言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2005/1/3
尚・ショウ
17・1・3
今朝の霊夢には、「尚」の漢字が一字映って来た。
そして、画用紙に両面テープで、色んな写真が止められて在るのが見えた。
「尚」の漢字を、漢語林で調べて見ると【解字】会意「八+向」「八」は神の気配が下る様を示す。
「向」は、屋内で祈る様を示す。こいねがう・たっとぶの意味を表す。【字義】@こいねがう。こいねがわくば。たのむ。希望する。Aこのむ。したう。「好尚」Bたっとぶ。とうとぶ。「尚武」Cたかい。たかくする。Dくわえる。そえる。Eひさしい。Fめとる。めあわせる。特に天子の娘(公主)をめとること。「尚主」Gなお。㋐かつ。その上。㋑やはり。それでもまだ。㋒さえ。すら。Hつかさどる。と 載っている。
「向」の文字の持つ意味は、屋内で、神の気配が下ってくることを、現している象形であるらしい。
其れは、巫女や、神主等の姿を、連想させるものがある。
神が、屋内で待つ人間に、言葉や文字や絵に因って、イメージや情報を送って来るのを、尚の文字に現したものだろう。
今朝、画用紙に次々と張られた写真は、その神のメッセージの意味なのであろう。
今朝の二つのメッセージは、私に其の「尚」を感じ取れと、神が告げて来たものなのだろうか。
今朝の映像には、絵だけが張り付けられていて、文字や言葉は無かった。
文字や、言葉が出て来れば、人間だけの世界のメッセージである事に成るが、映像だけの情報なら、目の器官を有する生物なら、何物でも絵として受信出来る事に成る。
ゴリラや、チンパンジーが眠っている間に、夢を視ているかも知れないし、イルカやクジラも、神の映像を受け取っているかも知れないのだ。
犬や猫でも、餌を貰える時間に成ると、その場所に遣って来る。
其れは、その場所と、餌を与えてくれる人間の姿が、脳に映像として、映し出されるからであろう。
若しかしたら、あの美しい姿の蝶などは、自分の意識は全く無く、神が送り込んで来る情報だけで生きており、夢の中で、暮らしているのかも知れない。
人間が、古代に住んで居た所も、暖かい場所で、衣や住家も必要ではなく、食糧を集める為の道具も、必要では無かったのではないだろうか。
裸で暮らし、身近に存在する物を食べ、何の決まりも掟も無く、全くの自由で暮らしていたのではないか。
旧約聖書の、アダムとイブの生活を見ると、エデンの園とは、そう言うイメージの世界である。
アダムとイブは、知恵の実を食べた事で、自分が「ハダカ」であるとの意識が生まれ、「恥ずかしい」の言葉を知った為に、神が呼んでも、神の前に出て行けなく成っている。
そして、自分と言う自我に気づいた為に、自分の所有物という執着が生じ、神の園を出て行かなければならない様に成ってしまった。
つまり、言葉を知った為に、神の夢の世界から、出て行かなければ成らなくなったのである。
言葉が、神の夢を視る世界から、人間を起こしてしまい、人間は、自分の意識だけで創出する、まやかしの世界に生きる様に成ったのである。
だから「尚」とは、屋内に篭って、人間の創出した幻想の世界から、本来の世界に帰り、神と同じ夢を視る行為を、意味している。
尚の漢字と、隣同士に「吾」の文字がある。
「吾」は「五+口」の組み合わせで、「口」は神のお告げの意味で、「五は」棒を交差させて組み立てた器具の象形。で、字義は「神のお告げを 汚れから守るわれ(自分)」との意味らしい。
尚で、神のお告げを受けたら、其の言葉を、汚れから守らなければならないらしい。其れが「吾・ゴ・われ」の意味である。
その人間が、「聖・セイ」「耳+口+王」の組み合わせの、「首を伸ばして 耳を澄ませ 神の言葉を受ける人」である。
「聖・ひじり」は、小鳥や動物と、意志が通じるらしい。
其れは、人間の言葉を使用しているからではなく、神の夢の世界は、共通言語は文字や言葉ではなく、無声映画の画面の様なものだからであろう。
私達人間の脳も、動物や植物の意識の世界も、その共通の周波数の通信網の内で、繋がっているのである。
「尚・ショウ」を、日本語で「なお」と使用するのは、其の世界を一番身近にしようとする、人類の深層心理からのものなのかも知れない。
人間の住む世界と、他の地球生命は、同じ三次元の、此の世界に同居しているのに、意志の疎通が出来なく成っている。
現代では、自分が尚に成って、他の生命といのちを共有するのではなく、本来自然の中で生活する動植物を、改良したり、家畜化したりして、自分の創出した業の中に、閉じ込めようとしている。
檻の中で、人口孵化に因って育てられた朱鷺・ときは、もう昔のニッポニアニッポンではないのだ。
私達人類自身も、都会の中で生まれ、自分自身を家畜化して来たので、本来のホモサピエンスは居ないのではないだろうか。
せめて私だけでも、言葉の無い、原始の脳を取り戻さなくてはならない。
私(自分の手で稲束を抱え込む意味)や、我(自分の手に武器を持つ様子)を捨てて、吾に帰る為にも・・・。
其れが、釈迦牟尼佛陀が説いた、十二縁起の世界なのだから。
「法華経の12因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
平成17年1月3日
礒邉自適
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