言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2004/12/28
一番古い身体の細胞
16・12・28
人間の肉体の中で、一番古い細胞は、何処に有るかを考えれば、私は、その細胞は胃だと考える。
そして、一番新しいのは、新皮質である大脳の細胞である。
其れは、人類は、類人猿から分離して、人間に成って未だ650万年だが、地球生命の源は約38億年前に微生物が発生してからなので、地球生命の年齢は38億歳と言う事が出来るからである。
38億年前に発生した、原初の微生物は、酸を出して、岩石を溶かしてエネルギーとしていたとの事である。
その最初の微生物は、現在まで姿を変えて存在を続けている。
その証拠は、植木鉢に植えている植物は、何年かおきに植え替えをしないと、土が無くなり根詰まりを起こして、枯れてしまう事で明らかである。
それは、植物が根から酸を出して、植木鉢の中の土を、全て食べてしまうからである。
自然薯も、芋に生えている産毛の様な白根から、酸を出して土を溶かし、其れを吸い上げて、茎や葉に送って、無機質から有機質を作り出している。
其の仕組みは、人間の身体のシステムにも残っているのである。
人間の胃は、胃袋に入って来た食物を、酸を出して溶かすのが役目であり、胃で溶かされた食物は、十二指腸から出されるアルカリで中和されて、小腸に送られる。
そして、其の栄養分は、小腸の繊毛(白根と同じ)から吸収されて、血液で運ばれ、人体を支えるエネルギーと成るのである。
植物は、外向きに根を出しているが、動物は内向きに根を出しているのである。
これらの理・ことから、人間の身体で、一番古い働きを行っているのは、胃袋の細胞だと言う事が出来る。
漢字の「言う」は、本来は「謂う」なので、「人間の意識は 胃に有る」と、古代の人々は考えていた様である。
「謂」の漢字は、「言+胃」の組み合わせで、「胃」は「田+月(肉)」の組み合わせで、田は「口+米」の組み合わせであり、胃の意味は、胃袋の中に入っている穀物との意味である。 漢語林より
昔の人達は、胃袋に入れた食物の情報が、人の意識に影響を与える理を知っていたのである。
だから、熊野神社や、伊勢の外宮の神は、食物であり、天皇家の神は、「御饌殿・みけどの」と言って台所の食物であり、その名は「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」で、神の源に通じるのは、食物の大神であると言い伝えている。
太古の人々は、自分の胃袋の細胞が、宇宙の情報を、汲み取る事を知っていたのである。
その理・ことを、現代まで伝えているのが、天皇家や、物部神社の新嘗祭の儀式である。
私達人間は、全て、脳で情報処理をしているのだから、苦しむのも、悲しむのも、みな脳が痛めば良いのだが、脳は何も痛みを感じずに、痛むのは、何時も胃袋の有る鳩尾(みぞおち)の所である。
其れは、胃袋の細胞が命の源であるからこそ、反応を起しているのだろう。
自分の行為が、上手く進まない時には「悔い改めなさいと」と言われるが、それは、「食い改める」が正しいのかも知れない。
仏教でも、一番大事なのは精進であるし、東洋には「身土不二」の言葉が有り、食物と心身は一体のものであるとの、教えも伝えられている。
生命の誕生から38億年、私達の生命は、遺伝子的に肉体的進化を続けながら、魂しいもまた、深みを増しているのだと想われる。
食物を、大事にして生きて行かない者達は、どんどんと生命の根源から外れて行く。
例え、肉体は一人前に見えても、魂の方は、植物以上に、霊魂が薄らいで行くのだろう。
現代人の食べ物は、加工調理が必要以上に為されており、胃の細胞が、何なのかを判断出来ない様な物を、胃袋に入れるのだから、人間の意識が乱れるのは、無理も無い話だと謂えるのではないだろうか。
平成16年12月28日
礒邉自適
2004/12/4
言葉の拘束力
16・12・4
今朝の霊夢には、女性の顔が出て来て、口が大きく開いていた。
そして、告げられて来た言葉の意味が「言葉の拘束力」であった。
現れて来た顔が、誰であるか考えて見るが、現世の人には、心当りが無い。
霊界人か、神霊で考えるならば「岩長姫」である。
岩長姫とは、「大山祇神」の娘で「木花之開耶姫」と一緒に、「天津日高彦火瓊々杵尊・ににぎのみこと」の妃に成ったが、顔が醜かった為に、実家に帰されたと伝えられている。
父親の大山祇神は、美しいが丈夫ではない娘に、身体が頑強で、何でも出来る岩長姫を付ける事で、二人の娘が両方共、幸福に暮らせるとの親心で、一緒に嫁に出したのであろう。
木花之開耶姫は、最初の子供を産んだ処で死んでしまうが、神として、全国に祭られている。
一方岩長姫の方は、その話のままで終わってしまっている。
丈夫で、何でも出来た娘が、顔が醜かったので帰されてしまった。
それだけの物語で、存在が消えてしまっているのである。
その短い物語は、短いだけに拘束力があり、他へ意味を広げる事が出来ない。
言葉は、人間の思考を広げもするが、閉じ込める事も又可能である。
一つの言葉が、人を救いもするし、不幸にもする。
言葉は、人間に取って、一番重大な働きを持っている。
日本には、神社等の儀式で唱える祝詞が在るが、そんなに長い文章ではない。
インドの、仏教の経典も澤山在るが、釈迦が伝えた言葉は、そんなに多くはなかったであろうし、イエスキリストの言葉も、そんなに多くはない。
聖書は、何人もの弟子が、同じ場面でのイエスの行状を、其々に伝えているので、書物として厚く成っているだけである。
言葉は、長ければ長い程、意味合いが薄れ、心に残るものが少なくなる。
せっかく唱える祝詞も、長くなれば、神様も嫌がって逃げ出すかも知れない。
短くて、単純な願いの方が、受け入れ易いのではないだろうか。
「言葉の拘束力」とは、その様な意味合いの事ではないのだろうか。
男性から、女性へのプロポーズの言葉も、長かったから、上手く行ったとの話は余り聞いた事が無い。
成功した例は、殆どが単純明快な短い言葉の様である。
今朝のメッセージは、私が告げる言葉が、拘束力を持つ様に、短くて、確かな意味を持つ事だけにしろとの理・ことかも知れない。
今日の、読売新聞のコラム編集手帳に、詩人の長田弘さんの「言葉のダシのとりかた」と言う題名の詩が有り、
「かつおぶしじゃない。まず言葉をえらぶ。大きくてよく乾いた言葉をえらぶ」
「だが まちがってはいけない。他人の言葉は ダシには使えない。いつでも 自分の言葉を使わねばならない」云々と、載っている。
私へのメッセージと、新聞の記事がシンクロしている様だ。
神は無言ではあるが、確実に、私を運んでいる様である。
平成16年12月4日
礒邉自適
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