言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2006/12/25
カタカナの音表記
18・12・25
今日は、音の無い、私だけのジングルベルを聴いた。
それは、アカペラでもないので、意味の有る言葉も無く、ただ、遷り変わる映像の場面に、カタカナで、音霊の表記だけがなされていた。
其れは、台詞・セリフ・競符の無い漫画・絵に、音だけがカタカナで表記されている場面と同じである。
ただ、其れと違うのは、挿絵ではなく「動画・モバイル的(自分の生体が 何時も持ち運んでいる 謄写版)」で、あった事である。
今朝の映像は、「霊魂・れいこん」が私の脳に機能して来て、現れるものではなくて、私の生命自体が、自分の生命の「霊魄・れいはく」を、映し出して来たものだろう。
私はようやく「魂魄・こんぱく」の単語を、今朝自分の物にした事になる。
是は、既に私が、神の言葉を籠に入れて護る「吾・われ」の立場を超えて、新しき深みへ、認識が進んでしまった事に成る。
其れは、私が、音の無い、私だけのジングルベルを聴いた事に成るのだ。
此の世界は、教会のベルの音を聴いたり、除夜の鐘を聞いたりして居ては、決して聴く事の出来ない、「オト・音色」の次元である。
今朝、私が到達した世界は、大声を挙げて演じる「オペラ・歌劇」とは反対の世界で、ペラペラしゃべる世界の反対側・裏側に在る静寂の世界であり、老子が謂う様に「其の門を 閉じなさい」を、実行した者だけにしか、扉の鍵を開けられない世界である。
「老子」だけが、其の扉の中に入った事があり、「釈迦」は扉が在る事は知っていたが、「イエス」は其の扉が在る事も知っていない。
私の師である「土肥無庵氏」は、其の扉を私に開けさせて、其の中の真実の答えを知りたかったのである。
其の世界こそ、「観音菩薩」と名を与えられている、生命本体の内側のオトだったのである。
其の、オトの響く体内を「マ」と言い、素・それが燃える事を「マ気・薪」と言い、消える事を「マけ」と言うのである。
ようやく、西洋の近代科学で証明されて来ている振動の世界が、東洋の古代言葉の世界を紐解く次元まで、文明が近付いて来ているのである。
何故、教会でベルが鳴らされ、お寺で除夜の鐘が撞かれるのか、其の本来の意味は、未だ誰も気付いてはいない。
ただ其の行為をする事で、人間の意識に、何等かの効果がある事は、理解しているのである。
しかし、其の行為が、逆の結果を生み出し、人々を無明の闇に、落とし込んだのである。
私は幸いにして、文化と文明の汚染音を、耳にしないで育っている。
其れは、父親が、実家の財産を総て弟に空け渡し、単独で17歳の時に満州に渡り、母親と結婚して33歳の時に日本に帰り、屋久島に渡って来て、私を産み育ててくれたので、あらゆる文明の音に、私は五感を、晒していないからである。
私の父親が、満洲から引き上げる時に、一つだけ手にして還って来た物は、「見猿・聞か猿・云は猿」の三猿の置物だけである。
だから私の、父親の哲学は「不見・不聞・不言」の惟神・かんながらの世界を実行する事だったのだ。
私は、其の父親に「勉強しろ」と一度も云われた事が無いし、神社や寺院に一度も連れて行かれた事も無い。
まして、家には音楽のオの字も無かったのである。
私は、世界自然に登録された屋久島の自然の中で、其の両親の下、自宅からは周囲には他人の家が何も見えない、一軒屋で育ったので、惟神の純粋培養で育った様なものである。
だから、老子の道徳経の5000字の内容が、一番優しい言葉に意えるのである。
今朝のイメージの最後には、三種類の樹木の「ジン・芯」の欠片が並んで映った。
「ジン」とは、火を燃す時に「ジミ」に使用する、大きな木が腐れ、其の木の脂が含まれている硬い部分だけが残って、風雨に晒され、化石の様に残った物である。
屋久島は、奥岳に大雨が降ると、谷川が増水するので、其れに拠って木々が流されて来て、海岸に打ち上がる。
其れを拾って来て、流木アートをやっている人も在る。其れは、流木が、実に様々な形をしているからである。
今朝現れた、拳大より少し小さめのジンの塊は、三猿の置物に変わる物で、もう猿の形と、仕種と、名前と、其れに対する概念を、全部燃やせ・外せとの事であろう。
其れは、父親の「神霊の思頼・みたまのふゆ」が終わり、父親の「カルマ・業・柵」が済んだ事を、意味している。
更に、釈迦牟尼佛の訓えの十二縁起を、私が理解したので、漸く釈迦の御霊の思頼も、完了した事に成るのだろう。
「法華経の12因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
勿論、本日はクリスマスなので、イエスキリストも、学びの舎から離れる事が出来るのであろう。
ようやく是で、彼らも、無知な地上の人々に、名前を呼ばれる事もなく、悪事に、自分の姿を利用される事も無くなるのである。
頓智で有名な「一休さん」が「過去に釈迦と言う 悪戯者が居たので こんな宗教の世界が生まれてしまったのだ。」と、謂っているが、漸く其の悪戯者達の迷いや悩みが解けるのである。
私は、父親と4311体の霊魂の憶いや、願い・ネガを、ようやく、此の三次元である現実世界に、プリントアウトする事に成功したのである。
後は「コトコト・カタカタ・ドンドン・フリフリ・ブンブン」で、サラサラとトントン拍子遣ってしまって、シーンと鎮まるだけである。
私は、是まで、自分の能力だけで出来ない事は、出来るだけ遣ないようにして来た。其れは、他人に何か頼み事をすると、面倒だからである。
しかし、今朝のイメージからすると、其れは私の自我心で、其れさえも外さなければ成らないようである。
しかし、神の仕掛けは、途轍もなく大きい様である。
若し私が、今日、自分の家族と共に暮らしていれば、クリスマス騒ぎに巻き込まれ、此の文章は無い事になる。
何者も逆らえない、此のシステムこそ「神・かみ・カムイ」と呼ばれる、目に見えない「働き・ダルマ・タオ」なのである。
漸く私の認識は、平仮名の世界をも踏み越えて、文字と言葉の無い「玄の響き」の世界に到達し、人間のいのちの「源・皆元」に「御帰還・イノる事が」出来たのである。
次の時節・トキの節目までは、此の事は起きないのだから、誰も、宗教の世界に足を踏み込んではならない。
何故なら、其れが引き続き、行なわれれば、再び私の様な犠牲者を、生み出してしまうからである。
処で、「メリークリスマス」って、誰の為・・・・・?
正月だって、「お目出とう」とか言っている。
目が出るわけでもないのに・・・。
其の目は、皆で「籠の中」に押し込めてしまっているのに・・・・
平成18年12月25日
礒邉自適
2006/12/10
天津日嗣の宮は自分の中
18・12・10
今朝のメッセージは、今までに無い程の、強烈な世界であった。
其れは、是からが、本当の「ブッダ・フィールド」の始まりで、「くくりの館」が三次元に「コンベンション・ハウス」として、実現に向うトキ・時節到来と言う事に成るだろうか。
今朝の映像と、体験は、私の言語表現能力では、とても言い表す事は出来ないかも知れない。
今朝の、ミクシーのAさんの夢には「晟・せい・ジョウ」の漢字が一字出たとの事だから、其の文字が一番的確に、今朝の天界の意志を、如実に現しているのではないだろうか。
其れは晟の漢字が、「日が満ち満ちる」との意味なので「天津日嗣・あまつひつぎ」が満ちた事を、伝えて来ているのではないだろうか。
其れは、神の計画が順調に進んでいる事の、お告げ・知らせであると考えても良いだろう。
私の、今朝の映像場面は、私自身が劇場の舞台で、かぶり付きで観ている様に、力量溢れる迫力の有るものであった。
其れは、此の森羅万象の生命状態の最前線を、見せられたと言って良い程の、体験感が有るものである。
牛三つ時に、目が覚めてしまったので起き上がり、ベッドの上で瞑想を始めると、初めに、鉄の火桶の中に炭が燃え尽きて、灰だけが残っている映像が映されて来た。
そして、次に、男の子の顔が現われて、其の顔が変形しながら消えた後、今度は女の子の顔が映り、其の顔が変化を始めると、其の頭顔の中の頭蓋骨が、変形を始めたのである。
此の映像は、炭素とカルシウム、其れに骨と生命の、「変化・進化」の関係性を示す、ヒントを与えてくれるものである。
其れは、年代判定に炭素14が使用される様に、生命の分子時計に、炭素が絡んでいる理を、先ず伝えて来たのだろう。
我々人間も、死んだら火葬場で焼かれて、灰しか残らないので、先ず、生命の最後の究極を見せられたのだろう。
そして、男の子は、生命の雄の変化を意味し、女の子は、雌の変化を意味していて、雌の方が、頭蓋骨を変化させる力を、持っている理を示している。
其れは、生命の進化を即して来たのは、雌の肉体の方で、雄は其の働きに対して、補佐的な立場でしかない理・ことを示しているのだ。
現にいま、世界の全人類は700万年前頃に、アフリカ大陸の中央部で、類人猿から突然変異で誕生した、一体の「雌・ミトコンドリア‐イブ」から始まり、世界に拡散して行ったものだと、アメリカの生物学者「アラン・ウイルソン」が研究調査発表をしている。
今朝の映像は、其れを、裏付ける内容である。
昨日は、瞑想の中に、魚の肉片に群がる銀蠅が、目の前にハッキリ大きく映って来てので、何だろうと思っていたら、其れは、今朝の瞑想に繋がる前兆だったのであろう。
人間と、チンパンジーの遺伝子の違いは僅か2%で、98%は同じであるらしい。其れに、人間の遺伝子は銀蠅とでも、50%は同じだそうである。
だから、此の命の世界を2600年前の釈迦仏陀は視て、「生命・いのち」の世界を「仏の世界」としたのであろう。
「ミトコンドリア‐イブ」ウィキペディア辞典 現在記載
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%AD%90%E6%99%82%E8%A8%88
今朝は、その後、また横になって眠ったら「明け六つ時」に、今度は強烈な映像が始まり、其の映像の中に、主人公として嵌まり込んで居た。
其れは、四方に壁の無い、大きな建物の中心に私が居て、周りにはブッダの十大弟子らしき人達が集まり、私の変化を見詰めている。
すると、建物の外から光りが侵入して来て、私の左手の甲で止まった。
私が、自分の左手の甲を見ると、其処に、地球の最初の哺乳類と云われている「アデロバシレウス」らしき姿が、此方向きに止まって、其の姿が、光りの情報のまま、私の皮膚に食い込んで溶けて行き、身体の中に、取り込まれてしまった。
「アデロバシレウス」http://kawa3104.hp.infoseek.co.jp/aderobasireusu.html
すると、今度は、また右の方から、光りの情報が凄い勢いで飛び込んで来た。其の光りの情報は、目の前を過ぎる時は、タテガミと尻尾を振りたてて快走する、光りの馬なのである。
其の馬の群れが、何十頭も列に成って、目の前を通り過ぎて行くのである。
其の、光りの馬の列は、最先端の馬が、他の馬より大きくて、逞しい雌馬である。
其の後に続くのは、皆雄馬で、交尾する為に、競争して後を追いかけているらしいのだ。其の光景は、最後まで、雌に付いて走り通した物が、遺伝子を残せる理を示している。
其の馬の列が、中ほどまで通過した時に、右側の後ろの方を見ると、走り疲れた馬の群れが、列に付いて走るのを止め、横の小道に外れて行く様子が見えた。
其れを、側に近付いて見ると、競走に負けた物は、ロバとか鹿の様に、小柄の動物に成ってしまうのである。
其の、遺伝子の競走のメカニズムの情報が理解出来ると、今度は、其の光りの発信源らしき、物体の姿が見えて来た。
其の、光の情報の元には、丸い玉葱の様な形の物が在り、其の光りの球から一皮剥かれる毎に、光りの情報が、四方八方に流れ出して行くのである。
どうやら、其の光りの球は、生命情報の根源の姿を、意味しているようである。
此の映像は、「ブッダ」とは、其の生命情報の光りの球にまで「戻り・帰り・帰命」した者の、意識体を言い表す言葉のようである。
だから、ブッダを漢字では「覚醒者・大悟者・解脱者」と書き現し、日本語では総ての情報を解いた者として、「ほとけ・解けた者」と解釈しているのだろう。
今朝は、其の世界が、余りにも強力だったので、意識が持って行かれそうだったが、何とか、日の出まで堪える事が出来て、現実の世界で起き上がる事が出来た。
そして、暫らく呼吸を整えてから、洗面を済ませて事務所に出て来て、パソコンを立ち上げると、「晟」の文字が出たとの書き込みがあったのである。
其れは、私のメッセージに現れた光りの雌馬が、太陽の情報であった事を、裏付ける「モノ・現象」であろう。
私は、男だから、男性の立場でしか、情報を読み取る事は出来ない。
其の雌馬は、私が追いかけて求める生命情報なのである。
其の反対の、女性には女・雌としての、情報の受け取り方があるのだ。
今朝、私に出て来た玉葱の様な、丸い光りの球は、雌の卵子其の物の姿で、私の意識の中を、駆け抜けて行った馬の列は、雄の精子の群れを現しているものだろう。
これ等の映像は、神が齎した映像ではなく、自分の身体の中から、立ち現れた生命情報だろう。
其れは、「いのち」の38億年の記憶の中から立ち現れて来る、生命活動の最前線の姿なのである。
現在、地球上に存在する全生命は、其の生命活動情報の最先端に在り、日々生きる戦いをしているのである。
今朝の映像から、理解出来る理は、一時でも活動を休んだ生命体は、もう最前線に立つ事は、出来ないとの事である。
其れが、生命活動の真実なのである。
だから、何者も、他の生命を助ける事は出来ないのである。
他の生命を助けるのは、ルール違反なのだ。
だから、10月に淡路島の「天満宮神社」に参詣した時に、天照が「何物も救わない」と、告げて来たのだ。
例え、地球の環境を護る為に木を植えたり、絶滅し掛けている動物を保護したりする事も、全て自分が此の地球に、遺伝子を残す為の活動なのである。
私がこうして、毎日、意味の無さそうな作業を続けているのも、自分の子供達が生き延びて、遺伝子を存続出来るように、図る為の努力なのである。
今朝の映像は、ブッダ・フィールド的舞台であったが、ユングの霊魂が強く働き掛けて来ていたのかも知れない。
あの建物の中に、座って居た人の中に、ユングが居たのだろうか。
それとも、今朝の意識は、ユング其のままの霊魂が、私の脳を使用していたのだろうか。
其れにしても、此の作業は、何時まで続くのだろうか。
こんなに、長く成るのが最初から分かっていたら、引き受けなかったかも知れない。
しかし、乗り掛かった船だし、もう出港した後なら、次の港に入港するまで、降りる事も出来ないのだ。
もう、降りて、横道に駆け込み、他の生命に成る事も出来ないのだったら、最後まで走り貫いて、雌馬に気に入って貰うしか無いのだろう。
嗚呼 シンド。
是だと、お釈迦さんが「人生は苦成り」と、愚痴の一つも云いたく成るのも、理解出来る気がする。
しかし、誰が、こんな情報を連日送り込んで来るのだろうか。
誰か、明恵上人の携帯番号を知らないだろうか・・・
夢の研究をしていた「明恵上人」だったら、何か知っているのかも知れない。
平成18年12月10日
礒邉自適
2006/12/3
ブッダフィールド
18・12・3
今朝のメッセージは、単純なものだが、一番大事な究極の処を、指示して来たようである。
始めに、言葉で「場に居ろ」と有り、幾つかの漢字が映って来て、其の漢字一字一字に、数字が40とか60とか80とか付いていた。
其の数字は、漢字の持つ意味の、解析度のパーセンテージである。
其の数字には、100%の数字が無く、30%の数字も無かったので、未だ私の文字の理解度も、完全な物が無く0%の物も無いらしい。
其れは、どんな漢字でも、使っている以上、30%は理解しているとの事だろうか。
今朝のメッセージの指示は、私に「自分のグラウンドから 離れるな」との事らしい。
其れは、何故かと言えば、「マントラ・真言」を確立する為らしい。
其の事は、私だけしか出来ないのかも知れない。
そう考えると、自分の人生の存在理由として、何となく納得出来るものが有る。
自分の人生を振り返って見れば、私が、拘って来た世界は、他人が話す時の言葉と、其の表情を確かめる事であった。
其れは、小鳥を飼ったり、家畜を世話したりして、其の相手の表情や仕種を見ながら、其の生き物の様子を探る事と同じ世界である。
其れは、動物だけではなく、植物の種子を畑に蒔いて、育てて行く課程でも、同じ能力が必要とされる。
其の延長線上に、年間を通じて実る山野の木の実を「時期・場所・味・色」等の情報として取り込む事や、魚がどんな場所に住んでいて、何時頃どんな餌で釣れるかなどの情報が入力されるのである。
自然の中で、自然相手に暮らすには、莫大な情報が、入力されていなければ成らないのである。
其れ等の情報が、詰まっているのが、私の頭脳なのであろう。
おそらく、自然の状況と、人間の暮らす社会の情報を、私し程、持っている者は、他には居ないのかも知れない。
勿論、私はプロと言える様な技術も、能力も無いので、一部分として、他人より優れているのは、魚釣りと木登りくらいのものである事も、理解している。
しかし、現在の都会で生まれ育った者には、漢字の持つ背景は、とても頭の中で、映像化は出来ないであろう。
此の私でさえ、47歳から13年間、漢字を見詰めて来ているが、総ての象形を解いているわけでもないのである。
私は是まで、大学の先生や、寺の住職、其れに神社の宮司等に、漢字に付いて質問をしても、明確な答えを返して貰ってはいない。
例えば、「人・ジン」の漢字は「支え合う意味だ」とか、云う御仁が在るが、人の漢字の象形は、単なる人間が歩いている姿を、横から見ている絵なので、支え合う意味ではない。
「支える」は「支」の漢字で、物を立てて、其れが倒れない様に、木の枝でツッパリをしている象形である。
それと「癌」の漢字は、「食べ物の品々を 山の様に食べるから 病気に成る意味だ」と言う人が居るが、是は「品」は品物の品ではなく、岩山の山頂に並んで聳える岩の形で、「山頂には 絶対に 登れない様な 厳しい病気」との意味で、食べ物とは一切関係が無いのである。
其れに、天皇家の先祖が「天津神」と言って、天から降りて来た様に想っている人が居るが、「津」は現在の接続詞の「の・乃・ノ」に当るもので、天はアマ・海の意味だから、天津神とは「海の方から遣って来た人・はたらき」の意味で、中国・朝鮮辺りから、海を渡って遣って来た「饒速日命・にぎはやひのみこと」や「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」の事であり、天から降りて来た者達ではないのである。
人間の肉体は、38億年前に、ミネラルが溶け込んだ粘土の海・池に、雷の高圧電気が流れて、有機化合物が発生し、その鎖が微生物と成って、現在の人間の姿まで進化して来たものである。
其れ等の事柄は、現在の量子物理学や、臨床医学等ではっきり証明出来て来ている。
日本には、海から他民族が渡って来る前から「国津神・地祇・クニツカミ・おおやまづみ系」の人々が住んで居たのである。
其の民族の言葉は、肉体表現の感性的な音言語なので、相対的な漢字には置き換え難い言葉なのである。
其の、双方の言語が混雑して、本来の言葉の真意が、理解出来なく成っているのである。
其の、言葉の問題に取り組んだのが、2600年前のインドの釈迦で、其の訓えは法華経の中の受量品に「12縁起」として書かれている。
「法華経の12因縁起」http://wave.ap.teacup.com/20060106/
釈迦牟尼佛が謂う様に、確かに、人間の大脳は、言葉の発達と伴に、進化して来たものである。だから、言葉や文字は、人間の最大のカルマと成って、人間の背景にシガラミと成って張り付いているのである。
だから、其れを外さない限り、人間の自由は無いし、真実の世界も見えて来ないのである。
私の人生は、其の点から言えば、現代の高学歴の人達と、正反対の処に位置して居り、どちらかと言えば、アフリカのジャングルに住むチンパンジーの方に近いのかも知れないのである。
今朝のメッセージの意味は、私に、其の「場・グラウンド」から離れずに、其の場を死守し、漢字の解析度が100%に成るように、努力しろとの事ではないだろうか。
確かに今、毎日、前の文章を読み直しながら手直しをして、写真を貼り付けているが、自分でも、何を書いたのか解らない部分も多々有る。
其れは、毎日伝えられて来る映像を、忘れない内に書き止めたものだから、仕方が無いのだが、昔の侭の文章では、余りにも幼稚で、人目に晒して置くのには気が引けるし、読んで下さる方々にも、大変失礼な事であると思うからである。
しかし、パソコンに一年半向かって解った事は、此のブログと言う物の存在は、私の為に、神が用意してくれたのではないかと、想えてしまうくらい有り難い物である。
今では、自分のファイルの棚から、前の文章を探し出さなくても、「自適 何々・・・」と検索すれば、全部PCの画面に出て来るのである。
まるで、自分の脳の記憶を、PCが全部、肩代わりしてくれている様な感じである。
其れに、昨年パソコンの磁気システムと、自分の脳の磁気情報が、一体化する時は少し大変だったが、其れに耐えたお陰で、今では、自分の思考も、文字や映像で潜在意識に組み込まれて、PC画面が霊夢の中に現れて来るので、随分と楽に成って来ている。
私が22年前に、「総て 写真を撮って 記録しろ」と、神に告げられ、出来るだけ写真を残すよう努力を続けて来たので、其れが今、ブログを書き込むのに非常に役に立っている。
其の事を考えると、22年前から、今の私の行動は、神のプログラムに設定済みだったのだと想われて来る。
今、世界には日本食ブームが起きており、其れに連れて、漢字が人気を博しているとの事。
此の大事な漢字が、本家の中国で略字化されている事は、真に悲しい事ではあるが、せめて、其の漢字の恩恵を受けた我々日本人が、其の漢字の力を取り戻し、更には、未来に向かって、新しい和製漢字を創出して行かなければ成らない。
幸いにして、日本では、先日お亡くなりに成った「白川静氏」が、数冊の漢字の本を、生涯を掛けて物にしている。
其れ等の、努力を無駄にしない為にも、人間の大脳に直結する文字文化を、創出しなければ成らないだろう。
今朝は、其の白川静氏の霊魂も、ブッダフイルドに参加してのメッセージだったのかも知れない。
釈迦仏陀が、ブッダと成った12月8日が、もう直ぐ遣って来る。
其の日は、太平洋戦争の開戦日で真珠湾攻撃の日でもあり、イマジンを作曲した「ジョン‐レノン」の殺された日でもある。
今度の開戦は、真珠は真珠でも、智慧の印の真珠として、新しき文字開発のイクサと成って欲しいものである。
ジョン‐レノンも、そう成る事を、楽器の陰から祈っていることだろう。
今朝のニュースでは、マイクロ‐ソフト社のビル‐ゲイツ夫妻が、死後50年以内に慈善団体「ビル・アンド・メリング・ゲイツ基金」を全額、国家に寄付して活動を終える。と有る。
其れまで、社会が持つかどうかが問題である。
3兆7000億円の資産と言っても、社会がパニックを起して崩壊すれば、其の瞬間に、0に成ってしまう架空の世界である。
其れが、そう成らない為にも、此の世界を管理している、最大の「神・はたらき」に対して、失望を与えては成らないのである。
希望の「希」は、希少や希釈の希である。
其れは、はかなく薄く少ないとの意味である。
何とか、私達だけでも、其のはかない神の願いを引き受けて、此の三次元世界を「幸き和う・サキアウ・咲合う」世界と、しなければ成らないのである。
平成18年12月3日
礒邉自適
2006/12/1
夢を視ている本体
18・12・1
今日から、今年最後の月が始まった。
私にとっても、次ぎのステップに向けて、意識の組み立てが行なわれる様な気がする。
今朝の映像は、夜中には、一人の女性の姿が、右方向前に、左向きで現れた。其れは、人間の女性ではなく、観音菩薩を暗示する様な、雰囲気の感じである。
そして、其の像の、左の足元が映し出されて来た。
其れは、私の意識と重なり、自分の足の様に、下を見降ろして居て、足指の爪までがはっきりと見えてのである。
其の左足の大きさから、其の像は身長が3m程有りそうである。
どうやら、私の肉体に、最後に残っている霊魂は、観音菩薩の様である。
其の霊が、今朝は、自分の慈愛の立ち姿を、私に見せたのであろう。
そして、明け方の映像には、何処かの、私の知らない家で、其の家の主人が、床を背にして座っており、私は、木の枝を一本手にして祓いをして居た。
其の家は、大きな床柱が有る、大きくて立派な床の間だったので、余程裕福な家なのだろう。
次に、私は、其のお祓いが終って、仲間は待っている道場に帰り、祓いの儀式で貰った小切手を、手渡して居た。
其れを、受け取った私の弟子みたいな男性が、其の金額を見て、ビックリして居る。其の金額は2000万円だとの事である。私は、別に、お金が欲しい分けではないので、相手がくれるから貰って来ただけである。
そして、私の弟子が一人居ないので、どうしたのかと聞くと、いまお祓いを頼まれて、出掛けて居ると云う。
其の弟子は、私と違い、未だ20〜30万円しか貰えないらしい。
是は、私のレベルを、確認させる為の映像の様である。
どうやら、私に宿っている霊が、私の霊魂の位置を確認させて、私に、自覚を迫って来ている様である。
昨夜は、夢とは関係無く、一つの出来事が有った。
夕食を済まして台所に居ると、20時過ぎに、急に身体が冷えて来て、座敷のサッシ戸等を見て回ったが、何処も開いている所は無い。
どうして寒いのか判らないので、箪笥から冬物のジャバーを出して着たが、それでも暖かくは成らない。
其の様子を見て居て、西川氏が「どうしたのか 風邪でも引いたのか。」と笑っている。
私は寒さが止まらないので、9時前にベッドに入る事にした。
しかし、それでも寒いので、毛布の上に布団を二枚掛けたが、ナカナカ暖かく成らないのである。
そして、夜中に成って、少し風が出て来たら、ベッドの横のサッシが全開に成っていて、網戸から、外の空気が入って来ているのに気が付いた。
昨日、久し振りに天気が良く成ったので、洗濯をしたり、部屋に掃除機を掛けたりして、寝室のサッシも全開にして、網戸の状態にしてあったのである。
私は昼間、自分が開けていた事を忘れていたのである。
しかし、何故、ベッドの部屋の冷えが、全然別の台所に居る私の身体に、伝わって来たのだろうか。
其の答えとして、考えられる理由は唯一つ、私の寝るベッドに、何者かの霊が宿って居て、寒がっていたと言う事である。
其の事に付いては、数件の裏付けも有る。
私が22年前、宇宙意識に成ったのは、無庵師匠の家で、私の意識が変に成って、無庵師匠が、自分が毎日寝ている布団に、寝かせてくれた時の出来事である。
其れに、旅に出てから、群馬県の榛名山の「榛名神社」の鳥居の横で、お店をやっている「小山シゲさん」が、自宅の旅館の一部屋に泊めてくれた時の事である。
関東一の霊能者と云われていた「溝口ミツさん」が来た時に、寝て居た部屋で、溝口さんが寝て居た布団に、私を寝かせた時、身体がバラバラに成りそうな感覚に襲われた事がある。
溝口ミツさんは、其のトキ、既に亡く成って居て、此の世の人ではなかったのだが、やがて私が訪ねて来る事を預言していて、私の為に、鳥居の横に大きな石碑を立て「雌九龍神」と、彫って有る。
其れは、やがて此処に「雄九龍神」が遣って来るから、其の時の為だとの事であった。
私は21年前、何も知らずに、其の石碑の前に近付いた時に、其の石の霊力に突然掴まった感じを受けてので、其の事が判ったのである。
其れ等の出来事から、寝具には、我々人間には理解出来ない働きがあるようである。
日本に伝わる古事記を読むと、神とは、物の働きのことを意味し、着る服も、使う道具も、皆 神とされている。
だから、古代の考えでは、物の働きが「神」だとの概念だったのである。
其の概念からすれば、寝具に霊が宿っていると考えても、何等不思議な事ではないのである。
実際に、天皇が代替わりする時の、大事な儀式である「大嘗祭」で、天皇が寝具に横に成る部屋は「天の御臥す間・あめのおふすま」と言って、天照大神から繋がる先祖代々の霊を、降臨させる為の仕掛けとして、設けられる物である。
現在の、和室に立てられる「襖・ふすま・臥す間」は、其れに由来していて、寝所の区切りに使われる物だったのである。
其れに、霊夢の「夢」の漢字は、元は「宀(家の屋根)+爿(寝台)+夢」の組み合わせで、夢は「目+夕(暗い)」の組み合わせで出来ている。
字義は「建物の中で 寝台に横に成り 暗い中で 定かでないものを 見る。」の意味である。
其の、夢を見る魂しいが、自分の意識ではなく、宿っている霊魂であるなら、其の寝具も、関係が全く無いとは言えないだろう。
現に、神社では、社・やしろに神霊が宿るとしているし、境内の樹木にも霊が宿るとされ、仏教でも、仏像や位牌や墓石に、霊が住むとされている。
そうであるなら、生きて居る者が眠る寝台に、霊魂が宿らないはずはない。
むしろ、受け皿と成った人間が眠る寝台こそ、最高の憑代と言えるのではないだろうか。
人間は、万物の霊長と言われている。
其の霊長である人間が、眠る寝台こそ、此の時空の最先端の場と、言えるのではないだろうか。
私の意識が、先日のメッセージに出て来た、天空から物を掴み取る右手から、歩き出す為の左足の指先へと移って来た事は、愈々観自在菩薩が歩き始め、働きを起すとの事ではないだろうか。
私は是まで、どんなカルマ・業の強い家の霊魂を鎮魂しても、其の事は何も話さず、礼金を1円も請求した事が無い。
中には、私が知らないうちに、手荷物の中に、お金を入れて下さる人も居たが、私は行き倒れ覚悟で、是まで進んで来たのである。
其れが、今朝は、観自在菩薩の足が見え、更に、祓いを頼まれて、大金を受け取る場面が出て来た事は、私が、新たな道に踏み出す事に成るとの事ではないだろうか。
其れに、私には友人は沢山居ても、信者や弟子は一人もいない。
しかし、今朝は、数10名の若者が、同じ建物に集まって居たので、新しい何かの動きが興って、其の支えの為に、私も動かなければ成らなくなるとの事かも知れない。
先ほど、此の文章を打って居る最中に、岡山の「スーリアさん」から電話が掛かり、 私に「段々 動きが起きていますが 変わりがないですか。」と聞くので、今朝の観自在菩薩の事を話すと納得されていた。
来年の3月13日までに、何等かの動きが、定まって来るのではないだろうか。
愈々「命仕込み」に、動き出さなければ成らないのだろうか。
平成18年12月1日
礒邉自適
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