言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2006/2/28
大事な言葉
18・2・28
此処、数日で解かった事は、日本語の核心部分である。
淡路島は、「伊邪那岐命・いざなぎのみこと」と「伊邪那美命・いざなみのみこと」が、最初に生んだ島として、古事記で伝えられているが、其れは、言葉の始まりを云い現しているものと考えられる。
「あ」は始まりの音であり、「わ」は子音の終わりの音で、「あ」と「わ」は対に成っている。其れを「あわす・合す」と言う。
「あ」は「吾・あれ」で、自分一人・個を意味し、「わ」は「和」で「和する・にぎあう・にぎやか」にで、多数・複数が集まることを意味している。
「あわす」の「す」は、「許す・正す」などの「す」と同じく、助動詞であると意われる。
今朝の、主基殿と悠紀殿の「大嘗祭・大譲祭」の「す」と「ゆ」は、大譲祭の「譲る・ゆずる」の「ゆ」と「す」であろう。
「る」は「削る・上げる」の「る」で、是も助動詞である。
「あわ島」とは、現在の自分である、単独の「吾」と、先祖代々の霊魂を「アワス」国柄・風習の意味なであろう。
だから「大嘗祭」とは、先祖の霊と、其の年の「米・イナダマ」を、供に「食(嘗める)」で、霊魂の継続をはかる儀式なのである。
天皇霊の、霊魂を繋ぐ事が、「天の霊継ぎ・あまつひつぎ」なのである。
其の為に、二つの働きである「素目」と「斎目」を獲得しなければ成らないので、悠紀殿と主基殿を行ったり来たりしなければ成らないのだ。
私は、直接は見た事は無いが、たぶん天皇が「悠紀殿」で覚醒したら、太陽からスメミマとしての許可が出て、法の証である杖を手にし、備えられている履物を履いて、建物から出て来るのだと考えられる。
何故、其の様に考えるかと云うと、私が無庵師匠に其の儀式を施された時に、其の様な現象が起きたからである。
天皇家や、大事な部族の神社で、其の儀式の成功が、長い間行われていないのだ。だから、天皇の「詔・ミコトノリ」が、スメラのミコトの言葉「朕想うに」として、復活して来ないのである。
大和の国は「言霊幸合う州・ことたまさちあうくに」とされ、長い間「敷島・和歌」の世界が、護り伝えられて来たのである。
しかし、言葉が真意を失い、其の言霊が発動しなく成ったのである。
其れが、人類の最後の禊ぎの前に、開かれて来ているのである。
其れが、此処数日の、中山博さんや、Yさんのメッセージの内容であると意はれる。
次の「天皇」の大嘗祭までには、本当の儀式を、復活させなければ成らないのだ。
平成18年2月28日
礒邉自適
2006/2/28
ようやく見えた
18・2・28
今朝は、漸く、長年の「名病・ナヤミ」の答えが出た。
其れは、私は目を閉じると、瞼に二組の十字架が現れ、其れが、重なろうとしながらも襷・タスキに掛かった侭、一体化しなかったのである。
其れが今朝、一瞬だけ、中心が組み合わされ、二組の十字架ではなく、八方位線の形に成った。
それで、「夢・ユメ」の言葉が解けた。
其れは、一組は「素目・スメ」の十字架で、一組は「斎目・ユメ」の十字架だったのである。
是で、天皇即位の時に行われる「主基殿・スキデン」と「悠紀殿・ユキデン」の意味が理解出来て来た。
悠紀殿は、「四次元」の世界である、神の世界を見る霊眼(夢の目)を開くもので、主基殿は「三次元」世界である人間社会と、其の生活を取り巻く、環境全体を見る目(現実世界の目)を、開く為のものなのである。
其の、両方を見る目で、捉えた情報の交差線が、今朝重なったのである。
其れは、原子核の原子運動を、赤と青の線軌道で、書き表すのに似たイメージである。
「ゆめ」とは、斎宮の役割である「斎まわり・ユマワリ」の「ゆ」の目なのである。
其れは「卑弥呼・霊目巫女・ヒミコ」が、人間世界との縁を断ち切って、「社・ヤシロ」に閉じ篭って、神に仕えて居た様子でも、言葉の本来持っていた意味が理解出来きてくる。
また、垂仁天皇が「素目・スメ」と「斎目・ユメ」の両方の働きが、遣れなく成り、倭姫命にユメ・斎目を託した事で、伊勢の内宮が生まれた事でも、理解出来る。
今朝は、昨日、老子が名付けた、「道・タオ」の言葉のフックが外れたことで、漸く、言葉の柵・シガラミが解けたので、私の脳の「解脱・ゲダツ」が起きたのだ。
是が、釈迦牟尼佛の謂う法華経の中の「十二縁起」の答えなのだ。
釈迦牟尼佛の「ダルマ・法」は、宇宙の、時空の回転の意味をイメージした物なので、脳の固定化は起きない。
しかし、老子には漢字が在った為に、「道」の漢字を、アカシック-レコードに画像としてインプットしてしまったので、文字が、物として張り付けられてしまっていたのだ。
幸いにして、釈迦牟尼佛の時代には、文字が無かったので、言葉だけの説明だった。言葉だけなら、音の世界である。
音は海馬を通らないので、脳の図書館の中に、文字として保存されないのだ。
だから、老子の教えを漢字で習うのと、釈迦牟尼佛の説法を耳から聞くのとは、全く脳を使うシステムが異なるのである。
だから「釈迦牟尼佛」の教えは、残念ながら、釈迦牟尼佛が肉体を失った時点で、既に消えてしまっているのである。
釈迦牟尼佛の教えを知る為には、自分がスメミマとして「斎目・ゆめ」の世界を開くしか他に道が無いのである。
其れは、「ブッダ・覚者・解脱者・スメミマ」の理・ことわりは、そう成った(成仏)者しか、理解出来ないことを意味している。
漸く今朝、「スメ」と「ユメ」の「目(イシキ)」が統合されたのである。
是は、2月26日の「中山博さん」のメッセージに「天津霊継輿・契約の箱・アマツヒツギ」が、屋久島に住む人の、頭の上に降りている絵の意味であり、其れが発動する事が、神に告げられて来ている。
是は、岡本天明氏の日月神事にも「南の島に 埋めて有る宝を 使う時が来た。」と有り、其れが「天津日嗣・あまつひつぎ」を復活させる事に成るとある。
最後に、屋久島の山が開かれる事が、予告されていたのである。
其れは、新しい世界が始まる事を、意味しているが、古い形が、全て崩壊する事をも意味している。
同じ26日には、Yさんには「封神の儀」との神事が有り、是までの天帝の意識を受け取る儀式は、全て、封じられる事が伝えられて来ている。
其れは、私が、22年前花折岳に登った時に、神に知らされた事と、同じ意味である。其の内容は、長く成るので、ページを変えて記す事にする。
兎に角、書かなければ成らない事が、膨大に成って来た。
片手打ちの私の指は、腱鞘炎寸前である。
ボツボツ口述筆記でも考えないと、ヤバイのではないだろうか。・・。
平成18年2月28日
礒邉自適
2006/2/27
フックが外れる
18・2・27
今朝のメッセージの映像は、赤黒い光りの中に、鍵が掛けられているのが見えて、其れが外された。
其の鍵は、アルファベットの「F」の形で、上から、紐の輪の様な物が通されて、鍵が掛けられた状態に視えたので、「ロック」はなく「フック」なのだろう。
其の一組のフックが、今朝何故、赤黒い「光り・エネルギー」の中で、解除されたのだろうか。
それは、私の意識の中に在った、老子の「道・タオ」の名が、外れた事を意味しているモノと思える。
思えると言うか、フックが、赤黒い光りの世界で、解除された事に因り、道・タオが自然に外れたのだ。
老子は、宇宙が誕生する前の、始まりのエネルギーの世界を「玄」と呼び、其の玄の世界から生じる世界を「道・タオ」と名付けた。
しかし、老子は「其れに、名を与えなければ、其れを、認識出来ないので、しかたなく道と名付けよう。しかし 名付けたトキより、其れはもう道ではない。」と 謂っている。
今朝は、其の、老子が道と名付けたカルマが消去されたのだ。
是で、神の世界に人間が与えた「カルマ・業」が、全て解除された事になる。
漸く、人間が名を与えてはいけない神の世界が、純粋な世界に、立ち返ったのである。
老子が、仕方なく「道」と名付けた事で、神の世界に、染みが着いてしまっていたのである。
是で、全ての、神の名前が消えるのだ。
大日如来も、エホバも、阿弥陀も、ゴッドも、全て名前が消え、人間の対象として存在するのではなく、自分自身が、其の「道・タオ」の現れである理・ことが、理解出来るのだ。
其れが「悟り・差取り・覚醒」である。
今朝、私が思う事は、何故、老子は、一番大事な言葉を「道・タオ・タウ」としたのだろうかと言うことである。
「道」の漢字は略字で、元字は「衜」の「行+首+手」の組み合わせである。
【字義】は、「敵(異民族)を倒し、其の首を刎ねて手にして 路を行く」の意味で、「自分と違うデザインを 有している者の首を刎ねて、清める。征伐して整える。」の意味を、持っている。
此の字の意味から考えると、老子は「道」とは一応名付けるが、其の意味は「自分の自我意識を清めていなければ、決して道は見えないよ。」と、言葉の裏工作をしている様に、私には想える。
今朝の映像は、赤黒い光りのエナジーの中に、小さな黒いFと、其れに引っ掛けられた、短い紐の様な物が見えただけで、他には、言葉も文字も無く、無音の世界であった。
其れは、老子の謂う「弦を弾いて 人工的な音を発生させると 人間の聴覚は 其れに反応して 宇宙の玄の響きが聴こえなく成る。」の世界を、現して来ている。
私は、瞑想をして居る時に、鳥が鳴いたり、何かの匂いがしたりすると、其方に意識が向かい、瞑想が外れていたので、其の意味は、良く理解出来る。
無音の世界とは、都会に住む人には、体験出来ない。
何故かと云えば、都会では24時間、ゴオーと聞こえる、ボイラーの火が盛んに燃えている様な、車の騒音がしていて、一時も止まないからである。
都会の人は、自然の無音世界の中に身を置けば、通常よりも、音がマイナスに成るので、キィーンというマイナス音がして、不安が襲い掛かって来て、逃げ出してしまう。
だから、都会人は、自然の中に居ても、携帯ラジオ等の音楽を聴いて、通常の世界に還ろうとしてしまうのである。
今朝のエナジーの世界は、文字だけではなく、音の気配も消えた世界なのだ。だからこそ、人間の思考を運ぶ、言葉の音も無かったのである。
全てが、ゼロの世界。
其れは、大人に成って、初めて認識出来る世界である。
母親の胎内で、存在を始めてから、母親の心臓の音に包まれ、生まれてからも母親の乳房を手で探り、母親の優しい掛け声を求めて育った癖は、大人に成ってもなかなか外れないのである。
宇宙に往生・かえれば、肉体の耳の音は、消えてしまうのである。
此の世に存在するうちに、無音の世界を体験する事が、瞑想の本来の意味なのであろう。
音が、頭脳から消えた時、言葉も又頭から消えて、「名病み・ナヤミ」も無くなるのである。
其れが、本当の「静寂」の単語の意味であろう。
老子に関した逸話に、或る人が、老子に「朝の散歩に 付いて行って良いですか。」と訊いたら、老子が「駄目だ」と云わなかったので、付いて行き、次の朝も付いて行こうとしたら、「お前はうるさいから来るな。」と、怒られたらしい。
其れは、其の人が、「今朝の景色は 素晴らしい。」と、たった一言漏らしただけだったのである。
たった其の一言が、朝の雰囲気を破壊してしまったのだ。其の説話で、老子が如何に静寂を好んでいたかが、理解出来る。
全ての、フックが外れた状態こそ、本当の「相」の世界が在るのである。
「相(木+目)」とは、木を見る目の意味で、自然の在り様を、其の侭見る事が真実と言う意味である。
今朝は、其の木も消えて、黄泉の世界に純粋意識として、私の意識は立ち返っていたのである。
・「相・ソウ」の漢字は【解字】「目+木」の組み合わせで、木のすがたを見るの意味から、一般に、事物のすがたを見るの意味を表す。相を含む形声文字に孀・想・霜などがある。
【字義】@みる。㋐くわしく見る。㋑うらなう。人相などをみてうらなう。「観相」Aかたち。ありさま。様子。「人相」「骨相」Bたすける。補佐する。C補佐役。かいぞえ役。また、接待役。D治める。大臣。君主を補佐して政治を行う執政官。「宰相」F係り。主任役。G主人を補佐して家務を行う人。家宰
平成18年2月27日
礒邉自適

2006/2/9
永久保存
18・2・9
今日は、屋久島自適塾を立ち上げて、丸1年目の日である。
其の日に、どんなメッセージが来るかと意っていたら、「永久保存」との言葉があり、映像は、私の選んだ言葉や画像が、零下40度の氷の中に、保存される場面だった。
其の言葉と映像は、量は少しだが、大事な事だけが選ばれていた。
其れは、保存される事自体に、意味があるとの事の様である。
其れは、「愈・まさる」とか「還る・いのる」とかの、一番大事な言葉の概念を、消されない様にしろとの事ではないだろうか。
人間は、永い間、本来の言葉の意味から外れた言葉を使い、魂しいが「元・源・みなもと」に、還れなく成っていたのである。
人間にとって、一番大事な事柄は、「元・源・かみ」に還る為の、禊ぎや、祷りであったのに、自分の意識の外に、神や仏像等の対象を創り出した事で、意識が外向きに成り、源に還れなく成ってしまったのだ。
本来、自分の内側に在るモノを、外に求めるので、解決出来なく成ってしまったのである。
たった、其れだけの事が、宗教や哲学が発生した為に、混乱してしまったのである。
気付いて見れば、日本の神社の儀式も、釈迦牟尼佛の教えも、イエスキリストの訓えも、全て理は同じ処に在ったのである。
今朝は、其の映像の後、名前は思い出せないが、NHKの眼鏡を掛けて細身の男性アナウンサーが出て来て、私と駅前で出会い、二人で線路のレールを見た後、レストランに食事に行った。
其の店のメインはスパゲッティで、派手さは無いが、味がスッキリした感じで、私の好みの味だった。
料理の見本が並べられている所を見ると、スルメ烏賊の料理も有った。其の烏賊は一匹の姿のままで、中に米を詰めて、蒸し上げられた料理の様だった。
何故、NHKのアナウンサーと食事をする事に成ったのかは、判からないが、他にも仲間らしい人が4〜5名居て、椅子から立ち上がって、此方に挨拶をしてくれたので、何か、是からの仕事に関係がありそうである。
始めに、二人で線路のレールを見ながら話をしていた処を見ると、是からの未来社会に、レール引くとの意味なのかも知れない。
次の映像は、宮崎県のえびの市に住んで居る引地さんと言う女性が、新しい大きな家に引っ越していて、私が訪ねて行くと、他にも10名程の人達が、共同生活をしながら、新しい動きを始める様子が見てとれた。
何か、新しい動きが、本格的に始まるのだろうか。
私は、銀行に口座番号が無いので、パソコンソフトも注文して買う事が出来ない。昨日、事務所に関係の有る人が、代りに、銀行に口座を開設しに行った。
そうして、貰って来た通帳の番号が「1037496」である。
私が、其の数字を見て「一つの和 皆仕組むと 読めるよ。」と云うと、其の人はビックリしていた。
数字も、意味を与えると覚え易い。
言葉に因って、縁起の良い番号に、いきなり変わってしまうのである。
此の番号が、幸い先の良いものである事を願いたい。
私は、是から、自分でも納得出来る言葉を選出して、定義を明確にして行かなければ成らない。
先ずは、「私し」を「吾れ」に、換えなければ成らないのではないだろうか。
「私」の漢字の意味は、稲の束を「是はわたしの物だ。」と、腕で抱え込む人の意味で、所有心を表している。
「吾」は、「神の言葉を 籠に入れて護る。」の意味で、「我」は、「武器を手にして戦う自分。」の意味であり、「僕」は、「未だ 伐り出されたばかりの原木」の意味で、純朴な人の意味である。
現在の礒邉自適に合うのは「吾」であろう。
吾が是から、どれだけの神の言葉を護れるかは判からないが、永久保存が出来る様な言葉を、選び出したいと想う。
わたしの守護霊の一人である「弘法大師空海」は、真言宗の宗派を興した人である。
真言とは、マントラの意味で「マントラ」とは「言葉は 人間がモノを考える為の 器」との意味らしい。
そうであれば、正しい言葉を使わないと、正しい意識が生まれない事になり、正しい意識が生まれなければ、良い魂しいの人間は、育たない事になる。
今朝のメッセージは、NHKのアナウンサーと、正しい食事をし、正しい言葉を使用する会話を組み上げて、公共放送でアナウンスしなさいとの事であろう。
其れが、未来に向かう為の、レールを敷く事だと、知らせて来たのではないだろうか。
先日のメッセージにあった「NK 350」は、もう360度に近づいて来た様である。
平成18年2月9日
礒邉自適
2006/2/2
帰る(いのる)
18・2・2
漸く、言葉の元が、少し見えて来たとの、自信めいたモノが、湧いて来ている。
「いのる」とは、根源の処に還る事なのである。
帰るコトを、古代では「イノッ」と云っていたのだ。今でも、方言では「もう いのっ(もう帰ろう)」と、家に帰る時に云う地方がある。
「いのる」とは、成る・在る・滑る・譲る・当る等の「る・助動詞」が付いた物で、其の「る」を外せば「いの」に成るのだ。
是で、人間の意識も、根本的な処は解決する事に成る。
漢字の「祈」は「示(祭壇の机の形)」+「斤(膝を折り祈る人の形)」の組み合わせで、神を祭る祭壇の机の前で、膝を折って祈って居る人の、姿形の象形文字だから、形だけのものであり、直接的な意味が無い。
だから、私は「意乗る」と書いて、神の意識と波動を合わす。同じ振動波にのるとの概念を、今まで使用していた。
しかし「気持ち」が「肝霊・きもち」である事が、沖縄弁で解かったので、今度は「いのる」の方言を捜していた。
すると「いの」は帰る意味に使われていた事が解かった。現在の「もう 行こう」が、「もう いのっ」なのである。
是で、英語の「リリジョン(religion)」が、神と再び結ばれる。元に還るとの意味であり、日本語の「いの・還る」と共通している事が解かるし、其れを明治時代に、学者が「宗教・おおもとのおしえ」と訳したのも、間違い無かったと言う事にも成る。
日本の神社で行われる、禊ぎ祓いの儀式も、人間社会の情報を、全て取り除いて、本来の元の意識状態に還る事を意味しているのである。
其れは、釈迦牟尼佛の教えに有る「十二縁起」の「教え・理論」と、全く同じ理・コトである。
「十二縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/332.html
何故、釈迦牟尼佛がそう謂い、日本では大祓い祝詞が唱えられ、禊ぎ祓いが行われるのか。
其れは、人間が、本来の処に返れば「御霊の思頼・みたまのふゆ」が起きるからである。
何故、死んだ過去の霊魂が、人間を頼りにして来るのか。
其れは、宇宙には、過去の世界も無く、未来の世界も、未だ出来ていないので、今の現況の中に、溶け込もうとするからである。
親鸞が、西方浄土と云って、何処かに、浄土が在るかの様な教えを垂れるから、日蓮が「真宗は無間地獄」と言ったのだ。
親鸞は、唯、西方に釈迦牟尼佛が生まれた仏土が在る。素晴らしい国が在る。と、其れだけを言いたかったのかも知れない。
其れは、親鸞が、インド国に行って見たいと言う、願望から生まれた思考なのだろう。
今なら、直ぐにインド国には行けるので、とても浄土とは、云えないかも知れないのだ。何故なら、真実の釈迦牟尼佛の教えは、残ってはいない様だからである。
其れは、インドに正しい教えが残っていれば、釈迦牟尼佛や達磨まで、私の処に「神霊の思頼」として、来る訳がないからである。
「神霊の思頼」とは、是迄の、過去の世界に生きて居た人達が、「現在・いま」の此の瞬間の時間帯に、合流・合体するコトなのである。
其の合体の瞬間が、覚醒の瞬間なのである。
其れは、過去の聖霊の霊魂・情報が、一気に流れ込んで来るので、其の衝撃に拠って、身体は「ズン」と言う衝撃を受け、目は、目玉が飛び出す程剥き出しに成るのだ。
其れが、聖霊が「還る・イノった・帰った・リリジョン・ヨーガ・むすび」の瞬間なのである。
インドの釈迦牟尼佛や、ナザレのイエスに、何故其れが起きたのか。
其れは、浄化されていない地域には、澤山の霊魂が溜まっているので、衝撃が大きいのである。
日本では、何故、あまり其れ等の現象が起きなかったか。
其れは、国中に何十万という神社が存在し、国中で禊が行われていたので、霊魂の溜まり様が無かったのである。
其れが、佛教が導入され、物部守屋が殺され、天皇が佛教(間違った)を、心の支えにしてしまった処に、問題があるのだ。
依存心を祓い、神霊の願い事を聞いて遣るのが、日本の宗教「神霊の思頼」であり、神霊を楽しませるのが「お神楽」である。
私には、22年前4311体の霊魂がイノって来た。
其れ等の、帰還人を背負い、国中を歩き回って来たのである。
其れは、昔の人々が、私の身体を借用して、故郷に帰り、昔の記憶を辿る為だったのである。
私はもう、十分に彼等の思い出や、頼み事を聴いて来た。其れ等の、昔し人の想いも、何とか浄化出来たのではないだろうか。
後は、今と言う此の現象世界に、彼等の想いである極楽浄土を、完成させなければ成らないのだ。
嗚呼 しんど・・・・
彼等の里帰りに付き合わされ、自分の故郷には還る所が無く成ってしまった。
せめて、自分の意識は、何物にも執着させない様にしていなければ・・・・・
未来社会に怨念として残らない為にも。
私のモットは、誰にも頼み事をしないで、自分の能力だけで、生きて行く事である。
何とか、誰にも騙されずに、オリジナルを守り通せたのだろうか。怪しいなあ・・・
トテモ私の脳内から、全てが引き上げたとは思えないなあ・・・・
彼等は、未だ還る所を、他に見つけた様子がないからなあ・・・・
平成18年2月2日
礒邉自適
2006/2/1
まさる (愈)
18・2・1
昨夜は、夕食の後眠くなったので、8時頃ベッドに潜り込んだ。
それで、早く目が覚めてしまい、事務所に出て来た。今は、午前1時である。
目が覚める前に、「まさる」との言葉が来たので暫らく「まさる」の意味を考えて居ると、「まさるとも おとらぬ」との言葉が在るので、「おとる」の反対語が「まさる」であるとの考えに到った。
「おとる」は、パソコンでは「劣る」と出るので、優劣の劣だから、まさるは「優」である。
普通には「まさる」は「勝る」を使うが、「勝」の漢字の意味は、「川+両手+力」の組み合わせで、字義「川の流れに逆らって 船を両手で押し上げる力」の意味で、「流れに勝つ」との意味だから、「游・川の流れにまかす・あそぶ」の反対語である。
ちなみに「負」は、力の無い者が、背後の財産を頼りにするの意味で、「劣」は「少+力」の組み合わせで、其の侭の意味である。
今、漢語林で「まさる」を調べて見た。そうすると「勝・愈・賢・優」と四文字が在る。
「愈」は、人並みより抜け出るの意味で、まさる。すぐれる。に使うとあり、「優」は優しい。上品。の意味合いである。
残りは「賢」だが、賢は「かしこい」の日本語に使うが「臣+手+貝」の組み合わせで、臣は大きく見開かれた目の象形で物事に明るい。良く見えている。との意味で、臣と手を組み合わせると、手堅くの「手+堅(臣+手・土)」と、同じ意味合いである。
賢は、しっかりした財貨の字義で、手堅く財貨を守る人の意味になる。
是だと、どうも今朝の日本語の「まさる」には、合いそうにない。
と言うのは、此処数日、杖で胸を突かれる霊夢を見たり、気持ちが沖縄語で「肝霊・キモチ・キムチ」である事を知ったりで、「オオナムチ・大巳貴神・大名持神」の名前が気に成っているからである。
オオナムチとは「大国主命」の別名である。其の、古代のオオナムチの名前は「大きい気持ちの人・尊者」の意味である。
其れを、別な言葉にすれば「胆力の有る御仁」となる。
それなら、何となく、私へのメッセージである事の、意味が理解出来る。
私に掛けているのは、其の「胆力・キモッタマ・肝っ魂」のデカサである。
其れが不足しているので、杖で胸の処を小突かれたりするのだ。
今朝の「まさる」の意味は、何か、其の辺の答えを、出せと言って来ているのだろう。
自分で解かっている事は、私は、財産を全部他人に渡して何も無いので、「賢い」とは言えないし、財力を背にして物言いをする事は無いので、負ける事も無い。
それかと言って、船を押し上げる勝力も無い。
私が使える文字は「愈」の、「いやす力が抜け出ている。」だが、其れだけではオオナムチの役割は勤まらないのではないだろうか。
しかし、大国主命は因幡の白兎を癒しているので、案外、私に合うのかも知れない。そうであれば、少彦名が現れれば、国造りに取り掛かれる事になる。
是からの社会は、戦いは必要ないので、愈々の「愈」が「まさる」の言葉に使えるのかも知れない。
すると、私が22年前に霊夢で見た、黒猫を一匹連れて頭他袋を担いでいた男性は、やはり大国主命だったのだろうか。
そうであれば、出雲での出来事が全部理解出来てくる。
愈は、愉快の愉の立心遍が下心遍になっている。「愈」は「兪+心」で、兪の字義は「余計な部分を切り取って遣る。」の意味だが、
(一)@しかり。はい。承諾の返事。A答える。Bますます。いよいよ。Cやすらか。落ち着く。よろこぶ。
(二)@顔かたちがやわらぐ。Aなおる。いえる。の 意味とある。
其れに、心を付して「愈」は出来ているのだ。
政治の「冶・おさめる」は、「民の心を安らかにする。」の意味である。
こうして調べて行くと、今の私でも、何とか、遣れそうな気がしないでもないが、自信が湧くと言う程でも無い。
未だ、「勇気・イサオ」があると迄は、行かないのである。
後は、気心の知れた仲間の集合を、待つしかないだろう。
白兎の看病は、是だけ病院が在るのだから、其方に任せれば良いのではないだろうか。
騙したり騙されたりして、争って居る人達にかまっている時間は無いのだ。
早く、身包み剥がされた方が、助かる早道かも知れないからである。
今朝はもう一言有った。其れは「NK 350 うえだ」である。
NKとは、NHK・日本放送協会のことの様だから、日本から放送するのに350となり、其れが上だと言うことは、真上の360度まで残り10度で、後、メモリは10度しか残っていない事になる。
太陽信仰の、アステカ族の使っていたカレンダーは、真上は葦の図柄である。
「スメル・皇」は、葦の生える地を治める者の意味で、豊葦原瑞穂の国を治める者の立場を言い現すものである。
後10メモリーで、スメルが完成するのだろう。
平成18年2月1日
礒邉自適
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