言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2005/10/28
意識の中に秘められた十字架
17・10・28
今日は、地元安房の「粟穂神社」の秋期大祭で、私も神式装束を着けて、手伝いをしなければならない。
今朝のメッセージは、粟穂神社の祭神の影響があるのかどうかは判からないが、屋久島を舞台にした映像が使われて来た。
始めに、私は海岸の砂浜に居て、数人でゴミを集めて焼き、海岸を綺麗にしている、清掃作業の場面が映って来た。
そして、場面が変わり、自宅に帰って、子供の寝床を整える場面と成った。
子供の寝て居る姿を見ると、身長が伸びて、足が、布団から飛び出してしまっている。
私が、広い布団を出して敷き、子供を其方に移そうとすると、其れ迄、子供が寝て居た布団は、一段高い台の上に、敷かれている事が判った。
其の意味を考えていると、日本の神社の社に造られている、階段の事が思い出されて来た。
古い神社には、神の住む社の部屋まで階段が16段あるが、一番下の段がある地面には、白い砂が敷かれており、其の白い砂場の名は「磯の段」である。
其れは、人間が神の位に到達する為には、16段の階梯を終えなければ成らない理を意味し、一番下の段に辿り着く前に、白い砂の上で、禊ぎ祓いを行なわなければ成らない理・ことを示している。
地球上の生命は、みな海から誕生している。
海と陸の境目である、海岸の砂浜は、海から陸に生命が上陸した聖なる境界なのである。
神の住む、天に近い山に辿り着く為には、先ず、人間の罪穢れを祓い清めて、生命の誕生した海の場(ステージ)から、立ち上がらなければ成らないのだ。だから、白い砂浜は、とても神聖な場所であるのだ。
今朝の霊夢の場面は、先ず、其の意識の基である場を、綺麗にする事を告げて来たのであろう。
そして、子供が大きく成るほどに、育つ時期に合わせ、生活の舞台を、親が用意しなければ成らない事を知らせて来ている。
今朝のメッセージは、両方の場面とも、人間の心身の成長に、物や生活舞台が関係している理・ことを、知らせて来ている。
私達の意識や、身体の成長は、自然環境と、親の手助けが在っての事なのだ。
私の意識は、更に、其処から先に進んで行く。
生き物が成長するのには、「前と後ろ」「上と下」「右と左」を、区別するシステムが内蔵されていなければ成らない。其れが、無ければ、細胞分裂も正しく起きないし、行動様式の組み込みも行なわれないのである。
生き物は、動物だけではなく、植物も、上下の感覚が無ければ、根や枝を上下に伸ばす事が出来ないし、動物も、手足や頭の位置も決め難く、前進したり後退したりする感覚も生まれ無いし、左右に頭を向けて、意識的に動く事も出来ない。
だから、生物の体内にはジャイロスコープが内蔵されていて、意識の位置を決めて、進化が支えられているのである。
其れが、「意識」の「意」と「識」なのである。
「意」は「経・たて」で、「識」が「緯・よこ」となって、総べてを組み込んでいるのだ。
「キリスト」と呼ばれている「イエス」が、「汝らの十字架」と云ったのは、どう言う意味なのかは良く解からないが、人間が瞼を閉じれば、瞼の中にジャイロスコープの十字架が何時もある。
其れが、漢字の「直・チョク・なお」であり「目+十」の組み合わせで、目の上の十字架の意味であり、其の十字は「まじない」の意味である。
自分の意識が、何時も、直で在るかどうかが、一番大事なことなのだ。
他人の真似をしたり、他人の言う事に従って居るだけでは、何時まで立っても、自分の意識は立ち上がらないのである。
自分が、神の存在に、仕える代表で在る事を確かめるには、何時も、自分の瞼の中の十字架を、しっかりと立てて置く必要があるのだ。
其の為には、自分が万物の霊長として、其の羅針盤を、しっかりと見詰めていなければ成らない。
其の為にも、海岸から、山の神殿の奥の院まで、意識の中に、真っ直ぐな道を通して置かなければ成らない。
其の理を伝え残す事が、先生や先達の役目である。
生命の存在の真っ直ぐな道、其れこそが、古今東西の賢者達が唱える、自然の掟なのだ。その道から外れたモノは、何等かの原因で、滅び去るしかないだろう。
この生命の世界は、遺伝子を残そうとする親と、生き残ろうと努力をする物しか、生き残れないのだ。
自然の生き物は一日もサボってはいない。
一日休んだ物は、其れだけ、生き残るのに不利に成るのだ。
其れが、イエスの云う十字架ではないだろうか。
何者も、生きる為には、自分の背負った十字架を、投げ出す事は出来ないのだ。
私達は、皆、自分の中のジャイロスコープの針が、狂わない様にして、いなければ成らないのである。
平成17年10月28日
礒邉自適
2005/10/26
氵石
17・10・26
今朝のメッセージには、「氵・三水」に「石」の組み合わせの漢字が、一字だけ示されて来た。
辞典には「氵+石」の組み合わせの文字は無い。
水と石は、自然界では仲良く存在する物だが、漢字の組み合わせには無いのである。何故、今朝は、辞典には無い文字が知らされて来たのだろうか。
それは、神事にとって大事な物なのだからであろう。
水は、神事に欠かせない物であるし、石もあらゆる意味で、神事には必要な物として取り扱われて来た。
水は、意識の伝達物質であるし、ミネラルは岩石が水に溶け出した物である。水が無ければ、生物の体液は循環しないし、体内にミネラルが運ばれる事も無い。水と、岩石が存在してこそ、生命の存在が在るのだ。
神の存在が人間に認識されたり、人間の意識が生まれるのも、水とミネラルが在ればこその出来事である。だから、水とミネラルが存在しなければ、生命も無いし、神の存在も無い事になる。
其の理が、古代から認識されて、あらゆる宗教に、水や岩石が使用されて来たのだろう。
屋久島は、1400万年前に、花崗岩が隆起して出来た島である。
そして2000mの高さの山には、周囲の海から立ち昇る水蒸気が冷やされて雲に成り、雨量が多く、島を一周すると、水が流れている川が100程も在る。
正に、水と岩石の島と言える。
私は、そんな屋久島に生まれ、37歳まで年月を過ごしたので、「氵石」の文字は私の意識の根本であり、生命の源となっているのかも知れない。
水田で採れる稲は、山のミネラルや栄養が、水に溶けて運ばれ、其れを吸収して育つ作物である。
日本が、瑞穂の国と考えられて来たのも、其の稲作が根幹に在っての事である。
私たちの意識は、水と、山から溶け出して運ばれて来るミネラルに拠って、出来上がっていると考えても良いだろう。
漢字も、中国の稲作文化を基本として、出来上がっている様である。
今や、乳製品や肉が中心である食習慣の国の文化が、世界を被い尽くし、争い事が絶えない世の中と成って来ている。
争い事は、戦争だけではなく、経済面でも起きて、日夜激しいバトルが行なわれている。現在・いまの社会構造では、人間の心安らかな暮らしなど、考えられない。
今一度、美しく流れる川の水に、自分の姿を映し、水の中に含まれる石の有り様に、意識を向ける必要があるのではないだろうか。
其の行為自体に、既に、安らぎが伴っているのである。
其の点では、日本列島は大変恵まれた環境にある。
日本の宗教が、自然を対象として伝えられて来たのも、其の環境が基と成っているからである。
日本の、伝統的な生活習慣や価値観は、此の美しい国土で育まれて来たものである。
最早、平和な思考を生み出せるのは、日本しか無いのではないだろうか。
今朝のメッセージは、その事を伝えて来た様な気がする。
平成17年10月26日
礒邉自適
2005/10/1
後は 愛と善を合わす
17・10・1
今日は10月1日、今日から10月が始まる。
今朝は、月の始めに相応しい、メッセージが知らされて来た。
始まりの映像は、私が車の運転をして、知り合いの家に立ち寄り、新鮮な野菜と、要らなく成った服を貰って、車に帰ると、左右のドアが外され、盗まれて無く成っている。
私はビックリしてタイヤを見ると、タイヤも全部外されて無い。
私はガックリ来て、今の世の中の有様にガッカリして居ると、パソコンのトップ画面が映って来て、一番下の左の所に、カラーで輝いている小さな窓が一箇所あるので、其処をクリックして見た。
すると、拡大画面が現れ、美しい女性のお腹の部分だけの映像が、お臍を中心に瞬間的に見えた。
そして画面が変わり、パソコン画面の真ん中の所の暗い場面に、「後は 愛と善を合わす。」と、大きめの文字で一列だけ書かれていた。
私の意識は、其の「後は 愛と善を合わす。」の意味を探っていると、今度は明るい画面が現れて、縦書きの少し大きめの文字で、詞が書かれていた。
其れを、私が確認すると、今度は横書きで、小さな文字で書かれた文章が、画面一杯に書かれており、其れは下の方に続いている様である。
其れを確認すると、今度は又、縦書きの画面が現れ、大きな文字で箇条書きに文字が並んでいた。
其の三通りの文字の書かれている画面は、明るくて、文字だけが浮き上がる様にハッキリと見えた。
そして最後に、暗い画面に横書きで、少し大きめの文字が書かれた文章が現れ、パソコンの画面は閉じた。
今朝のメッセージは、私が覚えて居られるギリギリの量を、目一杯使って来ている様である。
これは、私の頭に、パソコンの機能が少し理解され、其の仕組みが、脳に映像化されて来ているので、整理がし易く、海馬を通る情報量が、増えた所為だろうと考えられる。
以前は、一通りの文章中の漢字を、1〜2字か、2〜3組の単語しか覚えておく事しか出来なかった。其の私が、今朝は、沢山覚えて居ると言う事は、此処のところ4ヶ月間パソコンに取り組んだ結果の、想い掛けない副産物の様である。
今朝表れた、4通り書式と、画面の明暗の違いは、私に文章の違いを、明確にしろとの御沙汰であると思われる。
明るい画面の方は、三次元(天照界)の現世に対する物で、暗い画面は、四次元(調読界)から、私し個人に告げられる物である様だ。
詞文は、私が書かされた物を、世間相手にパソコンで公表するもので、横書きの文字が、沢山有った文章は、学術論文の様な物で、物事の理論が書かれている様なものである。
そして、縦書きの大きな箇条書きの文体は、憲法などの、公にする大事な文章の様である。
私の是迄の文章は、毎日感じるものを、日記風に書き残して来た物だから、全部ゴチャ混ぜに成っている。
現在、其れを別けている処だが、未だ2ヶ月程は掛かりそうだ。其の作業を続けて来た事が、私に新しい世界を齎した様だ。
是から、以前に書いた文章を整理しながら、新しい世界も、神界を味方に、創造制作して行かなければ成らない様である。
さて、メッセージの方に返って見よう。
現在社会の悪い面と、未来創造の間に、女性の美しいお腹が映されて来た事が、一番重要な意味を含んでいる様である。
「臍」の漢字は、「月(肉偏)+斉」の組み合わせで、揃い整うの意味とある。漢語林より
日本の、一番大事な祝詞も「たかまがハラに神づまります・・・」と、唱えるので、一番大事な世界として、お腹は捉えられている。
女性のお腹には、子宮が有り、子供が作られる場所である。
そして「ハラの虫が治まらない。」とか云うので、虫が住む所であるし、ハラは立ったり座ったりもする所である。
更に「あの人は腹黒い。」とも云うので、黒くも白くも成るらしいし。場合に因っては、自分の手で切腹もしなければ成らない所でもある。
人間の身体は、60兆個もの細胞の集合体である。
38億年前に誕生した遺伝子は、いま人間一人の身体の中に、合計すると太陽と地球の間を、300回も往復する長さを持って存在している。
其の物凄い長さの遺伝子が、毎日何をして居るのかと言うと、お腹の中の虫を養う為に、微生物の餌である、堆肥の材料を集める作業をしているのである。其の為に、人間の手足は有り、臭いなどを感じるセンサーも、完備されたのだ。
ハラの虫の御機嫌を執るのは大変であるし、虫の知らせを聴くのも、ナカナカ骨が折れるのだ。
人間は、自分の腹の虫が騒いだり、38億年前の記憶を取り戻して居るのを、神のお告げだと云って騒いで来た。
そして「ハラの虫が治まらない。」と云っては、戦争を続けて来たのである。
其れは、病的に拡大した、人間の脳が、虫の声を閉じ込めてしまい、暴走を始めたからである。
だから昔の人は、其の脳の暴走を止める為に、一番大事な事として、禊ぎ祓いの儀式を考え出したのだ。しかし、其れ自体も、現在では、脳の暴走に拍車を掛ける物と成ってしまっている。
中国では、モノを云って来るのは、胃の中の穀物だと言って「謂」の漢字をチャント創って伝えている。
人間は、ハラの中の虫が食べる物が変わる事で、微生物のバランスが変わり、告げられて来るイメージが変化する事を、チャント知って居たのである。
其れに、お釈迦さんも其れに気付いていて、精進が第一だと説いたのである。
今朝の映像の最後には、好い感じの女性が始めた、リサイクルのお店を初めて訪ねた。そして、お店の中を見て回ったが、私の欲しい物が無い。
私は、其の女性に、「自然食の醤油や味醂などを、仕入れて置いてくれませんか。置いて下されば、私も買いに来ますし、友達にも知らせますから。」と告げて、其の店を後にした。
人間にとって、一番大事な事は、大腸菌を殺す程の、塩素が混入された水や、微生物が活動出来ない程の、保存剤が混入されている食べ物を、食べない事である。
其れに、世界中から集めて来た食べ物を食べて居たのでは、お腹の虫は、情報が整理出来なくて、其れこそ生理まで狂ってしまう。
私が 無庵師匠に一番先に訓えられた事は、「食い改め」をする事であり、人間社会の柵・しがらみから脱出する事であった。
其れを3ヶ月間実行して、何が善であり、愛とは何であるのかを、悟る事が出来た。
人間の言葉は、人間が創り出した物であり、他の生物には、通じない言葉である。神の意思や、自然の中に満ちている言葉は、人間の言葉を離れた処にある。
漢字の「愛」は困って居る人の為に、全身全霊でこころを傾ける理を表し、「善」は二人の間に揉め事が起きた時に、神に仕えて居る人の所に行き、其の人の立会いの下で、善い答えを導き出すとの意味である。
愛は、困って居る人に対するこころの使い方で、それを実行する意味の漢字が「優」である。
善は、人間が生きて行く為には、公平な立場の人間が、必要な事を意味している。其れも、国家や権力に付随している人ではなく、神に仕えて毎日を暮らしている人である。
今朝のメッセージは、最早、人間は言葉を棄てて、生きて行けない事を示している。だからこそ、幸せに生きて行く為に、言葉を正しく整理する様告げて来たのだろう。
先ずは、「愛」と「善」の言葉を能く理解し、四通りの世界の言葉を、整理整頓して行かなければ成らないのだ。
「愛」と「善」を「合」せることが、日本語の「あい・あう」の原点ではないのだろうか。不思議な事に「あい」と「あう」は母音である「あ・い・う・え・お」の、一番頭の組み合わせでもある。
吾(あ・われ)の「想い」は、段々と「おもい・重い」モノと成って行く様だ。せめて、詞の世界だけは、軽く行きたいと念う。
漢字の「吾」は、【神のお告げを 檻に入れて 穢れから守る】の意味である。其れを、私は、パソコンの中でどれだけ護れるであろうか。
是から、吾は、モノ(言)を言うのに、ハラを据えて、取り組まなければ成らない様である。
「ハラの虫様、是からも宜しくお願い致します。あなたの住む お腹を護り、言葉を正しく傳へる 子供が誕生する為に、女性のお腹を大切にしますから」
合掌
平成17年10月1日
礒邉自適
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