言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2005/8/26
えて・して・さて
17・8・26
今朝のメッセージは、平仮名で「えて・して・さて」と「TE・て」の付く言葉が出て来た。
24日の「せこ・こせ」の「KO・こ」に続いて、言葉の音韻に、神界の思索がシフトして来ている様だ。
其れは、言葉が発生した時代まで遡って、言葉の元と成った音霊に辿り着いた者が、誰も居ない所為だろう。
神社の鳥居の前には、「阿吽・あうん」の像が備え着けられており、御手洗いで手や口を禊だ後、鳥居の右側の、「阿・A・あ」の像の所から鳥居を潜り、参道の右側を歩いて行って、お参りを済ませ、今度は、参道の反対側を歩いて「吽・N・ん」像の所から出て来る様に、決められている。
神社の作法でも、「あ」は始まりの音で、「ん」は終わりの音とされているのだ。そして、「あ」から「ん」までの「言の波」の間の70音に、神が作用を起こすと考えられて居り、神社にお参りするのは、神の言葉を聞く為なのである。
現在の日本語も、其の様に表記されているので、国語辞典も亜(あ)から始まり(ん)で終っている。
其の世界を、端的に現している言葉に「阿吽の呼吸」と言うのが有る。
阿吽(あ・うん)の呼吸とは、言葉で一々説明しなくても、総べての意思が通じ合っている意味である。
其れは、言葉で中身の内容を、全部説明しなくても良い間柄を意味している。
24日からの音霊(おとたま)の世界は、是迄の神霊の知らない世界なのだろうか。
そうであれば、言葉の元を調べるのに、人間が、人間として存在を始めたとき迄、遡る必要が有るので、容易な事ではない。
其れは、猿と人間の別れ道に迄、引き返えさなければ成らないからである。
類人猿は、音声で意思の疎通を図っている。
しかし、其れはイメージの通信であって、単語による言葉での通信ではない。
海の鯨も、音で通信をして居るが、其れも言葉ではなく、音波に映像のイメージを乗せて送っているのだろう。
人間のテレパシーも、或る種の振動波に因る、波動伝達システムである。
人間が人間たる所以は、言葉に因る伝達なので、第三者にまで同じ情報を伝えられる事である。
其のシステムが発達して、人間の脳は肥大化し、類人猿とは違った発達を、遂げて来たのである。
其の境目まで遡らなければ、「あ・か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ・ん」の、世界の中身は解けて来ない。
旧約聖書に「初めに言葉ありき 言葉は神と共にありき 言葉は神であった。神の名は72」と有るのも、私と同じ次元に、送り込まれた探索人が居たからなのだろう。
其の言葉の世界の探索には、現在の日本語が、答の糸口と成るだろう。
日本には、濁音の音韻迄含めると、大体72に近い音が、現在まで伝え残されている。
日本には、2000年前まで、漢字が無かった事が幸いしたのかも知れない。
さて、24日から「せこ・こせ」と、「こ・KO」の言霊(ことたま)が来て、今朝は「えて・して・さて」と出て来たのは、何故なのだろうか。
「こ」の音霊の意味する処が、自己認識をし、自分の立場を定めるモノであるなら、佛教や旧約聖書で謂う処の、「自我・われ」の誕生を意味するモノに当たる事に成る。
旧約聖書の記述では、蛇の勧める知の実を食べて、最初に生じるのが「カイン・自我」であり、次に生まれるのが「アベル・所有」である。
そうであるなら、今朝の「えて・して・さて」の、「て」は、所有に関係があるのかも知れない。
漢字の「我・ガ」は、両手で稲を抱え込む人の姿の象形で、所有するの意味を端的に表している。
我の概念より、元に有る文字が「有」である。
「有」は、「ナ(右手)+月〔肉〕」の組み合せで、右手に肉を持ち、妻や子供達に、狩に行って肉を持って帰って来た事を示し、肉が有る事を示している文字である。
更に遡ると、「ナ(手・右手)」の形だけで、「有る」との意味を表している。
其れは、人間が右手で物を掴まえた時の感覚が、脳に伝わって行く事を示している。
だから、自己の「こ」が前に在り、次に、右手の「て」の感覚が、所有心を創出した事が理解出来る。
手で、物を掴まえたり、槍や弓矢を手にして行動する事で、人間は意識を組み挙げて来たのだ。
人間に自己意識が生まれ、手を使う事で、脳が発達し、行動認識を育てて来た。其れが「えて・して・さて」の、「て・手」なのであろう。
広辞苑で、「えて」を調べると津軽地方で「えて」は大きな農家の主人。と、有り「存在」の意味を持っている。
「得て」は、得意とするところ。の、意味なので、此れも自我に大きく関わっている。
次の「して」は、@行なう人。巧みにする人。やりて。A能または狂言の主役。と有る。
次の、「さて」は、そうして。それから。その外。これこれで。しかじかで。などが有り、自我の行動に関係が有る言葉である。
それに「有」は右手のことだから、日本語では「うて」であり、右手は行動を表す意味を有している。
右手が、何を掴まえるか、其の事で人生が決まって来るのである。
こうして、言葉の元を探って居ると、エホバの意識が其処に在る事に気付く。
「初めに言葉ありき 言葉は神と共にありき 言葉は神であった。神の名は72とは、言葉を全部思い出した時、その者自体がエホバなのである。
「私は 総べての始まりに存在し、ひとの意識が 浮気をする事を許さない。」そう受け取った過去の誰かが、其の概念を他人に伝えてから、数千年が経過している。
その御仁が、漢字を知っていれば、エホバ(始めから有るモノ)とは言わず、老子の様に「道」の文字で片付けていたであろう。
老子の「道・タオ」の説明は、「宇宙の玄(くらい)中にボンヤリとした エナジーが生じ、名付けられない働きが生まれた。それを認識する為に 仕方無く「道」と名付けよう。しかし、名付けられたモノは 既に道ではない。」また「道の働きから外れれば、神仏も力を発揮出来ない。」である。
明らかに、老子の言葉の方が、旧約聖書よりも、エホバの意味が明確に成されている。
其の老子でさえ、漢字の絵柄が思考の本に成っているので、音の言霊の世界は述べていない。
言霊の理解が有ったのは「釈迦牟尼仏」の方で、言霊の力を実行出来たのが「イエスキリスト」と言う事に成るだろうか。
私に与えられた役割は、彼等が出来なかった、本来の言霊を思い出し、更に遺伝子の記憶を遡って、脳内の振動の世界を探り、其の秘密を解読して行く事である。
日本の神社で、行なわれる鎮魂の儀式は、其処のところまで範疇に入れての事なのだろう。
日本に伝えられている伝統の深さは、何処の国にも無い世界である。
其の言霊の世界が、日本に有るからこそ、世界の聖霊が日本に集まって来て、私に憑依して来たのだろう。
今朝のメッセージには、映像が幾つか有った。
一つは、岩山の取り扱いに付いて、其々の違う方法が有ることが示され。
二つ目は、道場の食事のあり方をめぐる段取り。
三つ目は、上の舞台に投げ上げる纏の様な物の、投げ上げ方に付いてであり、誰が「得てか」「してか」の、仕種比べの様な場面だった。
人間の能力は、其の様な、競い合いの中で高まって来たのだろう。
小鳥達も、雌を獲得する為に、羽根の色や囀り等を磨き上げ、ダンスなども覚えて来た。
人間も、言葉に頼る様に成る前は、小鳥の動作と変わらない世界に、居た筈である。
其処のところまで、記憶が遡る事が出来れば、脳の仕組みと、言霊の音の世界が、解明されるかも知れない。
其れは、もう四次元での仕事ではない。
この現象世界で、言葉や文字や音を確かめながら、三次元世界で解明に取り組んで行くしか他に無いのだ。
其れが、大日如来の秘密を探り出す事である。
光りは、水素原子から生じたエネルギーである。
暗い宇宙に、始めに生じた薄暗いモノは、素粒子である。
光りとは、素粒子から誕生したモノであれば、「エホバ」とは、素粒子が物質として生じた次元を意味するのであろう。
そして、其の場面から目を離すなとの事なのであろう。
エホバから、始まった全ての現象から、目を離さずに見詰め続けて行く事は、瞑想の座を崩さない事でもある。
大日如来の坐像を考え出した者は、大した者ではないか。
其の姿を、最初に考え出した人は、「して・ヤッタリ」と意って居るのかも知れない。
平成17年8月26日
礒邉自適
2005/8/17
漢字の導入
17・8・17
日本国に、最初漢字が導入されたのは、何世紀なのだろうか。
佛教は、中国の「鳩摩羅汁・くまらじゆう」が、401年から長安で漢字に訳してから、日本に伝わったものだから、日本に漢字が伝わるのに大きな役割を果たしている事には間違い無い。
聖徳太子(574〜622)が、摂政として政治を行なう時には、漢字は、政治を行なうのに、なくては成らない物と成っている。
しかし漢字が一般化するまでには、長い年月が掛かっている。其の間に、漢字の意味を正しく理解していない人達が、無理に漢字を使用し、大和言葉に当てたので、至る所で漢字の意味と、大和言葉が食い違っている。
特に地名などは、漢字の意味を解からない者が、勝手に当て字を使っているので、本来の地名が持っていた意味が、汲み取れなく成っている。
地名には、読み方の解からない当て字が沢山有るので、日本人を始め、日本を訪れる外国の人にとっても、真に迷惑な話でもある。地名だけではなく、日常よく使う言葉にも、漢字の間違いが沢山有る。
例を挙げると、「知」と「考」の文字の意味が逆に成っている。知の漢字の意味は、「矢+口」の組み合わせで、「矢を神に預けて 神の言葉を受ける・知らせを受け取る。」の意味だから、大和言葉の「神返る」の「カンカエル」である。
一方「考」は老と同じく、年取った人の姿の象形で、「長生きをして 様々な体験を積んでいるので、色々な物事を知っている。」との意味である。だから、考の文字の方が「しっている」の意味に近いのだ。
長寿の老人は、「思慮深い」の意味が本来の意味なのである。大和言葉の「よくおもう・考」の意味が、反対の「頭を空にして 神の知らせを受け取る」神返るの「知」と逆に使用されているのだ。
智慧の「智」は、【知+曰(曰く)】で、神に知らされた事を、他人に口を開けて伝える意味である。
昔し、言葉が何を意味するモノなのかを、能く解からない人達が、勝手に漢字を取り入れたので、大和言葉も混乱を起こし、本来の言霊を失ってしまったのだ。その所為で、神との正確なコミュニケーションが行なわれなく成っている。
中国の漢字も、人間と神の交流の為に創られた物であり、本来は呪術に使用された物である。漢字の始まりは、亀の甲羅を火で焼いて、出来たひび割れの形を、占う事から始まっている。だから、一番古い漢字は「甲骨文字」と言う。其れから「金文」となり、「篆文」と成って「現代文」と成って来ている。
だから、漢字を使って、言葉の力を得ようと想えば、漢字の持つ本来の意味に立ち返らなければならないし、又そうしなければ、神の力を動かす事は出来ない。
現在、神社やお寺で貰うお札も、余り効き目が無いのは、お札が印刷された物でもある事と、手書きのお札でも、書いている人の頭に、文字の正しい意味が映り出されていなければ、エナジーが動かないので、貰って来てもあまり効果が無いのである。
昔は、一生懸命修行をした人が、波動や、意味を込めて書いていたので、其れなりの効果が有ったのだ。
文字と人間の関係は、現在よりも、昔の方が深かったと言える。
「愛」や「優」の文字も、正しく解釈している人は少ない。本当に意味を理解していれば、現在の世の中の様に、簡単に「愛」や「優しい」の言葉は使えないはずだからである。
今一度、言葉や、文字の意味を、確かめる必要が有るだろう。
平成17年8月17日
礒邉自適
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