言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2005/11/18
匡・キョウ
17・11・18
今朝のメッセージには、丸い「C」の形の中に、「王」の文字が入って、映って来た。
其のCは、二重に成っており、内側も、外側と同じ所が、開いた形である。
朝「新しい国」の題で、文章を書いたが、昼前に成って、夢の中に青木先生の名前「匡光」が出て来たのを思い出し、「匡」の文字を漢語林で調べて見た。
すると、匡は「匚+(屮+王)」の組み合わせで出来ており、「匚」は、竹や柳を曲げて作った、箱の形の象形で、箱を意味し、「屮」は左手の象形で「補佐する・助ける」の意味である。
そして「王」はマサカリ・鉞・斧・の形で、王様の印しの斧を意味している。
「匡・キョウ」の漢字の字義は、@ただす。ただしくする。「匡正」Aただしい。B救う。たすける。ただし助ける。「匡救」Cはこ。ひつ。めしびつ。の 意味で、名乗 たすく・ただ・ただし・まさ・まさし・
匡を使用した単語は、次の様に有る。
・匡益(キョウエキ)悪い点を正し、ためになるようにする。其の時代の弊害を正す。
・匡諫(キョウカン)悪を正し、いさめる。
・匡救(キョウキュウ)悪を正し危険を救う。
・匡済(キョウサイ)悪を正し救って善に導く。済は救うの意味。
・匡正(キョウセイ)正しくする。わくにはめて正す。
・匡復(キョウフク)@正しく救ってもとどおりにする。
A助けて復興させる。
・匡輔(キョウホ)正し、たすける。輔は、たすける。 と 有る。
今朝の、Cの二重の形は、象形文字にある、竹を曲げた形、其のまんまのモノだったのである。是は、此れまでに無い、明確な神の指令である。
此処、数日続いているメッセージは、新しい国造りの指示を、伝えて来ているものの様である。
今月16日には、生物ミネラル研究所の代表「中山栄基氏」が、私の知り合いの案内で、初めて訪ねて来た。一泊の予定だったので、少し足早ではあったが話しをしながら、数箇所の湧き水の出ている所を案内した。
二日目の朝、ホテルに迎えに行くと開口一番、昨夜は不思議な夢を見たと驚いている。私が、笑いながら「どんな夢だったのですか。」と尋ねると、「葬式の場面で、棺おけが光っていて、中に寝ている死んだ人が、ニコニコ笑いながら自分を見て居た。」と謂い、とてもリアルな場面だったと説明してくれた。
其れに付いて、私は、有る程度の補足をした。
中山氏は、上智大学の教授で、主に毒の研究を為さって居たが、退官後ミネラルの研究を為さっているとの事である。
毒の研究をして居たので、何が人体に悪いかを良く理解しているから、反対に、何が人体に良いか能く解かるとのことで、現在の食べ物や、健康食品に含まれる毒の事に、精通しておられ、私も心強く想った。
私の特技は、他人の意識をダビングしたり、夢の世界を、相手に送り込んだりする事である。
私に会って、夢の世界を見る事が出来る様に成った人は多い。私は、その人達の夢から、神のプログラムの進行具合を探っている。
中山氏も、是から大事の事を、夢で受け取る事が出来る様に成るだろう。
私が、中山氏の事をわざわざ書くのは、2001年6月15日に、島根県太田市に在る、初代物部の「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」を祭る「物部神社」に行く朝、「子供達を護る為に、ミネラルを飲ませろ。」とのメッセージを受けていたからである。
「大田に下車しろ」http://star.ap.teacup.com/170606/437.html
ようやく此処に来て、ミネラルの大家が尋ねて来た。
此れも、神の救いが本格的に成って来たからであろう。中山氏に、私のHPを見る様薦めたが、何故か、其の日の文章がHPには抜けていた。
改めて、打ち直して書き込みたいと想う、日付は13年8月2日分である。
「水曜」http://star.ap.teacup.com/170606/1121.html
何か、一つの事が動き出し「匡」が形に成って、現われて来るのだろう。
匡は、「左手を使い 人を補佐し 世を正す 王の意味である。」
其れは、弥勒菩薩と同意味の概念かも知れない。弥勒菩薩は「マイトレイヤー(有情の菩薩)」の事である。情けを持って、世を正す人の出現が、近いとの事であろうか。
私が、中山先生の言葉から、今回学んだ事は、「毒から 研究に入ったので、何が身体に良い物かが 能く判る。」と言うものである。
私も、現在・いまは、格好良い理・ことを述べては居るが、無庵師匠に捜し出される迄は、反対の世界に、首までドップリ漬かって居た。
だから、恥の漢字が、何故「耳+心」かは、能く理解出来ている。
耳が赤く成らない内に、ここらで書くのを止めて措こう。
平成17年11月18日
礒邉自適
2005/11/5
教わる
17・11・5
今朝のメッセージは、生きて行く事の基本は、教わる事にあるとの理だった。
今朝の映像には、杖や、傘などが、次々に映されて来て、最後に、釣竿を持って、友人と魚釣りに行く場面が映って来た。
其の友人は昨年亡くなってしまったが、私より10歳ぐらい年上で、魚釣りが大好きで、写真屋の仕事そっち退けで、魚釣りをして居た人である。
其の友人は、好きな釣り三昧で生きた人だから、大往生したであろうと想われる。
私は、其の友人から写真撮影や、釣りのコツを教えて貰っていたのである。
生きて居る内には、其れを感じてはいなかったのだが、こうして、死んでからも夢の中に現れるとは、今でも、友人の間柄は続いている様である。
今朝の霊夢の中では、海の潮の満ち引きや、釣り餌の、選び方や着け方等、全て友人指導の下に行なわれ、私が、糸が絡んで何にも出来ない間に、友人は次々に魚を釣り上げて居た。
私は、途中で嫌に成り、釣竿を投げ出して魚釣りを止め、不機嫌に成って居ると、「全ては 教えられて出来る様に成り、其の連続で、人は生きて居られるのだ。」との、悟りの様な感覚が遣って来た。
是は、非常に大事な事だと考えられる。
人間だけではなく、他の動物も、親や仲間に、する事を習いながら覚え、一人前に成って行くのである。
誰一人として、自分の力だけで生きられる様に成る訳ではない。
私がこうして、文字が読み書き出来たり、パソコンが打てたりするのも、全部誰かに教わったからである。
私が出来る事は、全部誰かに教わった事なのだ。
其れを、自分一人で出来る様に成ったと想っているのは、習うと言う行為自体が、動物にとって余りにも自然な行為なので、意識に上らないだけなのだ。
良い行いも、悪い行いも、全て、誰かに見習って覚えて来ているのだ。
人間の暮らしは、全てに於いて、長い時間の中で、見習う事で、積み上がって来たモノである。
文化・文明・技術・学問・全てが、人間の手に因って、次から次へと、受け継がれて来たモノなのである。
人間の暮らしは、是までのたゆまない人々の、働きの結果として積み上げられたモノである。
其れは、是からの人類の暮らしでも、変わる事の無い現実である。
其れは、人間だけの世界ではなく、他の動物達にも言える事である。
生きとし生ける物は、総て、其のシステムの中にある。
親が面倒を見ない昆虫の世界でも、親の為した行動の記録が、遺伝子の中に記憶されており、子供は其の記憶の情報で、営みを続けているのだ。
其処の処が解かれば、世の中を善くするのは、簡単な事である。
其れは、人間にとって良くない事を、受け継がない様にしさえすれば、良いのである。
現在の社会には、余りにも余計な物事が多すぎて、頭や身体が休まる暇が無い為に、皆疲れ果て、癒しがブームと成っている。
酒・たばこ・無駄買い等、皆ストレス解消の為に起きている事柄である。
ストレスが無く成れば、病気も減り、争い事も無く成り、平和な世の中と成る。
そして、子供達も笑顔を取り戻す。
そうなれば、本来の人間の暮らしが蘇り、安心な生活が営まれる様に成る。
其処のところを考えると、私の人生は、真に恵まれていたと考えられる。
世界自然遺産に選ばれる様な自然の中で、理想的な両親の下で育ち、其の時、其の時で、先輩や指導者に恵まれて来た。
其れを考えると、私の意識や技は、私一人の物ではなく、社会や、霊界の財産と言う事が出来る。
其の様に考えれば、私の存在に、物凄い神の投資が、行なわれて来た事が理解できる。
たった其れだけの事に気付くまで、ドレだけの年数が掛かった事だろうか。
其れが理解出来れば、是からは、社会や神界に対して、借りを返して行くだけである。
今日また、新しいブログを一つ創った。
其れは、今までお世話に成った、松山さんの仕事に協力する為である。
其処では、人間の暮らしにとって、何が本当に必要なのかを、見詰めて行きたいと想う。ブログは「一休み」で「グリン・レスト」のリンク部分として立ち上げた物だ。
私の是までの修業の結果が、生かされれば私にも嬉しい事である。
智慧の「智」の漢字は「知+曰く」で「知」は「矢+口」で「矢を神に預けて 神の知らせを受ける。」の意味であり、智はその事を他人に「曰う」の意味である。
昔との違いは、現在・いまは世界中にインターネットで、モノ曰う事が出来る時代である。釈迦の様に歩き回る必要も無く、イエスの様に権力に向かって、文句を言う必要も無い。
唯、ドアをノックする人にだけ、答えて行けば良いのだ。
其れが求めるの「求」と、救済の「救」の漢字の関係である。
救は「求+攵」の組み合わせで、「求める人に、杖を持った人が 対応する。」の意味であり。「教」の、漢字の「攵づくり」と共通の意味合いがある。
私は、神に杖を持たされて21年が経過してしまった。
古代から、神が選んだ人間(油を注がれた者)が、杖を与えられる事は、秘密裏に伝えられている。
私は、無庵師匠に捜し出され「是で 地球は大丈夫と。」と、師が云うまで、屋久島での修行が続いた。
私は、老子の謂う「嗇にしくはなし」の言葉を理解して、もう何年に成るだろう。其の意味は、「天の働きは、種を蒔いて育て 収穫する。其れしか無い。」である。天の働きは、永遠のボランティア活動である。
其れを「愛」とか「慈悲」とか言うのは、人間の勝手だが、天意を汲んで、其れに応える者は少ない。其れが、神の苦悩なのであろう。
お釈迦さんが、「人生は苦である」と謂ったのは、其の天意を、自分のモノとしたからだと想われる。
私もこうして、2600年前に生まれた人の教えを、見習って生きているのである。
平成17年11月5日
礒邉自適
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