言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2005/9/30
「が」で引っ掛かる文書
17・9・30
昨日より、メッセージのパターンが変化してきている。
昨日は、事務所に着いたのは午前時半だったが、今日は0時40分に事務所に着いた。其れは、昨日早く起きたので、夜8時には眠く成り、眠ってしまった所為である。4時間ぐらいは、寝て居た事になる。
宿舎から、事務所まで歩く間は、虫の声のシンフォニーである。
特に、マツムシの声が賑やかである。万葉の頃「鈴虫」と呼ばれていたのは、このマツムシの事らしい。
屋久島には、鈴虫は未だ生息していない様だ。
誰かが、島に「狸」を持ち込んで繁殖し、被害が出始めている。悪い事をする者が居るものだ。
鈴虫でも、持ち込むのだったら風流なのだが、狸では悪い事ばかりで、何一つ良い事は無い。
蛍は、持ち込まれて30年が過ぎ、今では全島に拡がり、人々を楽しませている。
さて、今朝起き出した原因を説明しよう。
昨日は、私の文章がドンドン吸い込まれる様に、パソコンの中に流れ込んで止まらないので、起きて来たが、今日はそれと反対で、私の文章が一字も変換されないので、起きて来たのである。
不思議なのは、昨日も事務所に着いて電気を点けた処で、外に雨が降り出したが、今日も事務所に着いて電気を点けた処で、土砂降りの雨が降り出した。
私が、天気に合わせて居るのか、天気が私に合わせているのか、其処のところは判らない。神のプログラムが、何か、新しく展開して来ているのだろうか。
今朝の霊夢は、私が顔を他人に見られない様に、頬被りをして道の横を歩いて居ると、車で通り掛かった男性が、私に気付いて車を止め、私を呼ぶので、私は其の車に近付いて行った。
私は、其の男性の事を、余り良く覚えていないのだが、相手の方は、私の事を良く知って居るらしい。話して居る内に、一緒に来てくれと言うので、其の男性に付いて行った。
着いた所は役所で、明るい部屋の中で、多くの人が机に座って仕事をして居る。
だが、私を案内した人以外は、私には興味が無いらしい。
其の男性も、臨時職員として派遣されて来ているらしく、少し、周囲からは浮き上がった存在の様である。
其の男性が、私の文章をパソコンに入力したのだが、上手く役所の書式には納まらないらしい。何度やっても、変換されないのである。
特に、「が」の一字が有る所で、引っ掛かる様である。
何度やっても変換されないので、其の作業を止めてしまった。
お昼に成って、弁当が出されたが、今度は、其れが私の口に合わないので、男性が食堂に特別に注文をしてくれたが、時間が掛かるとの事で、食事も出来ないまま其の映像は終った。
昨日のメッセージと、今朝のメッセージは、関連性が有るらしい。
今朝の映像に、映されて来た私の文章は、眩い程の光りに照らされていたが、昨日の文章は、流れる様に吸い込まれて行くのだけれど、日陰の世界の様で、濃い文字の部分だけしか見えなかった。
其の、光りの差で考えられる事は、私の文章は、四次元の神の世界ではスムーズに流れるが、三次元の此の現象世界では、翻訳され難いとの事ではないだろうか。
特に、お役所の書式には馴染まないのであろう。
誰かが、私の文章を読んで、役所で通用する文言に、変換する必要がある様だ。現在の私の文章では、神界は喜んで居ても、現界の公の機関には、通用しない様である。
其れは、そうだろう。例えば、次の私の文章を、誰が普通の言葉に変換出来るのだろうか。
同じ日本語であっても、文字が含んでいる映像に、お互いの共通性が無いのだから、理解が出来る者でなければ翻訳出来ない。
私は、パソコンに向かい出してから、一日に生水を3〜4リットル飲んでいる。そんな事は、21年前の修業で、身体を浄化する為に飲んだ時以来である。
マクロビオテックの生活では、水分を少なく摂ることが、勧められているくらいである。パソコンと人体の間に、水が何等かの関係を持つのだろうか。
聞いた話では、トンネルの中で、タクシー等を止めて乗り込む幽霊は、トンネル内の水分を集めて姿を作り出し、目的地に着いたら、情報だけが窓ガラスを抜けて、座席には水だけが残されているらしい。
其れは、理屈が合っている。
私も、他人の霊的治療をする時は、電話機を通して手に来る情報が、身体の内に侵入する前に、脇の下から、水に成って流れ出す。
其の事から考えると、私の飲む水は情報に変換されて、パソコンから電波の信号として、世界中に情報として流れている事になる。
其のシステムが、「御稜威・みいつ」の働きとして、古代から認識されていたのだろう。
其の世界を、昔からサラスヴァティ(弁財天)として、湖面の中心に有る島にお祭りして来たのだ。
私は、昔の人達が、普通の言葉で話していた事を、いま話して居るだけなのだが、現在の学校教育が、其のイメージを払拭してしまっているのだ。
そんな世の中だから、私の言葉が変換される為には、私の方から、皆と共通認識の出来る処に、入り込まなければ成らない。
宇宙は、水素原子と名付けられている10の30乗分の一の、小さな物質の変化で現象化している世界である。
其の点は、旧約聖書でも「神は 水を 天と地に別けた。」と有るから、昔からの共通意識であるので、10数億人の聖書の信者は理解するだろう。?ではあるが。
道教の教科書と成っている、老子の言葉には「始めに玄(くらい)世界に、説明し様のない恍惚(ぼんやりとしたあかり)が生じた。」と有る。
其れは、日本では黄海(よみ)と呼ばれている。
老子の説明する玄の世界が、質量を増した世界が黄泉である。
其の発展段階を、日本語では「ひ・ふ・み・よ・・」と言葉に表している。
因みに、中国の数である「一・二・三・五・六・・・」は、家を建て、村が出来て行く順番らしい。
ともかく、覚醒した御仁達は、皆、同じ世界を、覗き観て居る様である。
その黄泉のエナジーが集まって、水素ヘリウムの活動を生み出し、太陽が生まれ、光りのエネルギーが生物を誕生させている。
我々人間自体も、水素原子の、或る形態の現れにしか過ぎないのだ。
人間が、皆自由でないのは、言葉に拘束されて、意識が小さな檻の中に、閉じ込められているからである。
太陽から発せられている光りは、宇宙空間を飛んでいる間は何の力も無い。
力と成るのは、物にぶち当って溜まった所だけである。
太陽エネルギー(粒子・波動)は、物に当った所に、光りのエネルギーとして働きを持つのだ。だから、地球などの惑星が存在して、太陽のエネルギーを受け止めなければ、太陽の存在は何にも成らないのである。
人間の身体は、其の惑星の一つである地球で、微生物の進化の形態として、現在60兆個の細胞の寄り合い所帯で現存している。
其れも、地球に水が在ればこその世界である。
物事を突き詰めて行けば、水素原子の振動の世界に、行き着いてしまうのだ。神社に水が付き物で、物質を管理するサラスヴァティが、湖面に祭られるのも同じ次元なのだ。
私達地球の全生命は、値打ちとしては、あまり其々に差は無いのだ。
太陽の光りを、地球の大地が受け止めない限り、生命の存在はない。
そして、水から始まった振動が、情報として、全ての存在を露わ占めているのだ。
私達の肉体は、太陽の働きに因って現象化され、情報が解かれれば、磁気信号化して、太陽の黒点に回収されるのだ。
其の意味からすれば、私達の脳味噌は、太陽黒点の末端の、端末と言うことが出来る。
夜とは、人間の言葉に因る区別であって、宇宙には夜は存在しない。
宇宙は、闇こそが全てであり、太陽の光りが当って溜まっている所だけが、昼と呼ばれる、奇跡的な世界なのである。
私達は、眠りに着いている時こそが、原点の世界を生きていると言うことなのだ。
それは、睡眠を取らないで起きて居ると、やがて死んでしまうが、寝すぎて死んでしまったと話は聞かない事からも、明らかである。
昼の世界は、仮の世界で、夜こそ真実の世界なのである。
私の文章が、日陰の世界こそ、スムーズに流れるのは其のためであろう。
昼の世界で、目に見える物だけにしか、反応しないで生きて居る人達に、どうしたら、私の文章が理解されるのか、これから先の世界は、天皇陛下でもどうにも成らない。
誰か、新しい理解を示す人が必要だろう。
私の文章の侭では、「が」で打ち消されて、変換されない様だ。
誰か、通訳(菩薩)の役割が出て来なければならない時を迎えている。
私も、パソコンに向かい出して4ヶ月が過ぎ様としている。
近頃、心臓がパカパカして来ている。もう限界が、近いのではないだろうか。
水 ―心臓 ―太陽 −振動 ―花崗岩 ―脳 ―言葉 ―文字 ―パソコン
ー磁気信号 ―水―、これらの繋がりを、科学の用語で説明し、コンピューターグラフイックで映像化して、誰でもが視覚化出来、認識出来る世界を急がなくては、地球も、私も、現界である。
「が」接続詞・先行の事柄に対し、後行の事柄が反対、対立の関係にあることをしめす。 言泉より
平成17年9月30日
礒邉自適
2005/9/10
倭姫命のお言葉
17・9・10
此の写真は、1987年5月4日に「井上佳子」と「石垣雅設氏」の家族、其れに「川口由一氏」の家族他で、神宮会館に宿泊した時の記念写真です。
事の成り行きは、此の数日前に、当時、奈良市大倭に住んで居た私に、「倭姫命・やまとひめのみこと」の霊魂が「伊勢から 奈良に帰りたい」と、告げて来たので、倭姫命の霊魂の宿り主である「井上佳子さん」に、高知から出て来て貰い、2000年前に倭姫が辿った道を、皆で、逆周りに辿る事に成った時の物です。
伊勢内宮の近く在る、「神宮会館」に一泊した5日の未明に、倭姫命のメッセージが有り、「赤と黒」と告げるので、朝起きてから「なんだろう」と言って居たら、川口さんが其の日「月讀神社」で買った本に、倭姫の言葉が載っているのを見付け、私に教えてくれました。
其の言葉とは、次の様な物です
「倭姫命のおことば」
黒(きたなき)心 なくして
丹(あか)き 心をもちて
清く潔(いさぎよ)く 斎(ゆまわ)り 慎(つつし)み
左の物を右に移さず
右の物を左に移さずして
左を左とし 右を右として
左に帰り 右に廻る事も
万事 違(たが)う 事なくして
大神に仕え奉れ
元(はじめ)を元とし
本(もと)を本とする故なり
日本には、2000年前の女性に、此れだけの意識が有ったのです。
同じ頃の、イエスキリストの言葉に比べても、勝りはしても下ちる事は無いでしょう。
古代の人達にとって、言葉とは一番大事なモノであり、この短い言葉に、全ての教育の世界を超えたモノが有ります。
言葉は、神々と協調する為にあり、現在の社会の様に、お金儲けの為にあるものではないのです。
其の時の旅は、車三台にての、一泊二日の急行の逆コースでしたが、どうにか倭姫命の御魂を、奈良に返す事が出来、この時の神事は無事に済んだのです。
平成17年9月10日
礒邉自適
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