言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2004/3/28
清清として(二)
16・3・28
今朝のメッセージは、書店の包装紙に包まれた一冊の本が写し出されて来て、本の題名は「清清として」との意味であることが解った。
そして、包みから取り出された本は、真紅の色である事が見せられた。
今朝のメッセージの意味は、「清清しく生きることは 内側が真紅であることだ」との、知らせなのではないだろうか。
今朝のメッセージで思い浮かぶのは、2000年前に伊勢神宮を創建した、斎宮である「倭姫命」の言葉である。
黒(きたな)き心なくして 丹(あか)き心をもちて
清く潔(いさぎよ)く 斎(ゆまわ)り慎(つつし)み
左の物を 右に移さずして
右の物を 左に移さずして
左を左とし 右を右として
左に帰り 右に廻(めぐ)る事も
万事 違(たが)う事なくして
大神へ仕え奉れ
元(はじめ)を元とし 本(もと)を本とする故なり
倭姫命は、西暦6年頃に、奈良から「天照皇大神」の御杖と成って伊勢に行き、伊勢に神宮を創建して「天照皇大神」に仕えた斎宮である。
今朝は、その倭姫命の霊魂が訪れて来たのだろうか。
「清清として」とは、「清く潔く 斎り慎み」生きる事ではないのか。
そして、包みの中から現れた真紅の本は、「丹き心」を意味しているのではないだろうか。そうであれば、天照皇大神の意志が、私に作用して来たとも考えられる。
私には、今年に入ってから「何もするな」と告げてきている。
其れは、倭姫命の言葉の実行を、する様に告げて来ているとも受け取れる。
大神に仕える者は、物の移動をしてはならないとの事だ。
其れは又、人間の勝手で、作為を起こしては成らないとの理の様である。
私に、何もしては成らないとの事は、大神の働きが、本格的に動き出すとの意味にもなる。
現実的に、現在の様子を見ると、日本全体が、私の望む方向に動き、良い方向に流れ始めている。
私の20年の動きが、無駄ではなかった事が、証明されつつあるのだ。いよいよ、神の大計画が現れ出ようとしているのだろうか。
私は、清清として存在するだけで、自分の役割を果たせるのだろう。
それが、「天照皇大神」の本当の意味ではないだろうか。
平成16年3月28日
礒邉自適
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