言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2004/1/19
私は道を繋いだ
16・1・19
作日、屋久島の安房の総合センターを会場に、「龍村 仁」監督の映画「地球交響曲第五番」の上映会が有り、私も観に出掛けた。
そして、其の会場で、上映の幕間に、私の頭の中に「わたしは 道をつないだ」との言葉が告げられて来た。
其れは、私の中に住み着いて居る何者かの、自信に満ちた存在の声だった。
私は20年前に、4311体もの神霊に肉体を貸して、是まで、日本全国の旅を続けて来た。其の、私の肉体を使用した者達が、役目を果たす事が出来て、道が繋がったとの事なのであろう。
「道」とは、中国の老子の概念である道徳が、現代社会にまで、強く影響して伝わっているものである。インドの釈迦の「ダルマ(法)」も同じ様な意味である。
老子の謂う「道・タオ・トウ」とは、
「道沖而用之或不盈。淵兮似物之宗。挫其粉、和其光、同其塵。湛兮似或存。吾不知誰之子。象帝之先。」と 道徳経にある。
奥平卓氏の訳によれば、「道」はうつろで「無」としか言いようのない物であるが、そのはたらきは無限である。深遠で、万物はその奥底から湧き出るかに見える。
限定せず、限定されず、すべての対立を超越する。
万物を包摂し、万物と一体である。
漠としてあるかなきかの存在である。
「道」は何から生じた物でもない。
それは万物を主宰する 力の根元としかいえない。
(徳間書店・中国の思想老子・列子)より。
佛教では、釈迦がダルマを説いて、梵語の「ダルマ」を訳したのが「法」で、「法」は(1)存在するもの。(2)存在の法則。と 辞典には載っている。
中国の老子も、インドの釈迦も、同じ様に、人の目には直接見えない、宇宙の法則が存在する理を教えているのである。
人間は、自分の浅はかな知識を棄てて、宇宙の大きな法則を理解して、其の道・法に従って生きる事が、「達人」であり「ブッダ(佛)」なのである。
作日は、私の中に住む御霊が、その道を繋いだとの事は、人間が失い掛けていた道の記憶が、取り戻され、未来に残されたとの事だろう。
そして、今朝のメッセージの映像には、真っ赤に美しく輝いている木の実が、鈴なりになっている場面が映って来た。
自然は、人間が、何かの手助けをしなくても、花を咲かせ、美しい実を稔らせている。今朝のメッセージが、伝えて来ている意味は、人間が育つのにも、余計な手出しをするなとの理・ことだろうか。
今朝は、美しい木の実が映る前に、三通りの場面が現れた。
最初は、何処かの家に暮らす一族が、他部族に襲われて、主人は殺され、若者達は頭に布袋を被され、連れて行かれて働かされ、女性達は、敵の男性の子供を産んで、育てる場面だった。
次の場面は、寺に師匠が居て、私は下足番などをしているのだが、何も学ぶものが無くガッカリとしている。
そして、場面が変わって、今度は、私の所に弟子に成りたい人達が何人も来て、私は其の者達を、食べさせるのに困って居るのである。
今朝のメッセージの三場面は、肉体的に自分の血筋を残す為に、他人を犠牲にする事や、自分の知識を増やす為に、他人の知識を継ごうとか、自分の知識を残す為に、他人を弟子にしようとかを、考えてはならないとの理・ことではないだろうか。
大自然の生態系を観察していると、己が精一杯生きる事だけに努力をしている。自分が生き残る為に、他を犠牲にするのではなく、最小限度のエネルギーの消費で、最大限に命を拡大しょうとしているだけである。
自然の森を見ると、一種類だけが単独で繁茂するのではなく、多種多様な種類が、バランス良く空間を分け合って存在を続けている。
其の、大自然の働きから見れば、人間が増え過ぎている現在、人間だけを救おうとするのは、自然の法・道に逆らう理に成るのであろう。
作日、観た映画「ガイアーシンフォニー」の出演者も、自分一人が、ただ好きな道を歩いて来た人達である。
地球(ガイアー)は、集団での人間ではなく、一人一人が自然と調和して、生き残る事を望んでいるのだろう。
其れが、地球に暮らす生命の、一番大事な決まりではないだろうか。
「余計な 手出しをしない」其の事こそ、魂を救えるたった一つの方法なのかも知れない。
今朝の映像に、現れた宝石の様に美しく輝く木の実は、生命の原点を表示する物だったのもかも知れない。
私が、人類の真理の道に辿り着いたのであれば、私の思考が、目に見えない情報として、人々の潜在意識に伝わって行くだろう。
私が、作為を起こす事は、自我意識が動く事に成るので、其の大事な働きが、消えてしまう事になるのだ。
私は、出来るだけ自分の思考が動き出さない様に、屋久島の大自然の中に、身を沈めて行かなければ成らないのだ。それが、「御稜威・みいつ」の働きに一番近い行動なのだ。
そして其れが、「道が繋がる」との事なのであろう。
謂うに云えない、この道は、老子が謂う様に、愚か者しか歩けないのだ。
平成16年1月19日
礒邉自適
2004/1/17
不変真如
16・1・17
今朝のメッセージは、メッセージと言うよりは、自分の体験と言った方が、良い感覚だった。
今朝の感覚は、私の意識の中を、「縛日羅(ばざら)・金剛」の様な、決して壊れない物、永遠の自信か、確信の様なものが、流れているのを感じた。
其れは、太陽の光りが当る肥沃な空き地には、必ず草が芽生えて来る様な働きで、誰もが邪魔出来ない、自然の力強いエネルギーの様なものである。
人間が、意識しようが、しまいが、人間の中を流れている、生命の根源的な力の様なものである。
其れを、昔の人が何と呼んでいたのか、辞典で調べて見るが、其れに適当する言葉が見つからない。近い言葉に「真如・シンニョ」が有り、真如は、
(1)不変真如・真如があらゆる消滅変化を超えている面をいう。
(2)真如縁起・一切の存在は、無差別平等の真如から顕現するという説。
と有り、真如は梵語のtathataの訳で、一切存在の真実の姿。この世界の、普遍的な真理を意味し、仏陀の教え。と、載っている。 広辞苑
真如とは、人間が意識をするか、しないかに関わらず、人間の言葉を超えた処に、絶えること無く永遠に流れている、時間の様なものであろう。
人間は、其れを意識せずとも、其の真如の働きに因って生かされ、存在を続けているのである。生も・食も・性も、人間が価値判断出来る領域ものでは無いのだ。其の真如から見れば、「ブッダ釈迦」も「イエスキリスト」も、其の道から外れた生き方をした事になってしまうのだ。
今でも、言葉を文字化せずに、アマゾンのジャングルの中で生活を続けている、「マチゲンガ族」の家族は、唯一「真如」の生き方を続けていると言えるのかも知れない。
近代化した人間社会に、生まれ育っている我々は、もう真如が何であるかを、察知する能力を失っているのかもしれない。永遠に不変なものは、人間が造り出した世界には一つも無い。有るのは、人間が創ろうとせずに出来ている、この身体だけである。我々人間の社会で、不変真如の物と言えば、この自分の肉体だけなのだ。
釈迦は、「己が 頼れるべき物は この自分の肉体だけである」と謂っているし、老子も「自分の肉体を 大事に出来ない者には 何も 任す事が出来ない」と謂っている。自分の肉体を、しっかり守護してこそ、環境=「環(たまき)境(さかい)」が見えて来て、経済や政治の有様も見えて来るのではないだろうか。
自分の中を流れている、不変の真如(真理)の流れこそ、自分が頼ることが出来る唯一のものなのである。
私は、今朝、其の不変のエネルギーの流れを、確かに感じ取ったのである。
私が、人々に伝えられるものは、理屈や技法などでは無く、其の不変の生命の流れを、感じ取れる生活の仕方だけである。
其れは、東京や大阪などの都市ではなく、自然豊かな環境の中で、行なわれるべきものである。
やはり、私は、屋久島の自然の中に帰るべくして還されたのであろう。
都会では、感じ取る事が出来ないものこそ、この屋久島に有るものなのだ。ようやく屋久島の力が、私の肉体にも蘇って来たのだろうか。
やがて、大きな空き地が出来れば、陽の光りを浴びて、私の新たなモノが立ち現れて来るだろう。
平成16年1月17日
礒邉自適
1 | 《前のページ | 次のページ》