言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2005/5/21
池と雌
17・5・21
今日は 昼食後に眠く成って来たので、一時間程昼寝をした。
すると、頭に、色々と文章の文字が映って来た。
起きてから、記憶に残っているのが、最初の方の「完成池」と、後の「♀」だけである。途中に、何が書いてあったのかは思い出せない。
完成池(かんせいち)とは何の意味だろうか。
池が完成したとのことだろうか。
「池」の文字は「氵(水)+也」で也はまがりくねるの意味。まがりくねった形の、水たまり、いけ・ほりの意味を表す。と 載っている。漢語林
何の為の、堀が完成したのだろうか。
私は、池や堀を造っている分けではない。
意味が有るとすれば、弁財天の神を祀る池があるが、その池が完成したとの事であろうか。
そして「♀」は、何の意味だろうか。其れは、「♂♀(雄雌)」の記号だろうか。漢字には、「+」の上に「口」が乗った字は無い。
雌の意味であれば、弁財天が「雌」だとの知らせなのだろうか。
私が、奈良の天河弁財天の神社で、20年前、藤色のコブラの姿を見せられ「貴方のお陰で ようやく岩座に入れて 落ち着く事が出来る。」と、お礼を云われた事があるが、その時は雄雌がハッキリ示された分けではない。
今日は、其れを、ハッキリと知らせて来たのだろうか。
サラスヴァティが雌の性格であれば、女性の立場で、物事を考えて行かねばならない。男性(雄)の立場を、押し付けてはならないのだろう。
昨夜は、事務所の建物の中でコンサートが催され、夜8時から11時まで楽しく過ごした。
メインの演奏者は、大分市から来た「山内桂氏」で、彼のサックスの演奏は通常の演奏ではない。その旋律は曲ではなく、神社での禊ぎの時の、岩笛の様に鼓膜を振動させたり、螺旋の様に音を回して、脳の中身を掻き回す様なものであった。
其れは、彼の説明では、遺伝子に通じる音だとの事。
私はその音楽に対して、音を楽しむ音楽ではなく、音の原型としか説明出来ない様な、世界であると感じた。
ダンスをしようと考えていた人達は、不満を述べ「何だ、いつまで音あわせをしているのか。早く演奏を始めないか。」と、云う者も居たが、最後まで曲らしき演奏は無く終った。
私は、彼と、宿舎で深夜1時半過ぎまで色々話した。
彼は、自分の演奏を、なかなか認めてくれる人が、増えないと云っていた。
そして、朝8時の船で、屋久島を離れると言って、船着場で眠る為に車で帰って行った。
私は1989年(平成元年)6月28日に、丹後一の宮の籠神社に関係しておられる「小長谷修聖氏」の自宅を、野草社の石垣雅設氏と訪ね、修聖氏の岩笛を聞いた事がある。
その時、初めて、音に拠って、鼓膜がパタパタ音を立てる体験をしている。
それから17年振りに、又、同じ体験を昨夜した。
岩笛は、古代の人が禊祓いを行い、岩笛を鳴らす事で、神と通じる為に使用していた物である。
まさか、サックスの楽器で、同じ事が起きるとは、想ってはいなかった。
昨夜の演奏会も、音楽・芸能の神である、弁財天の仕組んだ事であったのであろうか。
人間には五感があり、視、聴、嗅、味、触と分けられている。
それは人間だけでなく、哺乳類なら全ての動物が持っている感覚である。
その中でも、聴の音の世界は、全ての動物に、一番重要であろう。
音が聞こえなくなれば、群れでの行動が出来ないし、敵に襲われる迄気が付かない。詰まり、音がなければ生きて行けないのだ。
それ程、重要な器官だから、脳の中でも、一番大事な部分を占めているだろう。その部分を、昨夜は掻きまわされる事に成ったのである。
頭脳のプログラムは、意識の構築だから、掻き回されれば、分けが分からなくなり、思考が真っ白になってしまう。
神社での、岩笛の持つ意味は、頭の掃除なのだろう。
神の知らせを受け取る為には、人間の自我意識を、一時、消さなければ成らない。其の事で、古代の人達の知恵が見えて来る。
雌を口説く為に鳴き、縄張りを守る為に鳴くのも、雄の役割である。
雌は、雄の声や子供の声を聞くのが、役割である。
人間以外の雌は、おとなしく聞く事に長けている。
人間の世界も、神の声を聞くのは、女性の巫女さんである。
神のお告げを受ける事は、聴く事であるから、女性の方が、其の役に向いているのであろう。
今日の、雌のしるしは、「聴く事に身を置け」との意味ではないだろうか。
昨日から、屋久島もホトトギス(時告鳥)が鳴き始めた。
私は21年前、ホトトギスの声の下で、神の世界に入って行った。
再び、ホトトギスの声の下に居る。
私は、話す事より、聴く側に、身を移すべきなのだろうか。
周囲に、水の堀を造って・・・。
平成17年5月21日
礒邉自適
2005/5/21
高みへ導く
17・5・21
今日は、空海の月命日である。
今日のメッセージは、空海からか、弁財天からかは分からないが、人々を導く方向を示して来た。
一昨日のメッセージでは「強引に」との言葉告げられ、何処へ導けば良いのかハッキリ分からなかったが、今朝は、具体的な方向性を示して来た。
今朝のメッセージの映像には、二つの道が映って来て、私の意識は、道路の左側に在って、前方から、列を成して歩いて来る大勢の人達に、「左の道路に入れば 一段上の処に行けますよ。」と知らせて居るのである。
歩いて来る人達の多くは、そのまま真っ直ぐに歩いて、私の右側を、後ろの方に通り過ぎて行くが、何%かの人達は、私の示す左側の道に入り、私の左側の頭の上の道を歩いて、一段上の世界に進んで行った。
今朝の場面はそれだけで、簡単である。
しかし、知らされた事は重要で、人類救済の説明に、使用する言葉が、これからイメージ化されて来るのではないだろうか。
言葉であれば、弘法大師空海は、その世界の大御所的存在である。
「真言宗」と名付けたのだから、真言(マントラ)は専門である。
そして、サラスヴァティも「辯財天」と書けば、是も弁舌の神様である。
辯財天と、弘法大師空海が組めば、大きな動きと成って来るのではないだろうか。
私は昨日、屋久島の原地区に在る町立「神山小学校」の5年生に、漢字の象形に付いて説明をした。
その時に、担任の先生が「大沼君の 沼の字の意味は 何ですか。」との質問が有ったので、漢語林で調べてみると、沼の「召」は召集のショウで、日本語の「まねく」の意味で、川から横に水路を造って、水を招き入れ池を造る意味らしい。
昨日の普通の質問が、今朝のメッセージと、繋がって来るのも不思議である。
水は、低い方へ流れるものだから、段々と低めに流れて行くが、人間は高みに向けて上がって行く事が出来る。
しかし、人間でも、低いレベルへは落ち易い。
落ちて行く事は、楽であるが、精神的高みに上がるのは、人一倍の努力を必要とする。
今朝のメッセージは、高みに上がる事を、希望している人達の、案内をしなさいとの意味であろう。
それが、「召く」の意味である。
「召」の漢字は、古い時代に出来ており、甲骨文では複雑な字である。
甲骨文での象形の意味は、神秘の力を持つ刀を捧げながら、「のりと」を唱えて、神まねきをするさまから、まねくの意味を表す。と、漢語林には載っている。
召は、川の水や、人をまねくのではなく、本来は、神のお告げを求める意味だとの事。
私の行っている、毎日の暮らしが、本当の召の文字の意味する処らしい。
私は、二本の刀の代りに、屋久杉の柱を二本立て、水と花崗岩の丸小石を、供えている。
其れが、其の侭、「召」の象形の意味を実行している事になる。
昨日の神山小学校での学習は、私にも、学びを与えてくれた様だ。
5年生に、優子ちゃんと言う名の子供が居て、その子の「優」を漢語林で調べると、「人+憂」で、憂は髪の長い人が大きく目を開いて、相手を見詰めながら手を差し伸べて、相手に「どうして上げたら良いの。」と、憂えてる人の姿で出来ている。
「憂」は、「愛」の次の行動を表している様だ。
「愛」の漢字は、困窮している人がいる事に気付いた人が、「どうしたのかな」と想って、振り向いて、気を遣う心の人の様を表している。
愛があって、憂の字があって、そして手段として「たすける」の漢字は、22文字もある。
「助」は、力を積み重ねる。「資」は、物資を与える。「援」は、手を差し伸べて引き上げるの意味である。他の漢字を知りたい方は、漢語林(大修館書店)を買って、自分で観じて欲しい。
仏教の布施は、布を与えて助けるの意味だから、資けるの内に入るだろう。
釈迦の存在よりも、1000年前に、人間の概念は確立されていたのだ。
釈迦は、その概念に意識を遡る事で、覚者と成ったのである。
残念な事に、釈迦の国には、漢字の様な優れものが無かったので、全部方便と成ってしまった。
イエスも同様で、たとえ話で終ってしまっている。漢字の発祥の地、中国でも略字化が進んでいると聞く。
日本が、最後に残った漢字文化圏である。
自然と、人間の繋がりを、これ以上、巧く表現する文字は世界に無い。
言葉が、自然の「ダルマ・法」や「タオ・道」から外れてしまえば、もう真言でもマントラでもなくなり、お経も、祝詞も、何の意味も無い形骸と化してしまう。
真実の言葉に返る道が、今朝の左側の道を、上に上がる事になるのだろう。
私は、左手で人々を、その方向に導く補佐役なのではないだろうか。
空海や、弁財天の遣ろうとしている事が、少しは見えて来た様な気がする。
平成17年5月21日
礒邉自適
2005/5/17
直
17・5・17
漢字の「直(チョク)」は「目+十」の組み合わせで、上にまじないの印の+をつけた目の象形で、真っ直ぐ見詰るの意味を表し、一般には、真直ぐであるの意味を表す。と 漢語林に載っている。
「直」は、呉読みでは「ジキ(ヂキ)」と読むので「直に」を、じかに・じきにと日本で使用する様に成っている。
直は日本語では、なおし・なおす・まっすぐ・すなお・ただす・あたる・ひたむき等様々に使用している。
何故、その様に直は、使用範囲が広いのだろうか。
神社でも、儀式の済んだ後に、「直会・なおらい」と言って、神様にお供えをした物を下げ降ろして、参加者で飲み食いをする。
その宴会を、何で直会と呼ぶのだろうか。
「なおらい」との、日本語の意味は分からないが、直会の漢字をそれに当てている処をみると、「なおらい」とは、神と直に会う為の、食事会であるとも考えられる。
日本では、大晦日の食事も、御盆の食事も、先祖の霊を自宅に呼び戻し、先祖の霊と一緒に、飲食を共にする行事である。
お盆では、家に帰って来た霊魂を、再び、霊界に帰って貰う為に、灯明にゆだねて川に流す。
それに、正月に帰って来た霊魂は、門松や注連縄にゆだねて「どんど祭り」の炎で燃やす事で、天に帰って貰うのである。
お盆も、正月も、基本的には、直会の考えが元に成っているのではないだろうか。
日本の伝統の中心は、天皇家の仕来りである。
新嘗祭や、大嘗祭は、大掛かりな直会の祭りであり、新嘗祭の儀式は、その年に収穫された米を、先祖の霊(御祖神・みおやかみ」と一緒に食べる行事である。
何故、先祖の霊達と共食する事が、それだけ大事とされ続けて来たのだろうか。食事をする事が、神霊とのコミュニケーションに、一番適していると考えていたのだろうか。
その原因は、何処にあるのだろうか。
直の漢字は、その答えを探る為の、一つの手掛かりと成るのではないだろうか。目の上の十字が、何故占いに大事なのであろうか。
其れがジカであり、スグであり、まっすぐである。
目に直接で、間近に有り、真っ直ぐであるとの事は、何を意味しているのか。それは、神棚や、天・宇宙や、太陽にあるのではない。
自分の目の上に、ジカに存在する物である。
其れが、何であるかを、私の体験から言えば、瞑目した時に、目蓋に映る十字の線である。
私が覚醒した時に、最初に目蓋に現れたのが、光りの色の三原色である。
第三の目が開いた時に、三原色の色が、其々鳥の形をして繋がって、目蓋から飛び出して行った。
その次に、左の脳から糸が出て、右の脳から玉が出て、それが額の中央で組み合わさって、外へ長く繋がって出て行ったのである。
それが、後に、クシタマ(玉串・玉籤)である事が解った。
昔の人達は、自分の目蓋から伸びて行く物が、神に繋がる事を知っていたのだろう。
だから現在でも、神社で、玉串奉納が行われ続けているのだ。
その「玉」と「串」は、チベットでも、悟った人の周囲に如意宝珠と、生命の縁の糸として、描かれているし、エジプトの5000年前の王の墓に奉納されている壺にも、生命の糸と、玉として描かれてもいる。
その糸(串)玉(魂)は、世界中で、昔の人には見えていたのである。
その様な世界が、視える人の目蓋には、中心に、光りの十字が視えるのである。十字が視える人が、霊界や神界を覗き見る事が出来るので、目と十字の組み合わせの文字が出来、それが神に真っ直ぐの意味に使用され、人間の意識を直すとか、正すとかに使用されて来たのだろう。
人が、人を正すとか、直すとかの行為は、とても難しい世界である。
しかし、普通の人はそうであっても、神の世界、霊の世界に繋がっている者なら、可能な事でもある。
神界からの情報を受け取り、悟っていなかった人の霊を、正しい方向に導く事は出来ない事ではない。
普通の人なら、霊に憑かれて、想わぬ方向に行きかねないが、神霊界に繋がっている人なら逆に、迷い霊を正しい方向に導く事が出来るだろう。
2600年前の、インドの釈迦牟尼仏が説法をする時には、現実界の人々の外に、神霊や人間霊も、話を聞きに集まっていたと伝えられている。
同じ時代に、中国の老子も、「道から外れたら 神霊さえも 力を発揮出来ない。」と謂っている。
「道」とは「衜」で、行と首の組み合わせであり、「行」は交差点の十字路の象形であり、「首」は目の有る顔と、頭の上の髪の毛の象形である。
目とは、何時も、十字路に立っている意識の対象として、感じ取られているものであったのだろう。
十字の意味は、縦は道筋を立てるパターンに使用され、横はバランスや組み込みに使用される。
それは、脳の仕組みが、そう成っているからなのだろう。
漢字の「正」は、その横と縦の組み込みが、正確な意味を表す文字である。
それも目蓋の中に、十字が正しく現れていなければ実行出来ない。
漢字に使用される「十」は、四方の広がりを意味している。
目の上の、十字の意味は深い。
平成17年5月17日
礒邉自適
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