言葉とは「あや・文」が変化して来たものですが、現在は心のあやが乱れたので 皆の魂しいが変に成っているのです。
言葉を本来の処に戻さないと 智恵も受け継ぐ事が出来ないのです。
マントラとは「言葉が 考える器」の 意味ですが 其れは日本語の「ことたま・言霊」の意味に通じるものです。
言葉は 魂しいの元なのです。
そして言葉は 36億年の「いのち」の年輪を刻んでいるのです。
其れは 40億年前 岩を溶かして 存在を始めたのです。
其の命は 現在も私達の胃の細胞として生き続けているもので、其れが「謂」の漢字の意味なのです。
2007/6/28
連翹・れんぎょう
19・6・28
連翹の「翹・ぎよう」の漢字を漢語林で調べて見ると、「羽+堯」の組み合わせで、音符の堯は、高いの意味。鳥が長い尾羽をあげる意味から、一般に、あげるの意味を表す。字義は@鳥の尾の長い羽。Aあげる(挙)・あがる。Bさかんなさま。しげるさま。Cつまだてる。Dぬきんでる。才能が衆人にすぐれる。「翹材」。Eかける。心にかける。「翹思」F婦人の頭の羽かざり。と載っている。
上の意味からすると、今朝の「爆発的な人気」と「客人はトキを運んで来るもの」の言葉と、関係が有る様な気がする。
今朝のメッセージを、総合的に検討すると、新しい神の計画は、未だネガの状態であり、現象世界である三次元世界には、未だプリントされていないとの事ではないだろうか。
先ずは、三輪の黄色い連翹の花が、登場する必要があるとの事だろう。
其の花は、三つの神輿や、三つの球や、三つのライトを、意味しているのではないだろうか。
そして、其れは、頭に鳥の尾羽を着けた婦人を、三名此の三次元世界に立てなければ成らない事を、意味しているのかも知れない。
其の三名を、此の世に現す事が「最後の 切り札」との意味ではないだろうか。
「切り札」とは、トランプで、他の組の札を全部負かす力があると決められた札。転じて、とっておきの有力な手段。最後の決め手。と、載っている。
広辞苑
私は、自分の禊ぎは済ませ、私の遣るべき事を、遣り遂げたのである。
後は、のんびり小船に乗り、川の流れにまかさせて、游んで行けば良いのではないだろうか。
其れが、悠々自適の「悠(人+川+竿+心)」の漢字の意味なのだから・・。
平成19年6月28日
礒邉自適
2007/6/27
槖吾開・つわひらか
19・6・27
いま驚いた事に、「つまびらか」の漢字を調べる為に広辞苑を見ると、「詳らか・審らか」(ツバヒラカの転。古くは清音)くわしいさま。事こまかなさま。と載っている。
是に拠ると、詳らかとは「つわひらか」で「槖吾開・つわひらか」と成る。
何故、そう云うかと言うと、今朝の映像に、「ツワブキ・石蕗」の丸い葉が出て来たからである。
何故、石蕗の葉が現れたかと言うと、「宇宙・天・神」の理・ことを、私に詳らかにしろとの意味なのであろう。
是は驚異である。
私が、今日「つまびらか」の言葉に辿り着く事まで、神には分かっていたのである。
分かっていたと言うか、其の様に、私の意識がプログラムされていたと言う事である。
其れは、今朝の事だけではない。
23年前、此の世界に入って、荒野を彷徨う事に成り、一番先に、私の意識を強く引っぱったのが、「槖吾・つわ」の丸い葉だったのである。
何故、23年前に、槖吾の葉に意識が引かれたのか、其の理由がいま解って来た。
私達の子供の頃は、槖吾の葉を漏斗形に丸めて、入れ物にし、野イチゴを摘んで、一杯に成ったら、上を畳んで、ヒゴで止めて使っていた。
今でも、川の水を汲んで飲む時には、そうして使っている。
こうして、漢字の意味や、言葉の意味を探って行くと、古代に、私と同じ人間が居た様な感覚に、陥って行く。
漢字が生まれた、中国の人間である「老子」の言葉に、「いにしえの人はすばらしい」とある。
私にも、其の老子の言葉が、能く理解出来る様な気がする。
此の私にとっても、老子の存在は偉大であり、老子の言葉がなければ、迷い道に迷い込んでしまい、今日の私の意識に到達する事は、出来なかったであろう。
其の意味でも、私も、後に続く者達に、何等かの手掛かりを、残す必要があるだろう。
私は、自分の事に成るからと意い、書く事を止めていたが、此処まで自体が迫っているのなら、書いて措く必要があるのかも知れない。
それは、「芯・軸」に付いての事である。
平成19年6月27日
礒邉自適
2007/6/17
翁・おきな
19・6・17
昨日は、「饗宴祭・みあえのまつり」のテーマに相応しく、昼過ぎに「阿蘇品喜文君」が飛び魚漁の帰りに、自宅に立ち寄り、飛び魚40匹と、ダツ3匹を置いて行ってくれた。
すると夕方、中島智子さんが、上光君の車で「どうしても 先生に会いたく成ったので来た。」と云って、自宅に遣って来た。
私は、丁度タイミングが良いので、朝のお告げの説明をして、お祝いの食事会をする事にした。
献立は、飛び魚の刺身と腹子の煮物、其れに、飛び魚とダツの塩焼きと、前日に作って居た、地鶏で人参やジャガイモを煮た煮物等を出して、島の神に喜びを示した。
たった三名での饗宴祭の直合いだったが、それでも一応の儀式には成ったのであろう。
其の効果が、現れたのかどうかは分からないが、今朝のメッセージの映像は、先ず、老人が座って居る姿が出て来て、其の姿が、鳥の首の形に変わった。
其れは、翁の漢字の意味を表して来たものであろう。
翁の漢字は、「羽+公」の組み合わせで、音符の公は、頂に通じ首の意味。鳥の首の羽の意味を表し、転じて、老人を尊んで言う、おきなの意味を表す。
【字義】@鳥のくびすじの羽 Aちち(父)Bおきな。男のとしより。また、老人の尊称。「老翁」「村翁」 と 載っている。 漢語林
正に、今朝のメッセージの映像は、翁の事を、示して来てものである事に間違い無い。
次の映像は、太陽の光を浴びている、植物の枝が映って来た。
其れは、小さな葉の広葉樹の枝か、其れらしく見える、海草の枝の様な物で、植物が、宇宙で一番大事な存在である理を伝えるものであった。
其れを、別な表現で言い表すと、宇宙生命には、太陽(水素ヘリウムの核反応)の光・エネルギーを、無機質から有機質に変える「みどり」の働きが、一番大事・重要である理・ことわりを、伝えて来ているものである。
此の地球の生物は、木の葉や苔や海草などが、太陽の光を利用して、有機質を生産する事から生じているものである。
だから、みどりが存在しなければ、生物の存在も無いし、動物が生きる為の酸素も、食料も無い事に成る。其れに、緑の森が無ければ、水の循環も、うまく行かなく成るだろう。
今朝のメッセージは、翁とは、人間だけの都合で、物事を考えるのではなく、宇宙全体の事柄を踏まえて、思考を進める者である事を示して来ている。
そして、翁の考えの基本には、地球生命の存在の理・ことわりが、在る事を示して来ているのだろう。
其れは、人間が思考のターゲットに、何を選べば良いのかをも、指示して来ているのだ。
現在社会に身を置く、人々の多くは、人間が創り出した金銭感覚の中にドップリ浸かって居て、生命の存在意味や、成り立ちなどを、気にしている人は、格段に少ない。
其れは、翁の価値観からは、大きく外れている世界で、暮らして居る事に成るのだ。
今朝のメッセージの意味は、「本来の 人間の立場に回帰せよ。」との、神の指示ではないだろうか。
翁の姿が、鳥の首の形に成ったのは、単に、髭や髪が伸びて、鳥の様に見える姿の意味だけではなく、宇宙の意思の現れである「鳳凰」の思念をも、意味しているのではないだろうか。
人間とは、此の宇宙で、今の時間帯を生きる、最先端の姿をしているのであれば、宇宙の意思を、絶えず、自分の意識の内に置いて於かなければ成らないのである。
そうする者が、此の地球に一人も居なく成れば、宇宙は存在意味を失うのである。
人間の体は、人間の存在だけで組み上がって来たものではない。
此処まで、体が出来上がる為に、38億年もの年月が掛かっているのである。
物が見える目も、音が聞こえる耳も、匂いを嗅ぎ分ける鼻も、食べ物の味を感じる舌も、人間自身が考えて創り出して来たものではないのである。
其れ等の理・ことわりを、突き詰めて行けば、人間にとって、何が一番大事な理であるかが、自から見えて来るのである。
其の、人間にとって一番大事な理が見えれば、我々は、どの様な暮らしをすれば良いかは、明瞭・はっきりとして来るのである。
そして、其の第一義には、生命の尊さが自覚されて来る筈である。
人間の生命は、38億年の時間と、DNAの記憶を抱え込んでいるのである。38億年前に、岩のミネラルを溶かして利用し、細胞を造り始め、やがて太陽の光を利用し形を変え、様々な姿に変化しながら、動物へと形を変え、情報管理の為に脳を発達させ、声や言葉を生み出し、現在の人類の姿と、成って来たのである。
現在・いまの地球生命は、地球の46億年の年月だけに因って、生まれた物ではない。其れは、太陽系の50億年より更に遡って、137億年の宇宙の誕生まで、起源を遡るのである。
其の、生命の成り立ちを考えれば、自分の存在が如何に尊く、大事な物であるかが見えて来るのである。
其の理に気付けば、価値観が大きく変わり、小さな物事への拘りなどが消えて、意識は自由に成り、調和の大事さに気が付き、周りの環境にも、敏感に成って来るのである。
其の調和に気付いた者こそ、翁と成り、人々に真理を説き、此の世を去っても、彼の世で聖霊として、永遠の世界を生きられるのである。
其れが、釈迦や、老子や、イエスの訓えの真髄なのである。
そう成る過程として、男性には、旅の行程が必要なのである。
翁とは、行く者・行者の行程を経て、ウォーキング-ディクショナリーを体得した者の呼び名であろう。
日本には「可愛い子には 旅をさせろ」との諺・ことわざが有る。其れは、正に「行く者」の基礎訓練と成るものである。
昔から、人類は、男性にとって旅が大事である理・ことを、自覚して居たのである。
其の対象として、女性が無意識に、白馬に乗った王子様が、自分の所に訪れるのを夢見るのであろう。
其れは、「瓊瓊杵尊・ににぎのみこと」に見初められた「「木花之佐久夜毘売命・このはなさくやひめ。別名神阿多都比売・かむあたつひめ」や、「須佐之男尊・すさのおのみこと」に助けられた「櫛稲田姫」の伝説に、色濃く反映されている。
其れこそが「タオ・道」の真髄なのである。
今朝のメッセージは、「タオ・道」や「ダルマ・法」を悟った者は、既に、人間の意識を超越して、鳳凰と意識が合体している事を、知らせて来たのではないだろうか。
其の翁とは、此の世に身を置いて生きながら、既に意識は、御嶽の「まつばんだ」に参加して「ミタケ-オアシンス」の世界に居るのである。
イエスや、空海の旅は、中断したままで、現在・いまも続いているのであろうか・・・。
平成19年6月17日
礒邉自適
2007/6/7
ロゴスは舵
19・6・7
今日は、文章を書いて居ると、急に眠く成って来たので、布団に横に成り、寝て居ると「語」の漢字が現れて、「舵・かじ」の意味を持つと告げられて来た。
起きて、「舵」の意味を広辞苑で調べると、「道具」の意味も兼ねている事が判明した。
「語・言葉」が、舵の意味を含んでおり、其の舵が、道具の意味を含んでいるのであれば、語・言葉は人類を操る舵と成るもので、其れは道具でもある理・ことを示している。
其れは、弘法大師空海が興した「真言宗」の極意を、意味しているのではないだろうか。
真言とは、マントラの訳であり、「マントラ」とはインドの言葉で、意味は「言葉は 考える器である」との事である。
そして、真言宗の経典は「大日経」であり、大日如来の教えが書かれている。
大日如来とは、ビルシャの訳で、ビルシャとは「宇宙の真理の本体」の意味で、其の真理とは「此の宇宙を構成している物質は、皆、大日如来の身であり、其の身には意識が存在する。だから、其の分身である人間にも、其の意識が内在するので、正しく目覚めれば、大日如来を動かす意識を授かるので、其の意識から発する言葉は、宇宙を動かすことが出来る。」と 言うものである。
其の理を踏まえて考えれば、即身成仏した人間は「神・ビルシャナ」の代理として「言葉・真言」を使用する事が出来、人類の進む方向の、舵取り役を果たせる事に成るのだ。
つまり、どう言う事であるかと謂うと、言葉を「道具」として神の代理を務め、人類が乗り込む船の、舵取りが出来ると言う事である。
其れが、密教の秘儀なのである。
しかし、其れは、旧約聖書で伝えられている「初めに言葉が有り 言葉は神なりき。神の名72」と、同じ概念を含んでいる。
何故、言葉が、神その物の働きであり道具なのか。
其れは、昔から、人類の心を悩まして来た問題である。
何故なら、神を動かす呪文は言葉であり、どんな魔術師でも、言葉を呪文として使っている事からも、言葉の力は、必要不可欠である事が理解される。
色々な映画が創られてはいるが、呪文が出てこない映画は、成り立たないのではないだろうか。
其れだけ、神霊と言葉の関係は深いのである。
既に故人なったが、漢字研究家で在った「白川静氏」は、中国の漢字は全て、人間が神とコミュニケーションを図る為に、創られた物であると言っている。
漢字でさえそうなのだから、言葉はなお更、神に近い物なのではないだろうか。
言葉が、人類を導く「舵」であり「道具」であるのなら、私も是から、言葉を慎むようにしなければ成らない。
言葉を大事にし、少ない言葉使いに、意識を集中出来れば、大日如来の支えにも成れるのではないだろうか。
平成19年6月7日
礒邉自適
2007/6/2
源之譲
19・6・2
6月3日まで、残り1日と成った。
其の朝のメッセージは、今迄には無かった重要な意味を、含んでいるものである。
今朝は、未明から、光に照らされている事物の映像が、何回も、場面が変わりながら映し出されて来たが、其れを地上に写そうとして、何回操作しても、地上に写らないのである。
そして、次に、直角三角形の定規の形の様な物が、地上を底辺として、直角部分を大地に着けて、大小二つが前後に並んで出て来た。
そして、其の後「源之譲・げんのじょう」との言葉が、伝えられて来た。
今朝のメッセージは、私し個人にとっても、人類全体にとっても、重要な意味を含んでいるので、少し長く成るが、取りこぼしが無い様に、言葉にしたいと意う。
初めの、光に包まれて現れた事物の映像は、「大日如来・ビルシャ」の本体を意味し、此の三次元に生じている一切の物質を意味しており、其の物質が現生している原因であるプログラムを、意味しているのであろう。
此の、我々の住む現象世界や、我々の身体も、全て原子質量を管理する情報に因って、生じているものである。
其れが、色即是空・空即是色の言葉の意味である。
だから、今朝の映像は、新しいプログラム(ビルシャナの意志)が、地上に写されようとしているのだが、其れを受け取る人間が少ないので、地上に転写出来ない事を、告げて来ているのだろう。
次の直角三角形は、大地と、天の交わりとして、地上に存在する人間の精神を、意味しているのだろう。
三角定規の三辺は、長さが決まっているので、変形する事は出来ない。如何に其れが、大きくても、小さくても、其の形は同じである。
だから、大きく成る為には、大地に大きく横に広がり、其の分、一辺を上に伸ばして行かなければ成らないのである。
其れは、大きな人物に成るには、地上に設置面を、広く求めなければ成らないとの理屈に成る。
其れは、諺に有る「踵が 地に着いていない人」と、反対の意味である。
今朝の三角定規は、大小が左右方向で前後に並んでいた。
其れは、親子関係の様なもので、大きな親の後に、小さな子が付いて進んでいる形にも受け取れる。
其れは、正しい形(物事の真理)は、正しい角度でないと、伝わらない理・ことを意味しているのだろう。
親子は、遺伝子的な継続と、家風の継続があるが、血が繋がっていなくても、精神的な師匠と弟子の関係も有る。
今朝のメッセージには、最後に「源之譲」との言葉が有ったので、其の言葉がヒントに成っているものと想われる。
「源之譲・げんのじょう」とは、男性の名前の呼び方なので、其の世界は、男性の世界であると、告げて来ているのではないだろうか。
考えて見れば、宗教の祖師として伝わっている人達「釈迦・イエス・モーゼ・マホメット・老子・孔子・神武天皇」は、皆男性である。
そして、其の人達が行なった事は、「源・みなもと」を「譲・ゆずる」行為であったとの事ではないだろうか。
漢字の「源」は、「水+厂(崖)+泉」の組み合わせで、川の源流を意味している。
そして「譲」は、「言+襄」の組み合わせで「襄」の意味は、衣服にまじないの品をたくさん詰め込んで、邪気を祓うの意味。言葉で悪い点をせめるの意味を表わす。また、たくさんの品を詰め込む事を許すことから、ゆずるの意味も表す。と、載っている。 漢語林
「源之譲」とは「真実の源に辿り着いた男性に、言葉を用いて 悪い点を責める権限と、世の中の邪気を祓う為に必要な品物は 幾等でも 手に入れる事を許す。」との、意味ではないだろうか。
其の解釈が間違っていなければ、新しい指導者が、今世に誕生する事を示して来ている。
其の者の名が、西洋では「メシア(キリスト、ジーザス)」であり、東洋では「マィトレイヤー(弥勒菩薩)」や「チャクラヴルティン(転輪聖王)」であり、日本では「スメラノミコト」であるのだろう。
しかし、其の者が現れても、人類が、其の者の存在を認識出来なければ、ビルシャナ・大日如来の真実(阿弥陀の本願)は、地上には現出しないのである。
それに、其の者の真実が、子や弟子に伝えられる為には、何等かの手法を生み出さなければ成らない。
イエスの弟子は、イエスが逮捕された時に皆逃げ出し、老子は、誰も理解出来ないと言って、弟子を採用してはいない。
釈迦も、理論は「舎利弗・しゃりほつ」に伝え、真実は「摩訶迦葉・まかかしょう」に委ねられたが、其れも、今では正しく継承されているとは言えない。
密教も、恵果和尚から弘法大師空海に伝えられた儘、止まってしまっているのである。
日本の「スメミマ・すめらのみこと」の役割も、今の天皇には、憲法で止められているのである。
だから、正しい三角定規は、現在の世の中には存在しない事に成るのだ。
今朝のメッセージは、其の者が現れ、其の者の役目(命・みこと)を、認識する人々が居なければ、大日如来の新しきプログラムが、地上に転写されない理・ことを、告げて来ているのである。
私は、1995年12月24日に、奈良で、ボートのセーリング(帆走)の時の、帆の形の三角形が現われた事が有る。
其の三角形は、天地の接点が点なので、風向き(現象界の流れ)に因って、風見鳥の様に自由に方向が変わる物であった。
其れが、今朝の映像では、直角の長い辺が、大地にピタリと定着しているのである。其の形は、何が有っても、ビクともしない体制を意味している。
今朝のメッセージの映像は、12年前のメッセージが、変化した事を告げて来ている。
旅をしている間は、自由でなければ成らないので、回転軸の接点が小さい程、抵抗値が少ないので、自由に振舞えるのである。
しかし、スメラの命の役目は、此の世を安定させなければ成らないので、フラフラ風に揺られて居る様な者には、勤まらないのである。
今朝のメッセージは、もうセーリングの段階を終え、新しいグランドに定着しなければ成らない時節が到来した事を、告げて来ているのではないだろうか。
1999年5月21日には、出雲で「ルーベン-デス」と言葉が告げられて来たので、其の意味を辞典で調べると、ドイツ語で「風上に 正しく船首を向ける。」の意味であった。
其の言葉の影響で、私は風上に向かって、旅を続けて来たのである。
其れが、今朝、大地に横に成っている直角三角形の形が出て来たと言う事は、釈迦牟尼仏陀の涅槃の形に、成れと言う事なのかも知れない。
今日は、北海道生まれで33歳の独身男性が、東京での仕事を止めて、屋久島に来る事に成っている。
其の男性が、小さな直角三角形の形を内蔵しているのであれば、私は彼に、自分が体験して世界を伝えて行けるのかも知れない。
今朝のメッセージは、新しき結びの紐が、結ばれ始める事を、告げて来たのかも知れないのである。
平成19年6月2日
礒邉自適
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