言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2007/4/24
胃の痛み
19・4・24
今朝も、21日と同じく、夜中の3時頃から胃に強い痛みが起き、其れで目が覚めてしまった。暫らく静かにして居ると 其の胃の痛みは薄らいで行った。
そして、人間の意識は、やはり胃から発生している事が理解されて来た。
「痛み」の「いたみ」も、「い」は胃に関係が有り、「飯・イイ」とも関係が有るのではないだろうか。
何故、昔の人が「謂」の漢字を創り、日本では其れを「いう」に「謂う」として当てたのだろうか。其の背景に有るのは、38億年の「いのち・生命」の記憶に関係が有るのだろう。
日本の、天皇家に伝わる一番大事な行事は、世代交代の時の「大嘗祭」と、毎年新米を食べる時の「新嘗祭」である。其の儀式の元は、「御饌殿・みけどの(台所の食べ物の神)」の概念から来ているのである。
其の「御饌殿・みけどの」の儀式は、奈良県天理市に在る「饒速日命・にぎはやひのみこと」と、其の一族の御魂を祭る「石上神宮」の物部に伝わる、新嘗祭の価値観・風習がみなもとである。
「新嘗祭」は、其の年に収穫された米を初めて食べる時に、一族の主・長が禊ぎ祓いを済まして、先祖の霊魂と伴に「直会・なおらい・食事」をして、一夜を過ごす儀式である。
其れは、霊魂不滅の価値観からもたらされた習慣である。
何故、新穀を食べる時に、先祖の霊魂達を呼び出して、一緒に食事をしなければ成らないのか。そして、其れが何故、一番大事とされなけれならないのか。其の事を、良く考えて見なければ成らないだろう。
其の価値観は、日本全国に拡がり、仏教儀式の「お盆」や、「年越し」の儀式にも影響を与えている。与えていると言うか、其の価値観が元に有って、現在行われている形・風俗に、変化して来たものではないだろうか。
人間の肉体で、一番古い器官は胃腸で、6億年以上前に出来ている事は生体学で明らかに成って来ている。「トカゲ・蜥蜴」が、足を引っ込めて「蛇」と成ったのは、約9千万年前と言う事だから、6億年前とは遥か昔のことである。
しかし、生命の源に成った蛋白質の鎖の発生は、38億年前に鉄を利用し、酸を出して岩を溶かして生き始めた、原始微生物の働きからであることは、既に明らかにされて来ている。
其の原始微生物が進化して、現在の地球生物の姿を形作っているのである。
だから、我々人類は、自分の真実を確かめる為には、自分の体内に記憶されている情報に、立ち入って行かなければ成らないのである。
其の為に、一番手短な方法が、胃袋との対話なのである。
何故、胃袋が大事かと言うと、生物の存在の始まりの、酸を出して物を消化する機能が、其の侭、胃袋の細胞に伝えられているからである。
其れは、土を食べるミミズと同じ次元が、人体中の胃腸のシステムに成って残っているからである。
人間の、腸に住む回虫やサナダムシは、古代に土中と人体とに、住み分けた物の、片割れ的存在なのである。
其の証拠に、回虫の卵は、一度地面に排泄されてからでないと、人体に入っても孵化出来ない。
人間の腸の中は、大地の土壌と同じ仕組みに成っており、微生物の住処でしかないのである。だから、人間の体は、植物の生態機能と、裏返しの機能に成っているのである。
人間は、植物が排泄した酸素を肺に取り込み、炭酸ガスを排泄しているので、呼吸の面でも裏返しと成っているが、胃腸の仕組みも、植物が体外に毛細根を出しているのに対して、人体は腸内に微生物を養い、其の微生物が消化した栄養分を、腸壁の繊毛(毛細根)から吸収しているのである。
其の事から、理解出来ることは、人間の身体は腸内の微生物の活動を支える為に、堆肥の材料を集める機能として、進化して来たものであると言うことである。
だから、其の機能の入り口が、物を切断する歯の役割で、其の咀嚼された材料に、酸を掛けて溶かす役が胃袋の細胞である。
其の強い酸が、其の侭腸内に下ると、腸壁まで溶かされるので、十二指腸でアルカリ(胆汁)を掛けて中和するのである。
其のシステムが、生体で一番重要であり、生命存続機能の基礎なのである。だから、其の機能・システムに意識をチャンネルすれば、生命の本質を知る事が出来るのである。
そして、其れが出来れば、38億年前から行き続けている遺伝子の記憶にも、アクセス可能と成れるのである。
参考HP
「十二指腸」http://www.onaka-kenko.com/various-illnesses/duodenum/
「胆汁」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%86%E6%B1%81
我々の人体の仕組みは、胃袋の細胞が生き続ける為に、腸内に微生物を養い、其の微生物の活動を支える為に、出来上がっているのである。
食べ物を集める為に、此の五体の仕組みや、五感の機能が発達して来たのである。そして、シックスセンスと呼ばれる第六感は、日本語で「虫の知らせ」と言う様に、腸内細胞の予知感覚からの情報なのである。
私達の大脳は、腸内微生物の餌を探す為の、情報収集と管理の機能として発達して来たものなのである。
「目」は物の形を捉え、「鼻」は食べ物の臭いを嗅ぎ別け、「耳」は其の身の危険を察知する機能として発達して来たものである。
「足」は、身体の移動を行い、「手」は食べ物の材料を集める役割である。
其れ等のシステムの機能管理をするのが、大脳と中脳の働きで、小脳は肉体自体の機能(自律神経)を管理する為のものである。
其れ等の、機能・システムの根源に当る物が、胃袋の細胞意識なのである。
だからこそ、食欲が最大の意欲として意識されてくるのだ。
其の、胃袋の正体を知ろうと想えば、断食をしながら、胃袋の反応や、身体の動きや、意識の変化を見詰めて行けば、自から身体の仕組みや、意識の成り立ちが理解されて来る。
食料が足りている間は、殆どの細胞が働く必要が無いので眠っているが、断食を続けていると、栄養が回って来ないので、慌てて関係細胞が目覚めて動きを始めるのである。
おまけに、60兆の細胞が全部目覚めれば、自分の横に不純物が有る事に気付くので、其れ等の不純物を、全部体外に押し出して来る。
其れが、人体の排毒作用なのである。
私は、其の作業を、23年前に、無庵師匠が身近に居て、指導を受けながら終了した。
其の時、私に起きた現象の解釈は、未だ全て済んでいる分けではないが、おおよその説明は可能に成って来ている。其の最終段階として、胃袋の次元が現れて来ているのだろう。
現在・いま起きて来ている現象を、全て消化すれば、新たな大嘗祭の儀式が誕生するのかも知れない。
ハッキリしている事は、古代では常識として、民衆の中に有った儀式の概念が、権力者が自分の権力を維持する為に、秘儀として封じ込めてしまったが故に、其の情報が社会の中から消えてしまっている事である。
オマケに、其の権力者の方にも、既に其の儀式の真実は伝えられてはいない。其れは、天皇家や、神社の在り様を視ていれば良く分かる。
私の胃の痛みは、其の答えを出す為の、生命全体のストレスからのものではないだろうか。
36億年間の、生命記憶を全て取り戻すには、其れなりの体験と、情報解読力を身に付けなければ成らないのである。
しかし、漢字の「謂」や、「神・聖・智・命・臍」等の象形を見て行けば、其の頃の、人間の思考能力が理解出来てくる。
其処には、今の私が及ばないレベルの意識が存在して居た事が、理解されて来るのである。
其の事を、老子は「いにしえの人はすばらしい」と謂い、釈迦牟尼佛は「私が悟ったのは何代も前だ」と謂っているのである。其の、彼等の謂う世界が、日本では物部の儀式として伝えらえていたのである。
其の世界こそ、古事記に伝えられている「調読・つきよみ」の世界である「汝命者、所知夜之食國」(いましみ ことは よるの おすのくにを しらせ)の事なのであろう。
日本の、一番古い儀式は「食国祭事・おすくにのまつりこと」と言われ、食べ物を食べる儀式である。
其の事からも、理解出来るように、「真闇宇宙(夜のくに)・闇神(くらおかみ)」の情報とチャンネルするには、穀物の持つ情報に力を借り受けなければ成らないのである。
「悔い改める」との言葉が有るが、其れは「食い改める」と書いた方が当っているのかも知れないのである。
其れは、釈迦仏陀の謂う「精進」を意味していると考えても良いだろう。
「臍」の漢字は、「肉+斎」の組合せで、「斎」は換気扇の意味の象形文字である。臍は、胎児が腹の中に居る時、あらゆるエネルギーや情報を取り込んで居たチューブである。其のチューブは切断されていても、見えないエネルギーは大人に成っても吸収され続けているのである。
其の活動を、母親の肉体に代って、行なっているのが胃腸の役割なのである。
今朝の明け方の映像には、宮崎県の高千穂に有る高い橋を渡った先に、社の様な物が有り、其の社に100円・10円・1円の硬貨を奉納する場面が有り「福」の漢字が映って来た。
福の漢字の意味は「神様に 御供えする酒も 瓶(かめ)に 口一杯に有る」との意味で、物質に満たされているとの意味である。
福は、「福禄寿」の福でもあるので、経済活動が始まるとの意味なのかも知れない。そうであれば、「稲荷神」が食べ物の神であり、商売の神とされるのも間違いではないとも言えてくる。
何とか、事態は良い方向に動いているのだろう。
其れを考えると、何とか私も胃の痛みに堪えなければ成らない。
平成19年4月24日
礒邉自適
2007/4/22
其々の胸のおもいを
19・4・22
今朝は、屋久島に帰る為に、6時に起きて、鹿児島港に向かうように決めて、昨夜12時前にベッドに入ったのだが、夜中の3時頃に胃が痛くて起きてしまった。
未だ、出発時間までは3時間も有るので、仕方なく胃酸を抑える薬を飲んで、再びベッドに入ると、明け方、胃袋の中の細胞壁が映像として映り出して来た。
そして、其の映像が拡大されて来ると、一個の細胞毎に、白いハンカチーフが、男性スーツの胸ポケットに差し込む様な形に、折り畳まれて、貼り付けられているのが見えて来た。
其の映像で、私は、漢字の「謂」の意味を思い出していた。
謂は「言+胃」の組み合わせで、「言葉は 胃袋の中の穀物から生じる。」との意味である。
其れは、日本の天皇家の神である「御餉殿・みけどの」と、同じ概念を有しており、穀物には「稲霊・いなだま」が宿っており、其の穀物を食べる事で、先祖霊や神霊とも交流が図れるとの考えである。
其の考えこそが「瑞穂の国」の概念であり、其れは、仏教のお盆の行事や、仏壇での先祖供養にも取り入れられ、現在でも、其の風習は日常の暮らしの中で続けられている。
其の考えの元が、天皇家に伝えられている「新嘗祭」の儀式なのである。
其の、天皇家の儀式は、奈良の石上神宮の物部の儀式なので、元は物部族に伝わる儀式なのである。
物部の元は「饒速日命・にぎはやひのみこと」で、其の長男は、島根県太田市に有る物部神社の祭神「宇摩志麻遅命・うましまじのみこと」であり、奈良の石上物部神社は、代々の物部の御霊を祀る神社である。
物部族の首領であった「物部守屋」は、仏教を日本に取り入れ様とした「蘇我馬子」と、「聖徳太子」に殺されて滅びた後に、一族は「石部物部」で再び復活したと有るので、私の血にも、其の流れが繋がっているのだろう。
私は、2001年6月15日に、太田市の「物部神社」に、出雲の「安部忠宏氏」と参拝し、宇摩志麻遅命の御霊を祭祀する御陵で、霊魂と交流が起きた事が有る。
其の出来事からも、私の魂しいには、物部の霊との因縁が深いと言えるだろう。
「大田に下車しろ」http://star.ap.teacup.com/170606/437.html
今朝の様子からすると、其の物部の儀式が、本格的に復活して来るとの意味ではないだろうか。
「ニギハヤヒ・天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊・あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと」は、天照大神の孫で、鹿児島県の吹上浜に上陸した「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」の兄君だとも伝えられている。
其の、天照神の概念が、エジプトの「イシス神」と同じ物であり、日本まで伝えられたものであれば、同じルートで、ユダヤ族の過ぎ越しの祭祀の「種無しパン」の風習も、日本に伝えられて来た可能性がある。
日本で、年の暮れに、竹箒で天上の煤落としをする風習があるが、其れは、ユダヤ族の風習の、種無しパンを焼く為に、家中の菌を払い出す行為と、同じであるらしい。
何故、パンを種無しにする必要があるのかは解からないが、先祖が食べていたパンが種無しパンだったので、先祖の霊魂と共食するには、昔のパンを用意する必要が有るからではないだろうか。
何故、儀式に食べるパンを、先祖の霊魂に合わせる必要が有るのだろうか。
其の事に、深い意味が有るのかも知れない。
例えば、麦のパンを食べて居た先祖に対して、米で出来た餅を差し出せば、先祖の霊が食べた事が無いので、食べ方が分からずに、怒り出す可能性は有る。
だから、部族の一番古い祖霊魂に合わせる必要が、有るからではないだろうか。
そうであれば、今朝の映像は、皆が自分の「想い・概念・柄模様」を止めて、全ての霊が、白い布の熨斗(純白の意識)を持って、集まらなければ成らないと言う事に成る。
其れは、花嫁が角隠しの白無垢姿で、他家に嫁ぐ時の心構えと同じである。
今朝のメッセージは、「御餉殿・みけどの」の儀式に参加する者は、皆自分の概念を白紙撤回して、参加しなければ成らない理・ことを、伝えて来ているのではないだろうか。
そうでなければ、「儀式をする神官が、胃に痛みを受ける」との意味ではないだろうか。
集まった部族の代表が、其々勝手な言い分を云って居れば、儀式を請け負う者は、胃が痛んで堪らなく成るだろう。
そして、此の世の者が揉めて居れば、霊魂達も困る事は必定である。
今朝のメッセージは、間も無く、本来の儀式が復活するので、其の準備を、私に整えろとの事かも知れない。
私は正式に、神社や、お寺などで、儀式の作法を習得はしていない。其の点に付いては、全くの素人である。
今朝の、メッセージの解釈が当たっているのなら、私は誰かに、相談をしなければ成らないだろう。
世界中の人が、何万人も奈良の平城京に集まり、儀式が行なわれる様子は、1986年の12月31日の朝、妻の井上佳子に映り出されて来ている。
其の儀式の日が、2012年12月23日であれば、残りは5年8ヶ月である。
其の日までに、世界人類が納得する、聖なるパン・御餉が用意出来るだろうか。
其れと、一番難しいのは誰が自分の概念を捨てて、白無垢姿に成って参加出来るかどうかである。
招待状を渡しても、熨斗を付けて返されれば、元も子も無くなってしまうのである。
其れを考えると、是からの作業が一番難しいだろう。しかし、其れを何とかしなければ、私の胃痛は止まる事は無いのだ。
人間の身体で、一番先に出来た物は、胃の細胞で、現代科学で解明されている年数は6億年以上前である。
其れは、遺伝子的に考えれば、38億年前に発生し、酸を出して岩を溶かして、蛋白質の鎖を組み上げて来た、原始細胞にまで行き着くのである。
其れが、釈迦の謂う「久遠元初」の生命・いのちである。
我々は、自分の意識の織物の柄模様を白地にして、「久遠元初・くおんがんじょ」の所に集合すれば、「いのち・生命・記憶」を共有出来るのである。
其れが、本当の「帰依・帰命・いのり・ナーム・リリジョン・religion」なのである。
其の理・ことわりが、一日でも早く、皆の共通意識と成る様に、事を急がなければ成らないのである。
皆が、同じ白いハンカチーフを、胸に挿す日が本当に来るのだろうか。
其の事を想うと、残念だが、当分私の胃痛は治りそうにない。
アースデイの日に
平成19年4月22日
礒邉自適
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