言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2006/5/23
文字が行ったり来たり
18・5・23
今朝の私の意識は、不思議な感覚である。
私は22年前、屋久島の山に何ヶ月も籠もり、他人との会話を止め、言葉を何ヶ月も使用しないで、日付や時間ばかりでなく、自分の名前さえ忘れていた、あの頃の感覚が蘇って来た。
其れは、人間が 人間で在る事を 止めた 瞬間である。
屋久島には、自分の生まれた群れから離れて、修業を続けている離れ猿がいる。
力の有る雄猿は、生まれた群れから離れ、3〜4年孤独の世界で生きて、智恵や体力を着け、自信が付くと、他の群れのボスに戦いを挑むのである。
其のボスに勝って、ボスを追い出せば、其の群れは、自分の物と成るのである。其れが、猿の社会である。
其の様にして、動物達は、遺伝子の混濁を防いでいるのである。
人間が、山に籠もると言う事は、其の猿と同じ行動である。
一度、自分が生まれ育った社会から脱出し、過去のデータを消去(出家)して、自然の中で、ゼロから情報を組み上げるのである。
其の新しい情報を携えて、大きな世界へ挑戦して行くのである。
其れが、自分の魂しいを確立し、遺伝子を残す方法なのである。
其れは、猿だけではなく、鹿やライオンなども同じである。
動物の雄の世界では、力や能力の有る者は、育った環境の中から、広い世界に旅立って行くのだ。
私は、其の離れ猿と、同じ行動を22年間続けて来た。
其の行脚の御陰で、松尾芭蕉や種田山頭火の心境も、理解出来る様に成ったのである。
彼等雲水は、離れ猿と同じ行動を採ったのである。
其の結果が、遺伝子ではなく、文脈を伝え残す結末と成ったのだ。
昨日は、A・あ・ア・エの文字と音を示した。
今朝は、其の後の、新しい言霊の綴りが始まるかと思っていたら、そうではなく、更に言葉が溶き解れて、バラバラに成り始めた。
其れは「あしたのあさ」が「あたしのあさ」の様に「あ・シ・タ」が「あ・タ・シ」とタシ・シタ・タシ・シタと、点滅信号の様に、絶えず、左右に入れ代わるのである。
シと、タが入れ代わるだけで、「明日の朝」が「私の朝」に意味が変わってしまうのである。其れが、どう言う意味を現しているのか良く分からない。
此の映像の意味は、何なのであろうか。
猿やゴリラなどは、吼える事は出来ても、音を組み替えて、意味を伝える事は出来ない。彼らは、同じ音に、強弱を付けて仲間に合図を送っている。
其れは、意志の伝達は出来ても、会話を交わす処までは、進化していないことを、我々人間に教えてくれるものである。
其の点、人間は、シとタを入れ替えるだけで、違う意味を、伝える事が出来るのである。
其の理を知れと言うのが、今朝のメッセージなのだろうか。
中山博さんの、昨日のお筆先には「ウタを詠いて ス・主と成りて フツなる魂を拾い出し 内なる光りで 此の地を照らす。」とある。
其の文面からすると、「詞を詠う事で 主に成る。」との意味が採れる。
其れは、言葉を発する事で「主・君」に成れるとのことである。
其の意味からすると、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」の「国の事を 治ろしめす。(今日から 私が国を治めるので 貴方達のデザインは 今日で終りです。)」の概念が、思い出されて来る。
「主・君は、ふつなるたま・悉の御霊を拾い出だし 内なる光り・魂で 此の地球を照らす。」其れは、新しい国造りには、新しい御詠歌が必要である理・ことを、告げて来ているものである。
其の意味では、日本の天皇家も、アメリカ大統領も、ソ連や中国の書記長も、イギリス王室もバチカンも、何も新しい「詔・みことのり」を発していないと言える。
だとすれば、誰か、新しい御詠歌を詠う人間が、登場しなければ成らない事になる。
其の者の言葉が、新しい事象を抱え込み、森羅万象の渦を、未来に向けて、回転し直さなければ成らないのだ。
其の為には、過去に使用されていた、古い言葉は役に立たないとの理であろう。
使い古された言葉では、過去の情報の玉手箱を開ける事に成り、開けた瞬間に「浦島太郎は 白髪のお爺さん」現象を、起こしかねないのである。
だから、言葉の位置を組み替えて、新しい単語を創り出し、人間の意識を、過去の世界(ブラック・ボックス)から、新しい世界に、誘い込めとの事ではないだろうか。
今までの言葉や概念は、過去の世界の物であって、未来世界を創造するのには、役に立たないとの理・ことである。
特に、宗教での統合は不可能である。
宗教での統合を行なうならば、どれか一つの宗派が拡大し、他の宗教が全部抹消されなければ成らないが、そんな事は不可能である。
其れが可能と成るのは、60億の人類が皆納得出来る、新しい概念を構築するしか他に方法が無いのである。
其の為に、今朝 私の頭の中を弄くり回し、単語の文字をバラバラにして、言葉を再構築する様に仕向けて来たのだろう。
是は 22年前に無庵師匠が私に云った事が、再燃して来た事に成る。
何故、無庵師匠は、私に「自適さんが想った様に 全てが成るので、私が総理大臣を連れて来るから 自適さんが想う様に話してください。」と、云ったのだろうか。
其の様に云われてから、既に22年も経過して、漸く私し自身にも、其の事が理解されるトキが来た。
と言うことは、22年前に、無庵師匠は既に今の世界を見て居た事に成る。
確かに、今の私なら、何を訊かれても、答えられる自信はある。
しかし、其れは、訊く人に理解力があるかどうかが、問題ではあるが。
一休さんが、どんなにイライラしながら、本来の人間の在り様を復活させようかと、日夜意って居たのかが、眼に浮かぶ様な気がする。
アレアレ そんな事を言っている私の意識が そうではないか・・・・
道理で 誰か 貧乏神が絶えず付いていると想っていた。
平成18年5月23日正午ジャスト
礒邉自適
2006/5/22
言葉のみち
18・5・22
今朝は、初めて「一休宗純禅師」らしき人物の、全身像の姿が現れた。
其の姿は、編み笠に杖を突いた姿で、黒い服の所々に穴が開いており、内の白い下着が見えている。よく絵で見る、松尾芭蕉や山頭火の旅姿を、連想すれば良いだろう。
そして、漢字の「径」の文字が出て来たが、左の行人偏が口で「口圣」なのである。其の意味を考えていると「有漏路・無漏路」の言葉が出て来た。
「有漏路・無漏路」を広辞苑で調べると、
【有漏路】 煩悩の多い者がいる世界。此の世。
錦之裏「迷うも 悟るも 有漏路より 無漏路へ 送る」 と 載っている。
今朝のメッセージは「路」や「径」の、足で行く道筋ではなく「言葉・口」に拠る処の、道筋を告げて来た物の様である。
今朝の、禅坊主の行脚・あんぎゃの姿は、一休宗純禅師らしいのだが、顔が幾重にも重なって見えたので、松尾芭蕉や種田山頭火、其れに「良寛和尚」などの霊魂が、統合されていた物ではないだろうか。
何故、いまの次元帯に、彼ら禅宗系の坊主達が出て来るのか、其の謎を解かなければ成らない。
其の一つは、彼等が人類の一番進化した、最先端に位置している存在だからであろう。
其れは、釈迦牟尼佛やイエスキリストやマホメットなど、昔の宗教の元と成っている人達の教えでは、もう間尺に合わない事を、示して来ているのだ。
昔の教えでは、現在のインターネット社会には、合わないのである。
今や、科学が進んで、宇宙の成り立ちや、人間の生命システムと、脳の働きも解明されて来ている。
其の成果で、人間の五感のシステムや、第六感性(シックス・センス)の解明も進んで来ている。
そんな環境の中で、昔の人の言い残した残飯を、いくらあさって見ても、未来を開くキーの言葉は出て来はしないのだ。
人間の、人間たる所以は、言葉や文字を扱う事にある。
だから、其の言葉の技術の最先端に、人類の未来世界が、存在している事に成るのだ。
五感で捉えた情報を、第六感に置き換える時、四次元の世界を変化させる事が、可能と成るのである。
其れが弘法大師空海に始まる、日本の言葉の世界なのだ。
今朝のメッセージは、昨日21日が空海の月命日だったので、書の達人と云われている「弘法大師空海」のお膳立てが、昨日あった上での、今朝の映像場面なのだろう。
其れが、「敷島の道」の国である日本の本来のハタラキなのである。
今朝は、此処まで打った時に、東京の中山博さんより7枚ものメッセージが送られて来た。そして、其のお筆先は、今日から縦書きに換わっている。
どうやら、日本の和歌は縦書きでないと、言霊が上手く流れないようである。
其れは、そうだろう。
横書きの文章を読んで居れば、首は横に振れるので、動作としては「嫌々・ノウ・否」の動きになる。
其れが縦書きなら、読む時に頷く動作に成る。
頷くとは、項・うなじが上下に動く事で「項搗く」の意味だから、ウンウンと首が上下に振れる事に成るのだ。
中山博さんのメッセージと、私の今朝のメッセージは、同じ次元の言葉の世界に関していて、其の内容面からも、ピタリと合っている事に成るのだ。
其れは、天皇陛下が詠む和歌や、七夕の短冊など、皆縦書きでないと、効力が薄いとの理・ことではないだろうか。
神社で唱える、祝詞やお札も、縦書きでないと都合が悪いだろう。其処が、西洋の詩の世界と、日本の和歌の言葉の使い方の差である。
今朝は、愈々、言葉を司る神が動き出した事を知らせて来ている。
其れも、天皇や宮司や管長など、位いや身分の高い者達ではなく、服がボロボロの「乞食・こつじき」姿の坊主ばかりである。
彼らは皆、住所不定無職の、名無し・家なし・家族無し・地位名誉無しで、金も財産も無い、着た切りスズメの人達である。
其れは、彼らが「有漏路」の世界の人ではなく、もう「無漏路」の世界に存在していることを示している。
彼らは、此の世の三次元世界の執着から、完全に脱却して、神の意識の傍らに座しているのだ。
今朝の映像が一休さんだけなら、一休さんは京都の大徳寺の建立に関わっているので、寺を持っている事に成り、「風餐水宿」の本来の意味が伝わらないから、他の雲水(俳人)の姿を借りたのだろう。
其れに、何故「敷島のみち」のミチの文字が、「路」では無く「径・経」の方の「口圣」が使われて来たのか、其の事にも意味が含まれている。
各は「足+口」の組み合わせで、上から下へ向かう神の言葉の意味である。
是は、神のお告げに従うミチである。
一方、「圣・巠」は真っ直ぐで、短いミチの意味である。
和歌の世界は、神のお告げを受けて、行動する物ではなく、此の森羅万象の現れである自然の景色に、人間が向かい合い、自然の働きと、自分の心象風景を同化させる世界である。
其れこそが、神の存在に対して、真っ直ぐに立ち向かう事なのである。
そして、其れも5・7・5・7・7の短い言葉の綴りである。
其れは、確かに、真っ直ぐで極力短くしたものである。
其れは、正に「圣」のミチの意味に通じている。
ようやく神は、人間の身近な処に、接近して来ているのだ。
もう神は、神社や寺院に在るのではなく、自分自身の咽モトに、達して来ているのだ。
其れは、イエスの謂う「此のミチを広めなさい。しかし何を話すか考えて行っては成りません。神は 其の時 その場で 貴方の舌を借りるのですから。」が、現実の世界と成って来たのである。
今朝の乞食僧は、イエスの行脚の姿も含んでいたのではないだろうか。
其れは、言葉の「圣・ミチは」時代や国を超えて、皆一つの時間軸に繋がっている理・ことを示している。
其れが、熊野大社の祭神「神祖熊野大神櫛御氣の命・かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと」の世界であろう。
昨日の「A・ア・あ・エ」の文章が 余程効果を上げたらしい。
平成18年5月22日
礒邉自適
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