を認めていない。
釈迦の物語には、釈迦が36歳の時に、菩提樹の根元で宇宙の法と合体して、七日間でその内容を、自分の使用する言語に置き換えて立ち上がり、三歩あるいて立ち止り、「この理・ことを知るのは 天にも 地にも 私一人しか存在しないのに 自分は何処へ向かって 歩いて行こうとしているのだろう」と、考えていると、「ブラフマン」が現れて「後世の人の為に 説法をしろ」と告げて来ている。
釈迦は、自分の知り得た情報を、他人に説明しようとしても、誰一人、理解をする者は居無いと考え、二度まではブラフマンの要請を断っているが、三度目の要請を断れず、かつて一緒に修行していた五人の修行者の所に行って、自分が知り得たことを話し始めたら、ある程度理解するので説法が始まり、現在までそれが佛教として伝わって来ている。
この話の場合も、ブラフマンとは神ではなく霊である。
老子の語録の中に、「神霊も道から外れれば 力を発揮出来ない」とあるので、「道」とは「天の働き」の事であり、霊より上に道が有り、道自体から言葉が出される事は無いとの理・ことである。
イエスの言葉にも「父と子と聖霊」との、三者分割の考えが現されている。
「父」とは天の意志であり、自分(人間)は子であり、天の意志と自分との間に、霊の働きが関わっているとの説明がされている。
イエスの言葉の中にも、天の父がこう言ったとの、「 」書き出来るものは無いと想われる。新約聖書の内容は、イエスが民衆に対して譬え・たとえで話したことだから、イエスの言葉は、全部話し言葉なので「 」が付けられるのである。
新約聖書は、イエスが自分で書き残した物ではなく、イエスの弟子達がイエスの言葉を伝え残したものであり、仏教も、釈迦が書き残したものではなく、釈迦の方便を、弟子達が自分の解釈で伝え残したものなので、聖書と同じく「 」の中は人間の言葉であり、神・天の言葉ではないのである。
今朝のメッセージが有ったことで、能く考えて見たら「 」が出来る、神の直接の言葉とは、無い事が判明して来た。
「 」が有るのは、霊が伝えて来た言葉か、人間がメッセージの内容を自分なりに解釈して、言葉に置き換えたかの、どちらかである。
私に「16年半掛かる」と告げて来たのも、言葉が直接耳に聴こえた分けではなく、その意味が、私の頭に浮かんで来て、無庵師匠に「16年半掛かるそうです」と、伝えた言葉だったのである。
私は、今日まで、神が「16年半掛かる」と、言って来たのだと勘違いをしていたのである。
何故、私の頭の中に、「16年半掛かる」との意味付けが、行われたかを能く考えて見ると、過去に、日本の「まつりごと(政治と儀式)を始めるのに、16年半掛かった人間が存在して、その霊が、自分の体験を、私の頭の中で、思い起こしていたのである。
其の人物とは、「神武天皇」と呼ばれている人物である。
何故、神武天皇だと判るかと言うと、私が街を歩いていたら、勝手に私の足の歩く向きが変わり、仕方なく足の向く方に歩いて行くと、本屋が在って、その店内に入って行くと、ある棚の前で私の足は立ち止った。
そして、今度は、手が勝手に動いて一冊の本を手に取り、開いた頁に、神武天皇が南九州を出発して、奈良で政治を始めるまで、合計16年半掛かっている事が載っていた。
其れは、神武天皇が、自分が現在霊界に存在している事を、私に知らせようとした現象だったのである。
其の出来事からも、私が「神」だと憶っていた相手は、神・天ではなく霊だった事になる。
という事は、神とは、やはり釈迦の云う「法・ダルマ」であり、老子の云う「道・タオ」であって、言葉で告げて来るものは「神・天」ではなく、「霊魂」である理・ことが解る。
そうなると、宇宙は、法や道の法則に因って、存在している事に成るので、善神や悪神がある事には成らない。
有るとすれば、聖霊か悪霊であり、霊の中には幽霊まで居る事に成る。言葉で、人間に何かを直接告げて来るのは、霊であって「神・天」ではないのだ。
宗教を生業にしている者達には、自分には創造主が降りて来て、こう告げて来たと言っている者達が在るが、それは間違いであると言う事に成って来る。
人間を、創造し、生かしているのであれば、人間一人一人に、直接話し掛ける様な面倒を神がする分けがない。
人間界に、色々と作用して来るのは、全て神ではなく霊なのである。
だから、聖霊に取り憑かれた者は吉としても、悪霊に取り憑かれた者は、禍いであると言う事に成る。
私が、4311体もの霊に身体を貸したのは、17歳の時に死んだ父親が、37歳の時に、20年振りに現れて、霊団の一番前に立っていたからである。
其の父親は、霊団の一番前に在って、「自適よ お前に苦労させたのは お前の精神を鍛えるものであった。もう大丈夫だから この人達に身体を貸しなさい」「だけど 此れから起きる事を 仕事だと思わず 遊びだ 遊びだと 想っていなさい」と、告げて来た。
その時の状況を、能く思い出して見ると、その言葉は、父の言葉で、耳に聴こえた分けではなく、父親の姿が見えている間に、私の頭の中に出て来たものであった。
それは、音を持った言葉ではなく、テレパシーの様に直接、意志だけが伝わって来たものである。其れも、私が「自適よ・・・」と鉤括弧を付して書くと、父親が直接話し掛けて来た様に、他人は百%受け取ってしまう。
この様な事が、何千年も前から度々起きて、神が直接「もの・言葉」を告げて来るのだと、誤解されて来たのである。その誤解から、宗教家は、神のお告げが有ったとして、一般の人達が騙される様に成って来たのである。
其のコトを、昔の人達は能く知っていて、人間に邪な気持が有ると、メッセージを、自分の都合で解釈して受け取ってしまうので、神霊の世界に近付く前に、禊祓いを行う事が求められていたのだ。
其れは、人間は、自分の欲望があれば、メッセージが来た時に、自分の都合が良い方に解釈してしまいがちであるからである。
長期で考えれば、正しい事でも、目先に不利な事が有れば、人間は避けてしまいがちである。
余程、自分が無垢な状態にないと、メッセージを正しく受け取ることが出来なくなってしまう。日本に伝わる古神道には、理屈は何も無い。唯一求められるのは、禊祓いをする事だけである。
神を信じ、純粋な気持ちで、神の世界に身を置けば、頭で考えずとも、自然に身心が整えられ、自ずとリズムが天地と一体に成って行くものと想われる。
その体制が出来上がった時、自分の内に現れて来る言葉が、誰のものなのか、見極める基準が出来てくるのだ。
神が、直接言葉を発さないのであれば「 」の中に入る言葉は無く、有るとすれば、神意のメッセージを視せられた者が、人間の言葉で、人間に伝える時のものである。
その時でも、神が言って来たと言うのは間違いで、「私は視た」と言うのが正しい様である。
若し、言葉で聞こえたものであれば、それは霊魂の意志であり、必ずしも神意と同じものであるとは限らない。
私も、19年間この世界に身を置いて、一つの疑問が解けて来た。
考えてみれば、父親が私に言ったのは、「この人達に 体を貸せ」と云ったのであって、4311体の霊を神様だと言った分けではなかったのだ。
若しかしたら、聖霊達にも、神の意志は、直接には分からないものなのかも知れない。
聖霊に満たされていたイエスキリストでさえ、最後に磔にされた時、天に向かって「父よ 本当にこのままで良いのか」と、声を出して叫んだと伝えられている。しかし、天の父は何も答えず、イエスは仕方なく「御心のままに」と言って、息絶えたとの事である。
この場面でも、天の父は言葉を発していない。
神は言葉ではなく、森羅万象自体を創造し管理しているのだから、万象の変化で自分の行為を示すのであって、言葉は必要ないのであろう。
神の意志は、言葉ではなく、映像として伝えられて来るのだ。
現在のコンピュータでも、文字や言葉の情報よりは、映像の方が容量を多く必要とする。神の世界も、それと同じで、言葉よりも映像で、多量の情報を動かしているのだ。
私の意識も、また新たに禊がれて、言葉の次元を超えたのかも知れない。
日本の古神道は、何故、理屈が無いのか。それは、言葉が現在の人間か、嘗て人間であった者の世界に、必要なものであって、人間以外の生き物や、植物等と、共通の世界に生きようと思えば、言葉や理屈を棄て去らなければならないのだ。
それが、本当の禊祓いの意味であれば、私はようやく、本当の禊祓いの実感を昨日得た事になる。そして、今日は、私にレベルの高い神霊が降りて来て、言葉の絡繰を明かして来たのだろう。
私にとって、此の旧暦7月15日は、本当の夏禊ぎの日と成った様である。
日付とは、人間と神霊が行事を行う為に、必要不可欠なものであって、人間が、神に、必要な時間を頂く為のものではないだろうか。
霊界にも、人間の使用しているカレンダーが掛けられており、人間を何月何日に、どの様に動かそうかと、皆で語り合っているのではないだろうか。
其れが、旧暦の方に合っているのであれば、月の運行も調べなければならない。
今日は、満月で大潮である。
今回の潮時は、今年の最後の大潮で、干潮位高は16センチである。
もう、来年の3月の春の大潮が来るまで、今日から昼間の潮は引かなく成る。
何故、最後の大潮の前日が、夏禊の日と定められて居たのか。その事を、決めた霊を呼び出して、尋ねて見たいものである。
何故なら、その相手の答えなら、「 」内に入れられる言葉であろうと、想われるからである。
平成15年8月12日
礒邉自適
2003/8/9
意識の絡繰
15・8・9
「道」の漢字は、「行+首」の組み合わせで、「異民族の首を 埋めて 清めたみち」の意味の象形である。「首」の漢字は、目の付いた顔と毛髪の組み合わせで、「目」は人間の意識の意味であり、その概念は世界共通である。
そして、最大の意識の目は、山に住む神様に在ると考えられている。
○エジプトのピラミッドのラーの目
○ユダヤの石工の目。アメリカのドル札に印刷されている目。
○ベトナムの宗教・一ツ目の神。
そして、日本の奈良の三輪山や、滋賀の御神山の様に、花崗岩の山が御神体とされているのも同じ概念である。
世界中が何故、岩山が神の目と考えられ続けて来たのだろうか。
モーゼ・イエス・マホメット・空海・役行者・出口王仁三郎など、宗教の教祖に成っている人達は、皆岩山に引き寄せられている。其れは、岩山に意識が存在し、其れに見詰められていると、感じていたからであろう。
その他にも、チベットのカイラス山信仰や、オーストラリアやニューギニアの原住民達の、岩山を神の住む所と考える生活など、世界中挙げて行くと沢山出て来る。
又、岩石だけの信仰でも、ケルト族や、アステカ・マヤ人達、それにイースター島の石像等の石の文化は、神に近付く為のものである。
此の様に、人間と神の中間に、岩山や石の文化が存在する原因は、何であろうか。岩石や、岩山に意識が存在し、其れは「神の目」であるとの考え方を、現代風に説明すれば、どういう理・ことに成るのだろうか。
私の場合も、禊を済ませ聖霊に満たされたら、屋久島の山岳に登ったり、島中の石を家に持ち帰り、螺旋構造に積み上げたりさせられた。
神の世界に入って、最初に遣らされた事は、石や岩山と取り組む事だったのである。
毎日毎日、石と取り組んでいる間に、私の意識は人間社会から離れて、自然との共鳴へと進んで行ったのである。自然と同化して行くと、様々な精霊の働き掛けが有り、奇蹟が起きるので、段々と、神の存在を信じる様に成って行ったのである。
屋久島の岩山で瞑想をし、岩や石と遊んでいる事が、神の世界への入口と成ったのである。イエスキリストが最後の夜、山上の石の所で一晩中祈って居たと言うのも、私には能く理解が出来る。
神の意識は、空から降りて来るのではなく、岩から発せられて来るのである。
日本では、「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」や「饒速日命・にぎはやひのみこと」が、山に降りた事に成っている。其れは、瓊瓊杵尊や饒速日命が、直接天から山に降りて来たと言うのではなしに、瓊瓊杵尊や饒速日命に、神が岩を通してメッセージを降ろしたと言う事である。
旧約聖書に因ると、アブラハムが息子の「イサク」を、神の燔祭にしようとしたのは岩の上である。
奈良に在る「石上神宮」は、御神体が裏山の花崗岩の山と言うことに成っていて、石の上が神の宮と記されているのが面白い。石上神宮は、物部家代々の先祖を祭る神社で、物部家は「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」の子孫と云われている。
其の「饒速日命」が、どのルートで日本に渡って来たのかは分からないが、アブラハムの子孫の一部だとする考えも、全く外れているとは言い難い事である。
天皇家は、物部家の儀式を取り込んでいるが、岩山が神との考え方は現在無い様である。
日本には、未だ山岳信仰が残されているが、現在では、人間が神通力を得るのが目的のようで、「山自体が神である」として敬う事からは、外れて来ている様に感じる。
神通力を得ようとか、悟ろうとかの考えは、自分の考えや目的に原因を発するものであるから、山自体を神として受け入れる事とは、最初から入口が別の処にある事に成る。
屋久島に伝えられている「岳参り」の伝承は、自分が悟りたいとか、神通力を得たいとかの目的の為ではなく、山の神が、人間の幸福や平和を護ってくれているとして、年に数回お礼参りに、海水や、海の砂を、御供えに持って参拝するのである。だから、健康な男性が入山出来、女性や子供は参加出来なかったのだ。
現在では、子供や、女性達も、参加出来る様に成って来ているので、ハイキング的な要素が加わり、本来の目的からは外れている様である。
目的が変わると言う事は、目的意識が変化する事だから、考え方が変ってしまう事を意味する。
同じ、山に登る行為でも、目的意識が変われば、目にする物から、受け取る印象が変わるので、物に対する考え方が変化し、物の価値観が変ってしまうのだ。
私も、子供の頃は別として、37歳までは、屋久島の自然は生活の手段に有効利用するべきものと想っていたが、38歳からは、屋久島は神の身であり大切に守らなければならない物として、考える様になった。
其の意識の変化は、仕事を全部止め、一人に成って、屋久島の自然の中に、自分の身を投じて、不思議な体験をしたからである。
水道の蛇口からではなく、川から直接水を飲み、電気を点けて生活するのではなく、暗くなったら眠り、明るくなったら起きる。鍋で、煮た食べ物を食べるのではなく、木の実や、海の物を直接取って生で食べる。
そんな生活を、一人で自然の中で続けていれば、人間社会のシステムは、全て頭から消えてしまう。お金は、全く意味を持たないし、教育や文化も、全く関係が無くなってしまう。
自分が、それまで良いと想っていた事も、価値が有ると想っていた事も、全て必要がない事だと気付くと、意識は、それ迄とは逆転してしまい、価値あるものだったのが無価値に成り、無価値だと想っていたものが、行き成り価値を持って来るのである。
そうなると、普通の生活を続けている人達とは、行動が反対に成って来るのだ。
それ迄、立派な神社は「善なるもの」であったのに、大事な山を破壊した極悪な物事と成ってしまうのである。子孫が繁栄する事が、良い事から悪い事と成ってしまうのだ。
大きな建物は、資源の無駄遣いで、利己主義の塊と成ってしまうのである。
その様に、思考が動き始めると、頭が良い事が、悪い事になり、働き者は自然破壊者と成って来る。その結果として、人間の意識自体を、疑問に想う様に成って来る。
処が、不思議な事に、其れから数日を自然の中で過ごしていると、そんな疑問も何処かに飛び去って、透明な意識と成って行くのだ。
岩や、山は、もう気に成らないで、草や木と意識が一体と成り、虫や鳥と自分が同化してしまうのである。其処には、人間の言葉の会話ではなく、別の会話が成り立って来るのである。
それ迄の、言葉に拠る意思の疎通ではなく、生物全体の意識回路に、直接繋がるのである。
人間は、人間として別に存在するのではなく、自分は一個の個体ではなく、全体と一体の存在だと気付くのである。
其れが、古代から、人々が山に入る事の原因だったのである。本来のシャーマニズムとは、その様なものであったのだ。
山の神様に、自分の欲望を押し付けるのではなく、山の神と自分が一体化する事が、本来の目的だったのである。
その事を願う者が、王様に成ったり、宗教を起したりする分けが無い。
昔の仙人の暮しとか、聖者の生き方を見れば、その事は歴然としているではないか。自然の森や、清い川の流れが、地球から消えた時、その意識の源を求めても、もう遅いのである。
インドの釈迦仏陀が、「2500年後には 全ての民衆は無明に陥り 其れを救うのは 彌勒と言う一人の目明きの人間だ」と謂っている。其の目明きの「目」とは、山の意識と同化した人の目であろう。
日本語に残っている言葉に「目出度い」とか「お目出とう」と有るが、其れは山の目を得た人間が、此の世に誕生する事の意味なのではないだろうか。
屋久島の森が、その人間を生み出す最後の地であれば、それこそ世界遺産とするべき価値がある。
縄文杉は、その為のたった一つの看板にしか過ぎないのだ。縄文杉が看板であるなら、「看板に偽り有り」と言う事には成らないが、島民を含め、島外から島に立ち入る者達も、価値観を改めて貰わなければならないだろう。
屋久島も、現在・いまはぎりぎりの局面に達している。伊勢神宮や、石上神宮の存在も、ただの儀式伝承に陥っているのであれば、キリストが復活すれば又殺しかねないのである。
イエスキリストや釈迦仏陀も、建物を必要とした分けではない。
屋久島の、緑と、水と、岩が、神のヤシロなのである。その中にこそ、真実の神が宿るのだ。
神社で唱える「大祓詞・おほはらへのことば」にも「國つ神は高山の末、短山の末に上り坐して、高山のいぼり、短山のいぼりを掻き別けして聞こしめさむ・・・・・」と有る。神が森に住む理・ことは、古代からの常識なのである。
我々は、本来の意識を取り戻すべき時を、迎えているのである。
平成15年8月9日
礒邉自適
2003/8/6
十種神宝・とくさのかんだから
15・8・6
今朝のメッセージは、「十種神宝・とくさのかんだから」と出て来て、私は「十種類の草」が宝かと想って、意識の中で調べ始めた。
しばらく調べ回っていたが、資料も見当たらず、教えてくれる人も現れない。
すると、大きな神棚の在る広い座敷が映って来て、神棚を背にして座る座卓が、広い座敷の真中に、一個だけ有るのが映って来た。
其の広い部屋には、一個の座卓しか無いのである。
私が、その座卓に気が付いて、近付いて行くと、白い衣装の60〜70歳位の女性が座って居て、資料らしき物を重ねている。
私は、もっと近付いて行き、その資料らしき物を見ると、それは、ガラスの様に透明で、何も書かれていない物である。
重ねられている物は、下まで全部透き通っていて、何も読み取る事が出来ない。
私が不思議に想って、何か質問をしようと意ったら、その女性は一言も話さず、立ち上がって去って行った。
私はしばらく、積み上げられた、ガラスの様な透明な物を見詰めている間に、其の映像は消えた。
朝、意味がよく分からないので、広辞苑で先ず十種神宝を調べて見た。
「とくさのかんだら」(十種神宝)とは、【饒速日命(にぎはやひのみこと)がこの国に降った時、天神が授けたという十種の宝、すなわち瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死返玉(まるかえしたま)・道返玉(ちがえしのたま)・蛇比礼(へびのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさもののひれ)をいう。】と 載っている。
此れ等の事を、私なりに考えると、神事を行う時の、道具(品物)の種類で、鏡が二種、剣が一種、玉が四種、それに蛇の印と、蜂の印の付いた添え物と、供養の品物と成る。
十種神宝とは、と(十)くさ(品) かん(神)だから(宝) の意味である。
処が、今朝のメッセージで出て来た物は、此れ等の品物ではなく、透明なガラスの「頁・ページ」だけである。
其れは、鏡の様に、物の姿形が映る分けでもないし、出て来た人間も、神官ではなく普通の女性であった。
今朝のメッセージを、一言で説明するならば、「神に通じる為には、何の品物も必要ではなく、色気や物欲も消えて、何の知識も理屈も必要としない、年取った女性のように在りなさい。」との事の様である。
この様に受け取ると、私に思い当る事は、中国の老子の一語である。
老子の語に「大制は割かず」と有り、その一文に「知其雄、守其雌、為天下谿。」と有り、その内容は「雄の本質を把握したうえで、雌の立場に身を置くならば、万物の源泉となることができよう。」(徳間書店・「老子」・奥平卓訳)
正に、老子の謂うように、人間社会をややこしく駄目にしたのは、全部男性の仕業である。
女性が組み上げた社会なら、戦争も無く、宗教も不必要なので、神社も寺院も無くて良いことになる。
神社は、男性の祟り神を祭るものだし、寺院も釈迦の説法を書いた物を置く為に必要とされるものである。
釈迦自身も、寺を建てる事には反対しているのだ。
日本の神道の教えは、禊ぎ祓いが原則で、透き通った御魂で、神に仕える事である。インドの釈迦の教えも、中国の老子の教えも、全く同じである。
今朝のメッセージは、私には、神具も理屈も、必要ではない理・ことを告げて来たのだろう。
私は、自分の内側の、女性性に目覚めれば良いとの事だろうか。
其れに、王様や、社長や大臣の様な事は、一切しなくて良いとの事だろう。
明日は、月後れの七夕だが、私には、もう何の願い事もないので、短冊に願い事を書いて、竹に吊るす作業も必要ない。
子供や、孫も、一緒に居ないので、愛情表現もしなくて良いのだ。
文化や伝統も、最初から有る物ではなく、何時の時代かに、男性が考え出した物である。
文化や、伝統などの、積み上げられた物を、全部消して行けば、何も無かった原点に至る事に成る。
その原点には、生物の原初である、雌の本質が立ち現れて来るだけなのだ。
今朝映って来た女性は、今までに積み上げられて来た頁を、全部、一度逆さに引っ繰り返して、原初の部分から、不必要な「ツミ」の分を消去していたのではないだろうか。
私が覗いたのは、卓上にある分ではなく、女性の、右後側に一枚一枚積み重なる透明なガラスの頁だけだった。
其の女性が、どの様な方法で、過去の情報を消し去っていたのかは、私には分からない。女性の姿で、現れた者は、神の姿なのか、神霊なのか、それとも私の潜在意識なのか、それさえも分からないのだ。
未だ未だ、分からない事ばかりである。
だからこそ、神の世界なのだろう。
「神」とは、人間の目には直接見えない働きの事である。
その働きが、人間に、何かの形で伝えようとして来ることが、霊夢であったり、声であったり、奇跡なのだ。
其れ受け取る者が、一人でも此の世界に在れば、宇宙の目的は達せられる事になる。
屋久島は、その場所として、最後に残された場所なのかも知れない。
透明なガラスの頁とは、宇宙のトキ(時空)の別の姿なのだ。
平成15年8月6日
礒邉自適
2003/8/4
物の名
15・8・4
今朝、瞑想をしていると、「浜木綿・はまゆう」の花と「山牛蒡・やまごぼう」の花が映って来た。
海岸に、自生している植物の花と、山野に、自生している花が両方映って来たのには、どう言う意味が有るのだろうか。
両方とも、白い花で、夏に咲く草花だし、今が丁度その季節である。
8月に入って、私の気持ちは穏やかで、身の回りにも特別な事が無く、聖霊達も静かなので、頭も思考が停止してしまっている様だ。そんな中で、夏の白い花が映ってきた事に、どう言う意味合いが有るのだろうか。
浜木綿も、山牛蒡も、食料にするものではないし、花を切り花として使用する物でもない。私の思考が止まっている為に、是と言ったヒラメキも無いので、浜木綿の名を辞典で調べて見た。
「浜木綿」とは「ハマユフ」で「ハマオモトの別称」と載っている。
浜のオモトなので「オモト」を調べると、「おもと【万年青】」と有り、年中葉が青いからの様だ。浜に生える、年中青い植物の意味合いの様である。
一方「山牛蒡」の方は、単に「山にある牛蒡」との意味で、牛蒡は「キク科の植物」と載っている。
牛蒡は、中国原産で日本に持ち込まれたとの事なので、牛蒡の名は中国名という事に成る。オモトの方も、中国音の烏木毒(wu-mu-tu)からの様なので、両方の名が中国で付けられたことに成り、日本には元々呼び名が無かった事に成る。
中国で、植物に名前が多く付けられたのは、植物が薬に利用されたからであろう。アマゾンに住む原住民も、樹木の名前を500種類程知っているが、殆どが、薬効の意味が木の名前と成っている様である。
と言う事は、人間は、自分に利用価値の有る物には、名前を付けるが、価値の見出せない物には、名前を与えないとの事の様である。
其れは、人間の気に成らない物には、名前は必要無い事になる。
その様に考えると、園芸に興味が無い人には、花の名前等どうでも良い事になり、そんな人達ばかりに成れば、花の名前は忘れ去られ、名前が無くなれば、花自体も栽培されなくなり、自然の中に自生する植物以外は、消えてしまう事に成る。
浜木綿や、山牛蒡は、自然の中に勝手に生えている物だから、人間が名前を与えなくても、永遠に生存出来ることに成る。
人間社会は、言葉に因って成り立っている。言葉は、名詞から始まったと想われるので、物に名前を与える事から、文化が生じたと考えて良いだろう。
物に、名前が付けられていなかった大昔には、人間の思考は、どの様に働いていたのだろうか。
私は、此処数日、思考が止まっている。だから、白い花が映って来たのだろうか。人間が、勝手に付けた名前を、浜木綿(浜万年青)も、山牛蒡も嫌がっているのだろうか。
白い花は、赤や黄色の色が付いていないので、色彩を特色として呼ぶ事が出来ない。白いだけの花でも、花の形状は異なっている。その形状の違いで、私達は識別をしている。そして、その形に因って食べられる物か、薬として使えるかどうかの、区別をし、名前を与えて来た。
食べられもせず、薬にも成らないで、花の色彩が美しくもなければ、人間に名前を与えられ、利用される事が無いと言う事に成る。
私を捜し出した無庵師匠は「自適さん 名前を出さないでも 生きていける人間が 一流なのだよ。有名な人は 名前を出さなければ 生きていけない人なのだから 二流の人達なのだよ」と、教えてくれた。
この事からすると、今朝の白い花のメッセージは、色も無く、人間に食べられも利用もされず、名前も付けられずに、生きて行く事が、一番大事だと教えて来たのだろうか。
数日、思考が動かないので、食べ物が悪くて、脳味噌が駄目に成っているのかと想っていたが、そうではなく、私の業・カルマが、皆外れたとの事なのかも知れない。
私の脳が、生れたばかりの子供の様に、物の姿形は目に見えていても、何一つ名前を知らない、無垢のままの状態に、返ったと考えて良いのではないだろうか。
私が8年前、中国の王様の体に、針を打っていた人の子孫に、合計7回針を打って貰った事がある。その方が言うには、王様は、北を背にし、南を向いて深く椅子に座り、背筋を真直ぐに伸ばして、頭で何も考えてはいけないのだと教えてくれた。
私の意識が、現在その様に成っているのかも知れない。
今朝の白い映像は、初めに浜木綿の花が、四本横に並んで咲いていて、次に山牛蒡の花が三本纏って咲いていた。四本並んでいた花から、三本纏った形へと移った。浜木綿の花弁は6弁であるが、山牛蒡の花は小さい花が数え切れなく付いている。
其れ等の形状が、何を現しているのかは分からないが、名前が無くても、花は其々の形を護って役目を果たし、遺伝子を伝え残しているのである。
私が、人類にとって、どんな形状の働きをし、雌花の役目なのか、雄花の役目なのかも、未だ明確ではないが、他人に名前を付けられない生き方をしなければ成らない様である。
チベットのゾクチェンの教に
「大いなる 完成を知るには
最高峰の頂上に 立つようなものだ。
いかなる高さの山も 神秘には見えない。
視界から 隠されているものは 何もない。
この最高の山頂に立つもの 彼は 決て 誰にも
そして 何物にも 条件付けられることはない。」 と有り
ミラレパの教には
「悟りとは 宇宙に関する 知識ではなく
宇宙の本質を 生きる経験に 他ならない」 とも有る。
私の思考が止まり、白い花が映って来たと言うことは、私の潜在意識が、植物のシステムにまで、返り着いたとの事だろうか。
数日、頭が動かない事を気にしていたが、此の儘で良いらしい。私も、未だ、有る方が善いとの考えが、有った様である。
中国の荘子の語に「至人無己」とある。
私も、ようやく、古代の偉人の年令に、近付いているのだろうか。
平成15年8月4日
礒邉自適
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