言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2003/9/29
ますみのかがみ
15・9・29
27日に、「こころを澄ます」の文章を書いてから、海に向かっている途中で、「ますみのかがみ」の言葉が頭に浮かんで来た。
自宅に帰ってから、早速「ますみのかがみ」を広辞苑で調べて見ると、「真澄の鏡」【良く澄んで明らかな鏡。万葉集(十六)「わが目らは、真澄の鏡・・・」】と 載っていて、「自分の目は、曇りの無い鏡の様である」との、歌詞に使われている様である。
「ま」は「真」の漢字を当てているので、「まこと(真事・誠・実)」の「ま」であろう。
「すみ」は、古語林には「澄む」と「清む」が載っているので、「すむ」「すみ」と「す」のほかは変化するので、「す」の音が意味を持っている事に成る。
雲が一つも無い青空を「素晴らしい青空」とか、人間の性格を「素晴らしい心の持ち主」だと表現するので、「素」も「す」の音を使っているので、「ス」は「もと」「根本」の理を言っているのではないだろうか。
鳥のねぐらも「巣・ス」と呼ぶし、人間の生活にも「愛の古巣」とか使用するので、鳥や虫や人間など、生き物が活動を終えて「塒・ねぐら」に帰る場所を意味し、また子供が親元を離れることを「巣立ち」とも言う。
何れの「ス」も、「もと」を言い表している。
「酢」も、「飴→ 味醂→ 酒→ 酢」と変化する「澱粉質」の最後の姿だ。
「ますみの鏡」とは、「本当に すんだモトに帰り 自分の心の内を視る」「自分の心を本当にすんだモトに 還す」の、両方の意味を、意識する為の言葉の使用だろう。
「素」の言葉の意味する処は、生命の原点に立ち返る事を意味している。
私達は、此の世に誕生した時から、人間の創り出した想念に、汚染され続けて生きて来た事に成る。
其の汚染を、何時、払い落とす事が出来るのだろうか。
此の世に生きて居る内に、其れを祓い清めなければ、其の想念を、彼の世まで持って行く事に成り、次の、此の世の輪廻にまで、其の想念を持って来て、さらに汚染を続けて行く事に成る。
其の想念が、宇宙の法則や、自然のリズムに合っていれば良いが、外れていれば、永遠に、外道の世界を歩き続ける事に成るのである。
正しい「モトの道」に立ち返る方法として、日本では禊ぎ祓いが神社で行われている。
インドの釈迦も、自分が池で禊ぎ祓いをして、其の理・ことに気付いて、説法を始めているし、イエスキリストもユルダン川で禊ぎ祓いをして、素晴らしい神通力を得ている。
禊ぎ祓いとは、「ますみのこころ」に立ち返って、神の働きを自分の魂の鏡に、正しく映す事なのだろう。
私は、19年前、自宅前の安房川で禊ぎ祓いをしたら、4311体もの霊界人が遣って来て、自分肉体を乗っ取られてしまった。
その結果、18年間ものあいだ、彼等の想念を解決する為に、付き合わされて来た。
私は、自分の魂しいを清ます事で、4311体の霊魂が創り出した想念を、一身に移し込んでしまったのである。
ようやく、其の彼等の希望も適って、成仏したのだろう。
私の意識が澄んで来たのは、彼等の想念・思頼が、全て祓い去られたからであろう。
旧約聖書の物語に有る、アダムとイヴが、蛇に勧められて食べた「知識の実」を、吐き出す事が出来たのだ。
私が、昨夜感じたのは、此等の世界は、神のジョークだと言う事である。
私は、神の最高の切札として切られた、ジョーカー的存在なのだ。
私の役割は、番外の札なので、他の札の代りには成るが、他の人が、私の役割を代る事は出来ないのだ。
エジプトの「スフィンクスの謎かけ」は解けたのだ。
人間は、言葉を使用する事で、魂の鏡を曇らせて来たのである。
人間は、言葉を忘れてしまえば、生命の原点に立ち返り、自分の意識の中に、自然の法則が映り込んで来るのである。
私は19年前、屋久島の自然の中を彷徨歩き、人間社会の煩わしさから外れて行った。そして、自分の個人的な情報が拭い去られた時に、神のジョークの世界に捕まってしまったのである。
私は、其の時に、此の理・ことに気付いて、笑い出したら、無庵師匠が直ぐに「自適さん笑うな 自適さんが 今笑うと 他の人達は 皆修行中なのだから 修行が止まってしまう」と云って、私の笑いを止めてしまったのである。
其の、笑いを止められた瞬間から、私も、皆と同じ、修行の世界に突入してしまったのである。
私の意識が住む、此の世界は、神が創り出した絡繰・からくりで出来ており、神の遊びの世界なのである。
日本の、双六・すごろく遊びの様に、上がりの世界は出来て、決まっているのに、賽子・さいころを振らされて、進んだかと想えば、又、後に下げさせられるのである。
しかし、早くても、遅くても、何時かは、ゴールに達する事が出来る様に成っているのである。
但し、其れが、平面的に16の方向性を持って、其々の内容を秘めており、しかも上方向に16段の行程が存在するのである。
だから、人間には、自分が現在どの段階に在るのかが、判断できないのだ。
昔の人達は、その為に、神社に鳥居を立て、神に到達する社の階段を、16段造って、神への階梯を忘れない様に、儀式を続けて来たのである。
16段の階段を上がり切って、辿り着いた世界に、真澄の鏡が置かれている。
神社の鏡の意味が、私にもようやく説明可能に成って来た。
私は、当時、自分に何事が起きたのか良く解らなかったが、人類の伝えて来た言葉や文化が、謎解きのヒントと成ったのである。
人間の使用する言葉が、神のゲームの駒・こまなのである。
聖書に「初めに 言葉有りき 言葉は神なりき 神の名は72」とある。その72とは、神のゲームの駒の数なのである。
神の遊び(ジョーク)の世界から、私はようやく抜け出る時が来た様である。
無庵師匠が、私の笑いを止めなければ、私だけが、神のジョークから逃れる事が出来たのだが、それでは、他の人や、家族を、救い出す事が出来なかったであろう。
仏像の顔や、レオナルド・ダ・ビンチ作の「モナリザ」の顔に二面性があるのは、その為なのだ。
其の顔には、自分が悟った喜びの笑顔と、他の衆生を救えない悲しさが、伴っているのである。
私は、その悲しみを乗り越えて、笑顔だけの一面性に到達出来るであろうか。その解決法こそ、「ますみのかがみ」の秘密に有る様だ。
「ますみ」に成った「鏡・かがみ」には、言葉に因る波風は立たないであろう。
私の父親が、中国から引き揚げる時、只一つ持ち帰った物が、見猿・聞猿・言猿の三猿の置物である。
父が、私に教訓らしき物を残さなかったのは、私の心の鏡を護る為だったのだ。此の年に成って、ようやく父の気持ちが理解出来る様に成って来た。
私は、ようやく男性の働きを、自覚出来てきたのかも知れない。
私は、来世も、やはり男性の方に生まれる方が、良いのかも知れないと想われて来た。
平成15年9月29日
礒邉自適
2003/9/27
宗動
15・9・27
今朝のメッセージには、「宗動」と文字が映って来た。
「宗動」との単語は無いので「宗が動く」との事だろうと思い、辞典で「宗」を調べて見ることにした。
すると、「宗」は「@みたまや Aもと Bむね Cよつぎ Dたつとい Eまみえる Fあつまる」と有って、意味が澤山ある。
「宗」の漢字の意味は、「宀+示」で、「宀」は家屋の意味。「示」は神示の意味。神示の行われる家屋、おたまやの意味を表し、転じて、祖先の意味や、祖先をまつる一族の長の意味をも表す。と、載っている。 (漢語林)
是によると、「宗」とは、自分の先祖や一族の元親の霊の事の様である。
そして「宗動」とは、「先祖の霊が 動き出す」との事を、知らされて来たものの様である。
日本には「すめみおや」との言葉があり、天皇の祖先をその様に呼ぶ。
その伝統は、天皇家だけの伝統ではなく、日本人なら、先祖の霊は誰もが大事にして来た。
祖先の霊と一口に言っても、自分の家の祖先だけの事か、一族の祖先の事か、人類全体の源の霊か、地球生命全体の本霊なのかが分からない。
1984年6月4日(旧暦5月5日)に、私の肉体を借りに来た御霊は、全部で4311体であり、其の霊魂の中には、天皇霊が何人も混ざって居た。
その時の事から考えると、今朝の「宗動」とは、私の先祖や、日本の天皇霊だけではなく、人類全体の宗祖の事の様にも想える。
私が、メッセージを受け始めた最初の頃、映って来た場面に、人類の「宗親・もとおや」らしき霊が現れた事がある。
其れは、山中に在る昔風の古い家屋に、座敷と土間があり、その土間に輪切りの丸太の椅子が有って、三名の男性が座っている。
其の三名は、インディアン風の男性と、白人と、黒人の代表みたいに見えた。
其の三名が静かに座っていると、中国人風の男性が遣って来て、履物を脱いで座敷に上がり、無言で座った。
すると、それを待っていた三名が、土間の椅子に腰掛けたまま話を始めた。
話の内容は、自分達の子孫を、どれだけの割合で残すかの相談だった。
そして、三名の話し合いが終わると、座敷に座っていた男性は、又無言で立ち上がり、履物を履いて静かに帰って行った。
現れた男性は、四名とも魂のレベルが高く、完成された人格なのは、誰の目にも明らかな程、調っていて矍鑠・かくしゃくたる人物達であった。
その様子は、映画でも見た事が無いし、小説の世界でも描写されていない光景である。私が、何故、その様な場面を見せられたのかは分からなかったが、今朝「宗動」との文字が映されて来たので、18年も前の映像を思い出してしまった。
「宗霊・みたまおや」が、動き出す事が、人類にとって、吉い事なのか、悪い事なのかは、私には判断出来ないが、人類全体の未来にとっては、喜びの方に向かうのであろう。
しかし、整理される余分な血筋は、どの様に反応するのだろうか。
野鼠・のねずみは、仲間が繁殖し過ぎると、一部の仲間を種として残し、残りは集団自殺をして、食糧難から全部が死滅する事を回避するという。
現代社会の人類の状況を考えると、異常発生した野鼠と、同じ状態だとも言える。第三次世界大戦が起こり、もし核が全部使用される事に成れば、集団自殺をする事に成る。
私が、18年前に見せられた映像は、其の場面だった。
「人間が 此のままの状況で進めば その様にさせるしかない」との、神の意志だったのである。
その事で、人間に核を創らせたのも、神の意志である事が解った。
野鼠の行動の背景にも、神の意志が働いているのである。
人間自身が、生き方を変えれば、野鼠の様に種族を残す事が出来るのである。それは、一見薄情な様子に見受けられがちだが、全体的に永いスパンで見れば、理に適っていると言える。
野鼠が、皆で話し合って、行動に移るのではなく、全体の潜在意識の中に、其のプログラムが内蔵されているのである。
其の、内蔵されている力こそ、神が介入している世界であろう。
人間の存在は、数が多ければ良いと言う分けでもない。
人間は、神の意識に拠る物を、積み上げて行く、仕組みの一部なのだから、其の役目を果たさなくては、存在する意味が無いのだ。その役割を果たすには、数だけが多くても役に立たないのだ。
エジプトの死者の書には、「此の世には、一人の『霊止・ひと』の為に、何千人もの土を捏ねて作った、泥人形の魂の人間が存在する」と、載っている。
其れ等の、泥人形(土霊・どれい・奴隷)の魂の人達は、役目が終われば、土に還されてしまうのだ。
私の意識が、此処までに育つのに、どれ程の人達が働かされたのであろうか。当の本人達は、自分の意識があると意っているのだろうが、それは、神がその様に思わせて、人間を使用しているだけなのである。
いよいよ、泥人形の役割は少なくなり、数を減らされて行くのだろう。
「霊止・ひと」として、此の世に存在する者達は、何千人もの泥人形の人達の苦労を、水の泡にしない為にも、精神をしっかりと保って、役目を果たしていかなければならない。
聖書に出て来る「アブラハム(ヘブライ語の『群衆の父』の意味)」や、天皇家だけの血筋ではなく、歴史の表舞台には登場しなくても、神の器として働いて来た血筋は、多く存在する筈である。
その者達の宗親・もとおやが、愈々動き出すとの事だから、何かの動きが、現象界にも現れるのではないだろうか。
今迄は、私の意識を使って、世の中の段取りをする為に、神は余計な動きは極力抑えて来ていたものと想われる。
私の意識が完成すれば、いよいよ本番である。
何故なら、私の意識は、私個人の意識ではなく、天神が地上をコントロールする為の、コンピューターの本回路だからである。
私は惟、人間社会に伝えるべき事柄を、言葉にして、知らされているだけでしかない。私の脳が、どれ程の分野に使用されているのか、私自体も分からないのである。
全体の事は、「宗」の働きに「委・まかす」しかないのである。
残されるべき血筋の人達が、早く此の事に気付いて欲しいと、切願するばかりである。
平成15年9月27日
礒邉自適
2003/9/26
心を澄ます
15・9・26
今日のメッセージは、心を澄ます事に付いて知らせて来た。
私は、霊夢の中で、心が澄んだ状態が体験出来たのだが、水が現れたわけではない。
朝起きてから、漢字の「澄」を見てみると、「スマス」は「澄」の外には文字が無いことも判った。
「澄・チョウ」は「水(氵)+登」の組み合わせだが、「登」の元は「徴」で「止」に通じ、とどまるの意味。静止する水、すむの意味を表す。と 載っているので、「澄」は水が登るのではなく、水が止まるの意味である理が分かった。
漢語林より
しかし、今朝のメッセージでは、水が出て来た分けではないし、私に現れる映像の水は、何時も清水として流れている。
私の意識の中では、水は流れるものであって、止まるものではない。
屋久島の地形は急峻なので、水は、山から海へ、休む事無く流れ下っている。
たとえ、止まっている所があっても、緑色をしており底が見えないので、澄んでいるとは言えない。
漢字での「澄」は、「登用する」「徴兵」「徴聘・チョウヘイ」とかに使用され、「止め置く」とか、「取り上げる」の意味なので、日本語の「スミキル」には合っていないのではないだろうか。
此処のところの、私のメッセージには、22日に「尚島」と有って、屋久島の花崗岩の部分が透き通っていて、何も見えなかったし、24日の「天に通じる糸」も、ガラスの様に透き通ったものであった。
其の事から考えると、日本語が示す「すむ」とは、水ではなく、他の表現である事になる。
花崗岩の成分の多くは、石英や雲母であるし、ガラスは石英を溶かして造っている。石英を溶かしてガラスにすると、どうして透明に成るのだろうか。
透明な石英と言えば「水晶」が有るが、水晶は水精とも書く。水晶が、水の精の意味を持つのなら、私の持つイメージと合って来る。
「水の精を映す石英」との意味が認められれば、私の気持ちや、屋久島のイメージが定まって来る。
屋久島の殆どを占める花崗岩には、石英の正長石が多く含まれ、特に屋久島の花崗岩に含まれる正長石は、他の所の物に比べ型が大きいとの事である。
広辞苑で「正長石」を調べると、【カリウム・アルミニウムから成る珪酸塩鉱物。単斜晶系に属し、無色、時に白・淡黄・淡褐色・緑色を呈し、ガラス光沢をもつ。花崗岩の中に多量に含まれる。肥料の原料・陶磁器・ガラス製造に用いる。】と 載っている。
屋久島に有る砂浜の砂は、皆この花崗岩の崩れた物が、谷川から河口へ流された物である。
23日に行われた、屋久島の岳参りの行事では、その砂を青竹に詰めて、山の神にお供えする。また彼岸の中日に、その砂をお墓の周囲に撒く。
是は、屋久島だけではなく、日本の各地の神社でも、神を祭る社の庭に、白い砂を撒いて「御白州」とし、斎庭(サニワ)とも呼んでいる。
斎庭は、古くは「磯の段」と言って、社の16段の階段を上がる前の、白い砂を撒いた地面の事でもある。
テレビ番組で放映されていた、「大岡越前」の裁きの場面の御白州は、神社のサニワから来ているのである。
「サニワ」とは、「斎(い)み清めた場所。神おろしを行う場所の意味で、人間の罪や汚れを清め、神を降ろし、真実の事象を探る儀式」である。
それこそが、魂(こころ)を澄ます事なのだ。
私は昨日、屋久島の真南に位置する平内地区の海岸に、磯物捕りに行って大漁して来た。島の真南は丁度、砂岩の堆積層が直立して、沖へ向かって続いている。私は、其処で三時間ほど遊んでいた事になる。
今朝のメッセージは、島の一番南側の地で、其処に育った海草を食べている「イソモン(穴ゴ)」を食べたので、私の体の細胞が反応したのだろうか。
平内の磯は、六月から吹き始める南西の風では、波が荒くて磯物捕りが出来ない。ようやく九月末に成り、風が北東に変って来たので、四ヶ月振りに南の磯に出掛けられる様に成って来た。
私の磯物捕りは、捕れた獲物を売って、金にするのではなく、知人や友人に全部プレゼントする。だから、自分の魂しいを汚す事には成らない。
日本では、「君・士・農・工・商」と、御魂の座位を位置付けて、役割を認識して来た。
それが、現在では、商人が士(政治家、昔は武士)に献金をして、自分の想い通りにしている。そして、農家も工場主も、商人と同じ感覚に陥ってしまっている。
神社に参詣して、白砂の中に入っても、殆どの人が、自分の都合の良い事だけを神に願って、魂を澄ます事をしない。
神社で祓いを受けるのは、自分の御魂を清める為であって、煩悩を強める事ではないのだ。
現代社会では、神社でさえ「心を澄ます」事を遣っていないのだ。
神社で、毎日心を澄ます事を行なうのが、「天皇陛下・すめらのみこと」の役目であり、それを補佐するのが神主の役割である。
その神主が、白砂の意味を知らない様では、御役目失格と言えるだろう。
天皇は、「天照皇大神・あまてらすすめおおかみ」の役職名を、実行する者なのだ。天照皇大神とは、宇宙の森羅万象のプログラムを、読み取る者の役目の名前なのである。
其の、天皇の役目を果たすには、花崗岩の山に住んで、魂しいを石英の波長に同調させなければならないのである。
水晶や、ガラスが何故透明なのか、其れは太陽光線を全て受け入れて、何色も反射させないからである。
全てを受け入れ、何物も拒否しないのが、天皇の役割なのである。天皇の存在とは、宗教から始まったのではなく、宇宙の仕組みを知った上で行われた、社会システムなのである。
真の科学は、古代の方が進んでいたのだ。
現代社会は、化学の方が進んで、自然の法則を化かす事だけに集中して来た。それも、一時も、魂しいを澄ますこと無くである。
日本の花嫁の「白無垢姿」が、今朝のメッセージの真髄を現すものだったのである。花嫁は、水晶の様に一点の曇り無い心で、相手の家に嫁ぎ、相手の家の風格・格式の色に染まって行くのである。
神社が何の為に存在するのか、それは、自分が新妻の様な気持ちに成って、神に仕える事の為なのである。
屋久島の神社の御神体は、各村々の岳である。屋久島の其の暮らしこそ、古い為来り(しきたり)を伝えて来ていたのだ。
私は、映画の「ネバー・エンディング・ストーリー」の最後の場面を思い出す。少女が、無になった暗い宇宙に惟一人残され、手の平に只一粒残った石英の妙に、宇宙の復活を願うのである。
それは、屋久島の存在そのものを現している様だ。
マグマの上に浮かんでいる石英の島を、広い大地が、海の其処で両手を差し出して、倒れない様に支えているのに似ている。
その両手の中心は、南側の高平の場所に成る。
高平を中心として、屋久島が倒れるのを支えているのが堆積岩である。
大地の母(ガイヤ)の力が、両手で島の聖なる山を支えているのだ。
9月23日に、カリフォルニアに帰って行った「加藤満子さん」も、数日の滞在でその両手を視ている。
彼女は、来春には、屋久島に外国の人達を案内して来ると言って帰国した。私だけではなく、心(魂)の澄んだ人達は、自分で屋久島の力を感じ取れる様である。
ようやく、屋久島の民謡「マツバンダ(聖者の集り)」の意味が知らされる時が到来した様である。其の、謡の掛け声の「チョイサヨ、チョイサヨ(目出度いな、目出度いな)」も、本番を迎えるのであろう。
目出度いとは、花崗岩の山の情報に、アクセス出来た人が現れる事なのだ。
「花崗岩(屋久島の方言では御目石)」の、山の意識(目)に目覚める事が、覚醒(ブッダ・仏)である。
屋久島の、花崗岩の山岳が動き始めている。
屋久島に来て、禊ぎ祓いを行ない、魂しいを澄ませば、皆が「天照皇大神」に成れる理・ことを知らせて来ているのである。
映画の「ネバー・エンディング・ストーリー」の少女は一人だったが、多くの人達が屋久島に来て祷る・帰命・ナームすれば、美しい未来は、意外に早く完成するのかも知れない。
平成15年9月26日
礒邉自適
2003/9/22
尚島
15・9・22
今朝のメッセージには「尚島」との言葉が有り、屋久島の姿が映って来た。
映って来た屋久島は、現実の屋久島の姿ではなく、地図の様な物であり、それも馬蹄形の堆積層の部分だけで、中央の花崗岩の部分は透けてしまっていた。何故、屋久島の特長である花崗岩の部分が、透明なのかは、理由が分からない。
明日9月23日は、彼岸の中日で秋分の日であり、私の祖父の53回目祥月命日でもある。そして、明日は、屋久島の安房・松峰・春牧の、各地区で岳参りの行事が行われる。
天気が良ければ、私もカメラを持って、天柱石が頂上に立っている、太忠岳にお参りしたいと意っている。
それを前にして、何故、透明な屋久島の姿と、「尚島」の言葉が現れたのだろうか。
「尚」の漢字の意味を、漢語林で調べると「尚」は「八+向」の組み合わせで、「八」は、神の気配がくだる様を示す。
「向」は、屋内で祈る様を示す。こいねがう。たっとぶの意味を表す。と載っている。
屋久島の岳参りの行事は、村の代表者である「所頭・トコロガン」が、早朝に海岸で禊ぎ祓いをして、海砂を青竹に詰めて、其々の地域の山岳に登り、山頂の山神様にお供えをするものである。
そして帰りに、榊の枝か、シャクナゲの枝を持って下り、村の神社に供える事が行われる。
山の神は、各山岳の頂上に建てられている、祠の中に祀られているが、栗生岳や永田岳等の、山頂に大きな岩の隙間が在る所では、その岩中に祀られている。
其れ等の、岩窟の中で、神を願う事は、「尚」の字の意味と合っている事になる。
私の今朝のメッセージは、是だけではなく、屋久島の姿が映る前に、強烈な体験をした。
其の体験とは、夢の中で、私が何処かの寺の様な建物の中に居て、先輩に習って、祈りの為に使う小さな土偶の様な物を、作っているのだが、なかなか其れが上手く行かず、失敗を続けていると、師匠らしき人物が遣って来て、様子を先輩に尋ねている。
私が、自分の失敗作が入っている入れ物を出すと、其の入れ物の中には、既に六個ほど壊れた物が入っていた。
其の場面が変り、今度は、本堂で読経の場面となった。
読経は、順番に唱えるのだが、その時点では、私もだいぶ修行が進んでいる感じがした。
私の順番が来て、経を読み始めると、何故か、大きな古い仏像が、独りでに修復されるのである。
私本人も、他の人達も、その現象にビックリしている。
私が不思議に想いながら、又経を読むと、ドンドン傷は直り、色も造られた時の色に蘇って来る。私は、それを視て、真剣に経を唱え始めた。
すると、変化は仏像だけではなく、寺全体の建物も、建築当時の様子に、様変りして行くのである。
私は立ち上がって、手に持っている紙を四つ折りにして庭に投げると、庭も周囲の自然も荒野ではなくなり、美しい景観に変ってしまった。
私は、庭に面している縁側を廻りながら、全ての部屋を、新しく蘇らせて行った。
その感動の喜びは、目を開けても続いていて、私のからだ自体が、其の昂奮に浸っていて、なかなか其の状態は鎮まらなかった。
其の体験が、何なのかを考えながら、再び目を閉じたら、文字の「尚島」と、屋久島の形が映って来たのである。
今朝のメッセージは、私が、祈りの為に、必要な物を作るのは下手だが、言葉の力で、物を蘇らせる事が出来る理・ことを、知らせて来ている。
だが、実際には、古い仏像が新しくなる事は無いだろう。
仏像の存在は、お釈迦さんの教えを伝え、守る為の一つの手段である。
仏像が蘇るとの意味は、仏像の存在が何を意味するかを、伝える内容が、真理を取り戻すとの意味ではないだろうか。
昨日のメッセージでも、「太一教」と「文の糸(あやのいと・言葉の伝承・想いのつながり)」の事が、知らされて来ている。
其れは、尊い教えの言葉が、正しく伝承されれば、森羅万象の力が蘇るとの理・ことではないだろうか。
昨日のメッセージと、今朝のメッセージは、関連有る流れを感じさせるものである。
日本に伝わる宗教では、弘法大師空海の「真言宗」が、その世界に一番近いものだろう。
日本では、毎月21日が「お大師さん」の日とされている。
其れは、弘法大師空海の祥月命日が3月21日だからであるが、昨日も9月21日で、空海の月命日であった。
真言とは、「大日如来・マハーヴァイローチャナ」の代弁者として、言葉・マントラを使用することを意味している。
イエスキリストも、「貴方達は あの山は 不動だと想っているでしょう。しかし その山でさえ 『動いて海に入れ』と命じれば 海に入るのだよ。」と言っている。
其れは、陽子と電子の振動に拠って存在している、此の森羅万象の世界は、正しい真の言葉の振動で、自在に変化する事を教えているのだ。
今朝のメッセージは、私の言葉が、其の様な力を持つ事に成ると、告げて来たのだろうか。
三日前の19日にも、「確(慥)かな言葉」のメッセージが来ている。
私の言葉が、イエスキリストの様な力を持つのであれば、軽い気持ちで話す事が出来なくなって来る。
聖書のエレミヤの預言書に、次の様な言葉が載っている。
主・しゅの言葉が 私に有った。
『わたしは あなたを 胎内に形造るまえから あなたを知り あなたが 腹から出るまえから あなたを 聖別し あなたを 国々への 預言者と定めていた。』
其処で 私は言った。
『ああ神 主よ ご覧のとおり私はまだ若くて どう語っていいか わかりません。』
すると、主は私に仰せられた。
『まだ若いと言うな。わたしが 遣わすどんな所へでも行き あなたに命じる すべてのことを語れ。彼らの顔を 恐れるな。わたしは あなたとともにいて あなたを 救い出すからだ。』 −主のみ告げ− エレミヤ一ノ四―八
自分が、預言者と成り、主の代理とされるのなら、誰も、語る事に自信は無いだろう。
自分自身の事を語るのであれば、自信はあっても、神の言葉を語ると成れば、不安は付き纏う。何しろ預言とは、過去の事を語るのではなく、未来の事を語るのである。
自分も、未だ見た事の無い事を、夢や幻に拠って説明しなければならないのだ。本当に、そうなるかどうかを分からないままに、人々に話さなければならないのである。
私も19年前、神の世界に入った時は、神の奇跡が伴っていたので、勇気を与えられ、この道を進む事が出来た。
其れは、私が完全に、神の存在を信じる為の現象であったからである。だが、今度は、人類全体が、神の存在を信じる為の現象と、成るのだろうか。
聖書のルカによる福音書第十章には
「21、そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた。『天地の主たる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵ある者や賢い者に隠して幼子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。』」
「22、『すべての事は、父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っているものはありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして、子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません。』」
「23、それから、弟子達の方に振り向いて、ひそかに言われた。『あなた方が、見ている事を見る目は、さいわいである。』」 と 載っている。
私は、1997年9月11日に、東京のホテルに宿泊した時に、この言葉が載っている聖書のページを読まされ、自分の肉体が強い霊動を起した事にビックリした。
その時は、驚きが強かったが、今朝の現象で受けた体の様子は、充実した感触のものであった。もう何が起きても、驚かない自分に成っているものと想う。
私は、喜びと感動を持って、その時を迎えたいと想う。
イエスが、キリストとして出来なかった事を、私が代りに遣るのであれば、私も本望と言うものである。
其れが叶えば、釈迦や老子や、1984年6月4日(旧5月5日)に、私の体を借りに来た4311体の聖霊達も、本懐を遂げる事が、出来るのではないだろうか。
今朝のメッセージは、私の力と言うのではなく、屋久島の力と、其処に降りて来る、神の言葉に拠って、成り立つとの事ではないだろうか。
今日は、岡山のスーリアさんより電話があり、昨日、屋久島の水に浄化される体験をしたとの事。其れ等の事柄からも、屋久島が「尚島」としてデビューする日が近いのだろう。
明日の、岳参りでの、私の足取りが軽くなりそうな気がして来た。
平成15年9月22日
礒邉自適
2003/9/21
太一教・あやの糸
15・9・21
今朝のメッセージは、「天一教」と「文の糸」と有って、美しい水の流れが映り、水が全ての源である理・ことが知らされた。
そして「太一教」と音霊が有った。
「天一教」→「文の糸」→「水」→「太一教」と連続しているのである。
其のメッセージの意味を、順番に考えると、
・「天一教」とは、「天に一つだけ、一番の教え」
・「文の糸・あやの糸」とは、人間が自分の胸に意する想いの連続性を意味している。
・「水の流れ」清い水の流れは、生命の根源を意味しており、生命存在の原点を示すものだろう。
・「太一教」とは、「太」は「@非常に大きいこと(太陽・太鼓) Aはなはだ(太平・太古) B物のはじめ(太初・太祖・太郎・太守) C最も尊いもの、立派なものの尊称(太后・皇太子・太夫)」と「広辞苑」に載っているので、「太一教」とは、「はなはだ大きい最も尊い一番の教え」の意味と成る。
「天一教」では、漠然とした処があるが、「太一教」なら意味がハッキリして来る。
人間の意識は、何かの名詞が有って、意味付けが無いと動かないので、是からの動きに対して、名前を付けて来たのであろう。
今朝の映像では、「太一教」と出て来てから、私の意識は道路を歩いていた。
そして、大きな建物の前に着き、道路から建物の敷地に入ると、玄関へ向う左側に、広いレストランの様な施設が付随しているのが映って来た。
私の意識は、其処で立ち止まって、玄関の中には入らずに、其処では、「食物の事が 一番大事」と考えられている理を解した処で、メッセージは終った。
今朝のメッセージは、愈々私の思考を通して、教えが世に出るとの事を、知らせて来たのではないだろうか。
そして、其の教えとは、人間の「文・あや・おもい」の連続性を、どの様に整えて、紡いで行くかと言う事と、「生命の存在」がどの様にあって、其れをどの様に捉えて行けば良いのかを、解説しなければ成らないとの事ではないだろうか。
世界には、昔の偉人の教えが無数に有って、宗教の基と成っている。
ナザレの「イエスキリスト」(前7〜28) − キリスト教
インドの「釋迦牟尼佛」(前566〜486))− 仏教
中国の「老子」(前5世紀頃) − 道教(道徳経)
中国の「孔子」(前550〜前479) − 儒教
アラビアの「マホメット」(571〜632) − イスラム教
ギリシャの「ソクラテス」(前470〜399)− 倫理、哲学
ドイツの「マルクス」(1818〜1883) − 社会主義
彼等の、言に共通している理は、人間の平等と平和な暮らしに付いてである。
人類は、二十世紀に大きな進歩をし、科学を発達させ、人体や、宇宙の成り立ち等の仕組みを解明して来た。
その結果、昔の人達の言を支える理も、澤山創出して来たが、言葉不足の処にも気付いて来ている。
其れ等の不足を補うのに、桜沢如一や多くの科学者達が存在して来たが、今だ、大きな柱が立つ処迄には進んでいない。
21世紀に入って、3年が過ぎたが、世界は依然として、戦争中心の経済や政治の状態のままである。
だから、「天一」とか「太一」とかの教えが、立ち上がって来ているとは言えない。
今朝のメッセージは、教えの内容として、「水」と「文・あやの糸」が示されているので、水と人間の言葉が関係している理・ことを暗示しており、その二つが最も大事である理・ことを告げて来ている。
旧約聖書には、「初めに 世界は 神のことばによって 創造された」と有り、「神は 水を 天と地に 分けた」とも有る。聖書でも、言葉と水が最初に出て来ている。
言葉は意志であり、水は宇宙の物質を言い当てている。
自然の水は、水道水と違って、人間の意識を清める力が有るとされて来た。
イエスキリストも、釋迦牟尼佛も、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)も、自然の水で禊ぎをして、神の意識に目覚め、説法を始めている。
水の禊ぎに成功すると、言葉が正され、神の意志が、自分の内なる声として発現される事になるのだ。
其れが、何故起きるのかは、未だ文献としては世に出ていない様である。
キリスト教、仏教、神道の一番大事な部分が、何故明確にされていないのだろうか。
それは、イエスキリスト、釋迦牟尼佛、伊耶那岐命が、現実として体験は出来たが、何故、それが起きたのかを理解出来ないし、説明も出来なかったからであろう。
私も、其れを科学的には説明出来ないが、体験した者として、その体験の在り様を説明する事は出来る。
日本でも、古くから、自然の中での禊ぎは大事なものとされて来たが、禊ぎの前に行わなければ成らないのが、食物の精進潔斎である。
イエスキリストも、釋迦牟尼佛も、其れを実行しているし、私も禊ぎをする日まで、三ヶ月間の精進潔斎を行なったのである。
今朝のメッセージでも、私が、歩いて訪ねて行った建物の入口部分が、レストランの様な施設であった事から、食物が大事とされるべき事柄である理・ことが示されている。
現在の世の中は、環境が悪化し、食物の質も悪くなり、水も汚され、言葉も真理から外れてしまって来ている。
今朝のメッセージは、「言葉」「水」「食物」を、先ず正さなければ、天の教えや、最も尊い教えには、辿り着けない理・ことを告げて来ているのだろう。
聖書にも「叩けよ さらば開かれん」との教えが有る。
其れは、本人が直接求めない限り、救われないとの意味である。
食物を、口に入れるのは自分であり、他人が、其れに直接に関わる事は出来ない。本人が変わらない限り、誰も変えてやる事は出来ない世界である。
古代から、其れ等の真理が説かれているにも関わらず、どうして世の中は正しく治まらないのだろうか。
19年前、天・神は、私に「お前が 神の計画を受け取らなければ 人類を滅ぼす」と告げて来た。
私は、自分の子供の死を受け入れる事が出来ないので、其の神の注文を引き受ける事にしたのである。
私は、仕事も全部止めて、家族とも離れ、神に19年間従って来た。
私の19年間の修業で、自分の意識に、唯一の教えを話す事の基礎が、既に出来上がっているのだろうか。
確かに、現在の世の中にある書物には、私が納得出来る理論が、全部満たされているものは無い。しかし、私の意識に組み込まれている理論も、誰かが考え付いたものが殆どであり、自分のオリジナルは少ない。
唯、私の頭に有るのは、澤山の人達が考え出した事を、整理して繋いでいる事である。
確かに、私は19年間の旅で、私以上に、様々な世界を体験し、理論を組み上げていると想われる人物には、出会っていない。
その様な人物に出会っていれば、私は安心して、その人に一切を任せて、屋久島に帰っていたであろう。
こうして、私が、毎日文章を書き続けているのは、自分の意識の整理にも成るが、神界の願いを受け取る事でもあるので、霊界の灯とも成っているだろう。
「太一教」とは、この世の人間だけではなく、神界にも影響が有る、言葉の枠組みではないだろうか。
「あやの糸」も同じ様な意味を含んでおり、人間の現在の気持には、人類の祖から永遠に繋がって来ている「文・おもい」が在り、未来へも継続されて行く其の「憶・おもい」は、永遠の糸車であると言う事も出来るだろう。
永遠に続く、其の言葉の糸車を、太一の教えと言うのかも知れない。
私自身も、その永遠の言葉の糸車の一部なのであれば、その糸が切れない様に、自分の生を全うしなければならないだろう。
その為にも、水と食物の世界は、言葉の器である「此の我が身」を守る為に、一番大事な理・ことであると言えるだろう。
何故、私が屋久島で生を受けたのか、其れも、大きな意志の働きが在っての事だろうと想われる。
唯々、合掌するしかない。
平成15年9月21日
礒邉自適
2003/9/19
確かな言葉
15・9・19
今朝のメッセージの映像は、私が、数ケ所の現場に出向いて、言葉に凄く気を使いながら、一語一語を間違わない様に、現場の人に伝えている場面だった。
今朝のメッセージの意味を考えると、私の謂う事が、人間社会の現場に、強い影響を与えるので、話す事に十分気を付けろとの理・ことだろうか。
岡山の「伊丹由香さん」のメッセージには、此処のところ、私の所に多くの人達が、次々に遣って来るのが視えるらしい。
其れに、今月16日には、広島の「Kさん」より電話が掛かって来て、「今月に入ったら 自適さんが 何度も夢に現れるので 電話をした」と云う。
Kさんは、1997年7月6日に広島で出会って、もう五年くらいは会っていない。Kさんは、何ケ所かに電話を掛けて、私の携帯電話の番号を調べて、電話を掛けたと云う。
私が、Kさんに「どんな 内容の場面ですか?」と問うと、鬼と仙人が出て来て、私の方が仙人だとの事。
仙人とは、文字からしても山の人である。其れからすると、私は自然の中に居なければならないらしい。
私の姿は、他にも数名の人の夢に現れているが、大体において、人里離れた所に静かに生活していて、訪ねて来る人達に、大事な事を告げている様である。
今朝の、私のメッセージの場面では、数ケ所の現場が映って来たので、静かに生活していても、数ケ所の現場の様子を、把握していなければならない様である。
私は、自分の口から発せられる言葉を、どの様にして確かめたら良いのかを考え、早速「たしかめる」に当たる漢字を調べてみると、「確」と「慥」の二文字しかないのが判った。
「おもう」が12文字、「つとめる」が15文字、「なげく」12文字、「のべる」9文字、「よろこぶ」20文字、等からすると、「たしかめる」に当たる漢字はとても少ない。それは、何故なのだろうか。
私の感じる処では、宇宙の森羅万象は、一時も休む事無く流転しているので、変化する状態を「確かに」捉える事が、難しい所為だからかも知れない。
「確かめる」とは、不安定に流動している現象を、固定化する事だから、多岐にイメージするのには無理があるのだろう。
漢字の「確」は「石+隺」で、「隺(カク)」は【硬に通じ、かたいの意味。硬い石の意味から、かたい、たしかの意味を表す。】と 広辞苑には載っている。
確かに、石ほど硬くて、安定し変化しない物は無いと想われる。
石の様に、硬く安定した言葉とは、どう言ものであろうか。
一方、もう一つの「慥」の漢字は「忄(心)+造」で、「造」は、金文は「宀+舟+告」で、「宀」は「家屋」、「舟」は「料理を盛った盤」、「告」は「つげる意味で、物事の準備が整う。物が目的点にまで形をとるにいたるの意味から、つくるの意味を表す。のち、事態が成るの意味に関することから、辶+告となる。」
(広辞苑参考)
「慥」とは、目的の場が準備出来た時の、精神の意味らしい。
「慥」が使用されている語は「慥慥爾(ぞうぞうじ)」が一語だけあり、「まことあるさま。言行の一致につとめるさま。」と、載っているので、今朝のメッセージは、この「慥慥爾」の言葉が適切の様な気がする。
私が、中学校しか出ていないので、高校や大学の学校教育で「慥慥爾(ぞうぞうじ)」の言葉が教えられるのかどうかは分からないが、本当の意味の「大学(大きな学問)」では、この様な概念こそ、しっかりと認識する様にしなければ、成らないのではないだろうか。
漢字の世界を調べて行くと、中国の4千年前の人達が、どんな精神状態で生活して居たのかが能く理解できて来る。
是等の事に気付くと、人間は進化しているのではなく、精神的には、退化していると言えるのではないだろうか。
現代社会は、言葉が事象の上滑りをしていて、人間の言葉の真実の力(パワー)が無く成っている。其れ等の世界を、もう一度、力有る物にせよとの、今朝のメッセージではないだろうか。
「詩人は 一番 神に近い人々だ」との諺も有る。
詩人の様に、言葉で現象・事象をしっかりと捉える事も、大事なのだろう。
しかし、今朝の場面は、人間社会の作業現場での映像だったので、単なる詩人では役に立たない。
今朝のメッセージの意味は、「天皇(すめらみこと)」の「命令(みことのり)」の要素を、含んでいるのではないだろうか。
宮廷の中で、絹の御召を着ていては、現場の事が分からないので、新しい型の「みことのり」の体制が、必要なのではないだろうか。
アメリカの「ブッシュ大統領」とは違う言葉は、日本の長い歴史と、伝統に裏付けされた文化の中でしか、生れないのかも知れない。
どうやら、「たしかな言葉」を使用するには、どの様に生きれば良いかを、真剣に考えなければならない様である。
「君子は 危うきに近寄らず」との諺も有るが、そればかりでは済まない様である。
平成15年9月19日
礒邉自適
2003/9/16
引文 (ひきあや)
15・9・16
今朝のメッセージは、「引文」との単語が現れたが、読み音も、それに類する画像も伴っていないので、能く分からず、朝まで瞑想を続けていると、「自由」との概念が観えて来た。
昨日の文章に、屋久島の安房で使用される言葉、「嗚呼 あやが 引っ切れたょ」の事を書いたので、其の事が意識に残っていたからだろうか。
辞典で「引文」の単語を調べても載っていないので、一般的には未だ概念が拡がってはいない様である。それとも、使われないので、忘れられてしまったのだろうか。
普通に、文字から判断すれば、「引く文」と受け取れるので、「何かの文を 辞典で引く」とかの意味か、「文章を 引用する」とかの意味に、解釈されてしまう。
辞典には、その概念が載ってないので、やはり、昨日の安房弁を解釈しなければ成らない様である。
過去の人達が、一番大事とした「文・あや」は、中国の孔子は「恕・ジョ」で、老子は「道・タオ・トウ」、インドの釈迦は「法・ダルマ」で、イエスは「愛・アガペー」であると成るだろうか。
「孔子」は、人間の生き方を説いたので、弟子に、一番大事な「意・おもい・文」を問われた時に、「恕」であると答えたとされている。
「恕」は「@おもいやり Aゆるすこと」と 載っている。 広辞苑
「釈迦」は「ダルマ・法」と謂って、宇宙にはダルマが存在し、それに目覚める事が「ブッダ(佛・覚醒者)」であると説いている。
「老子」は「道(漢 タウ。呉 ドウ・ダウ)」と謂って、宇宙にはタオの働きが存在し、それに従う事が「徳」であると説いている。
「イエス」は「愛」が一番大事であると説いているが、是は「ラヴ・love(エロス)」ではなく「アガペー・agape」か、慈悲の「マーシ・mercy」と受け取るべきであろう。
しかし、今朝、私に出て来た言葉は、「恕・法・道・愛」ではなく「引文」である。私は、どの様な「文・あや」を自分の胸に引き入れて、刻めば良いのだろうか。
私が瞑想を続けていて、意識が捕捉したのは、「自由」との概念に似たものであった。
漢字の「自由」の意味は、「みずからを、宇宙で一番大きなモノに預けて 寄り添う」の意味で、其れを「由・よし」とし、其れに「自が由(したがう)」との理である。
前に述べた、四人の聖者達の文字を、彼等の気持ちに成って考えると、「法」と「道」は「自由」の漢字の意味と同じであり、「恕」も他人に余計な事を押し付けない事だし、「愛」は他人の自由を見守る事でもある。
其の様に考えると、四名の意識の土台は、全て「自由」の概念を含んでいる事に成る。
釈迦が「出家・しゅっけ」を勧めたのも、寺に入る(入寺)事等ではなく、家族や社会の柵・しがらみから自由に成る理・ことであるし、イエスキリストの言葉にも「私に 付いて来なさい」とか、「私は あなた達の 親子 兄弟の 仲を裂きに来たのだ」と有る。
其のイエスの言葉も、釈迦と同じく、家族や社会から、其の者を自由にする為の方法である事が解る。
自由の概念を、英語で見ると、
@ 「アズ-ワン-プリーゼズ・as one pleases」「㋐思いのまま。㋑心のまま。」
A 「フリーダム・freedom」「束縛のない活動」
B 「セルフィッシュネス・selfishness」「わがまま」。と、言海社 最新式字典
に載っており、「道」や「法」の概念は含まれていない。
何故、釈迦仏陀や、老子や、イエスキリストが、一番大事とした概念が、世の中に拡がらなかったのだろうか。
其の原因は簡単である。
国民全員が、自由に成ると困る人達が在って、其れを妨げて来たからである。
皆が自由に成れば、人間は一箇所に定住せず、税金が徴収出来ないので、権力者が困るし、会社を興しても、従業員も安定しなくなる。
其れ等の事が原因で、教育制度も権力者の都合に因って行われ、自由に成る事を止めて来たのである。
その事が、何百年も続いて来たので、全ての人々の意識から、自由の概念が消え去ってしまい、今では、人々の胸の内には、お金や財産の事だけしかなく成ったのである。
女性が結婚する相手を選ぶのにも、相手がどんな事を意っている人間かを考えずに、「3H ・背が高い、学歴が高い、給与が高い」を条件として考え、相手の人格を無視している。
それで、幸福に成ろうと考えるのが、所詮無理と言うものである。
本人はそれで良くとも、子供が生まれて母親と成ってから、何を想いながら子供の教育をするか、目に見えているではないか。
そんな家庭からは、出来るだけ早く出家するべきである。
人間以外の動物は、命を懸けて子供を育てるが、子供が一人前に成ると、母親は必死になって、子供に自立を促す。
其の点においても、現代社会の人間は、動物以下であると言える。
人類のテーマである「平和」と「安定」も、考えてみれば、人間が自由である事の為のスローガンである。
「遣りたい事が 好きに行える」「言いたい放題が 出来る」「金儲けが好きに出来る」そんな事は、本当の自由でも無いし、「恕・法・道・愛」に反している事である。
現在の日本人は、「自由」とは「自分の遣りたい放題に 出来る事」だと勘違いをしているのだ。
現在の人間は、論語の「恕」の意味の「己の欲せざる所は 人に施すなかれ(自分が欲しないことは、人も欲しないのだから、これを人にしてはならない)」との教育も受けてはいない。其れは、学校の教育者が、自由や民主主義の概念を正しく把握していないからであろう。
思考を元に戻すと、「引文」の「引」は、「みちびく」とか「広げる」とかの意味も有る様だ。
今朝のメッセージが、私の胸に想う事を「拡げる」とか、想う事の方へ「みちびく・みち引く」との意味を、告げて来ているのであれば、私の役目は、人々を自由にする事にあるのかも知れない。
現在の学校の教育は、全国民をサラリーマンか、お金の奴隷にするものの様である。神社や寺院に行っても、欲望を煽る事ばかりを、行っている様に見受けられる。
日本には、元々「自由」との概念は無かったのだろうか。
探して見れば、其れこそが、日本文化の源に有る事が理解出来る。
日本語の「みそぎ」とか「かんながら」とは、釈迦の「法」や、老子の「道」と同じ概念なのである。
「みそぎ」とは、社会のシステムや、人類が創り出した柵・しがらみから抜け出す事であり、「かんながら」とは、「法」や「道」に従う事である。
どうやら、私が自分の胸に「文・あや」として刻むべきモノは、何なのかが明確に成って来た様である。
私が、他人に対して想う事は「恕」であり、自分の胸には「由」を念じて行けば良いのである。
それを、自分の「弓」として、胸に意(しま)っておけば、その「文・あや」は「念・おもい」と成り、「祈り(意乗り・波動・切願)」と成って、人類全体の潜在意識に広がって行くのだろう。
その方法の理が、日本では「御稜威・みいつ・みーつ」として、言い伝えられて来たのだ。
私が、今朝捉えたモノは、宇宙の根源的親心ではなかったのだろうか。
イエスキリストも「天の父よ」と言っているし、日本でも「大御心」とあり、釈迦の言葉にも「衆生一切我が子」と有る。
私の胸に、今朝去来したモノは、その宇宙の「あや」だったのかも知れない。
そうであれば、私は、宇宙の文を引き込んだ事にも成る。
「御稜威」とは、宇宙の「あや(綾糸)」を、「衆生一切に 偏く 拡げる働き」の理・ことなのである。
私の胸の文と、宇宙の文が、一体と成る時、それはブッダ・仏陀であり、「天照皇大神・あまてらすすめおおかみ」の働きでもある理・ことに成る。
私は、私の胸の文が、引き切れない様に、務めなければ成らない様だ。
昨夜、寝る前に「減速」との言葉が遣って来た。
何を、減速すれば良いのかも、見えて来た様な気がする。
胸の文を、人類救済の行動から、自分の自由に向けるのであれば、人間社会に対する想いや、行動を減速する必要があるのだろう。
私は人類全体の命運を委されてから、19年が経過した。
何が、何だか解らない侭、19年間突き進んで来て、そのスピードも漸く減速の時を迎えた様である。
家族や、人類を救わなければ成らないとの文から、やっと解放され、自分の自由の完成へと、文を入れ替える時を迎えたのだ。
「悠々自適」の名へ、56年振りに復帰する時が来たのだ。
私にも「サマディ・三昧」の人生が、ようやく訪れて来た様である。
平成15年9月16日
礒邉自適
2003/9/14
道・タオ
15・9・14
今朝の映像には、屋久島の山岳部の南側中腹の岩場に、女性神の意識が在るのが映って来た。
其の映像が、どう言う意味なのかを考えていると、今朝の映像は、9月8日のメッセージと、対に成っている事に気付いた。
8日のメッセージは、屋久島の「北側」の山で「食物」の意味が告げられて来たが、今朝は「南側」の山で「岩(大地)」の意味が、告げられて来た様である。
日本の神話では、「天照大神」は太陽神だが女性であり、岩戸に隠れてしまうものであると伝えられて来た。
一方、熊野大社の神は「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」の名で、「天に通じる 食物の神」の意味である。
日本では、例えとして女性は「畑」で、男性は「種子」と表現されて来た。
この事は、「女性」の立場が大地であり、太陽のエネルギーを受けて、人間の肉体を継続させる意味を表現しており、「男性」の立場は、食物に因って遺伝子(血・種子・精子)を、進化させて行く役目である理を意味している。
女性は、出来るだけ本質を保つ為に安定を好み、変化を嫌うのである。
その為に、どうしても物質にこだわる事になる。女性にとっては、自分の子供も自分の物なのである。
一方、男性は、情報を収集し、環境の変化に対して、遺伝子を変化させて行かなければならないので、変化を好み、安定を嫌う傾向がある。
これ等の本質から、女性は平和を好み、男性は旅や戦争等、絶えず不安定な方向へ、自分を持って行こうとするのが、本能だと言うことが出来る。
日本神話の、「天照大神」の岩戸隠れと、「須佐之男尊・すさのおのみこと」の暴力の物語は、男女の性質を上手く現していると言えるだろう。
中国の五行説でも、北は「玄武・げんぶ」で「王(男性)」の守り神であり、南は「朱雀・すざく」で「太陽神(女性)」の守り神とされている。
古代の人達は、人間の男女の性質を「陰陽」と捉え、「タオ」のマークを陰陽の「蛇」や「蜥蜴・トカゲ」で現し、宇宙の法則「道・タウ・トウ」として来た。
どうして、陰陽のマークをトカゲの姿にしたかと言うと、人間の脳の一番古い部分である古皮質が、蛇やトカゲの様な爬虫類の物と同じ脳だからである。
その「古皮質・小脳」は、人間の自律神経を司っており、人間の意識の深層部分は、爬虫類と共通している物だからである。
科学の発達で、男女の脳の違いも、解明されて来ている。
女性の脳は「安定」を好み、男性の脳は「創造」を好む様に、出来ている理・ことも判かって来た。
視覚神経も、物の色や形、数を瞬間に見分けるのは、女性の方が男性より50%増に出来ているらしい。
雌は、瞬時に、雄の姿や能力を見分ける能力を与えられているらしいのだ。其れは、自分が受胎して産み落とす子供の種子(精子・情報・遺伝子)を選択する能力を、磨いて来た結果なのだろう。
現代社会は、食物が化学物質で汚染されており、季節外れの物ばかりが店頭に並んでいる。
そして、独身女性が増えているが、其の原因として考えられるのは、悪いものばかりを食べている男性を、女性が選ばないからであり、其れは、雌の本能に因る現象なのかも知れない。
社会が崩壊し、お金で食料が買えなくなった時、生きられる男性が、どれだけ居るだろうか。
本来の、男性の役目を出来なく成っている男性は、女性に見離されるであろう。
是までは、女性(雌)は、優秀な男性(雄)が、自分を口説きに来るのを待っていれば良かった筈である。
それが、現代社会では本来のシステムが壊れてしまったので、農村からは女性が都会に出てしまい、農村には男性だけが残され、都会には、女性が過剰に成り、独身女性が増えている。
日の当る大地に、安定して存在している女性が少なくなり、日当たりの悪いコンクリート(岩戸)の中に、閉じ籠っている女性が増えて来たのだ。
コンクリート製の、ビルと道路ばかりの都会で、汚れた空気と、季節外れの化学物質で作られた食べ物を食べていたのでは、女性の肉体も、悪い畑に成ってしまう。
其の結果として、悪い畑に種を蒔く者は居なくなる。
8日のメッセージに現れた神は、そう言った女性の肉体には、入ろうとしないだろう。
日本語の「ひと」とは「霊(ヒ)が止どまる」の意味である。
年々、御魂の高い霊が宿れる肉体が少なく成っている。
「玄武(王の守り神)」が、天降れる肉体が、地上に居無くなって来ているのだ。
ビニールハウスの中には、太陽の光が全部通過しないので、ハウス内で栽培される食べ物は、本来の食物とは言えない。
太陽の光に満たされた、健康な女性が現れない限り、王に成れる器の御魂は、此の世に産れ出る事が出来ないのだ。
そして、朱雀の化身としての女王も、産れない事になる。
今朝のメッセージは、男と女、太陽と岩戸、北と南など、「道・タオ」として伝えられて来た自然の法則を、良く確かめろとの事ではないだろうか。
全ての価値観が狂って来ている現在、物事の本質を、誰かが取り戻さなくては、社会は崩壊へと向うしかない。
文化の原点は、男女の陰陽の仕組みから始まっている。
我々は、自分の本質を、今一度、能く確かめなくて見なくては成らないだろう。
平成15年9月14日
礒邉自適
2003/9/9
豊・ゆたか
15・9・9
本日は、陽数の九が重なるので、重陽の節句とされている日である。
今日は、昼前には、東京より前田社長が来島する。
一昨日7日と、昨日8日は、神戸から来島した女性客五名と一緒に、白谷雲水峡の山小屋に一泊して、楠川歩道より縄文杉へガイドして来た。其の所為で、今朝は、膝の裏の筋肉が痛い。
登山のコースに因って、筋肉の痛い箇所が違って来るのは、年齢の所為か、地形の所為か良く分からないが、若い頃には、こんな事は無かったので、年齢には勝てないと言う事だろう。
しかし、若い頃には、現在の様な思考は私には無かったので、體は弱くなっても、精神は順調に成長を続けているのではないだろうか。
7日の夜は、白谷雲水峡の山小屋に一泊した。
白谷が、どうして「白谷」と名付けられたのかは知らないが、「もののけの森」と、宮崎駿監督の映画の「もののけ姫」に因んで名前が付けられた苔生す森は、屋久島でも北向きの地形で、日光が一日中強く当らないから出来た環境である。
その証拠に、楠川歩道の「辻峠」を越えて、南側の斜面に入ると、苔は殆ど無くなってしまう。
12時過ぎの飛行機で、空港に着いた、神戸の知り合いの娘さん達一行五名を車に乗せて、途中で食糧を調達し、白谷の入口を2時40分に通って、丁度午後5時に白谷の山小屋に着いた。
体の汗を、冷たい川の水で拭いて、ペットボトルに入れて来た焼酎を、飛魚の塩焼を摘みにして飲み、玄米お握りを食べて、する事も無いし、電気も無いので早めに寝た。
夜中、喉が渇いて目が覚めたので、手探りで外に出て、庭に引いて来てあるエスロンパイプから勢い良く流れ出している水を飲み、空を見上げると月齢11日の月が、西の山に隠れようとしており、明るくて星の少ない上空に、6万年振りに地球に近付いた火星が、赤く光っている。
寝袋を小屋より持ち出して、庭の広いテーブルの上で、星を見ながら寝て居たが、突然雷が鳴り雨粒が落ち始めたので、また小屋の中に入った。
夜中2時頃だと想われるが、眠れないので目を閉じていると、「ゆたか」との言葉が出て来たので、「豊」の文字を想ったら、今度は「トヨ」の音が出て来て、銀白色の老人の上半身の姿が現れて来た。
その様子を、意識しながら視ていると、魂しいの原点である、光の意識の様に捉えられた。
すると、透明な四角い容器の中に、新鮮な黄色のトウモロコシの切った物と、白い大根の切った物が、白炊きの形で現れた。
私の意識が、「美しい食物だなぁ」と感じたら、今度は、すき焼鍋が出て来て、肉などが食べ頃に煮え立っている。
そして、その鍋の中の肉を取って食べる人が現れて、その人の姿は、魂しいがチャランポランである事が知らされた。
私は、眠っているわけでも無いので、その映像の意味を考えていた。
すると「トヨ」とは、「豊受大神」や「豊葦原」の「トヨ」である事が解かった。
日本では、「トヨ」と「ゆたか」と、言葉を使い分けているが、それは「トヨ」と「ゆたか」の言葉を使っていた民族が、別々に、日本に渡って来て住んだからであろうと思われる。
「トヨ」と「ゆたか」を辞典で調べると、次の様に載っている。
「豊か」とは、【一説に ユタという擬音語に基くという。物が豊富で、心が満ちているさま。】
「トヨ」とは【充分に足りて ととのうこと。】 (広辞苑)
漢字の「豊」(レイ・ライ・ホウ)は【ゆたかに盛られた たかつきの意味から、ゆたかの意味を表す。】 (漢語林)
今回のメッセージは、伊勢神宮の外宮に祭られている「豊受大神」が、何かを知らせて来たのではないだろうか。
「豊」とは、只単に、食糧が多量に有るとの意味ではなく、「食物の質に因って 生命が豊かに成るかどうかを 知れ」と、告げて来たのではないだろうか。
魂しいが豊かな、原初の神が、生鮮な食品を好む事を意味し、冷凍されている古い肉を食べると、魂しいが変に成るとの理・ことを、知らせて来たものと想える。
日本は、明治時代に西洋文化が導入されるまで、天武天皇が肉食を禁じ、1200年間も、肉食の害が伝えられて来た。
それが、現在・いま、アメリカの政治戦略に乗せられ、全国民が肉食をする様になり、糖尿病等多くの病気を発する様に成った。
肉食動物は、どれも命が短く凶暴である。
日本人も、穀物菜食主義から、肉食・パン型へと食生活が変化し、身長は高くなったが、魂しいの方は、年々劣化して来ている。
仏教でも、「精進・しょうじん」と言って、仏道修行は肉食を禁じ、穀物菜食の自然の産物を、正しく食べる事を大事としている。
要は、人の上に立つ者は、肉食をして凶暴であっては成らないのである。
日本の天皇家で、一番大事な行事は、毎年行われる「新嘗祭・にいなめさい」の儀式である。
天皇は、1年に一回、稲の収穫が終った後に精進潔斎して、先祖の霊と一緒に、その年の米を食べ、同床しなければならないのである。
その儀式に大事なのが、「台所(御饌殿)」で、台所の神が「豊受大神」であり、「保食神・うけもちのかみ」でもある。
8日に現れた、銀白色の男性の姿をしたエネルギー体は、植物が有する光のエネルギーの総体として、現れ出たのだろうか。
植物の原点が、苔にあるのなら、「もののけの森」と名付けられた、苔の豊かな森は「モノの氣(ケ)豊(トヨ)の森」と言う事が出来る。
中国の五行説では、東方の守り神は「青龍」で水の神であり、めでたいしるしとされている。白谷雲水峡は、屋久島の東北東の位置に有る。
現れた、銀色の物は、何か良い事の有る兆しなのだろうか。
平成15年9月9日
礒邉自適
2003/9/6
天の鳥船(あめのとりふね)
15・9・6
今日は、昼食を準備するのに、台所で食器を洗っていると、「天の鳥船」と言葉が頭に浮かんで来た。
そして「天の鳥船」の言葉の意味を想ったら、脳裏に「太陽の船」と、舳先に立つ「鳥神」が視えた。私は直ぐに、天の鳥船とは「イビスの船」である事が理解できた。
「イビス・Ebisu」の鳥神が、水先案内人をする太陽の船には、真中に、頭に鏡を着けた「イシス女神」が乗っている。
太陽の船は、「イシス女神」を太陽の冥府に運ぶ、イビスの船なのである。
日本で、「天照大神」の使いとして、鶏が伝えられているのも、此の神話に繋がるものではないだろうか。
「天の鳥船」は広辞苑に、【日本神話にみえる、速力のはやい船。また、それを神として呼んだ称。】とある。
別に「天の磐船」とも有り、「あまのいわふね」は【@日本神話にみえる船の名(天の堅牢な船の意)A天の川を渡るという船】とある。
「天の鳥船」も、「天の磐船」も、同じ船の事であろうと想われるが、鳥船の方は「イビス」の神が運行する事を意味し、磐船の方は、イシスが乗船している事を意味するものだろう。
イシスとは石素で、花崗岩に通じる能力がある者の事で、イシスの頭には「岩の鏡」の意味の鏡が付いている。
太陽と、岩(花崗岩・御影石・御目石)と、鳥がセットと成っているのだ。
この関係を、別の表現にすれば、「天(太陽)」「地(岩)」「人(鳥人間・神秘主義者)」とも成る。
其れを、言葉にすると「鳥の意識を有する神秘主義者が 天と 地から 宇宙の神秘を掴み取る」との意味に、成るのではないだろうか。
中国の古典にも、宇宙の気が変化する時は、先ず禽鳥(猛禽類)がそれを受け、鳥から人間の意識に、移譲されて来ると伝えられている。
私にも、19年前にそれが始まり、神の世界に引き込まれて行った。
そして、今日再び、鳥神が先導する「神の船」が、映り始めたのである。
日本の神社の「鳥居・とりい」も、神の使いの鳥が、門の上に来て止まる事を願うものである。
今日、岡山の由香さんの夢に、私と由香さんが、エスカレーターで上の方に上って行き、エスカレーターの最後の所に、人間がようやく潜り抜けられる小さな鳥居が在り、中に入ると、音楽を奏でる男性が一人居て、其の男性の音楽に合わせて、私が声を出して唱じると、とても気持が良かったとの事。
そして、其れが終ると懐石料理が出され、食べた後に、赤ちゃんと年配の女性が現れて、布団を敷いて赤ちゃんを寝かせたという。
其のメッセージを、私風に解釈すれば、神の舞台は、とても高い所にあり、入口はとても狭い。
中に入ると、気持の良い音楽と、美しい汚れの無い言葉があり、質の良い食事が用意されている事になる。
そして、赤ちゃんは未来であり、年配の女性は過去を意味し、未来の子供が視る夢を、私達三名が委された事を意味している。
私達三名の事を考えれば、私達が「天の鳥船」に乗った分けでもないし、神社や鳥居を建てたりした分けでもない。
三名とも、父親や母親をしながら、普通の生活をして、子供を育てて来ている。
考えてみれば、太陽の船が実際にある分けではないし、エジプトのピラミッドの傍らの地中から発見された船は、人間が造った人工の船であり、人間の脳が創造した物である。
船を人間が造って、船の名詞が生れる迄は、天の鳥船の名も無い事に成り、人間が住家を建てる様に成るまでは、神の住む神社も無かった事になる。
その様に考えて行くと、人間が高低の概念を考え出すまでは、神も高い位置に在るのではなく、次元は異なっても、身近な位置に在る事に成る。
人間は物を作り始めて、物に神を移す事で、自分の身から、どんどん神を遠くに追い遣ってしまったのだ。
イエスキリストも、神はベッドで想いなさいと言っているし、釈迦仏陀は神の所へは行かず、神々を自分の説法する場に引き出している。
それは、釈迦の言葉の力に因るものである。
言葉とは、意識から生じるものだから、意識が正しければ、全ての神々の想いを、吸い寄せる事が出来るのだ。
私が、毎日神のメッセージを受けて、書き留めて行く作業は、過去の情報を、意識が吸い込んでいる事になる。
そうであれば、私が、過去の世界に生きていた人達が生産した概念や物の型を、全て意識で食ってしまえば、食い終えた時に、メッセージも無くなって止まる事に成る。
仏教では、仏像を造営する事で、仏の住いとし、エジプト文化では、ピラミッドや船を造る事で、住家や乗り物とした。
其れ等の事は、日本の古神道では、神の住家は山や岩や木であり、自分がそれらの近くに行く事で、神の存在を、自分の身の内に入れていたのである。
そうすれば、鳥や、鹿や、熊と、自分が一体の世界に成る。
私が、神の世界に入れたのは、寺院や神社に行ったからではなく、屋久島の川河や、山岳や、樹木や、岩石を相手にして、起きた事である。
それから、鳥が味方となり、岩や木が自分と一体となって、太陽や月と意識が通じたのである。
古代エジプトの文化を見ると、私と同じ様な体験をした人達が居て、その不思議を、人間の目に見える型としたと想われる。
私達は、過去の人達が感じた事を、自分で感じる努力をする事が大事であって、ピラミッドや太陽の船を造る事に、気持が向いてはならないのだ。
太陽の船が、人間の目に見える絵や型に成った事で、その物体に振り回される人達が生れ、後世の人達の意識を汚染しているのである。
絵や、物の形に成っている、「イビス神」や「イシス神」の姿を見て、その様な神が居たとか、存在したとか、考えてはいけないのだ。
自分の意識に、直接「トト神」の意識が、現れ出る様にしなければならないのである。
その為には、朱鷺やマントヒヒや鹿や熊の様に、自然な生活に戻り、彼らと同じレベルで、生命の源を探らなければならない。
人間の科学・化学も、自然の真理を調べ、自然の物を模造する事で、発展して来ているのである。
過去の人間の、概念を全て食い尽くして、消化してしまった処に、真実の源点が在り、其処から、新たな価値観が生れて来るのではないだろうか。
由香さんのメッセージに映された、神殿に居る赤子に、無用な情報を見せても、聞かせてもならないのだろう。
私の父親は、その理を知っていて、私を育ててくれた様に感じている。
そのお陰で、私は、人間が創ったった人工物に惑わされる事無く、山や岩の声を聴き、鳥や虫達と意識を交わす事が出来たのだ。
「天の鳥船」とは、天空を飛び回る船ではなく、太陽の光の中で、生きて飛び回っている魂の姿なのである。
その乗り物は、空に有るのではなく、自分の魂の中に、イメージされているものなのだ。
鳥や虫達と、同じ意識の世界に身を置けば、自由に世界を飛び廻る事が出来、昆虫の様に、自分の意識の力で脱皮も出来るのである。
私の意識の船は、屋久島全体であり、乗組員は、鳥や猿だけではなく、虫や植物など全ての生き物達であったのだ。
過去の情報を全て食ってしまえば、人工物ではない、食えない島の自然だけが残る。
私の脳は、静かな時を迎え、もう間近な所に、神の世界は迫っているのではないだろうか。
何も、余計な事が浮かばない、何も考えないで良い、静かな意識の世界が、待っている様な気がして来た。
私は、屋久島の山深く生きている鹿の様に、静かで美しい瞳に成りたいのである。
私は、トト神をも必要としない、人間の意識の源へ返りたいと思う。
私は19年前の夏、仮死状態に成り、冥府の旅をして、この世界に返って来たのである。
19年前、仮死状態で視た、宇宙の誕生を、もう一度視たいものである。
其処は、天の鳥船も遣って来ない、無音の世界であった。
平成15年9月6日
礒邉自適
2003/9/5
太陽の舟
15・9・5
今朝のメッセージは、エジプトの太陽の船が映って来て、「ラーのメ」と言音が有った。
「ラー」とは、太陽神の事で、「メ」は太陽神の目を意味しており、太陽の船は太陽神ラーの乗り物である。
今朝は、突然にどうして、エジプトの神の事が出て来たのだろうか。
思い起こせば、1984年3月13日の朝、太陽が水平線上に半分顔を出した時に、「神だから護れ」との、大声が聞えて目を覚ました。
其れは、太陽の光が窓を抜けて、私の顔に当った時に、声と成ったのだろう。
窓の外を見ると、太平洋の水平線上に、太陽が半分顔を出していたのである。
いま思えば、「太陽の船」が、太陽神「ラー」と「イシス神」「ホルス神」を、乗せて来たのかも知れない。
私が、神の世界を歩き始める事に成った其の日から、周囲の様子が変わり、不思議な事が始まり出したのである。
今朝は、朝起きて、NHKのルーブル美術館のエジプトの本を出して見ると、太陽の舟の舳先に立って、前を見ているのは、朱鷺の頭を持つ「イビス神」である。
イビスとは、エジプトの鳥の名前で、知識・文学・科学・記録の神であり、さらに月神として時の計測を司り、また宇宙の組織をも司るとされている。
其の鳥は、日本の「トキ・鴇・朱鷺」と良く似ている。
鳥のトキ・朱鷺が、時の計測を司り、宇宙の組織をも司るとされているのであれば、日本の朱鷺が「時・トキ」と同じ発音である事も、無関係ではないだろう。
私に出て来たメッセージの、今年6月11日分には「イミサ-ゴールデン-ナイス-ガイド」と有るが、前日の6月10日は時の記念日であり、「イミサ」とは「イビス」が訛る前の言葉ではないのだろうか。
「ゴールデン-ナイス-ガイド」とは、太陽に向う船の舳先に立つ姿と、同じ意味である。
其の、「時・トキ」と「宇宙」を司る神は、1984年の3月13日に、私を神の世界に引き入れ、今年の6月10日の夜、私に存在を知らせ、今朝また、自分の正体を明かして来た様である。
「イビス」は、トト神の化身とされている。
「トト神」とは、神々の書記官であり、人間界の書記の守護神で、知識や計算を司り、文字や暦などの発明者ともされる神である。
私が現在、神のメッセージを書き留め、日付を気にし、暦を新しく作り直そうとしているのは、私の意志ではなく、このトト神の成せる業の様である。
トト神は、イビスの他にも、マントヒヒの姿にも成っている。
「イビス・トキ・朱鷺」は、水辺に住む鳥である。
人の暮しが、森へ移動すれば、神の化身も変化するのだろう。
マントヒヒの神像は、聖眼を模(かたどった)胸飾りを着けている。
聖眼は、ラーの目を意味しており、化身としてはホルス神が在る。
ホルスは、鷹の姿をしており、ホルスの眼は全てを見通すものであり、「完全なるもの」を意味している。
エジプトのラーの目は、全てを見通す意味で、完全を意味するものであれば、カバラの「万物を支配する目」も、同じ意味を傳えるものである理が分かる。
イビスが、船の舳先の神であれば、日本に伝わって来て、漁船の神「エビス・恵比寿・Ebisu」と成ったとも考えられる。
エビスの事で日記が気になり、「恵比須様」が動き出した日付を見ると、何と6月10日である。
インターネットには、「座・くら」の題で出してあり、文章の中に、船が夢に現れた事も記してある。
船に乗って、立っていた男性の名前が「日高信義」で、「高い日の義を信じる」との意味の名前なので、イビスの姿と同じであり、エビスの神に憑依された女性は「図師小夜子」で、「図る師 小さな夜の子」で、「イビス神」が太陽に向う「月の神」の事を意味しているので、此れも合っている。
「座・くら」http://star.ap.teacup.com/170606/182.html
日本では、夜の世界を治めるのは「月調神」で、宇宙のリズム(時・宇宙の運行)を治める神とされている。
月調神は、「伊耶那岐命・いざなぎのみこと」が右目を洗った時に出現した神(働き)であり、太陽神「天照神」が伊耶那岐命の左目から生れた事と、対に成っている。日本の神々も、聖なる目から誕生した物なのだ。
私の日記の6月9日を見ると、「ワタシの誕生日」と有り、時の神が目を覚まして、私に休む時を与える事を告げて来ている。
6月10日を区切りとして、「イビス・Ebisu(エビス)」が動き出していたのだ。
屋久島は、約1400万年前に花崗岩が盛り上がって出来ており、屋久島の方言では、花崗岩は「御目石」である。
エジプトでも、王の墓は花崗岩の石が使われ、冥府への道は、御目石の振動数が必要とされているし、日本でも「御影石(花崗岩)」が墓石とされて、冥土への陰(闇)の通信機と考えられている。
屋久島では、船虫やゴキブリ等のワラジムシ目(等脚目)の「甲殻類」を「天目(あまめ)」と呼ぶ。
此れも、エジプトの王の守り神が、「スカラベ(タマオシコガネ)」と成っている事と共通し、「花崗岩」と「虫」が王にとって、大事とされている事と同じである。
エジプトの太陽の神「ラー」は、目として表現されており、屋久島の御目石と天目は無関係ではないだろう。
其の屋久島で、私が太陽に動かされ、月の運行を気にしながら、毎日メッセージを書き留めている事は、イビス神と関係ある事は間違いない様である。
私が、神の世界に入ってから、夜間に修業を続けていると、夜の暗闇を飛び廻る白い鷺の鳴く声が、神の声に聞えていた。
何故かと想っていたが、屋久島で「夜ガラス」と呼ばれている其の白い鳥が、イビスと同じコウノトリ目である事にも、今日気付いた。
そして、私が時々、旅の途中で霊視した、鹿の顔と澄んで光っている瞳は、島のトト神であり、鹿の姿を借りて、私を見守り続けていたのだろう。
私が、何故、屋久島に生れ育ったのか、その理由がようやく謎解きされて来た。
淋しい時も、悲しい時も、神の目が見守り続けてくれていたのである。
「ス―リアさん」の今日の電話では、スーリアさんもメッセージを受けており、太陽の船に乗り、光の世界に向かっている時、白い鳥が水先案内をしてくれたとの事。
スーリアさんも、私と共通のビジョンを、前以って見せられていた事に成る。
スーリアさんと、私の関係性を考えると、太陽の船に乗った女神イシスを、太陽まで案内するイビス神の白い鳥が、私の役目として、告げられて来ている様である。
私の書いている文章は、人々を太陽の光の源へ運ぶ為の、水先案内文なのであろう。
昨日の「文字の力」に続いて、示されて来た今朝のメッセージは、文字に仕える神である「トト神」が、現存する事の証しと成るだろう。
愈々、神が発動する気配が強く感じられて来た。
9月11日まで、残り5日である。残りの日数で、どんなメッセージが来るだろうか。
6月10日が、時の記念日と成っているのは、滋賀県の近江神宮の祭神である「天智天皇」が、初めて時計を作り、時計の運転を始めた日を、記念するものである。
その、時の記念日から、エビス神が動き出した事も、神の計画が順調に進んでいる事の証しであるのだろう。
私達の計画には、「近江神宮」から世界に向けて、新しい暦を発行しようとの事がある。現在使用されている暦は、冬至から一週間も外れており、正しい太陽暦とは言えない。科学が、是程発達した世界で、変しな事である。
私達は、太陽と月の、正確な運行の暦を作りたいと考えている。
近江神宮には、全国暦研究会の事務局もあり、6月には休日が無いので、6月10日を「時の記念日」として休日にしようとの動きもある。
其れ等の計画が動き出せば、エジプトの神々だけでなく、マヤの神々や、アステカの神々も協力してくれる事だろう。
1986年1月10日、近江神宮の天智天皇祭に出席したら、天智天皇の御霊が私の体に入って、次の歌が出て来た。
ひもろぎの よよの乱れを さかづきに
菊一輪と まわしのみ
「天智天皇」http://star.ap.teacup.com/170606/816.html
時間の、最初の刻みを起した天皇が、代々の乱れを、片付けると言って来たのだ。
世直しが始まれば、先ず、自分の「トキ」を取り戻す事から、始めなければならない様である。現在、流行して来ているマヤのカレンダーも、同じ事を意味しているのだろう。
平成15年9月5日
礒邉自適
2003/9/4
文字の力
15・9・4
今朝のメッセージには、私が、誰だか知らない人に、盆栽の作り方を習っている場面と、文字の書かれた紙と、四コマ漫画が映って来た。
今朝のテーマは、人間の意識の成長や、文化・文明の一番基礎に成る部分の、認識を求めて来たようである。
其れは、人間が、意識を組み立てるのに、物の組み立てや、文字の組み立てが、どの様に進化し、成長して来たかを、確認せよとの事らしい。
人間の意識の「本・(木の根本との意味)」が、どの様に考えられて来たかを、再確認しなければならないらしいのである。
漢字の「相」は、「木を見る目」を意味し、人間の一番身近に在った物は、木である事が分かり、我々人間の生活が、木と共に在った理・ことを意味している。
「物・ブツ」の漢字は、「天と地の間にある一切の物」の意味であるので、人間の肉体も物に含まれている。
「天」の漢字は、人が立って居る姿で、頭の上の空間を表す文字である。
私が「本」と「相」と「物」と「天」の文字を最初に書いたのは、「盆栽」が四つの文字を、みな必要とする物だからである。
盆栽は、葉の部分が「天」であり、幹の部分が「人」と「物」であり、盆栽鉢が「地」を意味している。
盆栽を育てるのに、一番大事なポイントは、木の根本の部分である。
根本がしっかりとして、存在感が無ければ、様に成らないのである。
盆栽に植えられている木は、只の木ではなく、宇宙の法則が、凝縮されていなければならない。
人間は、宇宙の大きなシステムの中に存在しているので、盆栽はその理を、人間が、自分の手で動かせる質量の中に現わして、認識しようとするものである。
それが、相対と言う言葉の意味する処である。
盆栽は、正に、木を見る「相」の概念にピッタリなのである。
「相」の文字が、何故一番大事とされているのか、その理由を探って見ると、我々人間を含む地球上の動物は、皆、山野の植物を命の源として生きている。
植物が、目に見えない動物は、生きてはいけないのだ。
木の実や、花蜜を食べない肉食動物も、植物を食べて生きている草食動物に、支えられているのである。その中でも、特に人間は、猿と同じ仲間だから、木がなくては生きて行けないのである。
人類は、食料も住居も、火・槍・弓・衣・船も、全て、木が在って生活が成り立って来た。
木を、目で見る事が出来ない人間は、生きて行けないのである。
その点で言えば、植物は、自分で光合成をしながら育ち、繁殖の方法も、昆虫・小鳥・動物・風・水の流などを、多様に利用して生きているので、動物よりは自由であると言えるだろう。
植物は動かないけれども、自由に動き回れる動物よりは、根本的には自由と言える。一ヶ所から動かない木だからこそ、体も、心も、動き回る人間は、自分の意識の対象として、木を捉える事が出来たのだろう。
私は、全部の仕事を止める前に、数年間、多額のお金を使って盆栽を育てていた。それと、もう一つ、屋久杉の土埋木を磨いて、台を付けて置き物を作っていた。その両方の訓練が、私の意識の中に、物の組み立てをする力量を、育てている様である。
盆栽は、実が着いて熟しても、それは眺める物であって、食べる対象では無い。食べる方の木は、農業として、ポンカンやタンカンや桃の木を育て、枝張りや剪定をして、施肥等をしていたので、植物の生態や環境に付いては、勉強をしていた。
其の事が、盆栽を育てる際に、役に立ったのである。
私が、今朝の文章の題を「文字の力」とした理由は、私が、盆栽の栽培や、ポンカン等の剪定技術等を、出来る様に成ったのは、其れ等に関する専門技術書が有ったからである。
技術書には、写真や絵だけではなく、文字に因る説明がある。其れ等を見ながら、私は学んだのである。
絵や文字が無ければ、誰かの所の現場に、全部の事柄を習いに行かなければ成らない。仕事を抱えていれば、繁々通う事は出来ないし、時間やお金が掛かり、多くの技術を身に着ける事は難しくなる。
本が有り、勉強が出来た事で、文字の存在の大事さが、認識されるのである。
時代を遡って見ると、釈迦仏陀やイエスキリストが生きた社会には、文字が無く、両人とも苦戦を強いられている。
文字が無ければ、毎回、本人が直接話さなければならないし、聞く人達のレベルが低ければ、話す内容も、おのずと低くなってしまう。
話す事で、多くの弟子は出来るが、反対勢力も発生し、イエスは殺される事になり、釈迦も裏切られたりしている。
その点、老子の場合は、其の時代に確かな文字があり、自分の考えを、他人に話す必要は無く、文字に書き残してあるので、弟子は無くとも、現在まで確かな教えが残されている。
もう一つ大事なことを言えば、老子は、自分で文字を選んで書いていたので、間違いなく、自分の考えが残されているが、釈迦の教えが伝えられている経典は、「方便集」であるし、イエスの言葉の聖書は、「例え話」を集めた物であるので、本人の考えと言うよりは、聞いた人の価値観の説明と言うことに成る。
其れは、イエスが自分の考えを百パーセント話したものではなく、レベルの低い人達に、相手が理解出来る段階の理しか、話していない事に成る。
仏教経典と、聖書は、彼等の考えの真実を、百パーセント伝えている物ではないのだ。
今朝のメッセージでは、文字の書かれた紙面と、四コマ漫画も出て来たので、其れは絵付きの文章という事になる。
そして、書かれている内容は、「天・地・人」の理・ことわりを、正しく組み込んだ物と言うことだろう。
「盆栽」は、男が考え出した世界であるし、「活け花・華道」も「茶道」も男が考え出したものであり、男でなければ、何を意図するものかは理解出来ない。
「茶道」は、男性が、男性しか持ち得ないエネルギーを回す事であり、女性が幾ら上手に茶を立てても、それは作法であって、内実は理解出来ないのだ。
「活け花・華道」は、宇宙のシステムと、男性の真理を表現する世界なので、男性だけが理解出来る「理・法・ダルマ・道」で、女性の脳では、理解出来ないのだ。
其れは、女性が子供を妊娠して出産し、授乳をさせて喜びを感じるのを、男性が理解出来ないのと、同じ理・ことである。
今朝のメッセージは、男性が、男性でしか出来ない事を、認識して始めろとの事であろう。
男性が、男の性(持ち味)を発揮する事で、女性も又、女の性に気付く事が出来て、幸福に成れるものと考えられる。
現代社会は、男が男性でなく成った事で、女も又、女性ではなく成って来ている。
太古、人間が自然の中で生活している時は、男女とも、自分の性を全うしていたのである。その時代には、文字は必要無かったのだ。
現代社会は、大自然から、人間が離れ過ぎてしまった為に、自分の本質を忘れ去ってしまっている。
せめて、誰かが、本来の人間の在り方を取り戻して、確かな情報として、伝え残さなければならない。
神の、最後の望みが伝えられて来ているいま、誰が、その神の期待に応えられるのであろうか。
幸いにして、老子の書き残した文字が残されている。
老子の「道徳経」の5千字の4文字綴りを、4コマ漫画にする事も、一つの方法かも知れない。それを、頼みの綱として、自分達の本来の姿を、取り戻して行かなければならない。
自分の姿を、盆の中に見据えて行く時、自分自身の、真実の本質が見えて来るのではないだろうか。
先ず、男性が男性として、自分の本性に目覚めなければならないだろう。
現代社会は、本質から外れた男性が、築いて来た社会である。
社会全体を、自分達が幸福に暮らせるものにする為には、相手である女性が住み易い社会環境にしなければならない。
その為にも、創造力を発揮して、正しい社会と、正しい概念を組み上げなければならないだろう。
其処に、力を持つ本来の「文字」が、立ち現れて来るのである。
平成15年9月4日
礒邉自適
2003/9/1
かんながらの道
15・9・1
今日から9月である。
中国の十進法では、数字の九は極まりの数字で、一番大きな数と成っている。そして、一は始まりの意味を持つので、9月1日は「一番大きな数の始まりの日」という事になる。
今朝のメッセージは、大型バスで、多数の人々が冒険旅行をしているのが映って来た。私が、その人々に、効果的な旅の方法を教えようと、近付いて行くと、目に見えない、大きな光の力で、止められてしまった。
私は、苦労しながら旅をする人々に同情を覚え、身悶えして耐えている処で、其の映像は終わった。
そして、19年前に別れた妻「名越美代子」が現れ、私の暮らす部屋の中を片付けていて、「時々来て 片付けていたのよ」と云う。そう云う妻の顔は、優しく美しくて、何故か、歯が奥歯まで真白であるのが見えた。
私は、19年の旅の間に、様々な事を学んだが、その中に「かんながらのみち」の世界が有る。
「かんながら」とは、「随神」とか「惟神」とか書かれるが、「かむながら」の古語から来ており、「神の御心のままで、人為を加えないさま。神慮のまま。」の意味である。
「かむながらのみち・惟神の道」とは、「神代から伝わって来て、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道。神道。」と、説明されている。 広辞苑
「惟神の道」とは、道を求める其の人自身が、唯一人、孤独で歩く心の道である。
「惟神の道」の掟・おきては、「問うてはいけない。」「教えてはいけない。」「見てはいけない。」「見せてもいけない。」世界と、されている。
「惟神の道」は、他人に教えてもいけないし、他人の遣り方を見て、真似てもいけないのである。
その点で言えば、教育を受けたり、他人を教育したり、他人に付いて学習してもいけない理・ことになるので、現在の学校教育や、何かの研修を受ける事とは異なっている。
「惟神の道」とは、人間の生業を離れて、神の配慮に従う事だから、人間の思惑を、全て捨て去らなければならない生き方である。
その道は、普通の人達にとっては、最大の冒険の旅と言えるだろう。
冒険とは、未だ見た事の無い、未知の世界へ旅立つ意味である。
其れは、現在の旅行の様に、パンフレットが有ったり、コースが定められて、全てが用意されている旅は、冒険の旅とは言えないのである。
「惟神の道」は、パンフレットも無いし、コースも指定されておらず、ガイドも居ない世界である。
例えて言えば、初心(うぶ)な娘が、見た事も無い町の、知らない男性に嫁ぐ時の、不安に似た様なものが有るだろう。しかし、不安だからと言って、歩き出さなければ、神に随神する事は出来ないのである。
幼い娘が、何も知らない家に嫁ぐのであれば、母親や父親は、何らかのアドバイスをしてあげようとするだろう。
処が「惟神の道」は、其れさえも、してはいけない世界とされている。
娘には、娘自身に与えられている運命があるのだから、その運命に任せきって、神を信じ、他人は口を出す事を控えるのである。
先方の家に辿り着けば、其処には、新たな世界が待っているのである。
やがては、可愛い孫を連れて、里帰りをして来るかも知れない。それを、暖かい気持ちで待ち続けるのである。其の親の心が、かむながらの道の極意に、少し似ているのかも知れない。
今朝の私へのメッセージは、娘の嫁入りではなく、精神的な成長の旅をする人達に対して、口を出してはならないとの事であった。
考えてみれば、私が、現在の様な人生を送る事に成ったのは、父親の育て方と、母親と弟妹の存在があり、其れに、屋久島の自然環境と、人間的繋がりがある。
私の人生に対して、父親が、特に此れと言って、口を出した記憶が無いので、私の父親は「惟神の道」の理・ことを、明確に理解していたものと考えられる。
母親の話では、広島県の宮島に在る「厳島神社」の神主・神官?の息子さんと、よく神の事に付いて語り合っていたとの事である。
其の父親は、私が17歳の秋に、49歳で亡くなったので、私は此れと言った薫陶を受けてはいないが、父親が、中国から戦後引き揚げて来る時に、たった一つ大事に持って帰った物が、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿の置物である事から察すると、父の想いが、惟神に有った事は理解出来る。
今朝のメッセージで、私が口出し出来ないで、身悶えていたのは、私自身の魂しいではなく、私の意識の内に住んでいる、父親の意識であったのかも知れない。
私の苦しさや、母親の苦労を見ていれば、手を出して、どうにかしたくなるのは、父親とすれば当然の気持ちであろう。しかし、其れは、神の計画が成熟するまでは出来ないのだ。
私が「惟神の道」を全うし、人々の悟りへの道筋を整えるまで、見護るしかないのだろう。
此処まで到達した私が、また他人の旅に口出しをして填まり込み、道を外れる事を、心配しているのだろう。
私を導いてくれた、父親と無庵師匠、其れに先覚者の「矢追日聖氏」や天竜寺の和尚等は、私を理解して下さったが、一様に、私の遣り方には一切口出しはしなかった。
私を、理解する力の有る方は、其の人達が、私より体験を深めており、口を出してはならない理を能く知っていたのである。
他人の修行に対して、何かの口出しをする事は、自分の体験を押し付ける事であり、他人の道筋を狂わす事になる。
温かく見護る事は、大事なのだが、余計な手を加えたり、余計な情報を与えたりしてはならないのだ。
神を求めて、純粋に成っている者に、何かの強い言葉を与えると、通常の何倍にも響いて、強い影響を与えてしまう事に成る。そんな事をすれば、その人が辿り着くべき入口の扉が、別の扉と成ってしまうのだ。
人間社会は、一人一人が違った個性を有する事で、全体が調和する様に創られている。だから、他人の真似をする事は、自分の個性を駄目にする事であり、自分の役目を果たす事が出来なくなる事にもなる。
私が、此処まで進んで来られたのは、人真似ではなく、自分のオリジナルで進んで来たからである。誰かの弟子と成ったり、何かの主義主張に嵌ってしまっていれば、現在・いまの自分は無いのである。
今では、釋迦牟尼佛やイエスキリストの気持ちが、能く理解出来る様に成って来た。それは、私が、キリスト教や佛教や道教等の、宗教を信じるのではなく、イエスキリストや釋迦牟尼佛や、老子の生き方自体を、対象に見据えて生きて来たからである。
イエスキリストや、釋迦牟尼佛や、老子は、経典を唱たり、祈祷等の行為は一切してはいない。彼等に共通している事は、唯一神に随伴する「神惟の道」を歩いた事である。
彼等は、宗教を興したのではなく、宗教や全ての煩わしさから、自由に成る事を説いているのである。全ての煩わしさから、自由に成ると言う事は、神と伴に進む、一番の近道なのである。
他人が、口出しをしなくても、自分から、他人の業の煩わしさの中に、入って行く人達が、何と多い事か。其れ等の人々を救う為には、「惟神の道」の世界を、人々が知る処としなければならない。
「惟神の道」は、「見ざる、言わざる、聞かざる」の世界だが、「惟神の道」の世界が存在する事だけは、全ての人達に知らせる必要が有るだろう。
其の「惟神の道」の世界がある事を、全ての人類が知る事に成れば、人々の認識が変わり、皆が「惟神の道」を進む事も、容易に成って来る。
無い世界は歩けないが、目に見えなくても、「在る」と万人が認める世界であれば、人々は歩き出す事が出来る。
「惟神の道」と言う世界があるのだが、口出しをしてはいけないとの概念だけが、人類全体に知れ渡る事と成れば、天意も働き易く成るし、神の意志を受け取る人間も数が増えて、世の中は良く成って行くだろう。
そんな世の中に成れば、新しい霊魂も安心して、どんどん地上に降りて来る事が出来るだろう。
もう、私の様な苦しみを、長く続ける必要が無くなるのだ。
そして、「イエスキリスト」や「ジャンヌ・ダルク」を磔にした様な、間違いを犯す事も、二度と無く成るであろう。
今朝のメッセージは、神の働きが、何時も在る事・ことを知らないで生きている人達への、神の愛(かな)しみの姿が、映って来たモノだったのかも知れない。そして更に、その神の愛しみに一番気付いていなかったのが、私自身だったのだろう。
私は、結婚10年目の記念日を境にして離婚した。
31歳の若さで、幼子を三人連れて実家に帰された妻は、何も解らず、只驚きの世界に在ったと思われる。
何も言わずに去って行った、妻の気持ちを察すると、胸の詰まる憶いはするが、悲しくても、全てを捨て去らなければ、人類も家族も守れない理を知らされたので、仕方なく、泣きながら、子供達とも別れる事となった。
インドの釈迦は、自分でその道を選んだのだが、私は、神霊達にそうされたのである。あれから19年が経過している。
お陰様で、三人の子供達も、立派に成長している様だ。
今朝は、別れてから、19年も経った妻が夢に出て来て、時々は片付けを手伝っているのだと言う。其れは、私が居ない間も、目に見えない形で、何等かの支えをしてくれたとの意味だろう。
そして、奥歯まで真白の歯は、何を意味しているのかは分からないが、古代では、歯型を取り、歯が丈夫で揃っていなければ、王に成れなかったと聞いた事もあるし、奥歯が揃っていない人は、根性が無いとの話もある。
歯が全部揃っていない者は、神の試練に耐えられないのであろう。
私の妻が耐えられたのは、歯が丈夫であったからだと、伝えて来たのだろうか。
私も、無庵師匠に探し出された時、最初に云われた事は「歯を見せろ」との事だった。私の、修行の始まりは、先ず歯医者に通う事からだったのである。
私が、19年前に無庵師匠に探し出されて学んだ理・ことは、歯が一番大事であるとの理・ことだったので、自分の子供達を、虫歯にしてしまっていた事は、一番辛い事であった。
「惟神の道」を歩くのは、心の重圧に堪える事なので、口出しは出来なくても、歯を丈夫に揃えて置く程の事は、知らせても良いとの事だろうか。
平成15年9月1日
礒邉自適
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