言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2004/7/5
真実の言葉
16・7・5
私達が、現在日常使用している言葉は、人間の都合に原因するもので、古代社会の人間の様に、自然と一体化したものではなく、人間が築いた文化の影響を受けて、真実の処からは外れてしまっている。
其れが顕著に成ったのは、小説や映画・テレビ等で、人間が勝手に創り出した、不自然な映像や言葉が使われ、其れが暮らし全体の中に、行き渡ってしまったからである。
特に、言葉が相手を幸福にするもではなく、自分の我欲を押し通す事の為に、使用され始めてから、言葉が信頼出来るものではなくなったのだ。
神社や寺院に行っても、神仏との意いの遣り取りではなく、自分の我欲を、神佛に押し付けるだけに成って来ている。
真実の言葉とは、自然を舞台として、神と人とが、協同して、この世に存在する為に、使用されるものである。
其れが現在・いまでは、自然が舞台ではなく、神が不在いで、人間が我欲で、創り出した都会で使用される言葉の概念が、自然の中で生活する、田舎の人達にまで広がってしまった。
その事が、最大の問題なのである。
現在の世の中は、先進国と呼ばれている国々の言葉や概念が、都会で開発された品々と共に、後進国と呼ばれている国の、自然の中で暮らす人々の所にまで持ち込まれて、その地域の文化を破壊し、本来の言葉の世界が失われ様としている。
幸いにして、我われの住む日本国は、国全体が、他民族に一勢に侵略された事が無いので、未だ、方言等も残っており、本来の言葉や意味を、取り戻す事は可能であると思われる。
しかし、日本の現在の若者文化ほど、言葉が乱れている国は無いとも耳にする。
其れは、日本のテレビ番組や雑誌等が、是でもか是でもかと、言葉の世界を踏みにじっているからである。
人間は、子供の時から、言葉に因って世界を認識して、大人に成って行く。
それが、今は、子供の頃より、間違った言葉の中で育つので、正しい意識の組み立てが行えず、混乱の内に、身体だけが成長し、見掛けだけの成人となっているのだ。
そして、その若者が、子供を産み育てるのだから、子供達の世界が乱れるのは、当然の事と言える。
日本語の「ひと」の言葉の意味は、先祖の「霊(ひ)留まる」との意味だから、産まれた子供を、正しい言葉で導かないと、先祖の霊も同調(コミニケーション)出来ず、深みの有る落ち着いた子供として、成長することが出来ない。
先祖・両親・子供・孫と四世代以上に渡って調和してこそ、魂しいが安定して進化して行くのである。
又そうしなければ、魂しいとして残り続ける事が出来ないのだ。
日本の文化は、皇御祖(スメミマ・先祖代々の霊)を祭り続け、魂しいを継続させる事が、最重要とされて来たのである。
魂を継続させるには、先祖が使用していた言葉を、正しく使用しなければ、神霊との意志の疎通が出来ない。
日本語しか、使用しなかった昔の人の霊に、英語や仏教用語でコミュニケーションを図ろうとしても、意味の疎通は上手く行かない。
その理を、現代人は忘れ去っているので、社会全体が混乱を引き起こしており、調和が失われているので、幸福な人々が少ないのだ。
物には恵まれて居ても、心底から安心立命が実感出来ないのも、其処に原因がある。
お盆や、年の瀬に、先祖の霊を祭り、葬式や年忌等に詠む「経典」の文言や、神の為に奏上する「祝詞」の意味を、もう一度、再確認しなければならない時を迎えている。
日本の伝統を、護り続けなければならない天皇家が、その事を再確認しなければ、日本の伝統は失われ、皇御祖も浮かばれないのではないだろうか。
平成16年7月5日
礒邉自適
2004/7/4
いきる
16・7・4
日本語の「いきる」とは、「息をしている」事であり、漢字の「息」の文字は、「自+心」の組み合わせで、「心臓(心)から 鼻(自)」へ「呼吸・いき」が通じている意味である。
心臓や、肺臓の活動が行なわれている間は、「生きている」と言う。
息をしている間が、「いのち」が有る状態だと言えるのだ。
人間や動物だけではなく、海の魚類や海草、其れに陸上の植物達も、皆「いき」をしている。
「いき」が停止した時が、生き物の死だ。
「死」の漢字は「一(地平)+夕(頭蓋骨)+ヒ(足の骨)の組み合わせで、意味は、地平線が見える大地に、頭蓋骨(しゃれこうべ)と足の臑骨が、転がっている様子を、示す象形である。
死の漢字は、肉体の行く末を表している、絵文字なのだ。
「生命」の「生」は、地面に草木が生(は)えて伸びる姿の絵であり、「命」は「神(宇宙)の命令の言葉を受け取る」との意味だから、「生命」とは、「植物が宇宙のプログラムに因って生じる」との意味であるので、「生まれる」の意味は少し外れており、「歯が生える」は合っている。
「植物が生まれる」は、「生」の字で良いが、「人間が子供を産む」の意味は、本当は「育」の漢字がそれで、「育」は「毓・イク」が本字で、「結婚している婦人が 子供を産み落としている姿の象形」である。
「いきる」とは、「息を続けながら 子孫(遺伝子)を残して行くこと」の意味の様だ。
だから、日本語の「いのち」に、「命」や「生命力・寿命」を当てるのであろう。
日本語(倭ことば)の「いのち」の意味が、本来何を言い当てていたのかは、私には明確ではないが、私しなりに考えると、「いのち」とは「遺伝子が 姿かたちを変えて いきて行くこと」又は「遺伝子が 変化と継続をする 根源のちから」と、謂えるだろうか。
現在の地球上には、何百万種と言う生物が存在するが、其れ等の元は総て同根であり、いのちは根源から、何百万種と枝別れしながら、姿形を変えて、今日に至っているのである。
人間だけを見ても、基本の人形は皆同じでも、一人一人は全部違う特徴を備えている。
其れは、環境の変化に合わせて、自分の遺伝情報を、組み替えて来た結果である。
他の何百万種の生き物も、皆同じ事を行って来たのだ。
人間の其々の姿の違いも、森の木々の姿の違いも、遺伝子が、自分の意志で行動して来た結果である。
「意志」とは、自分自身で強く「おもう」ことである。
おもいの力が、遺伝情報に変化を与えるのだ。
人間の心のおもいが、顔の表情を変化さす様に、生き物は、自分のおもい(意念)で、姿を変えて来た。
生き物は、自分で強くおもうしか、環境の変化に着いて行けないのだ。
同種の行動に合わせて、何も意念せずに、ただ同調しているだけの物は、環境の変化に着いて行けず、滅ぶしか無い。
神が、地球に生じている全生命に命じているのは、其の理であり、生の選択(チョイス)は、その者の努力に任されている。
人間は、技術の進歩で、環境の変化に対応して来た。
しかし、其れも、いつまで続くのか分からない。
人間と家畜は、野生の生き物とは異なり、自然の流れとは、反対の方向に向かっている。
少しは、「生きる」とはどう言う意味なのか、考えた方が良いのではないだろうか。
平成16年7月4日
礒邉自適
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